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見える感情、見えないまま  作者: 颍川
第九章 観察——妹の恋物語?
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第四十四話

---


【六月十九日・水曜日】


気がつけば、いつの間にか六月十九日になっていた。

朝から、どこか空気が違っている。


杏は一緒に家を出なかった。学校に用事があるから早く行く――そう言い残しただけだった。

生徒会のグループチャットも、妙なほど静かだった。

いつもならうるさいくらいに発言する春野も、緒山も、その日に限っては何ひとつ書き込まない。


(……やっぱり、今日か)


ここ数日ずっと胸の奥に引っかかっていた、あの微かな失落感が、じわじわと重さを増していった。

その感覚が頂点に達したのは、放課後だった。

――正確に言えば、その少し前からだ。


授業にはまったく集中できなかった。

途中で席を立ち、トイレに行くと適当な理由をつけて教室を出た。

戻ってきてからも気持ちは晴れないままで、授業の内容はほとんど頭に入らなかった。


石原はのろのろと鞄をまとめ、そのまま帰るつもりだった。

だが――


(……放課後、生徒会室に来てって、緒山さんが言ってたな)


そんな緒山の言葉を思い出す。

気づけば、足はそちらへ向いていた。


(……杏のことか。生徒会として、何か話があるんだろうか)


それ以外には思いつかなかった。

そう思うと、気分はいっそう沈んだ。


廊下には誰もいなかった。

夕焼けが、石原の影を長く引き延ばしている。


石原が生徒会室のドアに手をかけた、その瞬間――ドアは内側から勢いよく開いた。


「お、お兄ちゃん!?」


目の前には、目を丸くした杏が立っていた。

その手には、まだ撒く前だった紙吹雪が握られている。

その目は、驚きでまんまるになっていた。


「なんでこんな早……」


最後まで言い切るより先に、杏は反射的に身体をずらして中を隠そうとした。

――けれど、もう遅かった。


石原の視線は、そのまま杏の肩越しに奥へ抜けていった。


春野が背伸びして最後の飾りを掛けている。

立花は慌てた手つきで「18」のろうそくを差し込み、花野は黙々とテーブルクロスを整えていた。

その中央で――緒山がそっと箱を置いた。


「誕生日おめでとう」と書かれた箱。


――その瞬間、すべてが繋がった。


準備。水曜日。苦めの菓子。妙な空気。


(……誕生日だ)


「あ……」


最初に声を上げたのは杏だった。

杏は悔しそうに足を踏み鳴らす。

けれど、その顔にはこらえきれない笑みが広がっていた。


「もう! バカお兄ちゃん! なんで今来るの!? 全部台無しじゃん!」


ぶつぶつ文句を言いながらも、杏は身体を横にずらして道を開ける。

その目には、もう隠さなくていいのだという安堵がにじんでいた。


それに気づいて、生徒会室の中のみんなもいっせいに振り返った。

春野も振り返り、彩りテープを掛ける途中の妙な姿勢のまま、にやりと笑った。


「見られたか。計画通り……ってわけにはいかなかったな」


立花は顔を真っ赤にしていた。

その手には、まだろうそくが握られたままだった。


「せ、先輩……! お、お誕生日、おめでとうございます……!」


その声は、言うそばからどんどん小さくなっていった。


花野は一度だけ小さくうなずいた。


「予定より早く見つかったけど、問題ない。入って」


そして、緒山も振り返った。

その顔には一瞬だけ驚きが走った。

けれど、それはすぐにやわらかな笑みに変わる。

琥珀色の瞳には、静かでやわらかな光が滲んでいた。


「先輩、いらっしゃい」


その声は、いつものように軽やかだった。


「“スターライト計画”はちょっとしたトラブルがあったけど――肝心なところは変わらないですよ。十八歳、おめでとうございます」


胸の奥へ、何かあたたかいものが一気に流れ込んでくる。

ここ数日胸に溜まっていた重たさも、疑いも、いっぺんに崩れていった。

言葉が出なかった。


「……みんな」


そこでようやく、口が動いた。


「……ほんと、なんていうか」


それ以上は、どうしても続かなかった。

結局、笑うしかなかった。


照れくささと安堵が、うまく言葉にならないまま胸の中で混ざり合う。

石原はそのまま、抗うこともできず、その温かさの流れに身を任せた。


ろうそくを立てて、願いごとをして、みんなのカウントが始まった。

そして石原は、みんなの数える声に合わせて火を吹き消した。

次の瞬間、拍手が弾け、室内の空気は一気に明るくなる。


「でさー」


杏は両手を腰に当てて、石原の前に立った。

その顔には、にやにやした笑みが浮かんでいた。


「お兄ちゃん、この数日ずっとさ。『杏が恋してる』とか、『あのお菓子は誰に渡すんだ』とか、『水曜に何があるんだ』とか、頭の中で勝手に推理劇場くり広げてたでしょ?」


――図星だった。

言葉が出ない。

耳まで熱くなっていた。


「やっぱり!」


立花は思わず吹き出して、そのまま楽しそうに笑いだした。


「先輩、そのときの顔ほんとすごかったです! なんか事件でも追ってるみたいに真剣で、絶対頭の中ですっごい推理劇場やってましたよね!」


春野が肩を組んできた。笑いをこらえきれていない顔のままで。


「石原、お前の頭ん中のドラマ、相当濃かっただろ。で、その想像上の“男主役”、俺よりイケメンだったか?」


「……お前ら、もういい」


石原は額を押さえる。

恥ずかしさはあった。だが――


(……まあ、いいか)


