第五章 崩壊——それでも、私は見てほしい
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【五月十三日・月曜日・午前】
午前の授業が始まる前のことだ。
石原は一年A組の教室の後ろのドア脇に立ち、手には飾り気のない紙袋を提げていた。
自分から動くタイプじゃない。
まして、こんなふうに“待ち伏せ”なんて、なおさらだ。
それでも、今は——教室で騒ぐ生徒たちの向こう、窓際の席にだけ視線が引き寄せられていた。
立花は頬杖をつき、窓の外をぼんやりと眺めている。
朝の光に照らされた横顔は、不思議なくらい静かだった。
まるで、周囲の喧騒とは薄い膜一枚で切り離されているかのように。
今日はいつものように能力で着飾ることもなく、ごく普通の制服姿だった。
それがかえって、妙に印象に残った。
紙袋の持ち手にかかる指先に、わずかに力がこもった。
石原は一度、深く息を吸い——一歩を踏み出そうとした。
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月曜の朝。まだ空が白み始めたばかりの時間だった。
石原は自然と目を覚ました。妹に起こされるよりも、ずっと早く目を覚ました
昨夜は、ほとんど眠れていない。
暗闇の中で、立花が慌てて背を向けて去っていく姿が、何度も脳裏に浮かんだ。
無言のまま朝食を済ませる。
靴を履き替えようとしたとき、ふと棚の上の紙袋が目に入った。
ほんの数秒、手が止まった。
——それでも結局、半ば引っ掴むように紙袋を手に取り、鞄の中へ押し込んだ。
……昔も、こんな感じだった。
杏がクラスで孤立していた、あの頃。
毎朝、同じように鞄を掴んで家を飛び出していた。
「お兄ちゃん、今日はやけに早いね!」
目をこすりながら部屋から出てきた妹が、身支度を整えた彼の姿を見て、きょとんとする。
「なに、朝から特殊部隊の訓練でもしてるの?」
「……早く寝ただけだ」
石原は顔を逸らした。
妹はぱちぱちと瞬きをし、彼の顔と妙に膨らんだ鞄を見比べる。
やがて、にこっと口元を緩めた。
「は~いはい、そーいうことね~。じゃあついでに——」
そう言うと、くるりと踵を返してキッチンへ駆けていく。
「待ってて! お兄ちゃんに、エネルギー満点の超豪華弁当作ってあげる!」
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【登校路】
マンションの下で緒山朋奈と合流したとき、彼女はどうしてこんなに早いのかは聞かず、ただいつも通りに微笑んだだけだった。
学校までの道のりは、いつもより短く感じられ、どこか妙に静かだった。
石原はどこか上の空で、意識は何度もあの紙袋へと引き戻されていた。
緒山は無理に話題を探すこともなく、時折ぽつりと一言二言だけ言葉を添えていた。
校門の前で別れるとき、彼女は足を止めて、くるりと振り返った。
朝の光が、髪の先にやわらかく差し込んでいた。
「先輩」
その声は軽やかで、それでいてはっきりと耳に届き、どこか穏やかな温もりを含んでいた。
「お昼、またね~」
石原は小さく頷き、低く応じた。
「……ああ」
余計な詮索もなければ、露骨な励ましもない。
それなのに——
鞄のストラップを握りしめていた手の力が、ほんの少しだけ抜けた気がした。
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石原は今、立花の教室の前に立っている。
教室の中では、立花が、ふっと息を吐いた。
窓の外の遠くを見ていた視線を引き戻し、ゆっくりと俯く。
ペンが、指先でくるくると回り始める。
同じ動きを、何度も繰り返す。
石原は息を整えた。
そして、足を持ち上げる。
——そのまま、一歩踏み出そうとした、その瞬間。
ドンッ!
笑い声と、小さなざわめきが一気に弾けた。
数人の女子生徒がふざけ合いながら、立花の席の横を通り過ぎる。
そのうちの一人が、不意に——立花の肩に肘を強くぶつけた。
「きゃっ!」
立花の体がぐらりと前に崩れる。
机に突っ伏すように倒れ込む。
筆箱が弾け飛び、鉛筆、消しゴム、定規が——床へばらばらと散らばる。
「あっ、ごめん!」
ぶつかった女子が慌てて声を上げる。
仲間と一緒にしゃがみ込み、散らばった文具を拾い集める。
拾い終えると、そのまま机の上へ戻す。
一人の女子が、何気ない調子で言う。
「もう、ちゃんと前見て歩きなよ。
美里ちゃん来たら、ちゃんと謝んなきゃね」
「はーい」
「ていうか……美里ちゃん、まだ来てないんだ?」
違和感のない口調で、手慣れた様子で文具を整え、そのついでに開きっぱなしの教科書まで揃える。
そして——
何事もなかったかのように、笑いながらその場を通り過ぎていく。
視線が——彼女に向くことは、一度もなかった。
ゆっくりと体を起こし、唇を噛む。
まるで——最初から、そこに誰もいなかったかのように。
石原は、扉の前で動きを止めた。
瞳がわずかに細まる。
(……どういうことだ。見えていない……?)
