第四十六話
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【六月二十五日・火曜日・昼休み】
石原は二年生校舎二階東側の廊下の曲がり角で、冷たい壁に背を預けていた。
ここは人通りがほどよく、見通しもいい。
二年D組の生徒たちの昼休みの動きを見るには、ちょうどいい場所だった。
石原はスマホを取り出し、昨夜花野がグループに送ってきた案をざっと確認した。
「水面下でのスクリーニング手順:投稿の一次選別→石原による“ラベル確認”→高確率対象の絞り込み」
その後は別のメンバーが主導し、生徒会活動や声かけを名目に接触して、状況を確認する――そんな流れだった。
チームはその結果を見て、さらに対応を決める――そういう段取りになっていた。
耳に届くのは、昼休み特有のざわめきだ。
そのざわめきを、石原は今、自分の中で“別の光景”へと訳し替えていた。
視界の中に、無数の感情ラベルが次々と浮かび上がる――
【興奮】【眠気】【退屈】【焦り】【お菓子を分け合う楽しさ】【午後の小テストへの不安】……色とりどりのラベルが隙間なく重なり合い、騒がしい背景ノイズのように広がっていた。
じわりと、代償が顔をのぞかせる。
こめかみに、いつもの鈍い痛みがにじみ始めていた。
石原は何食わぬ顔で息をひとつ深く吸い、D組の教室前を行き来する生徒たちに目を向けた。
大半のラベルは輪郭がはっきりしていて、流れ方も自然だった。
時おり、少しぼやけたり不安定に揺れたりするものもあった。だが、それは一時的な感情の揺らぎにすぎなかった。
時間だけが、少しずつ過ぎていった。
石原のこめかみには、細かな汗がにじんでいた。
そろそろ一度引くべきか、と石原は考えた。
頭痛に加えて、胸の奥に溜まるような重苦しい感覚まで、だんだん無視できなくなってくる。
そのとき――D組の後ろの扉から、一人の男子生徒が出てきた。
痩せぎすの少年だった。制服はきっちりと着込んでいて、手には飾り気のない簡素な水筒を持っていた。
どうやら水を汲みに行くところらしい。
俯いたまま、足早に歩き、ほとんど誰とも目を合わせようとしなかった。
その男子が石原の前方、およそ三メートルほどの位置を横切った瞬間、石原にははっきり見えた。
【朝日守の感情:不安24 &*%$#】
あの黄昏にちらりと見えたものと、まったく同じだった。
男子生徒は、石原の視線に気づいたのかもしれない。
わずかに足を止めたあと、さらに深く顔を伏せ、足早に水飲み場へ続く廊下へ曲がっていった。
石原はすぐに視線を外し、胸の内に湧いたざわめきと、さらに強くなっていく頭痛を押し殺す。
もうそこには留まらず、石原は身を翻し、反対方向の比較的人の少ない階段へと早足で向かった。
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【同日・放課後・生徒会室】
「……以上を踏まえると、対象人物は二年D組の朝日守、男子。その感情ラベルには欠損の特徴が見られ、石原が以前目撃した内容、ならびに“旧校舎の光のにじみ”に関する投稿とも関連があると考えられる」
花野はホワイトボードの前に立ち、抑揚のない声で簡潔に報告していた。
ホワイトボードには、あの投稿メモのコピーが貼られている。
その隣には、石原が手描きした異常ラベル形態の図と、学校の公開情報から調べた朝日守の基本情報――といっても、クラスと名前だけだが――が並んでいた。
「接触方針について」
花野はそう続けながら、緒山へ視線を向けた。
「対象は内向的で、普段からあまり目立たない。生徒会名義で正面から“聞き取り”を行えば、警戒や回避を招く可能性が高い。よって、自然接触を推奨する」
「自然にって?」
立花が首を傾げた。
「石原の観察によれば、対象には黄昏時に旧校舎付近へ向かう習慣がある」
花野はホワイトボードの時間軸を指し示す。
「投稿にあった“光のにじみ”の発生時刻も、黄昏に集中している。したがって、緒山あるいは石原が近い時間帯に旧校舎付近へ“偶然”現れ、自然に接触する機会を作るのが望ましい」
その場にいた全員の視線が、石原と緒山に向いた。
「最初の接触理由としては、落とし物を探している、部活動の場所を下見している、あるいは――」
花野はそこで一拍置いた。
「単に黄昏の景色を見に来た、でもいい」
「それはさすがに無理があるって!」
「わかりました」
緒山は頷き、石原へひとつ視線を送った。もう意図は伝わっている、そんな目だった。
「偶然の出会いを作って、いちばん無難な話題から会話を始める。反応を見ながら、“光のにじみ”とか“色”とか“旧校舎”の話題に少しずつ寄せていく……そういうことだよね?」
「そのとおり」
花野は肯定した。
「初回接触の目的は、あくまで対象と“現象”の関連度を確かめ、現在の状態を見極めることにある。“異能力”や“執念”といった核心に触れる敏感な言葉には、直接触れないこと」
春野が腕を組んだまま言った。
「一回目から結果を急ぐ必要はない。安全で自然、それが最優先だ」
「わかった」
「その……」
立花が手を挙げた。
「もし……もしその人が、本当に心の中でつらい思いをしてるなら……ちゃんと優しくしてあげてください」
その一言で、室内の空気がほんの少しだけやわらいだ。
「うん、ちゃんとそうするよ」
緒山が静かに応じた。その目は、やさしく、それでいて揺るがなかった。
「じゃあ、実行は明日の夕方で。天気予報じゃ晴れだし、景色も悪くなさそうだ」
