第三十六話
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話し声は、少しずつ小さくなっていった。
生徒会室の中も、いつの間にか夕暮れの色に染まっている。
春野が大きく伸びをして、立ち上がった。
「うわ、もうこんな時間か。緒山、教務室の書類、まだだろ?」
「え? あ、ほんとだ!」
緒山は、ぱっと動き出した。
手際よく、机の上を片づけていく。
花野は、もう本を閉じていた。
「図書館、予約してた時間」
それだけ言って、立ち上がった。
杏も椅子からぴょんと降りた。
「杏も朋奈さんと行く!」
そう言って、緒山のそばへ駆け寄った。
そのまま、くるっと振り返って、立花に、小さくウインクした。
一人、また一人と部屋を出ていく。
扉が、静かに閉まった。
残ったのは、外から聞こえる鳥の声と、その場に動かないままの、二人だけだった。
立花は、体操服の裾を指でつまんだ。
落ち着いたはずの鼓動が、また少しだけ速くなる。
石原は少しだけ黙ってから、立花へ視線を向けた。
「……少し歩くか」
そう言って、窓の外を指した。
その先には、夕焼けに染まった校内が広がっている。
「適当にな。座りっぱなしだったし」
立花はしばらく迷ってから、小さく、うなずいた。
外の空気を吸いたかった。
今日のことを、このまま胸に抱えたままではいられなかった。
胸の奥に小さく芽生えた、あの火種を消化するためにも。
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夕方の校内は、静かだった。
桜の葉が、風に揺れていた。
さらり、と葉擦れの音がした。
光と影が、地面に揺れていた。
二人は、少し距離を空けて歩いた。
並ぶでもなく、離れるでもなく。
足音が、前後にずれて、少しずつ、重なっていく。
「……何かしなきゃって、思わなくていい」
石原が、ふいに言った。
低い声が、風に溶けるように響いた。
「体育祭も――」
そこで、ひと呼吸置いて。
「今みたいに、入って、見て、感じればいい」
言葉を区切るように、石原は静かに続けた。
「行けそうなら、そのまま行けばいい。
無理なら、立ち止まってもいい。帰ってもいい」
少しだけ間を置いて、言う。
「やらなきゃいけないわけじゃ無い。
ただ、もともと君のものだったものを、少し取り戻しに行くだけだ」
石原は、横目で立花を見た。
「例えば――特別な服を着なくても、こうして、普通に歩ける感じとか」
立花は、足元を見た。
地面には、伸びた影。細く、長く伸びていた。
――前なら、
こうして歩くことが、怖かった。
でも、今は。
風が、頬に触れる。
それが、はっきりわかった。
隣の足音も、自分の鼓動も、ちゃんとそこにある。
怖さは、消えていない。
でも――もう、全部を呑み込まれたりはしない。
その代わり、胸の奥で、小さく動いているものがあった。
……何か。
まだ、はっきりしない。
でも、消えない。
角を曲がった、その先。
校舎の影が落ちる通路に、向こうから、女子が二人歩いてきた。
しかも、同じクラスの子たちだ。
色紙と絵の具を抱え、笑いながら歩いてくる。
――その瞬間。
体が、固まった。ほとんど反射的に、視線が落ちる、顔を伏せた。
いつもの、動き。
前を歩いていた女子が、ふとこちらに視線を向け、そのまま立ち止まった。
にこっと笑って手を上げる。
「――あ、立花さん! まだ帰ってなかったの?」
立花は、はっと顔を上げた。
……見えてる?
「さっきまでクラスの掲示物つくっててさ、めっちゃ疲れた〜」
もう一人もこちらを見て、目を丸くする。
「え、立花さん、その格好……体操服? 珍しくない? なんか、かわいいじゃん」
向けられる声も視線も、どこまでも普通だった。
自分をすり抜けていくような感覚もなければ、まるで存在しないみたいに素通りされることもない。
立花は、その場に立ち尽くした。
……見えてる。
体操服のままでも。
何も変わっていなくても。
そのままの自分で、ちゃんと見えている。
石原は隣で足を止め、何も言わずに見ていた。
「わ、私……」
立花は口を開いたが、声が少し喉につかえた。
それでも、小さく笑う。ぎこちないけれど、それでよかった。
「ちょっと……用事で。二人とも、お疲れさま」
女子たちは石原をちらりと見て、互いに目を合わせてくすっと笑い、軽く手を振ってそのまま通り過ぎていった。
姿が見えなくなっても、立花はしばらくその場に立ったままだった。
夕陽がその体をやわらかく包み込み、瞳の奥にはわずかに光が灯っていた。
やがて立花は振り向き、石原を見る。
口元にはさっきの笑みが少し残っていて、目にはまだ涙が滲んでいた。
「……見えてた」
まるで、奇跡を確かめるような声だった。
「私のこと」
「……ああ」
石原が短く返す。
立花は視線を落とし、袖をそっと引いた。
少し大きめの体操服を見下ろしながら、途切れ途切れに言う。
「これ着て……普通に……」
言葉は少し詰まった。それでも、ちゃんと続いた。
「ちゃんと、見えてた」
「……ああ」
風が二人のあいだをそっと通り抜けていく。
立花は息を吸って顔を上げ、夕焼けを見たあと、もう一度石原へ視線を向けた。
「先輩……体育祭……」
ほんの少し間を置いて、立花は続ける。
「行ってみたい」
石原はうなずいた。
「……ああ。行こう」
その言葉に、立花が笑う。
さっきより少しだけ大きな、飾らない、「立花美里」そのままの笑顔だった。
夕陽が二人の影を長く伸ばし、並んだその影は静かに重なっていた。