背筋を、冷たいものが這い上がる。
一昨日、服屋での光景がよぎった。
店員が、立花を何事もないように見過ごした、あの違和感が。
あのときの小さな引っかかりが——今、何倍にも膨れ上がる。
立花は、ゆっくりと体を起こす。
俯いたまま、スカートの裾をぎゅっと握りしめる。
ただ、あの女子たちの背中を見つめて——
まるで固まったかのように、動かない。
石原の胸が、重く沈む。
……これは、ただの「過去の問題」じゃない。
もっと、根の深いものだ。
手にした紙袋を、ぐっと握りしめる。
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ギッ——!
立花が勢いよく立ち上がる。
椅子の脚が床を擦り、耳障りな音を立てる。
何人かの生徒が、不思議そうに、空の椅子へ目を向ける。
だが——
その視線は、彼女を捉えることなく、そのまま通り過ぎていく。
立花は、机や椅子にぶつかりそうになりながら、教室を飛び出す。
教室の後ろのドアの前で、急に足を止める。
——そこに、石原が立っている。
【立花美里の感情:恐慌55#*-@】
視線がぶつかる。
一瞬だけ、怯えた色がよぎる。
けれどすぐに俯き、体をずらす。
石原の横をすり抜け、そのままトイレへ駆け込む。
石原は、その場に立ち尽くす。
——一分も経たないうちに、扉が開く。
【立花美里の感情:#$@*#%】
出てきた立花は、まるで別人のようだ。
可愛らしいワンピースを身にまとい、髪はツインテールに結い直され、メイクもきちんと整っている。
鏡に向かって、軽く笑顔を確認する。
ひとつ、深呼吸する。
そして——
わざと軽やかな足取りで、教室へ戻っていく。
「みんな、おはよ~!ちょっと用事あって遅れちゃった!」
姿を見せるより先に、明るい声が教室に響く。
「わっ!美里ちゃん!その服、めっちゃ可愛い!」
一気に、視線が集まる。
色鮮やかな装いに引き寄せられ、クラスメイトたちが彼女を囲む。
立花は目を細めて笑いながら、自然に応じる。
——さっきまでの姿など、最初からなかったかのように。
教室の外で、石原は、その光景を見ている。
人に囲まれ、完璧な笑顔を浮かべている彼女。
——ほんの数分前。
誰にも気づかれず、床に倒れたあの姿。
ふいに、ひとつの考えが頭をよぎる。
普通の格好では——気づかれない。
だから、あんなにも装う。
目立つ格好で、自分の存在に気づかせようとしている。
衝撃と焦りで、頭が一気に熱を帯びる。
石原は、数歩で教室の前まで踏み込む。
「立花さん!」
教室の空気が、すっと静まる。
いくつもの視線が、こちらへ向く。
立花の動きが、一瞬止まる。
ゆっくりと振り返るその目は——
どこか他人を見るように、よそよそしい。
「……そこの先輩、何かご用ですか?」
甘い声だが、けれど、その奥は冷えている。
石原の胸が、詰まる。
視線が——あのワンピースへ落ちる。
そして。
「……その服、今すぐ着替えろ!」
押し殺した声が、低く響く。
教室が、しんと静まり返る。
クラスメイトたちは困惑し、石原と立花の間で視線を行き来させる。
その目には、わずかな警戒と——理解できないものを見る色が浮かぶ。
立花の顔が、一瞬だけ白くなる。
けれど、次の瞬間——
さらに明るく、笑った。
わざとらしく首を傾げる。
「え? 私たち、知り合いでしたっけ?
