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見える感情、見えないまま  作者: 颍川
第九章 観察——妹の恋物語?
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第四十三話

---


その後の数日間。

生徒会室には、どこか引っかかるような空気が残り続けた。


そして金曜日の昼。


昼休み、石原がドアを開けた瞬間――

甘くて、ほんのりビターなカカオの香りが流れ込んできた。


「ちょうどいいところに来たな、石原!」


春野が、小さなカップケーキを掲げて手を振った。


「立花の手作りだ。今日は試食会!」


部屋の中央のテーブルは片付けられ、いくつかの箱が並んでいる。

中には、形の違うチョコレート菓子がきれいに詰められていた。


立花は制服姿のまま、そのそばに立っていた。

少しだけ緊張した顔で、様子をうかがっていた。


花野はすでにブラウニーを一つ手に取り、小さく口に運んでいる。

表情はいつも通り、ほとんど動かなかった。


そして――


緒山は、スマホを構えていた。

角度を変えながら、真剣な顔で撮影している。

まるで記録でも取っているかのようだった。


「立花さん、それ……君が作ったのか?」


石原は少し意外だった。

家庭科が得意なのは知っていたが、ここまでのものは見たことがない。


「は、はい!」


立花は強くうなずいた。

だが視線は合わなかった。


「その……友達と一緒に考えたレシピで。

“ちょっとビター寄り”の大人っぽい味にしたいって言ってて……でも苦すぎるのはダメだから、バランス見たくて」


言いながら、ちらっと緒山のほうを見た。


【立花美里の感情:期待60、緊張40】


――ビター寄り。


胸の奥で、小さく引っかかった。


先日のメモが、よぎった。


(……杏とだろうか)


「……一個もらう」


石原は手近なマドレーヌを取った。

一口。


チョコのコクが広がる。

甘さは控えめ。苦味が立っている。

だが、きつくない。後味は軽い。


「どうですか?」


立花が一歩近づいてきた。

視線がまっすぐ向けられた。


「……うまい」


正直に答えた。


「苦味はあるけど、きつくない。センスがいいと思う」


一拍置いた。


「……で、その“友達”って、杏か?」


「えっ――」


反応が速すぎた。


「ち、違……いや、その……!」


口元を押さえた。

明らかに動揺していた。


――ほぼ確定だ。


胸の中で、何かが固まった。


「先輩、そのへんで~」


緒山が横から入ってきた。

いつもの笑顔だった。


「女の子同士でお菓子作るの、そんな珍しくないでしょ?」


軽く言いながら、自分も一つつまんだ。

一口食べて、目を細めた。


「うん、いい感じ~。これ、ちゃんと“気持ち”入ってる味だね」


そして、ふっと笑った。


「……愛、って感じ?」


手で口元を押さえながら、少し大げさに言った。


スマホを軽く振った。

画面には、さっきの写真とメモが映っていた。


「――愛?」


石原と立花の声が、同時に重なった。


石原には、納得に近い感覚と、嫌な予感があった。

立花は、完全にパニックだった。


「ち、違う違う違う! そういうのじゃなくて!

友達としての、その……気持ちっていうか! 思いやり! うん、そう、思いやりだから!」


言葉が絡まった。

その場で小さく足を踏んだ。


また緒山を見る。


緒山は、口元を緩めたまま、楽しそうに眺めていた。

ほんの少しだけ、悪戯っぽい目をしている。


(……わざとか)


石原は、そう思った。


「ごめんごめん、言い方がちょっとね~」


緒山は軽く舌を出して、言い直した。


「“気持ちがこもってる”って意味だよ。

だってさ、相手の好みに合わせてここまで考えてるんでしょ? それだけで十分すごいよね」


そのまま視線を向けてきた。


「ね、先輩?」


――逃げ場を塞がれた。


石原は、立花を見た。

顔を真っ赤にして、今にも沈みそうだった。


緒山は、笑っていた。


(……もういい)


だいたい、見えた。


言葉に出す必要はなかった。


「……味はいい」


それだけ言った。


「それ以外は――」


少しだけ間を置いた。


「……自分たちでわかってればいい」


それ以上は踏み込まなかった。


立花にとっては、許されたようにも聞こえただろう。

石原自身にとっては――


(……深入りしない)


ただ、それだけだった。


「よし、試食会終了ー!」


春野が手を叩いた。


「これなら、絶対喜ばれるだろ。な?」


軽く場を流すように続けた。


「しかし、もう来週の水曜か。早いな」


壁のカレンダーを見上げた。


「そういえば~」


緒山が箱を片付けながら、何気なく言った。


「先輩、来週の水曜さ。放課後、ちょっと残れますか?

