第三十五話
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緒山に手を引かれ、立花は席に座らされた。
春野から渡された温かい麦茶を、両手で包んだ。
視線は落ちたまま。誰の顔も、見られなかった。
――視線。いくつも。自分に向いていた。
石原は窓際にもたれていた。
少し離れた場所から、静かに立花を見ていた。
何も言わなかった。
室内は静かで――外の音だけが、かすかに入り込んでいた。
「……三年B組、隊列集まれー!」
立花は、反射的に顔を上げた。
窓の外。校庭の一角。旗が揺れていた。光が、強かった。
「――ああ、そういえば」
春野が外を見たまま言った。
「明後日だな」
緒山のほうを見た。そのまま、二人で話し始めた。
準備のこと。段取りの確認。
――体育祭。その言葉が、自然と胸に浮かんだ。
立花の指に、ぎゅっと力が入った。
まだ、怖い。けれど――
さっき。
しっかり支えられた感触。
囲まれていた、あの感じ。
その中で――別の何かが、少しだけ動いた。
悔しいのか。それとも――
少しだけ……やってみたいのか。
石原が以前言っていた言葉が、彼女の心の中でこだました。
「その力を使わずに、普通のままでいてみよう。そのまま見られることに、少しずつ慣れていくんだ」
本当の自分は……まだ『見てもらえる』だろうか?
みんなは――もう一度、そんなわがままを受け止めてくれるのか。
体が、わずかに揺れた。顔を上げた。
窓際。石原と、目が合った。
「……体育祭」
声が小さかった。
「私……試してみたい」
一度、息を吸う。視線を上げた。みんなを見た。
「その……ああいうのじゃなくて」
言葉を探した。
「制服で……ただ、見てみたい」
「いいじゃん!」
緒山が、笑った。春野がうなずいた。
「いいと思う。どうする?見るだけか、少し出るか」
花野は何も言わなかった。口元だけ、わずかに動いた。
杏が、小さな声で言った。
「美里ちゃん、がんばって……!」
――否定はない。
全部。その気持ちごと、受け止められていた。
立花は、ぼんやりとそれを聞いていた。
胸の奥に詰まっていた重さが少しだけ、ほどけていった。
石原が歩いてきた。数歩手前で、止まった。
「立花さん……」
声は、いつもより少しだけやわらかかった。
「今回行くなら――」
少し間を置いて。
「隠れて見つもりなるのか。それとも……ちゃんと立って、見るつもりなのか?」
立花は、言葉を失った。
隠れて――それで、何になるのか。
でも――じゃあ、自分は何をしたいのか。
わからない。
意識が、遠い過去へ流れていった。
耳元をかすめる風。ゴールを切ったあとの、焼けるような肺。限界の先の解放感。
あのとき。汗だくで。ただ――走ることだけを考えていた。
「……どこまでできるかは、わからないです」
うつむいた。声は、小さかった。自分に言い聞かせるみたいに。
「でも……ちょっとだけ」
「もう一回、行ってみたいです」
顔を上げた。石原を見た。
「試合とかじゃなくて……何かのためでもなくて」
「ただ……もう一回、走ってみたい」
迷いながら。
「……それでも、いいですか」
石原は、少しだけ笑った。
それから――春野を見た。
「よし。じゃあ次は、体育祭の段取り決めるか」
「……あ」
緒山が、ふと指さした。
立花のスカートを。
「ここ……破れてる?」
立花は下を見た。
脇のあたりが、少し裂けていた。内側の布が、のぞいていた。
頬が、わずかに赤くなった。どうしていいかわからない。
緒山が、石原をちらっと見た。
石原は視線を外した。
「お兄ちゃん、ちょっと乱暴だよ……」
杏が、小さくつぶやいた。
「……ごめん」
「これじゃ、ダメだね」
緒山がそう言って立ち上がりにこっと笑って、手を差し出した。
「ほら、直しに行こ。ちょうど予備の体操服あるし、先にそれ着ちゃお?」
少し間を置いて。
「破れたままだと、気分も落ちるでしょ」
「でも……」
「行こ〜」
少し迷ってうなずいた。
手を引かれて、部屋を出て行く。
数分後二人は戻ってきた。
立花は、深い青の体操服に着替えていた。
袖は少し長かった。ズボンも、少し余っていた。灰色がかった長い髪は、後ろで簡単にまとめられている。
涙の跡は消えていた。さっきより、少しだけすっきりして見えた。
「お、戻ったか」
春野が顔を上げた。
「ちょっと大きいな。でも、似合ってるぞ」
【春野陽明の感情:疑問24、その他76】
頬をかきながら、立花を見た。
「そういやさ……さっき、外で着替えてきたよな」
石原を見た。
「前に言ってたろ。普通の格好だと、あんまり気づかれないって」
もう一度、立花へ視線を向けた。
「でもさっき、普通に見えたし。今も、ちゃんと見えてる」
首をかしげた。
「石原が言ってたのと、ちょっと違くないか?」
生徒会室が一瞬、静かになった。
立花の指が、ぎゅっと袖を掴む。
石原の視線が素早く春野と立花のあいだを行き来した。
春野にはっきりと、安定した彼女が見えている。
……代償が軽くなってるのか?
すぐには言わなかった。胸の奥に、押し込んだ。
視線は、また立花へ向いた。立花も、顔を上げた。目が合った。
一瞬、立花の胸がわずかに跳ねる。小さな火種が生まれたようだった。
「……」
言葉にはならなかった。
けれど――少しだけ、軽かった。
石原が、ごく小さくうなずいて視線を外した。
でも立花はまだ、その瞬間に残っていた。
ゆっくり、視線を落とした。袖を、指で握った。ざらついた布の感触が、指先に残った。
――何かが、少しずつ変わりはじめていた。