女の子の服にそんなこと言うなんて——
失礼じゃないですか?」
柔らかい口調だが、なのに、棘がある。
言い切ると、そのままくるりと背を向ける。
何事もなかったかのように、またクラスメイトと笑い合う。
石原だけが、その場に取り残される。
拳に力がこもる。
さっきの言葉は、あまりにも不器用で。
差し出したはずのものは、一番強い壁に弾かれて——
届かない。
チャイムが鳴る。
教室の扉が、閉まる。
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【五月十三日・月曜日・昼休み】
午前の授業中、石原は授業の内容が、ほとんど頭に入ってこなかった
立花がぶつかられて倒れた、あの瞬間のこと。
そのあと、誰一人として彼女に気づかず、
まるでそこにいないかのように視線が通り過ぎていった、その様子。
——何度も、頭の中で繰り返される。
悪意はないが——だからこそ、余計に気味が悪い。
服屋の店員や今朝のあの女子たち。
偶然にしては——出来すぎている。
「……異能力の代償か」
その言葉が浮かんだ瞬間、
ひとつの考えが形を取り、
そこから枝分かれするように、これまでの記憶と次々に結びついていく。
——いつも、目を引く格好で現れる。
——「一瞬で着替える」と、小さなマジックみたいに笑っていた。
あれは遊びでも、見せびらかしでもない。
それは、日々をやり過ごすための——消耗戦だ。
「……気づかれなくなるのが、怖いのか」
だから、可愛さで自分を覆い隠し、視線を引き寄せるために。
だから、走ることを避ける。
昔は輝いていた場所で、今の自分が埋もれてしまうのが怖くて。
だから——佐藤の前で、逃げた。
完璧な「先輩」でいられなくなったとき、その下にある、本当の自分が——
平凡で、誰にも見られない存在かもしれないと。
「見てほしい」
その想いが、深く根を張り——
人の視線を引き寄せる力になった。
石原の胸が、重く沈む。
同じ異能力者として、分かってしまう。
——だからこそ、皮肉だ。
強く願ったものの裏側で、「存在が薄れていく」という代償を背負っている。
能力を手放した瞬間、世界が——まるで最初からいなかったかのように、彼女を見過ごす。
息が詰まる。
理解したはずなのに、楽にはならない。
むしろ——はっきり見えてしまった。
立花美里が、どんな場所に立たされているのか。
このままじゃ——まずい。
あのやり方で逃げ続けるのを、放っておくわけにはいかない。
能力に頼るたびに、「本当の自分」から、遠ざかっていく。
……だが。
確かめなければならない。
この胸の奥を締めつける仮説が、
ただの思い込みで済む話なのか。
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昼休みのチャイムが鳴る。
生徒たちが一斉に動き出す。
食堂へ、部活へ——人の流れが広がっていく。
石原は鞄を手に取り、そのまま生徒会室へ向かった。
扉を開けると——
中にいたのは、春野だけだった。
キーボードを叩く音が、部屋に響いている。
「よ、石原。まだ誰も来てなくてさ、俺ちょっと寂しいんだけど」
顔も上げずに、軽い調子で言う。
石原は室内を軽く見回し、立花の席には、高さを調整するクッションだけが、ぽつんと置かれている。
——やはり、来ていない。
「春野」
石原は、何でもないように口を開く。
「立花、たぶんクラスで少し手間取ってる。来週の展示の準備で」
適当な理由を、淡々と並べる。
「朝、ちょっと厄介そうにしてたから、様子を見に行くけど、来るか。人手はあった方が早い」
春野が、手を止めた。
「クラス展示? あいつでも詰まることあるんだな」
くすっと笑って、椅子を引く。
「いいよ、行こうぜ」
深く考える様子もなく、さっとパソコンを閉じて立ち上がった。
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一年A組の教室の扉は、半分だけ開いていた。
教室の後方、その隅に——立花美里が、一人で立っていた。
隣の机には、色鮮やかなワンピースが数着、置かれている。
どれもきちんと畳まれ、整然と並べられていた。
周囲の質素な机や椅子の中で——そこだけが、浮いて見える。
彼女は扉に背を向けたまま、わずかに俯いている。
深い紺のプリーツスカートが、腰にきちんと収まっていた。
上に着ている白いインナーは、どこか頼りなく見える。
肩甲骨に沿う細い線が、うっすらと浮かんでいる。
緩んだ布の縁が、わずかに肌から浮いている。
鎖骨の下に落ちた影が、呼吸に合わせてかすかに揺れていた。
腕は途中まで上がったまま、手には淡い青みの制服シャツを持っている。
片方の袖が力なく垂れ、腕に引っかかっていた。
その動きは途中で止まったまま——まるで何かに押さえつけられているようだった。
彼女は、息を吸った。
指先が、胸元に触れた。
淡い光が、指先からにじみ出た。
シャツの輪郭が——揺らぎ始めた。
「立花さん」
石原が、声をかけた。
「っ……!」
立花が、弾かれたように振り向いた。
顔に浮かんでいるのは——見られたという恐怖と、逃げ場のない羞恥。
反射的に、シャツを胸に抱き寄せた。
腕を強く回し、自分の体を隠した。
「い、石原先輩……!? それに、春野会長も……! な、なんで……っ、出ていってください!」
慌ててシャツを着る。
視線が、二人の間を落ち着きなく揺れる。
「あー、悪い悪い。邪魔したな」
石原の後ろから、春野が半身だけ覗かせた。
教室を見回し——眉をひそめた。
「……あれ? 誰もいなくね?