生徒会のことで、軽く確認したいことあるかも」


口調は軽い。

いつも通りの雑談の延長みたいだった。


石原は少しだけ考えて、うなずいた。


「……わかった」


試食会は終わり、それぞれが動き出した。


石原も教室へ戻る途中、息を吐いた。


甘さの残る口の中とは裏腹に、気分は軽くならなかった。


(……考えすぎか)


頭を振った。


それでも、引っかかりは消えなかった。


---


【六月十四日・金曜日・夜】


夕食の湯気が、二人のあいだにかすかに立ちのぼっていた。


石原はご飯を噛みしめていたが、味はほとんどしなかった。

視線はどうしても、向かいにいる杏のほうへ引き寄せられてしまう。


杏はいつもより少し早いペースで食べていた。

口元に少しだけたれがついているのにも気づかないまま、心はどこか別のところへ飛んでいるようだった。

ときおり、箸で茶碗のご飯を軽くつついてはかすかな音を立て、そのたびにはっと我に返ったように、慌てて二、三口かきこんでいた。


「……杏」


とうとう、石原は堪えきれずに口を開く。

静かな食卓では、その声が少しだけ浮いた。


「ん? どうしたの?」


顔を上げた杏の目は、きらきらと明るかった。

そこには、最近ますます見慣れてきた、秘密にそっと灯をともされたような輝きが宿っている。


「最近……」


言葉を選びながら、箸で玉子焼きをつまんだまま、なかなか口へ運べなかった。


「学校で、何か特別なことはなかったか。……それか、新しく知り合った面白いやつとか」


遠回しに聞いた。

それでも、胸の奥は場違いなくらいにわずかに締めつけられる。


「え?」


杏はぱちりと瞬きをしてから、ぱっと花が咲くように笑った。


「楽しいことならいっぱいあるよ! たとえばね、今日は美里ちゃんが超〜おいしいお菓子のレシピを教えてくれたし、手芸部の先輩も新しい縫い方を教えてくれたし、それに――」


明るい声で、楽しそうに並べていく。

――その途中で、ほんの一瞬だけ言葉が途切れた。視線が、わずかに泳いだ。


【石原杏の感情:喜び65、警戒25、高揚10】


……警戒。


胸の奥に、かすかに刺さる。


「……あ、でも別に大したことじゃないよ!」


念を押すように、杏はぶんぶんと首を振った。


「ほんと、ただの普通の学校生活だよ! お兄ちゃん、もう子ども扱いしないでよ。私だって高校生なんだから!」


少し拗ねて、それでいてどこか甘えるような声だった。

いつもなら、ここで笑って終わっていたはずなのに。


(……高校生、か)


その言葉だけが、妙に残った。


「……そうか」


石原は視線を落とし、冷めてしまった玉子焼きを口に運んだ。

口の中に広がったのは、ぼんやりとした塩気だけだった。


「……何かあったら、いつでも俺に言え。手伝えることがあるなら手を貸すし、話したいことがあるなら、いつでも聞く」


何度も口にしてきた言葉だ。

以前なら、妹はすぐに飛びついてきて、悩みも不満も一息に吐き出してくれた。


――けれど、今は違う。


その言葉は、どこにも届かないまま、ただ残るだけだった。


「うん、わかってる! お兄ちゃんがいちばんだよ!」


返事は早く、妙に明るかった。

笑顔も変わらない。


けれど、その視線はほんの一瞬だけ揺れて、彼の目をそっと避けた。


【石原杏の感情:感謝20、後ろめたさ15、緊張65】


残っていたご飯を急いでかきこんだ。


「ごちそうさま! 今日はちょっと課題が多くてさ、先に部屋戻るね!」


弾むように立ち上がる。

茶碗と箸がかすかに触れ、小さな音を立てた。


そのまま、するりとキッチンへ消えていく。

ほどなく水の音がして、すぐに止んだ。

続いて、部屋のドアがかちりと閉まる音がした。


食卓は、唐突なほど静かになった。


石原は、一人きりになった食卓の前に座ったままだった。

ゆっくりと箸を置き、背もたれに身体を預ける。

小さく、ひとつため息がこぼれた。


(……離れていく)


はっきりと、そう思った。


見えている。

けれど、もう手は届かない。


前と同じ距離じゃない。


それでいい。そうあるべきなのだろう。


それでも、胸の奥に残るものがあった。

空いたような、引っかかるような、苦い感覚。


(……誰なんだ)


顔も知らない相手へと、思考が向いた。


大丈夫なのか。

ちゃんと信頼できる相手なのか。

杏を泣かせたりしないか。


考えても答えは出ない。

それでも、どうしても落ち着かなかった。


「……」


石原は目を閉じた。


兄として、考えすぎるな。

近づきすぎるな。


そのまま、最後のため息を胸の奥へ押し戻した。


食卓のあたたかな灯りが、静かに彼ひとりの影だけを照らしていた。


数日後に来る、あの“大事な日”。

それはもう、楽しみに待つようなものではなかった。


ただ――

目を逸らしたくなるような何かに、変わっていた。

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