第四十二話
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午後の陽射しが校舎の中へ斜めに差し込み、廊下を明暗の帯に切り分けていた。
石原は二年C組の後ろ扉の脇に寄り、壁にもたれていた。
指先で、無意識に制服の袖ボタンをなぞる。
放課後のチャイムから、もう二十分。
人の流れは途切れかけ、遠くの部活動のざわめきだけが、かすかに残っていた。
――緒山さんを待っていた。
朝からの引っかかりが、胸の奥で絡まったままだ。
ほどこうとしても、うまくほどけなかった。
こういう話を誰かに振るとしたら――
なぜか最初に浮かんだのが、緒山さんだった。
(杏に直接聞くのは論外……春野は面白がるだけだ……花野さんは鋭すぎる。立花は……)
石原は小さく首を振った。
立花は、むしろこっちが気を遣う側だった。
消去法で残るのは一人。
緒山さんなら、必要なところだけきちんと拾い上げてくれる。
軽く見えて、外さない。
――それに。
(……頼りすぎか)
胸の奥に、わずかな引っかかりが残った。
だが、それ以上は考えるのをやめた。
足音が近づいてきた。
軽くて、聞き慣れたリズム。
廊下の角から姿を現した緒山は、彼を見るなり、目を細めて笑った。
「や、先輩~。待ってたんですか? 珍しいですね」
小走りで近づいてきた。
揺れる髪が、光を受けてきらめく。
「もしかしてやっと気づきました? 可愛い後輩と一緒に帰りたいな~って」
いつもの調子の軽口だった。
【緒山朋奈の感情:喜び43@$#】
……まただ。
末尾に、わずかな乱れがあった。
「まあ、そんなところだ。……聞きたいことがある。杏のことだ」
石原は視線を外し、そのまま切り出した。
「杏ちゃん?」
緒山の表情が、すっと変わる。
軽さが引いて、まっすぐな関心が残った。
「どうしたの? 何かあった?」
「いや、そこまでのことじゃない」
言葉を選びながら、朝からの違和感を一つずつ並べていった。
話しているうちに、眉間に力が入っているのに気づかなかった。
声にも、余計な硬さが混じっていた。
「……で、だ。杏は、その……」
一度言葉を切る。
喉の奥で引っかかった。
「……好きなやつでもできたのかな。誰かのために、何か用意してるとか」
言い終えて、緒山を答えを待つように、じっと見た。
緒山は黙って聞いていた。
胸元に垂れた髪を、指先でくるくると弄ぶ。
話が終わると、わずかに目を見開き――
次の瞬間、小さく吹き出した。
「……あは、そっか。先輩、それで心配してたんだ」
どこか、納得したような笑い方だった。
石原は、少し居心地が悪くなった。
「他に理由があるか? あれだけ変われば、普通そう考えるだろ」
「うーん、理由ならいくらでもありますよ?」
緒山は指を一本立てて、軽く振った。
困った人だな、というような顔で笑う。
「例えば、仲いい子の誕生日とか。サプライズしたいとか。
それに、急にちょっと違う自分を試してみたくなることもあるし」
少し首を傾げた。
「女の子ってね、先輩が思ってるより複雑だったりするけど……逆に、びっくりするくらい単純なこともあるんですよ?」
言い方は軽い。
でも筋は通っていた。
石原の中の仮説が、少し揺れた。
「……でも、“来週の水曜”って具体的すぎる」
まだ引っかかっていた。
「水曜? それなら、図書委員の活動かもだし、友達と新しいお店に行く約束かもしれないですよ?」
緒山はさらりと答えた。
迷いはなかった。
「先輩、ちょっと考えすぎてません? そんなとこまで気にするタイプじゃなかったでしょ」
軽く笑いながら言われて、石原は言葉を詰まらせた。
確かに、前なら見過ごしていた。
細かい変化なんて、気にもしなかったはずだ。
(……なんでだ)
考えかけた。
だが、その前に。
緒山が少しだけ声を落とした。
「それにね、先輩」
さっきよりも柔らかい声だった。
「誰かのために何か準備したり、自分を変えようとしたり……そういうのってさ……必ずしも恋愛とは限らないですよ」
ほんの一瞬、視線が遠くへ向いた。
「大事な人のために、何かしてあげたいとか。
自分なりに頑張りたいとか」
ゆっくりと言葉を重ねた。
「そういう気持ちだけでも、十分理由になりますよ。
思い出に残したいとか、喜んでほしいとか……そういうのって、すごく大事だし」
【緒山朋奈の感情:懐古31*&%#】
石原は、言葉を失う。
一瞬だけ。
輪郭が、揺らいだ気がした。
まばたきをした。
次に見たときには、何も変わっていなかった。
(……気のせいか)
「先輩?」
緒山がこちらを覗き込んだ。
「どうしたんですか? ぼーっとしてる」
「いや、なんでもない」
すぐに否定した。
さっきの違和感は、疲れのせいにしておいた。
「……たぶん、考えすぎだな」
息を抜いた。
胸に引っかかっていたものが、少しだけほどけた。
杏はただ、友達のために何かを用意しているだけかもしれない。
そこに勝手に意味を重ねていた自分のほうが、どうかしていたのかもしれない。
「でしょ?」
緒山は嬉しそうに笑った。
「だから、そんなに心配しなくて大丈夫ですよ。杏ちゃん、しっかりしてるし」
