第四十三話
---
その後の数日間。
生徒会室には、どこか引っかかるような空気が残り続けた。
そして金曜日の昼。
昼休み、石原がドアを開けた瞬間――
甘くて、ほんのりビターなカカオの香りが流れ込んできた。
「ちょうどいいところに来たな、石原!」
春野が、小さなカップケーキを掲げて手を振った。
「立花の手作りだ。今日は試食会!」
部屋の中央のテーブルは片付けられ、いくつかの箱が並んでいる。
中には、形の違うチョコレート菓子がきれいに詰められていた。
立花は制服姿のまま、そのそばに立っていた。
少しだけ緊張した顔で、様子をうかがっていた。
花野はすでにブラウニーを一つ手に取り、小さく口に運んでいる。
表情はいつも通り、ほとんど動かなかった。
そして――
緒山は、スマホを構えていた。
角度を変えながら、真剣な顔で撮影している。
まるで記録でも取っているかのようだった。
「立花さん、それ……君が作ったのか?」
石原は少し意外だった。
家庭科が得意なのは知っていたが、ここまでのものは見たことがない。
「は、はい!」
立花は強くうなずいた。
だが視線は合わなかった。
「その……友達と一緒に考えたレシピで。
“ちょっとビター寄り”の大人っぽい味にしたいって言ってて……でも苦すぎるのはダメだから、バランス見たくて」
言いながら、ちらっと緒山のほうを見た。
【立花美里の感情:期待60、緊張40】
――ビター寄り。
胸の奥で、小さく引っかかった。
先日のメモが、よぎった。
(……杏とだろうか)
「……一個もらう」
石原は手近なマドレーヌを取った。
一口。
チョコのコクが広がる。
甘さは控えめ。苦味が立っている。
だが、きつくない。後味は軽い。
「どうですか?」
立花が一歩近づいてきた。
視線がまっすぐ向けられた。
「……うまい」
正直に答えた。
「苦味はあるけど、きつくない。センスがいいと思う」
一拍置いた。
「……で、その“友達”って、杏か?」
「えっ――」
反応が速すぎた。
「ち、違……いや、その……!」
口元を押さえた。
明らかに動揺していた。
――ほぼ確定だ。
胸の中で、何かが固まった。
「先輩、そのへんで~」
緒山が横から入ってきた。
いつもの笑顔だった。
「女の子同士でお菓子作るの、そんな珍しくないでしょ?」
軽く言いながら、自分も一つつまんだ。
一口食べて、目を細めた。
「うん、いい感じ~。これ、ちゃんと“気持ち”入ってる味だね」
そして、ふっと笑った。
「……愛、って感じ?」
手で口元を押さえながら、少し大げさに言った。
スマホを軽く振った。
画面には、さっきの写真とメモが映っていた。
「――愛?」
石原と立花の声が、同時に重なった。
石原には、納得に近い感覚と、嫌な予感があった。
立花は、完全にパニックだった。
「ち、違う違う違う! そういうのじゃなくて!
友達としての、その……気持ちっていうか! 思いやり! うん、そう、思いやりだから!」
言葉が絡まった。
その場で小さく足を踏んだ。
また緒山を見る。
緒山は、口元を緩めたまま、楽しそうに眺めていた。
ほんの少しだけ、悪戯っぽい目をしている。
(……わざとか)
石原は、そう思った。
「ごめんごめん、言い方がちょっとね~」
緒山は軽く舌を出して、言い直した。
「“気持ちがこもってる”って意味だよ。
だってさ、相手の好みに合わせてここまで考えてるんでしょ? それだけで十分すごいよね」
そのまま視線を向けてきた。
「ね、先輩?」
――逃げ場を塞がれた。
石原は、立花を見た。
顔を真っ赤にして、今にも沈みそうだった。
緒山は、笑っていた。
(……もういい)
だいたい、見えた。
言葉に出す必要はなかった。
「……味はいい」
それだけ言った。
「それ以外は――」
少しだけ間を置いた。
「……自分たちでわかってればいい」
それ以上は踏み込まなかった。
立花にとっては、許されたようにも聞こえただろう。
石原自身にとっては――
(……深入りしない)
ただ、それだけだった。
「よし、試食会終了ー!」
春野が手を叩いた。
「これなら、絶対喜ばれるだろ。な?」
軽く場を流すように続けた。
「しかし、もう来週の水曜か。早いな」
壁のカレンダーを見上げた。
「そういえば~」
緒山が箱を片付けながら、何気なく言った。
「先輩、来週の水曜さ。放課後、ちょっと残れますか?