お前、クラスでなんかやってるって言ってなかったか?
もう終わった感じ?」
言いながら、その視線が——立花の方をかすめた。
その視線は止まらず、捉えもしない——
まるで何もない場所を見ているかのように。
そこにいるはずの人間も、その表情も、抱きしめている服さえも——最初から存在しなかったみたいに。
【立花美里の感情:@$*#%】
石原の心臓が、強く縮む。
視界の端に——立花の顔が映った。
一瞬、理解できないという色が浮かぶ。
すぐに——血の気が引いていった。
……見えていない。
やっぱり、そうか。
「……俺の勘違いかもな」
声の調子を崩さない。
「春野。担任に昼休み呼ばれてたの思い出した。
先に行って、用件聞いといてくれ。
俺は……立花がどこ行ったか、見てくる」
「おう、早く来いよ」
春野は、もう一度だけその“空白”に視線を向けた。
そして、背を向けた。
足音が、遠ざかっていく。
——静かになる。
立花は、動けずにいた。
自分の制服を見下ろしていた。
恐怖と不安が、じわじわと押し寄せてくる。
震える手が上がった。
指先に、再び光が宿る。
——また、この“消える服”を変えるつもりだ。
「立花さん!」
石原が踏み込み、その手首を掴んだ。
びくり、と体が跳ねた。
すぐに強く振り払われ、半歩ぶん距離が開いた。
見上げてくるその目は、すでに赤く染まっていた。
石原は、追わない。
ただそこに立ち、視線を逸らさず——そのままの彼女を見ていた。
飾り気のない制服も、隠しきれない脆さも——そのすべてを。
驚きも、責めも、憐れみもない。
ただ——見ている。
「……少し、話そう」
低く、静かな声だった。
この教室で彼女を見ているのは自分だけだという事実が、やけに重くのしかかる。
立花の目が揺れる。そこには、恐れと迷いが入り混じっていた。
抱え込むように、腕をきつく回していた。
——その姿が、ふいに重なった。
ふいに、記憶の奥にある光景が浮かび上がる。
隅に追い込まれ、誰にも届かない場所で俯いていた——杏の姿だ。
あのときは、前に出て止めに入った。
——今回も、同じように。
引き戻すつもりで。
……いや。
今回は——自分しかいない。
その感覚が、胸を締めつける。
それでも、視線は逸らさない。
「話そう、立花さん」
もう一度。さっきより少しだけ柔らかく——それでも、逃がさない響きを込めて。
立花は俯いたまま、動かない。
やがて——小さく、頷いた。
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石原は先に教室を出た。歩く速さは、速すぎもせず、遅すぎもしない。
立花美里は一瞬だけ迷ったあと、その背中を追う。三歩ほど距離を空けたまま、黙ってついていった。
廊下は騒がしく、人の流れが絶えず行き交っている。
何度も視線が彼女の上をかすめるが、すぐに逸れていく。
——やはり、見られていない。
そう実感するたびに、立花はさらに頭を低くした。
前を歩く石原が、さりげなく進路をずらし、人の密集を外していく。
その背中が、ざわめきの中に細い空間をつくっていた。まるでそこだけ、わずかに静けさが残っているかのように。
二人は、生徒会室には向かわなかった。
校舎の脇へ折れ、人の少ない通路を進む。さらに奥、古い清掃用具が積まれた階段の踊り場へとたどり着いた。
光が届きにくく、息をひそめるような静けさが満ちている。
石原は壁に背を預け、少し離れた場所で俯いたまま立つ立花を見た。
自然と、言葉のない時間が流れる。
「……どうして、先輩は……私が見えるんですか」
かすれた声だった。
「ここにいるからだ」
石原は間を置かずに答えた。
「……ふざけないでください。先輩も分かってるでしょ……他の人、みんな——」
言葉が詰まる。
「……誰も、私に気づかない。
どうして、先輩だけ……?」
石原は少し黙る。
「分からない。……たぶん、俺の“異常”の一部だ」
短く言う。
「立花さんが服を変えられるみたいに。
俺は——感情のタグが見える」
石原は一歩近づき、わずかな間を置いてから言った。
「でも、春野が、お前を見ずに通り過ぎたとき——あれを見てるだけってのは無理だった」
立花の肩が小さく震える。
「……分かるんですか。
あれが……どんな感じか」
石原の中で、記憶がよぎる。
