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見える感情、見えないまま  作者: 颍川
第七話 走る——彼女らしい姿
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第三十六話

---


話し声は、少しずつ小さくなっていった。

生徒会室の中も、いつの間にか夕暮れの色に染まっている。

春野が大きく伸びをして、立ち上がった。


「うわ、もうこんな時間か。緒山、教務室の書類、まだだろ?」

「え? あ、ほんとだ!」


緒山は、ぱっと動き出した。

手際よく、机の上を片づけていく。


花野は、もう本を閉じていた。

「図書館、予約してた時間」

それだけ言って、立ち上がった。


杏も椅子からぴょんと降りた。

「杏も朋奈さんと行く!」


そう言って、緒山のそばへ駆け寄った。

そのまま、くるっと振り返って、立花に、小さくウインクした。


一人、また一人と部屋を出ていく。

扉が、静かに閉まった。


残ったのは、外から聞こえる鳥の声と、その場に動かないままの、二人だけだった。


立花は、体操服の裾を指でつまんだ。

落ち着いたはずの鼓動が、また少しだけ速くなる。


石原は少しだけ黙ってから、立花へ視線を向けた。


「……少し歩くか」


そう言って、窓の外を指した。

その先には、夕焼けに染まった校内が広がっている。


「適当にな。座りっぱなしだったし」


立花はしばらく迷ってから、小さく、うなずいた。


外の空気を吸いたかった。

今日のことを、このまま胸に抱えたままではいられなかった。


胸の奥に小さく芽生えた、あの火種を消化するためにも。


---


夕方の校内は、静かだった。

桜の葉が、風に揺れていた。

さらり、と葉擦れの音がした。

光と影が、地面に揺れていた。


二人は、少し距離を空けて歩いた。

並ぶでもなく、離れるでもなく。

足音が、前後にずれて、少しずつ、重なっていく。


「……何かしなきゃって、思わなくていい」


石原が、ふいに言った。

低い声が、風に溶けるように響いた。


「体育祭も――」

そこで、ひと呼吸置いて。

「今みたいに、入って、見て、感じればいい」

言葉を区切るように、石原は静かに続けた。

「行けそうなら、そのまま行けばいい。

 無理なら、立ち止まってもいい。帰ってもいい」


少しだけ間を置いて、言う。


「やらなきゃいけないわけじゃ無い。

ただ、もともと君のものだったものを、少し取り戻しに行くだけだ」


石原は、横目で立花を見た。

「例えば――特別な服を着なくても、こうして、普通に歩ける感じとか」


立花は、足元を見た。

地面には、伸びた影。細く、長く伸びていた。


――前なら、

こうして歩くことが、怖かった。


でも、今は。

風が、頬に触れる。

それが、はっきりわかった。

隣の足音も、自分の鼓動も、ちゃんとそこにある。


怖さは、消えていない。

でも――もう、全部を呑み込まれたりはしない。


その代わり、胸の奥で、小さく動いているものがあった。


……何か。

まだ、はっきりしない。

でも、消えない。


角を曲がった、その先。

校舎の影が落ちる通路に、向こうから、女子が二人歩いてきた。

しかも、同じクラスの子たちだ。

色紙と絵の具を抱え、笑いながら歩いてくる。


――その瞬間。

体が、固まった。ほとんど反射的に、視線が落ちる、顔を伏せた。

いつもの、動き。


前を歩いていた女子が、ふとこちらに視線を向け、そのまま立ち止まった。

にこっと笑って手を上げる。


「――あ、立花さん! まだ帰ってなかったの?」


立花は、はっと顔を上げた。


……見えてる?


「さっきまでクラスの掲示物つくっててさ、めっちゃ疲れた〜」


もう一人もこちらを見て、目を丸くする。


「え、立花さん、その格好……体操服? 珍しくない? なんか、かわいいじゃん」


向けられる声も視線も、どこまでも普通だった。

自分をすり抜けていくような感覚もなければ、まるで存在しないみたいに素通りされることもない。


立花は、その場に立ち尽くした。


……見えてる。


体操服のままでも。

何も変わっていなくても。

そのままの自分で、ちゃんと見えている。


石原は隣で足を止め、何も言わずに見ていた。


「わ、私……」


立花は口を開いたが、声が少し喉につかえた。

それでも、小さく笑う。ぎこちないけれど、それでよかった。


「ちょっと……用事で。二人とも、お疲れさま」


女子たちは石原をちらりと見て、互いに目を合わせてくすっと笑い、軽く手を振ってそのまま通り過ぎていった。


姿が見えなくなっても、立花はしばらくその場に立ったままだった。

夕陽がその体をやわらかく包み込み、瞳の奥にはわずかに光が灯っていた。


やがて立花は振り向き、石原を見る。

口元にはさっきの笑みが少し残っていて、目にはまだ涙が滲んでいた。


「……見えてた」


まるで、奇跡を確かめるような声だった。


「私のこと」


「……ああ」


石原が短く返す。


立花は視線を落とし、袖をそっと引いた。

少し大きめの体操服を見下ろしながら、途切れ途切れに言う。


「これ着て……普通に……」


言葉は少し詰まった。それでも、ちゃんと続いた。


「ちゃんと、見えてた」


「……ああ」


風が二人のあいだをそっと通り抜けていく。


立花は息を吸って顔を上げ、夕焼けを見たあと、もう一度石原へ視線を向けた。


「先輩……体育祭……」


ほんの少し間を置いて、立花は続ける。


「行ってみたい」


石原はうなずいた。


「……ああ。行こう」


その言葉に、立花が笑う。

さっきより少しだけ大きな、飾らない、「立花美里」そのままの笑顔だった。


夕陽が二人の影を長く伸ばし、並んだその影は静かに重なっていた。

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