胸の奥に溜まっていたものが、すっと抜けていくような心地だった。


そのあと、みんなでケーキを取り分けた。

その途中で、春野がふと立花のほうを見た。


「立花、その服いいな。似合ってる」


それは、石原が以前選んだ淡い青のワンピースだった。


「え、あ……ありがとうございます。これ、先輩にもらったやつで……」


立花はそっと裾へ目を落とし、少し頬を染めながら、感謝するように石原のほうを見る。


「へえー、お兄ちゃんが? そんなセンスあったんだ、意外すぎ」


杏は興味津々で覗き込んだ。


「美里ちゃん、それさ、“あれ”で出したやつじゃないよね? 今日こそ正直に言ってよ、ちゃんと本物?」


それは軽い冗談のつもりだった。だが――


立花の動きが止まった。

視線が、するりとスカートへ落ちた。

その裾を指先でつまみ、布の感触を確かめるように撫でた。


「……朝、クローゼットから出して、そのまま着てきたの」


立花はそう小さくつぶやいた。

それから、ゆっくりと顔を上げる。

その目には、少し不思議そうな、ぼんやりとした戸惑いが浮かんでいた。


「出す……? 最近、そういうふうに“服を出そう”って、考えてなかったかも」


その声は、そこでふっと落ちた。

そしてその沈黙のあとに、何かへ気づいたような色が、ゆっくりと彼女の表情に広がっていった。


石原が静かに問いかけた。


「……もう、“あれ”は感じないのか。瞬間的に着替える、あの力は」


立花は目を閉じた。

体の内側にある見えない何かを探すように。

――けれど、そこにはもう何もなかった。


やがて、立花は目を開けた。

もう一度、指先でワンピースの布をつまんだ。

そして、ゆっくりとうなずいた。


「うん。もう、ない。使ってないんじゃなくて……使えないの」


立花は一拍置いてから、


「……あの“スイッチ”みたいなものが、ほんとうになくなっちゃったんだと思う」


その声は、驚くほどはっきりしていた。


立花は自分の手を見つめた。

それから、ふっと笑う。

その笑みには、少しだけ寂しさも、わずかな戸惑いも混じっていた。けれど、それ以上に強かったのは、肩の力が抜けたような穏やかな軽さだった。


「……そっか。もう、いなくなったんだ」


そう言って、立花は顔を上げた。

まっすぐ石原を見る。

その表情には、やわらかくて、まっすぐな笑みが浮かんでいた。


「それでいい」


石原は静かにコップを持ち上げた。


「おめでとう、立花さん。……今日、それを着てきてくれて、ありがとう」


「おめでとう!」


みんなの声が重なった。


それは、ただの喪失なんかじゃなかった。

欠け落ちたものではなく、ちゃんと癒えて、役目を終えたものだった。


立花は照れたように目を伏せた。


「なんだか……私まで誕生日みたいですね」


和やかな空気の中で、石原はふと緒山へ目を向けた。

緒山は静かに立花を見ている。

その表情には、どこか安堵したような色が浮かんでいた。


そのとき、不意に――


「でもさ~、さっきの話に戻るけど」


杏が急に声色を変えた。

くるくるとよく動く目が、いたずらっぽく緒山へ向いた。


「いちばんの“立役者”って、やっぱりあの人じゃない?」


緒山はケーキをひと口食べたところで、顔を上げた。


「ん?」


「朋奈さんだよ!」


杏はその腕にぎゅっと抱きつき、わざとらしくみんなに聞こえる声で言い立てた。


「“愛の味だね~”なんて言って、お兄ちゃんを変に勘違いさせたの誰? ずっと意味ありげに笑ってたの誰? 全部知ってたくせに、一緒になって悩ませて、しかもそれっぽい説明までしてたの誰?」


