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見える感情、見えないまま  作者: 颍川
第七話 走る——彼女らしい姿
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第三十七話

---


【五月二十五日・土曜日】


体育祭当日。

思っていたより、陽射しが強かった。


女子四百メートルの招集場所のそばで、立花は軽くストレッチをしていた。


泉方新高の標準の体操服。紺の半袖に短パン。

胸の校章は、少し擦れている。


特別なところはない。


ときどき、視線が横をかすめていく。

数日前なら、それだけで手のひらが汗ばんでいた。


でも、今は違う。


ゆっくりと呼吸を整え、ふくらはぎが伸びる感覚をそのまま受け止める。


「第三レーン、立花美里さん」


名前を呼ばれ、スタートラインへ向かう。


しゃがみ込み、ブロックを調整する。

指先でトラックをなぞると、ざらついた感触が伝わった。

何度も繰り返してきた動きだ。


審判が名簿を手に近づき、視線が立花の顔で止まる。

わずかに眉が寄った。


――あのときと同じ感覚。


一瞬、胸に引っかかる。


前なら、喉が詰まっていた。


鼓動が一拍だけ上がる。

それだけで済む。


立花は顔を上げ、軽くうなずく。

はっきりした声で言った。


「立花美里です。一年A組の、立花美里です。ここにいます」


審判の目から迷いが消え、うなずいて名簿に印をつけ、次へ進む。


立花は立ち上がり、視線を上げた。


観客席の端に、石原の姿がある。

距離は遠く、表情までは見えない。


それでも――いる。


視線を戻し、もう一度構え直す。

両手をラインに置く。


周りの音が、遠くなっていく。


残るのは、自分の鼓動だけだった。


ドク、ドク。


風の感触。

初夏の風が首の後ろをかすめ、草と土の匂いが混ざる。


スターターが銃を上げる。


視線を前へ向け、体を少し前に倒す。

余計なものは、もう何も出てこない。


頭の中にあるのは、ただ一つだけ。

風だけ。


――鳴る。


音が弾ける。

体が前に出る。


風が正面からぶつかり、口の中に流れ込む。

熱と土の匂いが混ざる。


呼吸と足の動きと鼓動が、ひとつに揃っていく。


左、右と足を運び、息を吸って吐く。

腕を振り、踏み込み、前へと体を傾ける。


考えない。

体が、そのまま動く。


――覚えている。


そのまま、進む。


きつい。肺が熱く、喉が乾く。


でも、これらの感覚がこんなにはっきりと、真実として感じられることに、泣

きたくなった。


なぜならこれは生きている証明だからだ。


彼女の体が、この世界の上で、こんなにも確かに存在して、感じているという

証明だからだ。


もう華やかなドレスは必要ない。

もう他人の注目は必要ない。

もう自分を飾るためや確かめるための、外にあるどんなものも必要ない。


彼女は今ここで走っている。

それだけで、もう十分だった。


最後の直線。

前にゴールが見える。

少し揺れて見えた。


一瞬だけ視線が上がり、あの場所を見る。

石原は、まだいる。


すぐに視線を戻し、残りを足に乗せる。


「――あれ、一年A組の立花美里! いつの間に先頭出てるの!?」


ゴールが、一気に近づいてくる。


そのままの勢いでゴールラインを越える。

テープを切って数歩進み、ようやく止まった。


膝に手をつき、息を吐く。

汗がぽたりと落ちる。


やり遂げた。

誰かのためではなく、ただ自分のためだけに。


風が、もう一度吹き抜ける。

さっきより少しやわらかい。


額の髪が揺れる。

立花は目を閉じ、大きく息を吸う。


空気が胸の奥まで、深く流れ込んでいった。


その息の中には、自由と、陽光が満ちていた。


彼女はたった今、自分の手で「立花美里」に属する、全ての世界を取り戻したのだ。


---


「美里ちゃん!」


杏が一番に駆け寄ってきて、タオルを差し出した。

目がきらきらしている。


「すごかった! 最後のとこ、思わず立っちゃった!」


立花はタオルを受け取り、軽く顔を拭いた。

そのまま、笑った。


「おつかれ、美里ちゃん」


緒山がキャップを開けた飲み物を差し出した。

「ペース配分、よかったよ」


春野は記録板を手にしている。

「最後のカーブから直線、よかったな。まだまだいけるじゃん、さすがだ」


立花は少し照れて、顔がさらに赤くなった。


花野は少し離れた場所から言う。

