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見える感情、見えないまま  作者: 颍川
第九章 観察——妹の恋物語?
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第四十二話

---


午後の陽射しが校舎の中へ斜めに差し込み、廊下を明暗の帯に切り分けていた。


石原は二年C組の後ろ扉の脇に寄り、壁にもたれていた。

指先で、無意識に制服の袖ボタンをなぞる。


放課後のチャイムから、もう二十分。

人の流れは途切れかけ、遠くの部活動のざわめきだけが、かすかに残っていた。


――緒山さんを待っていた。


朝からの引っかかりが、胸の奥で絡まったままだ。

ほどこうとしても、うまくほどけなかった。


こういう話を誰かに振るとしたら――

なぜか最初に浮かんだのが、緒山さんだった。


(杏に直接聞くのは論外……春野は面白がるだけだ……花野さんは鋭すぎる。立花は……)


石原は小さく首を振った。

立花は、むしろこっちが気を遣う側だった。


消去法で残るのは一人。


緒山さんなら、必要なところだけきちんと拾い上げてくれる。

軽く見えて、外さない。


――それに。


(……頼りすぎか)


胸の奥に、わずかな引っかかりが残った。

だが、それ以上は考えるのをやめた。


足音が近づいてきた。

軽くて、聞き慣れたリズム。


廊下の角から姿を現した緒山は、彼を見るなり、目を細めて笑った。


「や、先輩~。待ってたんですか? 珍しいですね」


小走りで近づいてきた。

揺れる髪が、光を受けてきらめく。


「もしかしてやっと気づきました? 可愛い後輩と一緒に帰りたいな~って」


いつもの調子の軽口だった。


【緒山朋奈の感情:喜び43@$#】


……まただ。

末尾に、わずかな乱れがあった。


「まあ、そんなところだ。……聞きたいことがある。杏のことだ」


石原は視線を外し、そのまま切り出した。


「杏ちゃん?」


緒山の表情が、すっと変わる。

軽さが引いて、まっすぐな関心が残った。


「どうしたの? 何かあった?」


「いや、そこまでのことじゃない」


言葉を選びながら、朝からの違和感を一つずつ並べていった。


話しているうちに、眉間に力が入っているのに気づかなかった。

声にも、余計な硬さが混じっていた。


「……で、だ。杏は、その……」


一度言葉を切る。

喉の奥で引っかかった。


「……好きなやつでもできたのかな。誰かのために、何か用意してるとか」


言い終えて、緒山を答えを待つように、じっと見た。


緒山は黙って聞いていた。

胸元に垂れた髪を、指先でくるくると弄ぶ。


話が終わると、わずかに目を見開き――

次の瞬間、小さく吹き出した。


「……あは、そっか。先輩、それで心配してたんだ」


どこか、納得したような笑い方だった。


石原は、少し居心地が悪くなった。


「他に理由があるか? あれだけ変われば、普通そう考えるだろ」


「うーん、理由ならいくらでもありますよ?」


緒山は指を一本立てて、軽く振った。

困った人だな、というような顔で笑う。


「例えば、仲いい子の誕生日とか。サプライズしたいとか。

それに、急にちょっと違う自分を試してみたくなることもあるし」


少し首を傾げた。


「女の子ってね、先輩が思ってるより複雑だったりするけど……逆に、びっくりするくらい単純なこともあるんですよ?」


言い方は軽い。

でも筋は通っていた。


石原の中の仮説が、少し揺れた。


「……でも、“来週の水曜”って具体的すぎる」


まだ引っかかっていた。


「水曜? それなら、図書委員の活動かもだし、友達と新しいお店に行く約束かもしれないですよ?」


緒山はさらりと答えた。

迷いはなかった。


「先輩、ちょっと考えすぎてません? そんなとこまで気にするタイプじゃなかったでしょ」


軽く笑いながら言われて、石原は言葉を詰まらせた。


確かに、前なら見過ごしていた。

細かい変化なんて、気にもしなかったはずだ。


(……なんでだ)


考えかけた。


だが、その前に。


緒山が少しだけ声を落とした。


「それにね、先輩」


さっきよりも柔らかい声だった。


「誰かのために何か準備したり、自分を変えようとしたり……そういうのってさ……必ずしも恋愛とは限らないですよ」


ほんの一瞬、視線が遠くへ向いた。


「大事な人のために、何かしてあげたいとか。

自分なりに頑張りたいとか」


ゆっくりと言葉を重ねた。


「そういう気持ちだけでも、十分理由になりますよ。

思い出に残したいとか、喜んでほしいとか……そういうのって、すごく大事だし」


【緒山朋奈の感情:懐古31*&%#】


石原は、言葉を失う。


一瞬だけ。

輪郭が、揺らいだ気がした。


まばたきをした。

次に見たときには、何も変わっていなかった。


(……気のせいか)