問いつめられるたびに、緒山の笑みは深くなっていった。

やがて、緒山はあっさりと肩をすくめる。


「ばれちゃったか~。でも、先輩にちょっとくらい勘違いしてもらったほうが、あとで驚きも大きくなるでしょ?」


そう言って、石原のほうを見た。


「それにさ、先輩があたふたしてるの、ちょっと面白かったし~」


「……緒山さん」


思わずため息がこぼれた。

だが、不思議と責める気にはなれなかった。

あれがあったからこそ、今がある。


「でもさ~」


杏が今度はぐいっと顔を寄せた。

ひそひそ声のつもりらしいのに、しっかり全員に聞こえていた。


「朋奈さん、そんなに頑張ってたのって、本当にサプライズのためだけ? それともさ……悩んでるお兄ちゃんと、ちょっとゆっくり話したかったとか?」


そのひと言で、一瞬だけ空気が止まった。

緒山の耳の先が、目に見えてほんのり赤くなった。


「ちょっと、杏ちゃん……」


そう言って、緒山は杏の手の甲を軽くぺしっと叩いた。


「それ、私にまでやるの?」


口ではそう言いながらも、笑みは崩れない。

そこに、ほんの少しだけ照れが混じっていた。

緒山は否定しなかった。

そのまま、何事もなかったみたいに話題を戻した。


「はいはい、主役優先~。先輩、ケーキおかわりいりますか?」


その声音は、あくまでさりげなかった。

止まっていた空気も、そこでようやく元に戻った。


石原はそのやり取りを黙って見ていた。

――さっきまで胸に引っかかっていた違和感が、ここで別の意味を帯びはじめる。


やけに距離が近かったこと。

言いかけてやめたこと。

含みを持たせた言い方。


思い当たる節が、ひとつに繋がった。


(……そういうことか)


胸のあたりが、少しだけ熱くなった。


「お兄ちゃん、ぼーっとしてないで!」


杏の声で、意識が引き戻される。

差し出されたケーキ皿を受け取った。


ケーキは、甘かった。

しかも、さっき食べたときよりずっと。


生徒会室は笑い声で満ちていた。

石原は、そのあたたかな空気の中に身を置いたまま、しばらく何も考えなかった。


――十八歳の始まりは、思っていたよりも、ずっと明るかった。


そのときだった。

廊下の奥で、人影が一瞬だけ足を止めた。

けれど、それはすぐに視界の外へ消える。

もちろん、石原はそれに気づかなかった。


その一方で――


誰も見ていない隙に、緒山はそっと窓際まで下がっていた。

ポケットからスマホを取り出し、さっきの光景をそっと写真に収める。

それから、リストアプリを開いた。


「誕生日サプライズ、成功」


その項目に、そっとチェックを入れた。


その瞬間、少しだけ口元が上がる。

けれど、その笑みはすぐに消えた。

スマホの光が、緒山の横顔を静かに照らしていた。

まだチェックの入っていない項目が、いくつか残っている。


窓の外は、もう夕暮れだった。

まだ終わっていないものだけが、静かに残っていた。


---


誕生日会の余韻は、すぐには消えず、それは数日かけて、ようやく静まっていった。


石原の日常も、どこかやわらかく変わっていた。

杏はもう、妙な隠し事をしていない。

生徒会も、いつもの空気に戻っていた。


石原は放課後の廊下を歩いていた。

足取りは軽い。

以前は気になっていたざわめきも、その日は少し違って聞こえた。


(……落ち着いた、か)


そんな感覚があった。

だが――静まったぶんだけ、今度は別のものが浮かび上がってきた。

意識しなくても、勝手に拾ってしまう。

そういう“癖”みたいなものは、まだ消えていなかった。


そして、その日の夕方。

違和感は、あまりにも突然だった。


当番のせいで、少し遅くなっていた。

校舎には、もうほとんど人がいない。

夕焼けが、廊下を赤く染めていた。


石原が曲がり角に差しかかったときだった。

前から、見覚えのない男子生徒が歩いてくる。

たぶん、同学年くらいだろう。

俯いたまま、石原の横をすれ違っていった。


――その一瞬。

視界の端に、何かが引っかかった。


(……あのときの違和感)


【欠損した混乱ラベル】


それは、はっきり見えた。

普通の感情ラベルじゃない。

あの感覚だった。


(……似てる)


緒山に見えていた、あの読み取れない異常なものと、よく似ていた。

いや――むしろ、あれよりもっと荒れて見える。


心臓が大きく跳ねた。

思わず足が止まった。

反射的に振り返った。


そこにはもう誰もいない。

指先がすっと冷えた。


(……今のは)


その瞬間、思考がつながった。

緒山。立花。二人のまわりにあった、あの読み取れなかったもの。

立花から消えた力。

そして、今見たあれ。


(……同じなのか?)


さっきまでの穏やかさが、少しずつ剥がれ落ちていった。

冷たいものが、じわりと内側に残る。


夕暮れは、さらに濃くなっていた。

ひとり立ち尽くす影が、どこかぼやけて見える。


石原は、ゆっくり息を吸って、そのまま歩き出した。


足取りは、見た目には変わらない。

ただ、視線だけが少し上を向いていた。


教室。木々。帰っていく生徒たち。

そのひとつひとつを、静かに目で追っていった。

広く、けれど薄く。何も見落とさないように。


石原は、濃くなる夕暮れの中を歩いた。

その胸の奥では――わずかな光だけが、消えずに残っていた。

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