少し身を乗り出した。
「それより、当日になったら、杏ちゃんに用意したお菓子の味を聞いてみればいいんじゃない?」
軽くウインクした。
張り詰めていた空気が、ふっと緩んだ。
「……それもそうだな」
石原の口元も、わずかに緩んだ。
肩の力が抜けていくのがわかった。
緒山は両手を後ろに回し、少しだけ体を前に傾けた。
「じゃ、帰りましょうか?」
「……ああ」
並んで歩き出した。
階段へ向かう途中、夕陽が二人の影を長く引き伸ばした。
影が、ゆっくり重なった。
「そうだ、先輩」
階段を下りながら、緒山が何気なく言った。
「来週の水曜って、何日でしたっけ? 予定メモるの忘れてて」
「十九日」
間を置かず答えた。
「そっか……十九日か」
小さく繰り返してから、顔を上げた。
「いい日になりそうだね。天気、晴れらしいよ」
声は、いつも通り明るかった。
石原はその隣を歩きながら、少しだけ気が軽くなっていた。
妹のことも、さっきまでほど気にはならなかった。
――そう思っていた。
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【六月十日・月曜日・夜】
夕食の空気は、朝よりずっと軽かった。
杏はもういつもの調子に戻っていて、学校の出来事を楽しそうに話していた。
「美里ちゃん、ほんとすごいんだよ! 学校でもよく助けてくれて、すっごく頼りになるの~」
目をきらきらさせたあと、ふと思い出したように兄のほうをちらっと見た。
「……もちろん、お兄ちゃんも頼りになるけどね」
石原はそれを聞きながら、胸の奥にあった重さが、ようやく抜けていくのを感じる。
――やっぱり、考えすぎだったか。
緒山さんの言う通りだった。
目の前にいるのは、いつも通りの明るい妹だ。
食後、杏が食器を片づけているのを見て、ふと思い出した。
――「当日になったら、杏ちゃんに用意したお菓子の味を聞いてみればいいんじゃない?」
ちょうどいい。
石原は軽く咳払いをして、できるだけ自然な調子で声をかけた。
「そういえば杏、最近なんか見てるのか? お菓子とか」
――その瞬間。
テーブルを拭いていた手が、ぴたりと止まった。
顔は上げなかったが、耳の先が一気に赤くなった。
【石原杏の感情:動揺58、後ろめたさ32、その他10】
「えっ……お、お菓子?」
声が、わずかに浮いていた。
「なんで急に……あはは、別に、ちょっと見てただけだよ。レシピサイトに出てきてさ」
……不自然だった。
普通に友達に作るだけなら、ここまで崩れはしない。
「そうか」
胸の奥で、また何かが引っかかる。
石原は、あえて軽く続けた。
「結構こだわってそうだったな。抹茶とか、ビター系か? 誰かに食べさせるのか。立花さんにでも」
「ち、違う! 美里ちゃんにじゃない!」
ほとんど反射だった。
言ってから、はっとしたように視線を落とした。
必要以上に力を込めて、もう乾いているテーブルを拭き続けた。
「その……えっと、あ! 自分で試したいだけ! そう、新しい味に挑戦っていうか! ほら、まだ料理うまくないし! 失敗しても……いや、違くて……」
言葉が続かなかった。
目も合わなかった。頬はどんどん赤くなった。
――わかりやすい。
石原の中で、一度引いたはずの疑いが、はっきりした形で戻ってきた。
(……やっぱりか)
さっきまでの安心が、静かに崩れた。
この反応――どう見ても、“隠している”。
(……恋愛だろ、これ)
胸の奥が、わずかに苦くなった。
それは心配か、それとも――
うまく言葉にできない、引っかかる感覚だった。
「……そうか」
それ以上は聞かなかった。
声は、少し低くなっていた。
「なら、頑張れ。味見くらいなら、いつでも付き合う」
自分でもわかるくらい、ぎこちない。
踏み込みきれない距離が、そのまま滲んでいた。
杏はようやく顔を上げた。
その表情を見て、余計に慌てたようだった。
――お兄ちゃんは絶対に何か誤解してる!
でも今は、何を言っても逆効果だと確信する。
「わ、わかった!」
布巾を抱えたまま、逃げるようにキッチンへ向かった。
「洗い物やるね!」
すぐに、水の音が響き始めた。
いつもより強くて速かった。
石原はリビングに残り、その音を聞きながら、眉間を揉んだ。
(……緒山さん)
静かに、息を吐いた。
(……どうやら、そんなに単純な話じゃなかったみたいだ)
指先でスマホをいじった。
生徒会のグループは静まり返っていて、最後のメッセージは、昨日の当番連絡だった。
――なのに。
(何か、ズレてる)
さっきの杏の反応が、頭から離れなかった。
あの慌て方。あの隠し方。
どう考えても、ただ友達のために用意しているだけには見えなかった。
(……緒山さんも、気づいてたか)
ふと、そんな考えが浮かんだ。
(気づいてて、でも、直接俺には言えないだけじゃないか?)
胸の奥が、少し重くなった。
個別のトーク画面を開いた。
指が止まった。
――結局、何も打たずに閉じた。
(……やめておくか)
追いすぎるのも、妙だった。
ソファに体を預けた。
目を閉じた。
(……ちゃんと休もう)