「先輩?」


緒山がこちらを覗き込んだ。


「どうしたんですか? ぼーっとしてる」


「いや、なんでもない」


すぐに否定した。

さっきの違和感は、疲れのせいにしておいた。


「……たぶん、考えすぎだな」


息を抜いた。


胸に引っかかっていたものが、少しだけほどけた。


杏はただ、友達のために何かを用意しているだけかもしれない。

そこに勝手に意味を重ねていた自分のほうが、どうかしていたのかもしれない。


「でしょ?」


緒山は嬉しそうに笑った。


「だから、そんなに心配しなくて大丈夫ですよ。杏ちゃん、しっかりしてるし」


少し身を乗り出した。


「それより、当日になったら、杏ちゃんに用意したお菓子の味を聞いてみればいいんじゃない?」


軽くウインクした。


張り詰めていた空気が、ふっと緩んだ。


「……それもそうだな」


石原の口元も、わずかに緩んだ。

肩の力が抜けていくのがわかった。


緒山は両手を後ろに回し、少しだけ体を前に傾けた。


「じゃ、帰りましょうか?」


「……ああ」


並んで歩き出した。


階段へ向かう途中、夕陽が二人の影を長く引き伸ばした。

影が、ゆっくり重なった。


「そうだ、先輩」


階段を下りながら、緒山が何気なく言った。


「来週の水曜って、何日でしたっけ? 予定メモるの忘れてて」


「十九日」


間を置かず答えた。


「そっか……十九日か」


小さく繰り返してから、顔を上げた。


「いい日になりそうだね。天気、晴れらしいよ」


声は、いつも通り明るかった。


石原はその隣を歩きながら、少しだけ気が軽くなっていた。

妹のことも、さっきまでほど気にはならなかった。


――そう思っていた。


---


【六月十日・月曜日・夜】


夕食の空気は、朝よりずっと軽かった。


杏はもういつもの調子に戻っていて、学校の出来事を楽しそうに話していた。


「美里ちゃん、ほんとすごいんだよ! 学校でもよく助けてくれて、すっごく頼りになるの~」


目をきらきらさせたあと、ふと思い出したように兄のほうをちらっと見た。


「……もちろん、お兄ちゃんも頼りになるけどね」


石原はそれを聞きながら、胸の奥にあった重さが、ようやく抜けていくのを感じる。


――やっぱり、考えすぎだったか。


緒山さんの言う通りだった。

目の前にいるのは、いつも通りの明るい妹だ。


食後、杏が食器を片づけているのを見て、ふと思い出した。

――「当日になったら、杏ちゃんに用意したお菓子の味を聞いてみればいいんじゃない?」


ちょうどいい。


石原は軽く咳払いをして、できるだけ自然な調子で声をかけた。


「そういえば杏、最近なんか見てるのか? お菓子とか」


――その瞬間。


テーブルを拭いていた手が、ぴたりと止まった。

顔は上げなかったが、耳の先が一気に赤くなった。


【石原杏の感情:動揺58、後ろめたさ32、その他10】


「えっ……お、お菓子?」


声が、わずかに浮いていた。


「なんで急に……あはは、別に、ちょっと見てただけだよ。レシピサイトに出てきてさ」


……不自然だった。


普通に友達に作るだけなら、ここまで崩れはしない。


「そうか」


胸の奥で、また何かが引っかかる。


石原は、あえて軽く続けた。


「結構こだわってそうだったな。抹茶とか、ビター系か? 誰かに食べさせるのか。立花さんにでも」


「ち、違う! 美里ちゃんにじゃない!」


ほとんど反射だった。


言ってから、はっとしたように視線を落とした。

必要以上に力を込めて、もう乾いているテーブルを拭き続けた。


「その……えっと、あ! 自分で試したいだけ! そう、新しい味に挑戦っていうか! ほら、まだ料理うまくないし! 失敗しても……いや、違くて……」


言葉が続かなかった。

目も合わなかった。頬はどんどん赤くなった。


――わかりやすい。


石原の中で、一度引いたはずの疑いが、はっきりした形で戻ってきた。


(……やっぱりか)


さっきまでの安心が、静かに崩れた。


この反応――どう見ても、“隠している”。


(……恋愛だろ、これ)


胸の奥が、わずかに苦くなった。


それは心配か、それとも――

うまく言葉にできない、引っかかる感覚だった。


「……そうか」


それ以上は聞かなかった。


声は、少し低くなっていた。


「なら、頑張れ。味見くらいなら、いつでも付き合う」


自分でもわかるくらい、ぎこちない。

踏み込みきれない距離が、そのまま滲んでいた。


杏はようやく顔を上げた。

その表情を見て、余計に慌てたようだった。


――お兄ちゃんは絶対に何か誤解してる!

でも今は、何を言っても逆効果だと確信する。


「わ、わかった!」


布巾を抱えたまま、逃げるようにキッチンへ向かった。


「洗い物やるね!」


すぐに、水の音が響き始めた。

いつもより強くて速かった。


石原はリビングに残り、その音を聞きながら、眉間を揉んだ。


(……緒山さん)


静かに、息を吐いた。


(……どうやら、そんなに単純な話じゃなかったみたいだ)


指先でスマホをいじった。

生徒会のグループは静まり返っていて、最後のメッセージは、昨日の当番連絡だった。


――なのに。


(何か、ズレてる)


さっきの杏の反応が、頭から離れなかった。


あの慌て方。あの隠し方。


どう考えても、ただ友達のために用意しているだけには見えなかった。


(……緒山さんも、気づいてたか)


ふと、そんな考えが浮かんだ。


(気づいてて、でも、直接俺には言えないだけじゃないか?)


胸の奥が、少し重くなった。


個別のトーク画面を開いた。

指が止まった。


――結局、何も打たずに閉じた。


(……やめておくか)


追いすぎるのも、妙だった。


ソファに体を預けた。

目を閉じた。


(……ちゃんと休もう)

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