「効率的だった」


これは恐らく花野流の最大の賛辞だった。


立花は、みんなに囲まれていた。


声が重なり合う。

次々にかけられる言葉が、温かい流れのように包み込んでくる。


どれも自然だった。

気を使う感じもない。

避ける感じもない。


彼女は普通の体操服で、汗だくになっていたが、かつてないほどの安心感を覚えていた。


---


そのとき。


石原が、誰かと一緒に歩いてくるのが見えた。


立花の呼吸が、ほんの少しだけ止まる。


――佐藤だ。


何度も、避けてきた相手。


その本人が、石原の後ろから歩いてくる。


目は明るく、嬉しそうで、そこに少しだけ緊張も混じっている。


立花の体が、わずかに固くなる。


でもそれ以上は、来ない。


ボトルを握る手は、そのまま。

逃げない。


石原は少し手前で止まり、横にずれて道をあけた。


佐藤が一歩前に出る。

少しだけ頭を下げて、立花を見る。


「先輩! 見てました! あっちのスタンドで――すごくよかったです!」


まっすぐな声で、まっすぐな目で、ただ嬉しそうに。


立花は、そのまま見返す。


喉に、言葉が引っかかる。


――言えない。


いつもの言葉。

出てこない。


「……ありがとう」


それだけが、やっと出た。


佐藤が、ほっと息をつく。

後頭部をかく。

少し、照れたように。


「実は……先輩が四百出るって聞いたとき、すごく嬉しかったんです」


少し言い淀んでから、表情が少し真面目になる。


「復帰とかじゃなくて……先輩、もう走らないのかなって、思ってたんで」


彼は視線を落とす。

自分のつま先を見る。


声が、少し低くなる。


「最近、あんまりトラックにいなかったから……あの予選で負けたからかな、とか、高校で忙しいのかな、とか」


少し間を置いて、


「それとも……俺のせいかなって」


最後の言葉は、少しだけ小さかった。


立花の胸が、きゅっと締まった。


「違う……!」


思わず、声が出た。

思っていたより、強い声だった。


「違うの……佐藤くんのせいじゃない。

私が……私の問題で……」


そこで、言葉が止まった。

うまく言えない。


佐藤が顔を上げた。

その目はまっすぐだった。


「わかってます。先輩にも、考えがあったんですよね。でも――」


一度、息を吸ってから、


「伝えたくて」


少しだけ、声が強くなった。


「前、陸上部で先輩のことを一番すごいと思ってたのって、速さだけじゃなくて」


佐藤は、一つずつ言葉を重ねるように続けた。


「きつくて顔をしかめてるのに、止まらなかったところとか。

腕の振りを、何回も直してたところとか」


少し間を置いて、


「負けたあとも、泣かないで、ちゃんと振り返ってたところとか」


少しだけ、笑った。


「俺たちがサボると、怒って……でも最後は一緒に走ってくれたところとか」


口元がやわらいだ。

どこか懐かしそうな顔で、


「そういう先輩って、全然“完璧”じゃなくて」


いったん言葉を区切って、


「疲れるし、負けたし、怒るし」


ほんの一拍置いて、


「でも――それが、すごくいいなって思ってました」


まっすぐに、立花を見た。


「前の先輩も、今の先輩も――」


少し笑って、


「どっちも、俺にとっては最高の“立花先輩”です」


その瞬間、

立花の中で、何かが崩れた。


彼女はずっと思っていたのだ。佐藤の目に映っていたのは、表彰台の上に立つ、仰ぎ見られる必要のあるエースだと。


彼女はこのアイデンティティが色褪せたとき、疲れた、失敗した、平凡な一面を見せたとき、その視線が移り、失望されるのが怖かった。


しかし今、佐藤ははっきりと彼女に告げた。

彼が見ていたのは、ずっと最高の彼女だったと。


彼女が自分に課し続けてきた重い期待が、この瞬間、煙のように消え去った。


息が、少しだけ軽くなった。

視界が揺れた。

涙が、にじんだ。


立花は、顔を下げなかった。

そのまま、涙を頬に伝わせた。


でも――

口元が、少しだけ上がった。


「……ばか」


声が震えた。

笑いながら、


「そういうの……今さら言う?」


佐藤が、困ったように笑った。


「前は、聞きたくなさそうだったから……」


立花は鼻をすすった。

袖で、乱暴に拭った。


「今は……聞きたい」


少しだけ間を置いて、


「あと……ごめん。避けてた」


佐藤が、慌てて首を振った。


「全然! 大丈夫です!」


その勢いのまま、少し照れたように続ける。


「じゃあ、その……また一緒に走りませんか?

