第三十八話
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【後記1】
体育祭の喧騒がすっかり静まるころには、夕焼けが空を赤く染めていた。
校内に残る人影はまばらで、当番の生徒がグラウンドを片付ける姿と、遠くからかすかに聞こえる部活動の音だけが、静かな校舎に残されている。
生徒会の一行は、正門へと続く通りを歩いていた。
空気はどこか軽やかで、祭りの余韻にほんのり酔ったような感覚が、まだあたりに残っている。
「じゃあ、俺たちはこっちで!」
正門前で春野は手を振ると、花野とともに駅の方へと曲がっていった。
花野は軽く頷くだけで、それが別れの挨拶だった。
「美里ちゃん、一緒に帰ろ? 杏、今日ちょっと商店街で買い物したいんだ」
杏は立花の腕に絡みつき、目をきらきらと輝かせていた。
「え、私……」
立花美里が返事をしかけたそのとき、緒山がそっと杏のもう片方の手を引いた。
「杏ちゃん、ちょっとだけ生徒会室まで付き合ってくれる? 資料を取りに行きたいの」
緒山は杏にウインクすると、やわらかな笑みを浮かべた。
「美里ちゃん、さっきまで競技してたでしょ? きっと疲れてるよ。先に帰って休んでもらおう?」
杏は一瞬きょとんとし、緒山と立花を見比べて、すぐに察した。
その顔には、いたずらっぽくて可愛らしい笑みがぱっと広がった。
「なるほど! そうだよね! 美里ちゃん、今日はほんとにお疲れさま! じゃあ杏は朋奈さんと一緒に行くね! お兄ちゃーん」
そう言って、さっきから後ろを黙って歩いていた石原久希の方へと向き直り、わざとらしく声を伸ばした。
「ちゃんと美里ちゃんを送ってあげなよ! 今日は大活躍だったんだから!」
そう言い残すと、石原たちの返事も待たず、緒山と杏は笑いながら去っていった。
去り際、緒山は一度だけ振り返り、石原に意味ありげで、それでいて励ますような視線を送った。
正門前に、ふいに静けさが落ちる。残されたのは、二人だけだった。
立花はその場に立ち尽くし、夕暮れの中で頬がほんのりと熱を帯びていった。
さっき佐藤にからかわれた言葉が、小さな鳥みたいに胸の中を飛び回って、どうしても追い払えなかった。
心臓も、まるで言うことを聞いてくれないみたいに、どんどん速く打ち始めている。
隣にいる彼の顔を見る勇気が出なかった。
(石原先輩は……どう思ってるんだろう)
夕風が吹き、汗に濡れて、もう乾きかけた前髪をそっと揺らす。
そのとき、隣から石原の声が聞こえた。
「立花さん」
いつもと変わらない、落ち着いた声だった。
なのに、その一言だけで体が小さく震えてしまう。
「少し、いいか」
石原が足を止めた。
立花も慌てて立ち止まり、うつむいたまま動けなかった。
視界の端で、石原がこちらに向き直り、鞄の中に手を入れるのが見えた。
気恥ずかしさよりも好奇心が勝って、立花はそっと視線を上げる。
石原の手には、落ち着いた色合いの紙袋があった。
ひと目で丁寧にしまわれていたとわかる、角の整ったきれいな紙袋だる。
大切に扱われてきたのだとわかる、そんな気配がそこにはにじんでいた。
石原はその紙袋を、立花の前へと差し出した。
立花は思わず息をのむ。
「これ、君に」
夕暮れの少しひんやりとした空気の中で、その声だけがやけにはっきりと耳に届いた。
立花は戸惑いながら、それを受け取る。
紙袋にはわずかに重みがあり、中からはやわらかく、それでいて少し張りのある布の感触が伝わってきた。
胸の奥に、ぼんやりとした予感が浮かび、そのせいで、鼓動がさらに速くなる。