押し寄せる感情と、息が詰まる感覚。
「同じじゃない……けど」
石原は一度言葉を切り、わずかに息を整えた。
「周りから切り離される感覚や、一人で抱えるしかない状況は——嫌でも分かる」
少し、声が低くなる。
「だから、今聞く」
石原は静かに続けた。
「どんな感じなんだ。何を、そんなに怖がってる?」
立花は固まったまま、やがて力が抜ける。
「……見えなくなるのが、怖い」
絞り出すような声。
「隠れるとかじゃない……
少しずつ、薄くなっていく……みたいに」
言葉が途切れたあと、彼女はゆっくり顔を上げた。
「水に溶けるみたいに……気づいたときには、自分でも分からなくなるの」
赤くなった目から、涙が静かにこぼれる。
「ちゃんと、やってるのに……
可愛い服、着て。ちゃんと笑って、ちゃんと話して……」
「そうしないと……誰も見てくれない。
“立花美里”が、ここにいるって——」
石原は、何も言わない。
「でも……止めたら」
声が詰まる。
「普通に戻ったら……消える」
小さく、吐き出す。
「だから——やめられない。ずっと続けなきゃいけない……可愛いままで、ずっと」
息が荒くなる。
「じゃないと……そのうち、先輩にも見えなくなる……!」
石原は、静かに待つ。
——少しして。
口を開いた。
「……分かった。
“見られないと消える”——そういうルールなんだな。
……それが、代償か」
「……代償……」
「俺にもある。見える代わりに——ノイズが増える」
淡々と続ける。
「だから分かる。代償は——消えない」
立花が顔を上げる。
少しだけ、空気が変わる。
「……でも」
石原の声が、わずかに変わる。
「それ、前より重くなってるだろ」
立花の瞳が揺れる。
——思い出す。
最初は、両親の前を通り過ぎても気づかれなかっただけだった。
けれど座れば、ちゃんと気づいてもらえた。
それが今では——声を出さなければ、存在すら認識されない。
その差。
「このまま続けたら」
静かに言う。
「不安になるたびに、能力に頼ったら」
わずかな間。
「そのうち——」
さらに低く。
「どんな格好をしていても、そのうち見えなくなるかもしれない」
わずかな間を置いて、石原は続けた。
「……俺にも」
その一言。
深く、刺さる。
立花の顔から血の気が引く。
それが——一番、怖い。
「……わ、分からない……でも……使わなかったら、今すぐ……」
首を振る。
呼吸が乱れる。
「だから、ここで止める。これ以上進ませない」
一歩、踏み出す。
「その能力に頼るほど、逆に削られる。
——分かってるだろ」
さらに一歩。
距離が縮まる。
「立花さん」
まっすぐに見据える。
「俺は、お前が見える」
はっきりと。
「綺麗な服のときじゃない。
今みたいに普通の制服で、俯いて震えてても——
ちゃんと見える。名前も呼べる」
短く息を吸う。
「これが、俺の“異常”だ」
「だから——一回だけでいい」
石原はまっすぐに言った。
「その力を使わずに、普通のままでいてみろ。
そのまま見られることに、少しずつ慣れていくんだ」
「それしか方法はない」
石原は迷いなく言い切った。
立花の手が小さく震える。
——それでも
「……見えてる」
石原は、迷いなくそう言った。
今の自分を、この格好で、この場所で——
それでも彼の視線は、決して外れなかった。
それは、立花にとって初めての感覚だった。
怖いはずなのに、不思議と心の奥に、確かな重みが残っていく。
彼の視線は、どこまでも逃げなかった。
……もしかしたら、
「……試すだけ……なら」
かすれた声で、そう呟く。
「……ああ」
石原は短く頷いた。
「明日、昼休み。生徒会室に来い」
「制服でいい。無理なら帰ってもいい——それでも、俺はそこにいる」
沈黙が続く。
その静けさの中で、立花の心は大きく揺れていた。
それでも——
やがて、彼女はゆっくりと小さく頷いた。
「……分かりました」
それを見て、石原も小さく頷く。
張り詰めていた力が、わずかに抜けた。
口元が、ほんのわずかに緩んだ。
「……俺は、ずっと見てる」
「明日な、立花さん」
彼の視線は、最後まで逸れなかった。
まるで——消えてしまいそうな彼女を、この場所に繋ぎ止めるかのように。
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地味な制服のまま校内を歩いていると、立花美里は、流れに逆らう小さな魚みたいだと感じていた。