生徒会のことで、軽く確認したいことあるかも」
口調は軽い。
いつも通りの雑談の延長みたいだった。
石原は少しだけ考えて、うなずいた。
「……わかった」
試食会は終わり、それぞれが動き出した。
石原も教室へ戻る途中、息を吐いた。
甘さの残る口の中とは裏腹に、気分は軽くならなかった。
(……考えすぎか)
頭を振った。
それでも、引っかかりは消えなかった。
---
【六月十四日・金曜日・夜】
夕食の湯気が、二人のあいだにかすかに立ちのぼっていた。
石原はご飯を噛みしめていたが、味はほとんどしなかった。
視線はどうしても、向かいにいる杏のほうへ引き寄せられてしまう。
杏はいつもより少し早いペースで食べていた。
口元に少しだけたれがついているのにも気づかないまま、心はどこか別のところへ飛んでいるようだった。
ときおり、箸で茶碗のご飯を軽くつついてはかすかな音を立て、そのたびにはっと我に返ったように、慌てて二、三口かきこんでいた。
「……杏」
とうとう、石原は堪えきれずに口を開く。
静かな食卓では、その声が少しだけ浮いた。
「ん? どうしたの?」
顔を上げた杏の目は、きらきらと明るかった。
そこには、最近ますます見慣れてきた、秘密にそっと灯をともされたような輝きが宿っている。
「最近……」
言葉を選びながら、箸で玉子焼きをつまんだまま、なかなか口へ運べなかった。
「学校で、何か特別なことはなかったか。……それか、新しく知り合った面白いやつとか」
遠回しに聞いた。
それでも、胸の奥は場違いなくらいにわずかに締めつけられる。
「え?」
杏はぱちりと瞬きをしてから、ぱっと花が咲くように笑った。
「楽しいことならいっぱいあるよ! たとえばね、今日は美里ちゃんが超〜おいしいお菓子のレシピを教えてくれたし、手芸部の先輩も新しい縫い方を教えてくれたし、それに――」
明るい声で、楽しそうに並べていく。
――その途中で、ほんの一瞬だけ言葉が途切れた。視線が、わずかに泳いだ。
【石原杏の感情:喜び65、警戒25、高揚10】
……警戒。
胸の奥に、かすかに刺さる。
「……あ、でも別に大したことじゃないよ!」
念を押すように、杏はぶんぶんと首を振った。
「ほんと、ただの普通の学校生活だよ! お兄ちゃん、もう子ども扱いしないでよ。私だって高校生なんだから!」
少し拗ねて、それでいてどこか甘えるような声だった。
いつもなら、ここで笑って終わっていたはずなのに。
(……高校生、か)
その言葉だけが、妙に残った。
「……そうか」
石原は視線を落とし、冷めてしまった玉子焼きを口に運んだ。
口の中に広がったのは、ぼんやりとした塩気だけだった。
「……何かあったら、いつでも俺に言え。手伝えることがあるなら手を貸すし、話したいことがあるなら、いつでも聞く」
何度も口にしてきた言葉だ。
以前なら、妹はすぐに飛びついてきて、悩みも不満も一息に吐き出してくれた。
――けれど、今は違う。
その言葉は、どこにも届かないまま、ただ残るだけだった。
「うん、わかってる! お兄ちゃんがいちばんだよ!」
返事は早く、妙に明るかった。
笑顔も変わらない。
けれど、その視線はほんの一瞬だけ揺れて、彼の目をそっと避けた。
【石原杏の感情:感謝20、後ろめたさ15、緊張65】
残っていたご飯を急いでかきこんだ。
「ごちそうさま! 今日はちょっと課題が多くてさ、先に部屋戻るね!」
弾むように立ち上がる。
茶碗と箸がかすかに触れ、小さな音を立てた。
そのまま、するりとキッチンへ消えていく。
ほどなく水の音がして、すぐに止んだ。
続いて、部屋のドアがかちりと閉まる音がした。
食卓は、唐突なほど静かになった。
石原は、一人きりになった食卓の前に座ったままだった。
ゆっくりと箸を置き、背もたれに身体を預ける。
小さく、ひとつため息がこぼれた。
(……離れていく)
はっきりと、そう思った。
見えている。
けれど、もう手は届かない。
前と同じ距離じゃない。
それでいい。そうあるべきなのだろう。
それでも、胸の奥に残るものがあった。
空いたような、引っかかるような、苦い感覚。
(……誰なんだ)
顔も知らない相手へと、思考が向いた。
大丈夫なのか。
ちゃんと信頼できる相手なのか。
杏を泣かせたりしないか。
考えても答えは出ない。
それでも、どうしても落ち着かなかった。
「……」
石原は目を閉じた。
兄として、考えすぎるな。
近づきすぎるな。
そのまま、最後のため息を胸の奥へ押し戻した。
食卓のあたたかな灯りが、静かに彼ひとりの影だけを照らしていた。
数日後に来る、あの“大事な日”。
それはもう、楽しみに待つようなものではなかった。
ただ――
目を逸らしたくなるような何かに、変わっていた。