彼女は視線を落とし、そっと紙袋の口を開いた。
落ち着いた、上品な淡いブルーが目に飛び込んできた。
呼吸が、止まった。
――あのワンピースだった。
あの服屋で、ショーウィンドウの近くに掛けられていた、淡いブルーのワンピース。
三度足を止め、三度手を伸ばしかけては引っ込め、
店員の“見透かすような視線”に耐えきれず、逃げるように店を出た――あのとき置いてきた一着だった。
それが今、紙袋の中に静かに収まっていた。
丁寧に畳まれ、夕暮れの光を受けて、やわらかく艶めいている。
立花の視界が、一瞬で滲んだ。
彼女は顔を上げ、石原を見つめる。
唇がかすかに震えたが、うまく言葉にならなかった。
「せ、先輩……これ……?」
「前に買っておいた」
石原は答えた。
いつも通り、淡々とした口調だった。
「……今なら、似合うと思って」
その短い言葉に込められた、口にはされなかった想いを――彼女はたしかに受け取った。
自分の変化を、見ていてくれたこと。
もがきも、成長も、ちゃんと見届けてくれていたこと。
もう、きらびやかな虚像に隠れて、本当の自分を否定されることを恐れる少女ではない。
ありのままの姿でグラウンドを駆け、過去と向き合い、自分自身を受け入れられる今の自分なら――
このワンピースに、きっとふさわしい。
涙が、前触れもなくあふれ出した。
大粒の雫が次々とこぼれ落ち、胸に抱いた紙袋にぽつぽつと染みを落としていった。
拭おうともせず、立花はその紙袋をぎゅっと抱きしめた。
「た、立花さん?」
思いがけない反応に、石原はわずかに戸惑った。
一瞬、何か間違えたのかと思ったほどだ。
「あ……ありがとう……」
嗚咽まじりの声は、うまく形にならない。
それでも、どうしても伝えたかった。
「ほんとに……ありがとうございます、先輩……大事に……するから……」
石原は、涙に濡れた彼女の顔を見た。
そこには、感動と羞恥、そして――涙にきらめく、新しい光があった。
彼ははっきりと“読み取った”。
彼女の中からあふれ上がる強い感情――【幸福】、【驚き】、【感謝】……
そして、贈り主が自分であるがゆえに、より甘く染まる【羞恥】。
どの感情にも、陰りはなかった。
石原は一歩、彼女に近づいた。
無意識に手を持ち上げ、一瞬だけ宙で止めたあと、そっと彼女の柔らかな髪に触れた。
やさしく、その頭を撫でる。
「落ち着いて、立花さん」
見慣れた仕草。見慣れた感触。
立花の泣き声は、やがて少しずつ落ち着き、小さなすすり泣きへと変わっていく。
だが今回は、以前のようにただ大人しくうつむくだけではなかった。
涙で滲む顔を上げ、左右で色の異なるその瞳で、水気を帯びたまま真っ直ぐに石原を見つめた。
そして彼女は、石原がまったく予想していなかった行動に出た――。
小さな両手を持ち上げ、自分の頭に置かれていた石原の手を、そっと包み込んだのだ。
石原の身体がわずかに強張る。だが、手を引くことはなかった。
立花の手は冷たく、かすかに震えていた。
彼女はその手首を握り、慎重に――ゆっくりと――その手を自分の頭から下へと導いていった。
前髪の柔らかな流れをなぞり、泣いたことでほのかに熱を帯びたこめかみをかすめ、
そして最後に、自分の赤く染まった頬のそばで止めた。
彼女はそのまま手の甲を支え、彼の掌を自分の頬へとそっと触れさせた。
石原には、彼女の頬のなめらかな感触も、乾ききらない涙の湿り気も、はっきりと伝わってきた。
まるで――彼が優しく彼女の顔を包むような格好だった。
立花は顔を上げたまま、目元に涙を残したまま、それでも懸命に明るい笑顔を浮かべた。