気を抜けば、そのままどこかへ押し流されそうで——その感覚が、ずっと背中にまとわりついていた。
前は、あの華やかな服に視線が集まっていたのに、
今は——ほとんど、そのまま通り過ぎていく。
教室に入ると、その感覚はさらに強くなる。
隣の女子が振り向いて、何か言いかける。
視線が顔をかすめる。
一瞬だけ止まって——
そのまま、別の方向へ逸れていく。
「……あれ、立花さん今日休み?」
息が詰まる。
「わ、私……ここにいるよ……!」
慌てて声を出す。
それでようやく、相手は気づいたように目を見開く。
「あっ、ごめん!全然気づかなかった……!」
ぎこちない笑顔を浮かべる
廊下でも同じだ。
気を配らないと、本当にぶつかる。
人の動きを読んで、避けなければならない。
一瞬でも遅れると——そのままぶつかる。
肩や肘に当たる感触が、何度も重なる。
強く当たられて、よろけることもある。
この体じゃ、受け止めきれない。
“見えないみたいに扱われる”——その感覚が、そのまま体に響く。
そのたびに、
細い針みたいな痛みが、胸の奥に刺さる。
……このまま続けて、意味あるのかな。
ふと、そんな考えが浮かぶ。
それでも——
石原久希がいる。
ちゃんと、見てくれている。
それだけが、支えだった。
昼休みの生徒会室では、
そこだけは、他とは少し違っていた。
小さな部屋だけれど、
彼女にとっては、逃げ込める場所だった。
初日、
時間ぎりぎりに部屋へ入った。
顔を上げずに、そのまま静かに中へ入る。
ドアの近くで、そのまま動かない。
石原は、いつも通り書類を見ていた。
ちらっと視線を上げて、軽く声をかけた。
それだけだった。
そのあと、湯気の立つ麦茶を、そっと机に置いた。
いつも座っている場所に置いてある。
春野陽明が顔を上げた。
その視線が室内を流れる。
一瞬だけ、引っかかったように間が空く。
立花は、息を止めた。
——だが、
すぐに、いつもの笑顔に戻った。
「お、立花。今日はちゃんとしてんな。ちょっと雰囲気違って分かんなかったわ」
【春野陽明の感情:困惑30、友善70】
張りつめていたものが、少しだけ緩む。
「たまには……真面目っぽいのも、いいかなって」
声が少しだけ固い。
指先は、まだ冷たいままだった。
緒山朋奈がペンを置いた。
やわらかく笑った。
「うん、すごく似合ってるよ。美里ちゃん。すっきりしてて、いい感じ」
まっすぐな目で見ている。
変な探りもない。
【緒山朋奈の感情:欣慰65@‘’#/】
花野真汐は、帳簿から目だけ上げる。
「最初からそうしていればいいのに。ああいう服、作業中は邪魔」
淡々と。
【花野真汐の感情:平淡100】
「真汐先輩、ほんと分かってないな~」
石原杏が資料を抱えて入ってくる。
立花の姿を見て、ぱっと顔を明るくした。
「わっ、美里ちゃん、雰囲気全然違う!……あ、でもね」
近づいて、こっそり声を落とす。
「聞いてよ。今朝、お兄ちゃんがさ、“急に地味な格好したら元気ないって思われるかな”とか聞いてきて。もう、ほんとズレてるよね~」
くすっと笑う。
【石原杏の感情:高兴50、調侃30、支持20】
特別扱いされるわけでもない。
無視されるわけでもない。
ただ、そこにいる前提で話される。
軽口と、いつものやり取りが交わされる。
それだけで、
胸の奥に、やわらかいものが広がっていった。
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石原の存在そのものが、どこか気持ちを落ち着かせてくれる。
彼の視線は、気づけばこちらに向いている。押しつけがましくない距離で、ふっと向けられるその視線が。
いつの間にか、
立花も、その視線を探すようになっていた。
窓際で、午後の光に包まれた彼の横顔は、どこか静かに沈んで見えた。
なんとなく目を向けると、ちょうど視線が合うことがある。
ほんの一瞬だけ、
軽く頷いてくる。
それだけで、また視線は落ちていく。
確かめたいわけじゃない。
ただ——そこにいるのを、見たくなる。
議論が詰まったとき、ふっと笑ってしまった。
つられるように、窓際へ目を向ける。
彼が、こちらを見ていた。
わずかに口元を緩め、眉を少しだけ上げた。
——どうした?
