第四十七話
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【六月二十六日・水曜日・夕方】
旧校舎は、一日の終わりが沈殿したような静けさに包まれていた。
本校舎の賑わいとはまるで別世界で、廊下は薄暗く、空気には古びた木と埃の匂いが混じっている。割れた窓の隙間を抜ける風が、ときおりかすかなうなり声のような音を立てていた。
石原は三階東側の廊下の陰で、閉ざされた教室の扉に背を預けていた。
“環境確認”のために十分ほど早くここへ来ていて、速くなりすぎた鼓動をどうにか落ち着かせようとしている。
視界の中を動く人影はほとんどなく、感情ラベルも拍子抜けするほど少なかった。
聞こえてくるのは、遠くからかすかに届く部活動の声くらいだ。
そのおかげで“ノイズ汚染”の負担はかなり軽くなっていた。
けれどそのぶん、胸の奥でもうひとつの高鳴りが、かえってはっきりしていく。
それは、これから始まる“芝居”への緊張と、もう一人の“異常を持つかもしれない相手”に間近で接することへの、うまく言葉にできない複雑な予感だった。
石原は無意識に手を上げ、指先で左胸のあたりに触れる。
やがて、階段のほうから足音が聞こえてきた。
軽くて、聞き慣れたリズムだった。
緒山が廊下の曲がり角に姿を見せる。
手には年季の入った文庫本を二冊、肩には小さな布バッグ。頭には、どこか文芸めいた雰囲気のキャスケットまで被っていた。
石原を見つけると、彼女は目を細めて、そのまま小走りに近づいてきた。
「お待たせしました、先輩~」
声は少しだけ抑えられていたのに、空っぽの廊下では妙に澄んで響いた。そこには、わざと潜めたみたいな弾みも混じっている。
【緒山朋奈の感情:期待55#@$%#】
切り替えは早かった。
それに……どうやら、本当に少し楽しんでいるらしかった。
石原は頷く。
だが視線は、どうしても今日の彼女の格好に引き寄せられた。
制服ではあった。けれど、いつもより少しだけ細部にまで気が配られている。
シャツのいちばん上のボタンが外されていて、襟元のリボンも普段よりきれいに整えられていた。全体からは、肩の力が抜けたような、それでいて清々しい空気が漂っていた。
「これが“道具”ね」
緒山は手にしていた文庫本を軽く揺らした。詩集らしい。
「文学部の先輩から借りてきたんです。たまにここへインスピレーションを探しに来るって言ってたから、“うっかり置き忘れた”とか、“うっかり探しに来た”とか、そういう流れにもできるでしょ?」
「……ああ」
石原の返事は相変わらず短かった。
自分でも、どこに目を置けばいいのかわからなくなっていた。
「じゃあ、作戦の最終確認ね」
緒山が少しだけ距離を詰め、声をさらに落とす。
「相手は二年D組の朝日守。五時半くらいにこの廊下を通って、廃音楽室のほうへ向かうはず。
そのとき私たちは、ちょうどあっちから出てきたみたいな感じにするの」
そう言って、彼女は石原の表情をそっと覗き込んだ。
「理由づけは、私が落とした詩集を探しに来たってこと。先輩は、私に引っ張られて手伝いに来たってことでもいいし……ただ付き合ってくれただけでもいい」
それから、軽く瞬きをした。
「話しかけるのは私がやる。先輩はできるだけ自然にしてくれればいいし、無理にたくさん喋らなくても大丈夫。
それで――」
彼女はそこでいったん言葉を切った。
「花野の分析と、先輩の観察だと、朝日くんってかなり内向的で、警戒心も強いんだよね。
普通の“偶然の遭遇”だけだと、すぐ距離を取られるかもしれない」
石原の鼓動が、一拍ぶんだけ変に跳ねた。
次に彼女が何を言うのか、なんとなくわかってしまったからだ。
緒山は小さく息を吸って、自分を落ち着かせるようにしてから、澄んだ目でまっすぐ石原を見た。
「だから、私たち……デートしてるふりをしましょう」
言い方はあまりにも自然だった。
石原は、頬が一気に熱を持つのを感じた。
「そのほうが、“わざと仕組まれてる”って疑われにくいし。だって……こんな場所で、わざわざ誰かを張ってるなんて思わないでしょ?」
「……わかった」
理屈の上では、たしかに通っていた。
ただ、それを実行する側の難易度は、石原にとって試験どころではなかった。
「そんなに緊張しなくていいですよ、先輩」
緒山はふっと笑った。
その笑みには少しだけ悪戯っぽい聡さが混じっていて、それでもちゃんと、彼を励まそうとしているように見えた。
「先輩は私に合わせてくれればいいから。ほら、この前、喫茶店でやったみたいに」
そう言って、彼女はごく自然に石原の襟元へ手を伸ばした。
別に乱れてもいない襟を、軽く整えた。指先が不意に首筋をかすめ、ひやりとした感触が走っる。石原の身体がぴくりと強張った。
「あと、これも」
その反応には気づいていないのか、緒山は小さな布バッグから白いイヤホンを取り出した。
片方を自分の右耳に入れ、もう片方を石原へ差し出した。
「これつけてたほうが、それっぽいでしょ。中にね……落ち着くピアノ曲を入れてあるんです。もしかしたら、少しはリラックスできるかも?」
石原は、まだ彼女の体温が残っている気がするイヤホンを受け取ると、少し迷ってから左耳に差し込む。
音楽はとても小さかった。
小さすぎて、それが旋律なのか、それとも自分の心臓の音なのか、ほとんどわからないくらいには。
緒山は腕時計を見た。針はちょうど五時半を指していた。
「そろそろ“現場”に行きましょう」
そう言って、彼女は廊下の先――廃音楽室のほうへ軽い足取りで歩き出した。
石原もあとに続く。二人のあいだで短く垂れたイヤホンのコードが、見えない結び目みたいに二人を繋いでいた。




