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見える感情、見えないまま  作者: 颍川
第八話 風のあと——彼女の居場所
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第三十九話

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【後記2】


生徒会の午後。


体育祭が終わって数日後の、ある昼下がり。

陽射しは穏やかで、心地よかった。


生徒会室の中では、時間がやけにゆっくりと、静かに流れていた。


キーボードを叩く音が、途切れ途切れに響いている。

どこか苛立ちをにじませた、打っている当人の気分がそのまま音になったようなリズムだった。


「あああ――もうダメだ、無理無理!」


春野が勢いよく背もたれに倒れ込み、そのまま椅子の上でぐったりと崩れ落ちた。

両手で頭をかきむしり、苦悶の表情を浮かべた。


「この数字、生きてるのか? なんで勝手に表の中で動いてんだよ! 花野、これお前が仕込んだ試練じゃないのか?」


彼から机二つ分離れた場所で、花野は自分の席に静かに腰掛けていた。

目の前には、分厚い帳簿と薄い文庫本が広げられている。


春野の嘆きを聞いても、眉一つ動かさなかった。

ただ指先で、淡々とページをめくった。


「私の時間は有限だ。無意味な障害を仕込む趣味はない」


「ひどい……!」


春野は再び画面の前に突っ伏し、ぶつぶつと不満を漏らした。


「先週の部費の予算はあんなに楽だったのに……」


「先週の予算表は私が作ったから」


花野が淡々と付け加える。


「……」


春野は仕方なく首を振った。

「どうやら夏休みは忙しくなりそうだ。」


室内に、一瞬だけ沈黙が落ちた。


その場の空気をやわらかくほどいたのは、部屋の反対側から聞こえてきた、かすかな鼻歌だ。


緒山は壁際の小さなテーブルの前に立ち、沸かしたばかりのお湯を丁寧にティーポットへ注いでいた。

深い紅色の茶がゆっくりと広がり、ほのかな香りを含んだ湯気が立ちのぼる。


その口元には、やさしい笑みが浮かび、手つきは軽やかで、慣れたものだった。


「はいはい、ちょっと休憩しましょうか」


ポットを持ち上げ、あらかじめ並べておいたマグカップへ順にお茶を注いだ。


「お茶入れましたから、少し飲んでから続きにしましょう? 会長も、ちょっと力抜いて。そうしたら数字も素直になるかもよ〜?」


「緒山、お前ほんと天使だな……!」


春野はたちまち元気を取り戻し、目を輝かせながら、最初の一杯が自分の前に置かれるのを今か今かと待っていた。


緒山はくすっと笑い、そのまま他のカップにもお茶を注いでいく。


窓際へと歩み寄り、石原の手元にそっと一杯を置いた。

彼は差し込む光の中で、書類に目を通していた。


「ありがとう」


石原が低く言い、わずかに口元をやわらげた。


「どういたしまして〜」


緒山はやわらかく応じ、そのまま部屋の中央へと歩いていく。


そこには、クッションを敷いた椅子に立花が腰かけていた。

制服姿で、灰白色の長い髪は後ろで簡単に低く結ばれ、いくつかの後れ毛がやわらかく首もとに垂れていた。


彼女は机の上に開かれた数学の教科書へ視線を落とし、熱心に問題へ向き合っていた。

手にしたシャープペンシルを指先で無意識にくるくると回し、ときおりぴたりと止めては、横の計算用紙に数行だけ式を書きつける。


陽の光はちょうど彼女の半身に差しかかっていた。

立花はすっかり自分の世界に入り込んでいて、緒山がすぐそばまで来ていたことにも気づいていなる。


緒山は紅茶を彼女の教科書の横へそっと置き、ついでに苦戦しているらしい問題へちらりと目をやった。


「美里ちゃん、この問題ね、ここで出た答えをこっちに当てはめてみたら?」


立花美里は、はっとしたように顔を上げ、緒山を見た。


「あ、朋奈ちゃん……ありがとう」


彼女は緒山の示したところへ視線を戻し、目をわずかに見開いた。


「えっ、こう……? やってみる……」