緒山と石原は、短く目を合わせた。
「……ああ」
「うん、問題ないよ!」
穏やかな日常の下で、善意で編まれた小さな網は、もう対象へそっと広がりはじめていた。
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【夜・石原家】
キッチンから、規則正しい包丁の音が聞こえていた。
熱した油に食材が入る、じゅっと小さな音も混じっていた。
石原が玄関を開けたとき、鼻をくすぐったのは味噌汁のあたたかな香りと、ほのかに甘酸っぱい甘酢の匂いだった。
「ただいま」
「おかえり~。お兄ちゃん、今日は遅かったね! 生徒会の新しい仕事、そんなに気合い入ってたの?」
杏がキッチンから顔をのぞかせた。薄い黄色のエプロンを身につけ、手にはまだフライ返しを持っていた。
口元には笑みが浮かんでいた。
【石原杏の感情:気遣い60、好奇30、疲れ10】
「まあ、そんなところだ」
石原は靴を脱ぎ、鞄を玄関の棚に置くと、まだ鈍く重い痛みの残るこめかみを指先で揉んだ。
午後、図書館で行った二回目の“ラベルスクリーニング”は、範囲がさらに広がっていた。
目的そのものは明確だった――ほかに異常なラベルを持つ者がいないかを探すこと。
だが、感情の入り乱れる人混みの中に長く身を置いたせいで、代償による疲労感のほうが、かえって長く尾を引いていた。
「なんだか大変そうだね」
妹の声が近づいてきた。
気づけば杏は、出来たての甘酢味のスペアリブを皿に載せて、食卓のほうへ運んできていた。
「さっき、美里ちゃんがグループにスタンプいっぱい送ってたよ。“観測隊”、いよいよ出撃だよーって、みんなにエール送ってた」
石原がスマホを取り出して見ると、案の定、生徒会のグループチャットでは立花が猫の応援スタンプや星の絵文字を連投していた。
その下には春野の短い「了解」があり、花野は標準の「頑張る」スタンプをひとつ返していた。たぶん、あれが彼女なりの最大限の熱意表現だった。
緒山は、OKサインをした可愛いウサギのスタンプに一言添えていた。
「明日は“偶然の出会い用アイテム”ちゃんと持っていくね~」
「……みんな、やる気あるな」
石原はグループに短く「うん」とだけ返した。
「だって、前の美里ちゃんみたいな人を助けるためだもんね」
杏は箸を並べながら、少しだけ真面目な声になった。
「お兄ちゃんは、本当に見つけられると思う? あの……“ラベルを見る”やり方で」
「もう一人、かなり可能性の高い相手は見つかってる」
石原は隠さずにそう答え、食卓の席に着いた。
「明日の夕方、緒山さんと一緒に接触してみるつもりだ」
「えっ、そんなに早く?」
杏は少し目を見開いたが、すぐにその驚きを引っ込めた。
こくんと小さく頷いた。
「そっか……お兄ちゃん、本気になるとやっぱりすごいんだね。ちゃんと気をつけてね、あんまり無理しちゃだめだよ」
その視線は、石原のやや青白い顔色と、こめかみを押さえる指先に向いていた。
「わかってる。なんか、俺のほうが弟みたいだな」
杏はくすっと笑って、茶碗を差し出した。
夕食は、静かで、それでいて心地よい空気の中で進んでいく。
杏は学校での出来事をぽつぽつ話した。
たとえば、図書委員会で来週古い本を整理することとか。
それから、クラスで“旧校舎の怪談”に興味を持ってる子がいて、休み時間にひそひそ話していたことも。
「そうだ……」
ふと思い出したように言って、杏は箸で茶碗のご飯を軽くつついた。
「この前……“あの人”を隣町で見たっていうコンビニのおばさんにも、また連絡してみたの。メールの返事は来たんだけど……時間が経ちすぎてて、具体的な特徴はもう思い出せないって」
声は落ち着いていた。
けれど石原には、その目の奥をよぎった一瞬の落胆と、ラベルの中でわずかに濃くなった【疲れ】が見えていた。
石原は少し黙った。
いつものように「無駄なことはするな」と突き放したり、露骨に苛立ちを見せたりはしなかった。
カフェで緒山に言われた言葉と、妹にした約束を思い出していた。
「……お疲れ」
杏の好きな玉子焼きをひと切れ、そっと杏の皿の上に置いた。
「焦らなくていい。ちゃんと寝ろ。手がかりは、そのうち出てくる」
杏は少しだけ目を丸くして、それから兄を見上げた。
「……うん」
すぐに目を伏せて、ご飯をひと口運んだ。
耳のあたりが、ほんのり赤かった。
「急にそういうこと言うの……なんか、くすぐったい」
小さくぼやきはしたものの、彼女の感情ラベルの中では、さっきまでのかすかな疲れが少し薄れ、代わりに【安心】の色が滲んでいた。
食後は石原が皿洗いを引き受けた。
水音が流れる中、テーブルを拭いていた杏が、ふいにまた口を開いた。
「お兄ちゃん」
「ん?」
「もし……明日接触する人が、本当に助けを必要としてて。お兄ちゃんたちがその人を助けられて、その人と、その人にとって大事な人が……今よりもう少しでもいい結末にたどり着けるなら……」
そこで一度、言葉が途切れた。
声はとても小さかった。
「それって、きっと……すごく素敵なことだよね」
その言葉の先にある、言い切れなかった願いまで、石原には伝わっていた。
洗い終えた皿から、雫が陶器の縁を伝って落ちていくのを見つめながら、
「……そうかもな」
石原は静かに答えた。
自分にそれができるのかどうか、石原にはわからなかった。
それに、“より良い結末”というものが、いったいどんな形をしているのかも。