「これで……ちゃんと、落ち着けました」
「ありがとうございます、先輩」
そう言って、彼女は目を閉じた。
まるで勇気を振り絞ってこの行動に踏み出したかのように。
あるいは、その掌から伝わる温もりを、確かめるように。
石原は、完全に言葉を失っていた。
手首には、彼女の冷たい指先。
掌の下には、彼女の温かな頬。
わずかな震えも、まつ毛に残る小さな涙の粒も、
そして髪から漂う、どこか儚い花のような淡い香りも、すべてが伝わってきた。
【立花美里の感情:安心43、緊張57】
その数値は、あまりにも明瞭で、あまりにも率直に揺れていた。
石原の心臓が、その瞬間、不意に大きく脈打った。
見知らぬ、だが確かに温かい衝動が、握られた手首から胸の奥へと広がっていく。
彼は手を引かなかった。言葉も発しなかった。
ただそのまま、彼女に触れられるまま、頬に触れたまま、穏やかになっていく夕風の中で、燃えるような夕焼けの下で、そのあまりに近すぎる距離を、静かに保ち続けていた。
やがて――それが長い時間だったのか、ほんの数秒だったのかもわからないまま、
立花はゆっくりと目を開けた。
そっと手を離し、一歩だけ後ろへ下がった。
頬はさっきよりもさらに赤くなり、うつむいて彼の方を見られなかった。
「そ、その……ワンピース、大事にしますね!」
言葉はとりとめなく、指先は落ち着かないようにスカートの裾をいじっていた。
石原は手を引き戻す。
掌には、まだ彼女の体温と涙の感触が残っていた。
軽く拳を握り、その奇妙な余韻を閉じ込めるようにしてから、静かに頷く。
こうした、あまりにも率直で強い感情には、まだ慣れていなかった。
「……ああ」
短く答え、わずかに間を置いてから、もう一言だけ付け加えた。
先ほどよりも、さらに小さな声で。
「気をつけて帰れよ」
それ以上の言葉はなかった。
立花は手の甲で涙を拭い、紙袋をいっそう強く胸に抱きしめた。
もう一度石原を見上げ、何か言おうとして、結局、赤くなった目のまま笑った。
そして、力強く「うん!」と頷いた。
くるりと背を向け、自分の家の方へと歩き出す。
数歩進んで、また立ち止まり、振り返った。
暮れゆく空。街灯はまだ完全には灯っていなかった。
石原はその場に立ったままで、淡い光の中にぼんやりと輪郭を残している。
その視線は、確かに彼女の方へ向けられているように見えた。
二人の視線が、ゆっくりと広がる夜の気配の中で、遠くからそっと触れ合う。
立花の胸が大きく跳ねた。
慌てて前を向き、逃げるように歩みを速める。
だが――その足取りに、もう重さも迷いもなかった。
胸に抱いた紙袋が、確かな温もりを伝えてくる。
その温かさは指先から胸の奥へと広がり、夕方のひんやりした空気を溶かしていった。
頬の赤みも、なかなか引いてはくれない。
石原がどこまで気づいていたのか。
どこまで理解していたのか。
それはわからない。
けれど――確かなことがひとつある。
何かが、変わった。
胸の奥に静かに芽生えていた、まだ名前のない感情。
それは、この“変化を見届けてくれた贈り物”によって、輪郭を持ちはじめていた。
そして、より大切なものとして、彼女の心の一番柔らかな場所に、静かに沈んでいった。
夕暮れはやさしく街を包み込み、
軽やかな足取りの少女と、少し遅れてその場を離れていく少年の姿を、そっと覆い隠していった。
風が静かに吹き、昼間の喧騒をさらっていった。
残されたのは、初夏の夜が訪れる直前の静けさと、
そして――言葉にならないまま育っていく、ささやかで、確かな予感だった。