再び机に向かうと、ペン先が紙の上を走り、さらさらと小さな音を立てた。

数秒後、彼女の眉がふっとほどけ、小さく「あ……」と声を漏らすと、そのまま淀みなく続きを書き進めていった。


「解けた?」


「うん! ありがとう、朋奈ちゃん!」


そのとき、生徒会室の扉が軽くノックされた。

男子生徒がひょいと顔をのぞかせ、手には書類の束を抱えている。


「失礼します。春野会長、いますか? 体育祭の優秀クラス加点集計表の初稿ができたので、先生が先に生徒会で確認してほしいって」


「お、はいはい! 今行く!」


春野はすぐに立ち上がり、書類を受け取った。


「ありがとな! こっちで早めに見とくよ」


男子生徒は頷き、ごく自然に室内へ視線を走らせる。

その視線が立花のところで不自然に止まることはなかった。


「じゃあ、会長お願いします。俺、先に戻ります」


そう言って、男子生徒は扉を閉めて出ていった。


立花は温かなマグカップを両手で包み込み、立ちのぼる豊かな香りを鼻先に感じていた。

先ほど自分をかすめていった視線のことなど、彼女はまるで意識していなかった。

あるいはもう、そんなものをいちいち気にかける必要すらなくなっていたのかもしれない。

彼女の意識はすぐにまた目の前の問題へ戻っていき、考え込む合間に、ときおりカップを口元へ運んで紅茶をひとくち含んだ。


生徒会室には、またいつもの穏やかなリズムが戻っていた。

春野は紅茶を飲みながら手元の表と格闘を続け、花野は一定の間隔でページをめくり、緒山も自分の席へ戻って書類仕事を再開し、ときどきティーカップに手を伸ばしていた。


石原は手にしていた書類に目を通し終えると、それを整えて脇へ置いた。

それから、ほどよくぬるくなった紅茶をひと口飲んだ。

茶の香りが口の中に広がり、かすかな渋みのあとにやわらかな甘みが残った。


彼の視線は、不意に緒山の方をかすめた――。

彼女は何かを書きつけていて、その口元には相変わらず、いつもの温かな笑みが浮かんでいた。


だが、石原の“感情視覚”の中では、彼女の周囲に浮かぶ断片めいたラベルは今もなお薄い霧に包まれたように曖昧なままで、はっきりとは読み取れなかった。


そして、自分自身の中にある、

幼い頃の傷をきっかけに、“感情を読む”ことへの執着から生まれたこの力と、

そして、それに伴う“ノイズ汚染”という代償……。

まだ到底、気を緩めていい段階ではなかった。


陽射しは、気づかないうちにまた少しだけ位置を変えていた。


立花は問題を一ページ分解き終えると、ペンを置き、小さく伸びをする。

それからマグカップを手に取り、少しだけぬるくなった最後の紅茶を飲み干した。


彼女の鞄は椅子の脚もとに立てかけられていて、あの素朴な紙袋が少しだけ顔をのぞかせていた。

彼女はまだそれを着ようとはせず、ただ持ち歩いているだけだった。

たぶん、もっと自然なタイミングを待っていたのだろう。


立花は窓の外へ目を向けた。

外の空は青く高く、細い雲が数筋、ゆっくりと流れている。

初夏の風は、若葉と陽射しの匂いを含んで、そっと窓枠を撫でていった。


それは、ひどくありふれた午後だった。


胸を揺さぶるような出来事が起きるわけでもなく、乗り越えるべき試練があるわけでもない。

ただ、陽の光と、舞う埃と、紅茶の香りと、互いのそばにいられる静かな時間だけがそこにあった。


けれど、そんな当たり前こそが、かつて“存在”の縁を揺れていた立花美里にとっては、何よりも尊く、きらきらと輝く贈り物だった。


彼女はここにいて、みんなと一緒にいた。


この先の道はまだ長い。

迷うこともあるだろうし、風雨にさらされる日もきっと来る。

それでも、この瞬間だけは、陽射しはちょうどよく、風もやさしかった。


そして彼女の心の中、かつて荒れ果てていた土の上には、もう新しい種がひそやかに芽吹き、静かに育ちはじめていた。


立花は視線を戻し、もう一度ペンを手に取って、新しいページを開いた。

その口元には、自分でも気づかないほど穏やかで静かな笑みが、そっと浮かんでいた。

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