そんなふうに見えてしまって。
立花は慌てて首を振った。
心臓が、ひとつ跳ねる。
別の日の昼休み、
眠気がまとわりついて、まぶたが重い。
ぼんやりしたまま、視線を感じる。
やわらかくて、静かな視線だった。
目を開けると、石原が見ていた。
何も言わずに、
そのまま、少し冷えた麦茶を、数センチだけこちらに寄せた。
カップを手に取る。
ひんやりした感触が、掌に広がる。
その感触が、胸のあたりまで静かに落ちてくる。
麦茶の香りと一緒に、気持ちも少し落ち着いていく。
目を合わせられない。
小さく口をつけて、少しずつ飲む。
頬が、じわっと熱くなる。
そのまま、耳の先まで広がっていく。
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ふとしたときに、目がいく。
考え込むとき、机を軽く叩く指先や、
一番上まできちんと留められたシャツのボタン、
窓の外を見るときの横顔。
どうでもいいはずのものばかり。
なのに、一人になると、思い出す。
あとになってから、遅れて実感がやってくる。
胸の奥が、少し落ち着かない。
感謝でも、頼りでもない。
小さな波紋みたいに広がっていく。
どう扱えばいいのか分からないまま——
ほんの少しだけ、甘い。
少しずつ、
張りつめていたものが、ほどけていく。
制服のまま、生徒会室にいることにも、
それも、前みたいに苦しくはなくなってきた。
小さく、控えめではあるけれど、
会話の中で、少しだけ声を出せるようにもなって。
前の自分よりずっと小さい声でも、
それでも、ちゃんと自分の言葉として出てくる。
怖さは消えない。
ふとした瞬間、体の奥が冷える。
見落とされるたびに、呼吸が浅くなる。
それでも、昼休みだけは、
ここにいれば、彼がいる。
それだけで、少し力を抜ける。
ちゃんと見てもらえるし、
受け止めてもらえる。
その積み重ねが、ゆっくり根を張っていく。
まだ浅いままでも、確かに根を張っていて、
いつか地面を割って芽を出すみたいに、
「……もしかしたら」
そんな言葉が、胸の奥に浮かぶ。
石の隙間から顔を出すような、小さな芽みたいに。
日々は揺れる。
穏やかなときもある。
隣の子が、自然に消しゴムを貸してくれる。
廊下で、軽く会釈される。
けれど——
冷たい感触は、消えない。
すり抜けられる、あの感覚が。
それが、ついてくる。
昼休みのあの時間に、頼るようになる。
あの視線にも、自然と頼るようになっていた。
温かさが増すほど、別の冷たさも、はっきりしてくる。
——重くなってない?
そんな不安が、胸に残る。
引きずられるように、消耗していく。
そして、
体育祭の一週間前の、ある日。
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【五月二十三日・木曜日・朝】
【立花家】
家を出る前、鏡の前で身支度をしている間、立花美里の視線は何度か机の隅へと流れた。
そこには、小さなフォトフレームがあった。
裏返しのまま机に伏せられていて、ずっとそのままだ。
「……もう、考えない」
小さく首を振る。
鏡の中の自分に向けて、何度か笑顔をつくる。
今日も制服のままだ。
けれど、ほんの少しだけ変えた。
能力は使っていない。
自分の手で、シャツの襟元に小さな苺のブローチを留める。
引き出しの中には、前に買ったままのヘアピンがある。
ずっと使えずにいたものだ。
少し迷ってから、
薄い青の、星と月の形をひとつ選ぶ。
耳の横の髪に、そっと差し込む。
……やってみたかった。
こういう小さなものを、
“立花美里”としてではなく、自分として選びたかった。
指先でブローチに触れる。
それから、髪の横も軽く整える。
鏡の中には、
きちんとした制服に、ほんの少しだけ色が添えられている。
気持ちが上を向く。
息を吸って、リビングへ向かう。
父は新聞を読んでいる。
母はテーブルを片付けている。
その前で足を止める。
くるっと一回、軽く回ってみせる。
「ねえ、お母さん、お父さん。今日の私、どうかな?」
明るく言ってみる。
少しだけ様子をうかがうような声だった。
母の手は止まらない。
視線がこちらをかすめて——そのまま外れる。
コップを持って、そのままキッチンへ向かう
「牛乳、足りなかったかしら……」
父は顔を上げない。ただ、新聞をめくる。
笑顔が、そのまま固まる。
少しだけ、立ち尽くる。
それから、何も言わずに鞄を手に取る。
そのまま玄関へ向かい、靴を履く。
静かに、ドアを閉める。
その瞬間、
「……あの子、今日も何も言わずに出ていったの?」
母の声が聞こえる。
「ん?ああ……急いでたんじゃないか」
新聞をめくる音が続く。
——パタン。
ドアが閉まる。
廊下に立ち尽くす。
体の奥から、じわじわと冷えていく。
