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見える感情、見えないまま  作者: 颍川
第九章 観察——妹の恋物語?
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第四十話

---


【六月十日・月曜日・朝】


七時二十分、玄関のほうから軽やかな鼻歌が聞こえてきた。


石原は、飲みかけの味噌汁を置いて顔を上げる。


杏は玄関の鏡の前に立ち、制服の胸元のリボンを丁寧に整えていた。

さらに、つま先立ちになって、わざと残している前髪の一房を鏡越しに整える。

その仕草には、普段あまり見せないような真剣さがあった。


「行ってきまーす」


いつもより少し明るい声だ。

杏は振り向いて手を振り、隠しきれないほどの上機嫌さを顔に浮かべていた。


そして何かを思い出したようにしゃがみ込み、鞄のサイドポケットを素早く確かめる。

中身を確認すると、満足げにうなずき、玄関のドアを開けた。


「気をつけて」


石原がそう声をかけた。


ドアが閉まる。

軽快な足音が階段を下りていき、やがて朝の静けさの中に消えていった。


石原は食卓に座ったまま、味噌汁の椀の縁を無意識に指でなぞる。

器の温もりが手のひらに伝わる一方で、どこかに引っかかるような違和感が、静かに芽生えていた。


これが初めてではない。


ここ一週間ほど、杏はほぼ毎日登校していた。

しかも家を出る時間が不規則だ。

今日のように早い日もあれば、逆にいつもより五分から十分ほど遅れる日もあった。


出かける前の準備も、明らかに長くなっている。

以前のように、鞄をつかんでそのまま飛び出していくことはなくなっていた。


そして何より気になるのは、彼女がスマホを見ているときだ。

何度か、集中と気持ちの高ぶりが入り混じったような表情を浮かべているのを見かけた。

だが石原の視線に気づいた瞬間、その表情はすぐに消え、何事もなかったかのように取り繕われた。――まるで、彼を避けているかのように。


(思春期の女の子によくある変化……か?)


石原は最後の一口を飲み干し、食器を流しに運んだ。

水音が響く中、思考はさらに奥へと沈んでいく。


立花の件が片付いてからというもの、石原はずっと、何かを整理し直す必要があると感じていた。

他人をどう「助けるか」だけではない。自分のこの“感情が見える目”が、いったい何を見ているのか――そのことについても。


立花の変化は鮮明に覚えている。


彼女の心に巣食っていた「執念」という名の暗雲が晴れた後、それまで読み取りにくかった彼女の感情タグは、かつてないほど明確で安定したものになった。


嬉しければ明確な【嬉しい】、安堵すれば純粋な【安堵】、視界を乱すノイズは一切ない。


……それに比べて、緒山は違う。


最初は、自分の能力が不安定なのだと思っていた。

あるいは、緒山自身が複雑で、読み取りにくいのだとも。


けれど、立花の変化の前後を見て、考えが少し変わった。


――感情の「読みやすさ」は、その人の内面にある“何か”と関係しているのではないか。


まだ仮説にすぎない。

それでも、立花を見たあとでは、無視できない感触として残っていた。


だとしたら、緒山の身に現れるあの文字化けは――


あの明るく穏やかな笑顔の下に、ずっと、何か言葉にされることもなく解決されることもない、重いものが存在し続けているということなのだろうか?


石原は蛇口を閉め、タオルで手を拭いた。

朝の光がキッチンの窓から差し込み、シンクの上に明確な格子模様を落としている。


真実を把握したとは思っていないが、観察から導き出されたこの法則は、少なくとも考えるための方向性を与えてくれた。


そんな少し重たい思考に沈んでいたとき、玄関のほうからかすかな物音がした。


近づいてみると、一枚の紙が落ちていた。

杏の鞄のサイドポケットから滑り落ちたのだろう。

さっきしゃがんで確認していたとき、きちんとしまえていなかったらしい。


石原は腰をかがめ、それを拾い上げた。


妹らしい丸みのある字で、いくつかの短いメモが書かれていた。

走り書きの備忘録のようだった。


「dgp-購入済み|

ny-先輩は苦めが好き? 要試食|

zs-シンプルでさっぱり系|

時間-来週の水曜 放課後

場所-???(未定)」


紙の端には、小さな落書きが添えられていた。

うさぎのようにも、雲のようにも見える。


石原はそれを見つめ、ゆっくりと眉をひそめた。


dgp? ny? zs?

試食? 時間と場所は未定?


……何かを作る計画のように見えた。

材料を準備し、味を考え、試食まで行う――菓子作りの計画。


なぜ杏が、「来週の水曜日の放課後」に合わせて、こんなものを用意しようとしているのか。

しかも、わざわざ暗号のように書いて隠している。


――そして。


さらに気になったのは、その味のメモだった。――「苦め」。


杏は甘いもののほうが好きだ。

家で買うお菓子も、基本は甘いものばかりだった。


この「苦め」の好みは――誰のためのものだ?


ぼんやりとした予感が、招かれざる客のように、心の扉をそっと叩いた。


最近の杏の変化――

身だしなみに気を遣うようになったこと。

スマホを見ているとき、彼の視線を避けるようになったこと。

ふとした瞬間、何かを思い浮かべるように微笑むこと。


それに、何度か唐突に投げかけられた質問。


――「お兄ちゃん、男子ってどんなお菓子もらうと嬉しいの?」


あのときは、家庭科の課題だと思っていた。

だが今、それらの断片が、この一枚の紙によって、一本の見えない線で繋がった気がした。


――もしかして。

「苦めの味が好きな誰か」のために、特別なお菓子を用意しようとしているのではないか。


しかも時間は「放課後」、場所は「未定」……どこで会うつもりなのか? 学校? それとも外?


そして「先輩」という言葉。

それは、小さな棘のように思考に刺さった。


杏は一年生だ。

つまり相手は二年か三年――年上の男子ということになる。


石原は唾を飲み込んだ。

喉がわずかに乾いた。


兄としての本能的な保護欲、妹に「特別に気にかけている人」ができたかもしれないという不意打ち、そして彼自身も深く考えたくないような、微妙な喪失感が心の中に湧き上がってきた。


中学のころ、クラスにもそういう女子はいた。

急におしゃれに気を遣い始め、「先輩」の話をすると目を輝かせる女子たち。


当時は、そういう話がどこか遠くて、幼くも感じられた。

まさか、自分の妹がその当事者になるかもしれないなど、考えもしなかった。


(いや、まだ決めつけるのは早い。

ただの家庭科の延長かもしれないし、誰かの手伝いかもしれない)


だが――なぜ隠す必要がある?


石原は紙を丁寧に折り、ポケットにしまった。

そして背筋を伸ばし、すっかり明るくなった空を窓越しに見上げた。


朝の澄んだ空気が、どこか重たく感じられた。


もしこの予感が当たっているなら――

相手は誰だ? どんな人だ? なぜ杏は、その人を好きになったんだろう?


今日は、より注意深く観察する必要があるかもしれない。


「感情視覚」だけではなく、妹がひそかに成長していることに気づいた、少しぎこちない兄として、これまで見落

としてきたかもしれない細部を観察しなければ。 


石原が玄関を出ると、朝の風が頬を撫でたが、心の中に生まれたばかりの「兄の心配」という名の薄霞は、吹き

散らすことができなかった。


紙に書かれていた「来週の水曜日」と、あの未定の「?」は――

細い針のように、彼の心に静かに宙吊りになっている。

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