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見える感情、見えないまま  作者: 颍川
第七話 走る——彼女らしい姿
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第三十五話

---


緒山に手を引かれ、立花は席に座らされた。

春野から渡された温かい麦茶を、両手で包んだ。


指先が、震えていた。


視線は落ちたまま。

誰の顔も、見られなかった。


――視線。

いくつも。

自分に向いていた。


石原は窓際にもたれていた。

少し離れた場所から、静かに立花を見ていた。


何も言わなかった。


室内は静かで――

外の音だけが、かすかに入り込んでいた。


「……三年B組、隊列集まれー!」


立花は、反射的に顔を上げた。


窓の外。

校庭の一角。

旗が揺れていた。

光が、強かった。


「――ああ、そういえば」


春野が外を見たまま言った。


「明後日だな」


緒山のほうを見た。

そのまま、二人で話し始めた。


準備のこと。

段取りの確認。


――体育祭。


その言葉が、自然と胸に浮かんだ。


立花の指に、ぎゅっと力が入った。


まだ、怖い。


けれど――


さっき。

しっかり支えられた感触。

囲まれていた、あの感じ。


その中で――

別の何かが、少しだけ動いた。


……悔しいのか。

それとも――


少しだけ。

やってみたいのか。


石原が以前言っていた言葉が、彼女の心の中でこだました。

「その力を使わずに、普通のままでいてみよう。そのまま見られることに、少しずつ慣れていくんだ」


本当の自分は……まだ『見てもらえる』だろうか?


みんなは――

もう一度、そんなわがままを受け止めてくれるのか。


体が、わずかに揺れた。


顔を上げた。


窓際。

石原と、目が合った。


「……体育祭」


声が小さかった。


「私……試してみたい」


一度、息を吸う。


視線を上げた。

みんなを見た。


「その……ああいうのじゃなくて」


言葉を探した。


「制服で……ただ、見てみたい」


「いいじゃん!」


緒山が、笑った。

春野がうなずいた。


「いいと思う。どうする?

見るだけか、少し出るか」


花野は何も言わなかった。

口元だけ、わずかに動いた。


杏が、小さな声で言った。


「美里ちゃん、がんばって……!」


――否定はない。


全部。

その気持ちごと、受け止められていた。


立花は、ぼんやりとそれを聞いていた。


胸の奥に詰まっていた重さが少しだけ、ほどけていった。


石原が歩いてきた。

数歩手前で、止まった。


「立花さん……」


声は、いつもより少しだけやわらかかった。


「今回行くなら――」


少し間を置いて。


「隠れて見つもりなるのか。

それとも……ちゃんと立って、見るつもりなのか?」


立花は、言葉を失った。


隠れて――

それで、何になるのか。


でも――


じゃあ、自分は何をしたいのか。


わからない。


意識が、遠い過去へ流れていった。


耳元をかすめる風。

ゴールを切ったあとの、焼けるような肺。

限界の先の解放感。


あのとき。


汗だくで。

ただ――走ることだけを考えていた。


「……どこまでできるかは、わからないです」


うつむいた。


声は、小さかった。

自分に言い聞かせるみたいに。


「でも……ちょっとだけ」


言葉を探した。


「もう一回、行ってみたいです」


顔を上げた。

石原を見た。


「試合とかじゃなくて……

何かのためでもなくて」


少し間を置いて。


「ただ……もう一回、走ってみたい」


迷いながら。


「……それでも、いいですか」


石原は、少しだけ笑った。


それから――春野を見た。


「よし。じゃあ次は、体育祭の段取り決めるか」


「……あ」


緒山が、ふと指さした。


立花のスカートを。


「ここ……破れてる?」


立花は下を見た。


脇のあたりが、少し裂けていた。

内側の布が、のぞいていた。


頬が、わずかに赤くなった。


どうしていいかわからない。


緒山が、石原をちらっと見た。

石原は視線を外した。


「お兄ちゃん、ちょっと乱暴だよ……」


杏が、小さくつぶやいた。


「……ごめん」


「これじゃ、ダメだね」


緒山がそう言って立ち上がりにこっと笑って、手を差し出した。


「ほら、直しに行こ。

ちょうど予備の体操服あるし、先にそれ着ちゃお?」


少し間を置いて。


「破れたままだと、気分も落ちるでしょ」


「でも……」


「行こ〜」


少し迷ってうなずいた。


手を引かれて、部屋を出て行く。


数分後二人は戻ってきた。


立花は、深い青の体操服に着替えていた。


袖は少し長かった。

ズボンも、少し余っていた。


灰色がかった長い髪は、後ろで簡単にまとめられている。


涙の跡は消えていた。

さっきより、少しだけすっきりして見えた。


「お、戻ったか」


春野が顔を上げた。


「ちょっと大きいな。でも、似合ってるぞ」


【春野陽明の感情:疑問24、その他76】


頬をかきながら、立花を見た。


「そういやさ……さっき、外で着替えてきたよな」


石原を見た。


「前に言ってたろ。

普通の格好だと、あんまり気づかれないって」


もう一度、立花へ視線を向けた。


「でもさっき、普通に見えたし。

今も、ちゃんと見えてる」


首をかしげた。


「石原が言ってたのと、ちょっと違くないか?」


生徒会室が一瞬、静かになった。


立花の指が、ぎゅっと袖を掴む。


石原の視線が素早く春野と立花のあいだを行き来した。


春野にはっきりと、安定した彼女が見えている。


……代償が軽くなってるのか?


すぐには言わなかった。

胸の奥に、押し込んだ。


視線は、また立花へ向いた。


立花も、顔を上げた。

目が合った。


一瞬、立花の胸がわずかに跳ねる。

小さな火種が生まれたようだった。


「……」


言葉にはならなかった。


けれど――


少しだけ、軽かった。


石原が、ごく小さくうなずいて視線を外した。


でも立花はまだ、その瞬間に残っていた。


ゆっくり、視線を落とした。

袖を、指で握った。


ざらついた布の感触が、指先に残った。


――何かが、少しずつ変わりはじめていた。

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