……さっきのことを思い返す。
気づかなかったんじゃない。
最初から、届いていなかった。
まるで最初から、そこにいなかったみたいに。
「……代償」
その言葉が、浮かぶ。
首を振る。
考えないようにして、階段を駆け下りる。
胸にまとわりつく冷たさを振り払うように、駆け下りた。
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【校門前・朝】
立花は、いつもよりずっと早く来ていた。
校門脇の銀杏の木の下に立つ。そこは視界が開けていて、人の流れからも少し外れた場所だった。
朝の風が抜ける。
耳元の髪が揺れ、淡い青の星と月のピンがかすかに頬に触れる。
思わず指先を動かして、胸元の苺のブローチを整える。
「……最初に見つけてくれるの、先輩だったらいいな」
そんな考えが浮かんで、少しだけ頬が熱くなる。
家を出る前に感じていた、あの重さも、胸の奥から少しずつ薄れていく。
「……気づくかな。これくらい」
小さな変化。
でも——あの人なら、きっと気づく。
あの視線を思い出す。ちゃんとこちらを捉える、あの目を。
それだけで、胸の奥が少し軽くなる。
もし気づいたら、一瞬だけ足を止めて、それから——
「似合ってる」
いつもの調子で、そう言うかもしれない。
そこまで想像して、思わず笑いそうになる。
思わずつま先立ちになる。
人の流れの向こうを探す。
似た色の髪が目に入るたび、胸が小さく跳ねる。
待つ時間は、少しだけ落ち着かなくて、それでもどこかやわらかい。
人に紛れる感じも、今はあまり気にならない。
「……そろそろ、かな」
時間を確認するように、頭の中で数える。
鼓動も、少し速い。
やがて、遠くに——
遠くに、二つの影が見えた。
石原と緒山だった。
並んで歩きながら、何か話している。
石原は少し顔を傾けて、頷いている。
朝の光が、その輪郭をやわらかく包んでいた。
待っていた人が、そこにいる。
手を上げる。
名前を呼ぼうとして——
——その瞬間。
笑顔も、呼吸も、そのまま止まった。
石原の視線が流れる。
校門、そして銀杏の木へと流れていく。
そして——彼女の前を、そのまま過ぎていく。
視線は、止まらない。
何も引っかかった様子もない。
そこに何もないみたいに、通り過ぎていく。
会話は途切れることなく続いたまま。
足も止まらない。
そのまま、彼女のすぐ横を通り過ぎていく。
近い——近すぎる距離なのに。
緒山の髪の匂いが、かすかに届く。
石原のシャツの襟の皺まで見える距離なのに。
それなのに。
視線は、一度も戻らない。
周りの音が遠のいていく。
声も、足音も、自転車のベルも、すべて遠のいていく。
体の奥から、冷えていく。
これまでで、一番深くて鋭い感覚だった。
——来る、と直感する。
代価が、また一歩進んだ。
「……せん、ぱい……」
声にならない。
風にほどける。
二人の背中が、遠ざかっていく。
「——先輩ッ!!」
喉が裂けるように叫ぶ。
その声に反応して、
石原の足が止まる、
振り向く。
視線が急に動く。
人の中を探して、揺れて——
そして、止まる。
涙で崩れた彼女の顔に。
【立花美里の感情:崩壊34@#·*】
「……立花、さん?」
戸惑いをにじませながら、名前を呼ぶ。
——その瞬間。
立花は弾かれたように背を向ける。
人にぶつかりながら、走る。
そのまま校舎の奥へと駆けていく。
影の中へ消える。
石原が一歩出る。
追おうとした瞬間、腕を引かれる。
「先輩? 立花さん、どうしたんですか?」
緒山が周囲を見る。
いつもの朝の風景しか、そこにはない。
石原は動かない。
校門の方を見たまま、動かない。
胸が、重く沈む。
さっきの一瞬のことが、通り抜けた感覚と、そのあとの焦点の合い方として、はっきりと残っている。
嫌になるくらい、はっきりと。
彼女はずっとそこにいて、小さな変化を重ねながら、見つけてもらうつもりで待っていた。
なのに。
それなのに、自分は——
呼ばれるまで、その存在に届かなかった。
代価が進んでいる。
しかも——最悪の形で。
声がなければ、もう捉えられない。
そこまで、薄れている。
指先が、冷える。
あのとき——
自分の前を通り過ぎたあの瞬間で、やっと繋いだものを壊してしまった
そして。
もし、次は——
その声すら——届かなかったら。
【あとがき】
ここまで読んでいただき、ありがとうございます!
いよいよ体育祭目前。
立花の“代償”はさらに重くなり、石原の必死の声すら届かない瞬間が訪れます――。
彼女は、この見えない闇から抜け出すことができるのか。
次回、第六章「走る――彼女らしい姿」。
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それでは、また次回でお会いしましょう!