練習とかじゃなくて、軽く――みたいな。ペースとか、聞いたりしないんで!」


冗談っぽい口調のこの誘いが、しか


立花は満面に興奮をたたえた佐藤を見つめながら、胸の中にずっとあった滞った感覚が、ついに完全に消え去っていくのを感じる。


彼女は力強く頷き、涙の中に笑顔が咲いた。


「うん。いいよ」


少し離れた場所で、

石原が、その様子を見ていた。


何も言わない。

ただ、そこに立っているだけだった。


緒山が隣に来た。

軽く、腕に触れた。

視線だけで、何かを伝えるように。


春野は顎に手を当てて、

少しだけ、笑った。


騒がしさは、少しずつ引いていった。


その中で、立花は、ゆっくり振り向いた。

夕陽のほうへ向かって。


大きく、息を吸った。

空気が、すっと入ってくる。


汗のにおい。

乾いた土のにおい。

温まった草の匂い。


そして、果てしなく広がる、「自由」と「可能性」という名の清々しさがあった。


もう誰かのために「完璧」を演じる必要はない。

彼女はただ、今この瞬間、疲れることも、泣くことも、笑うことも、走ることもできる、本当の立花美

里に、なり続けるだけでよかった。


そしてその真実は、ついに、彼女が顔を上げて、行きたいどこへでも歩いていくのに、十分なものとな

った。


そのとき、

立花の頭上の「感情タグ」が、石原をわずかに驚かせた。


【立花美里の感情:喜び34、安堵46、感動20】


さっきまでと違う。はっきりしている。乱れがない。


石原は、わずかに目を細めた。


――関係あるのか。


一つの推測が、彼の脳裏で瞬く間に形になった。


もしその推測が当たっているなら――緒山は……。


「え、えっ? “憧れ”は“好き”に入らないって、どういうことですか?」


「石原先輩って、ただの“頼れる先輩”なんですか? 先輩、それはちょっと他人行儀すぎません?」


佐藤の軽口が、思考を遮った。


少し離れたところでは、立花が顔を真っ赤にして、すっかりあたふたしていた。


「ち、違うって! 私はそんなこと言ってないもん! 先輩は、その……すごく面倒見がいいっていうか、すごく……頼れるっていうか……! 勝手に話を盛らないでよ!」


耳まで真っ赤になっている。立花は思わず石原のほうをちらりと見て、すぐに視線を引っ込めた。


佐藤はその視線を追う。


立花と、遠くの石原とのあいだを何度か視線で往復すると、にやにやと笑みを深めた。


「石原先輩って、ほんといい人ですもんね。俺が女子だったら、たぶん――むぐっ!」


立花が慌てて佐藤の口をふさいだ。


「だ、黙ってよ! それ以上変なこと言ったら……その……陸上部のみんなに言うからね! 中学のとき、練習をサボってコーチに十周走らされたこと!」


立花の顔はさらに赤くなり、その赤みは首筋にまで広がっていた。


夕陽の中で、そのオッドアイははっとするほど強くきらめいていた。そこには、図星を突かれたような狼狽と、まだ自分でも整理しきれていない、かすかな甘さのようなものが入り混じっていた。


「うわ、ひど……」


佐藤は両手を上げて降参の仕草をした。それでも、目はしっかり笑っていた。


「はいはい、もう言いませんって、言いませんって。……でも」


そう言って少し身を寄せ、声をひそめた。それでも、少し離れた石原にもかろうじて聞こえるくらいの声で。


「先輩、がんばってくださいよ。ちゃんと“追いついて”くださいね」


「さ、佐藤!」


立花は、今にも髪まで逆立ちそうなほど真っ赤になった。


石原は、数歩離れた場所に立っていた。佐藤の言葉が、かすかに耳に届く。


表情はほとんど変わらなかった。けれど、耳のあたりだけが、どうにも少し熱を帯びていた。


石原は視線をそらし、遠くで器具を片づけているほうへ、目を向けたふりをした。


それなのに、鼓動だけがなぜか一拍ぶん遅れた。


……立花が、自分を?


その認識は、石原の胸にかすかな戸惑いを生んだ。どこか、ひどく落ち着かなかった。


石原は意識を引き戻した。さっきの推測へと。


視線は、自然と緒山のほうへ向いていた。


夕陽が彼女の横顔を淡い金色に縁取っていた。緒山はやわらかな目で、じゃれ合う後輩たちを見つめていた。


だが、石原の“感情視覚”の中では、彼女のまわりに浮かぶラベルは、相変わらず欠けたままの文字化けだった。


……緒山の執着は、いったい何なのだろう。


「ほら、もうそのへんで」


緒山が歩み寄ってきて、笑いながら立花の肩をぽんと押さえた。


「着替えに行こ? そのままだと風邪ひくよ」


「うん!」


立花は荷物をひっつかむように持ち上げた。


そのまま歩き出す前に、こっそり一度だけ振り返って、石原をちらりと見た。ほんの一瞬だけ、視線がぶつかった。


立花はすぐに前を向き直し、足早にその場を離れていった。


夕陽はさらに低くなっていた。校庭からは、少しずつ人の気配が引いていく。


石原は人の流れの少し後ろを歩きながら、前方にいる緒山の背中を見ていた。その足取りは軽やかだった。


石原は思い返す。彼女の身に浮かんでいた、あの欠けたままのラベル。それから、ときおり自分を見つめるその瞳に、一瞬だけよぎる複雑な感情。それが、どうしても頭から離れなかった。


立花美里の“小さな戦い”は、ひとまず一区切りついた。


だが、彼らの物語は、まだ終わってなどいない。


“執着”と“代償”、そして“視えること”の答えは、まだ何ひとつ明らかになっていなかった。

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