第三十四話
---
そのとき――
やわらかな白い光が、不意に石原のすぐ近くで差し込んだ。
石原は目を見開き、振り向く。
立花が、そこにいた。
制服じゃない。
深い青のワンピース。
裾の細かな装飾が、廊下の薄明かりを受けて、かすかにきらめいていた。
涙の跡は乾いていた。
でも、目の縁は赤いままだった。
【立花美里の感情:@#、$*%】
石原を見て、かすれた声で立花は言う。
「先輩……もう、探さなくていいです。
みんなと、言い合いなんてしなくていいです」
一度、言葉が途切れた。
声が、揺れた。
「“代償”……もう、こうなっちゃいましたから」
石原の息が止まる。
「先輩がいなければ、私はそのまま消えていくだけです。
そのほうが……もうこんな思いをしなくて済みます」
その言葉が冷たい針のように突き刺さった。
ここ数日、張りつめていたもの。
“責任”。
“なんとかする”という気持ち。
全部、一気に弾けてしまう。
溜まっていた疲労。
消えていく彼女を見た恐怖。
見つけられなかった焦燥。
そして――
今、目の前で、それを否定されたこと。
全部が沈んでいった。
別の形になった。
重くて、鋭い何かに。
顎に力が入った。
「……こんな思いをしなくて済む?」
一歩、踏み出した。
「その格好で、ここに立って――
全部俺のせいみたいに言うのか」
「楽だよな。
俺を遠ざければ、それで済むんだから」
さらに一歩、踏み出した。
「また殻に戻って、
“私はただ消えていくだけ”って顔してればいい」
「それは消えるだなんて言わない。それは逃げ出すって言うんだ!」
その言葉は、閉じたままの彼女の内側へ、強く打ち込まれた。
「さっき……ついてきてただろ」
低く、押し殺した声。
「俺が、見えないやつみたいに……あちこち探し回ってるのを見てて。
それでも――声、かけなかった」
わずかな沈黙。
「そのとき、君は何を考えていた?」
間を置く。
「“ほら、やっぱり。先輩ももう見えなくなってきた”――か」
さらに、間を置く。
「それとも……“よかった、まだ探してくれてる”か」
立花の肩がびくりと震えた。
視線を逸らす。
指が、スカートの裾を強く握る。
張りつめていた表情が、崩れかける。
「屋上で言ってたよな」
石原は続ける。
「他人の光のそばに立つと、自分の影が薄くなりそうで怖いって」
一歩、詰めた。
「じゃあ今は?」
低い声。
「もう“影”すらいらないって?
いっそ――何もないほうが楽だって」
立花の呼吸が乱れた。
「何も期待しなければ、失望もしなくて済む。比べられなくて済む。
誰かの足を引っ張ってるって思わなくて済む」
「もういい……やめて……!」
「やめる?やめるもんか!」
石原の声には怒りがこもっていたが、怒りが向いている先は彼女じゃない。
彼女が選ぼうとしている“形”に向いている。
「俺は、腹が立ってるんだ、立花さん。今の君の、その“これでいい”って顔に」
「怖がってるくせに。
あれだけ震えてたくせに」
一拍。
「もうどうにもならないって顔して、全部終わりみたいにしてる」
言葉が詰まる。
それでも、続けた。
「俺に見えてるかどうか、気にしてるだろ」
「気にしてるから、隠れた」
「“いつか俺にも見えなくなるかもしれない”って、その現実に向き合いたくないからって、
俺を遠ざけることでしか、そう言えないのかよ!」
「違う!」
立花は勢いよく顔を上げて反論したが、涙はそれよりも早く溢れ出す。
「先輩はわかってない!」
声が震えた。
「見えてるって言っても……ずっと見える保証なんて、ないじゃないですか!」
息が乱れた。
「今朝だって……今朝、見えてなかったじゃないですか!」
言葉が途切れそうになった。
それでも、続ける。
「“代償”は進んでるんです!
私、ちゃんとやりました……でも、意味なかった!」
「このままじゃ……すぐに――」
声が崩れた。
「先輩も、他の人と同じになります。
目の前で叫んでも……見えない、聞こえない」
荒い息が漏れる。
体が小刻みに震える。
「そのなったら……そのなったら……」
言葉が出なかった。
代わりに手が動いた。
襟元を掴み、引き裂くように強く引っ張った。
この服を脱げば。
戻れる。
“安全な場所”に。
見られなくてもいい場所に。
石原に背を向けて、逃げ出した。
「立花!」
彼女を、またあの殻の中に引きこもらせてはいけない――!
石原は本能的に前へ出て、後ろから強く立花を抱きしめる。
彼女の体は硬直し、それから逃れようともがいたが、それでも石原は彼女を離さなかった。
腕の中に、閉じ込める。
「落ち着いて! 俺を見て、俺の話を聞いてくれ!」
石原の声は、彼女の耳元ではっきりと響く。
「俺には君が見える! 今この瞬間も! 見えるだけじゃない、触れることもできる!
君の髪の毛、君の肩、君がここで震えているのも――全部、わかる! 俺はここにい
る!」
――それでも。
立花の震えは止まらなかった。
すすり泣きが途切れ途切れに聞こえる。
石原は腕の中の震えを感じながら、かつての立花の崩れ様を思い出す。
――そして。
ふと、緒山の声が、脳裏によみがえる。
『美里ちゃんの頭って弱点なんだよ?
触るとすぐ大人しくなるの。猫みたいに――あ、先輩に教えたら危ないかな〜』
あのときは、笑って流した。
でも――今は。
迷ってる時間はなかった。
少しだけ、腕を緩めた。
片手を上げた。
そっと――頭に触れた。
やわらかい髪。
掌に、その感触が残った。
ゆっくりと、一定のリズムで、静かに撫でた。
――一瞬。
体の力が、抜けた。
はっきりとわかるほどに。
抵抗と震えが、まるで一時停止ボタンを押されたかのように止まった。
すすり泣きは次第に低くなり、途切れ途切れの嗚咽へと変わり、硬くなっていた背
中の強張りも、少しずつ解けていく。
彼女の激しい感情は確かに、この単純で不思議な接触によって劇的に宥められてい
た。
立花は静かになり、彼に抱かれたまま、頭を低く垂れ、全ての力を使い果たしたか
のようだった
石原は、そのまま支えていた。
離さなかった。
――二人の呼吸だけが、重なっていた。
廊下には、それしかなかった。
遠くで、校内のざわめきが、かすかに聞こえていた。
---
ギィ。
生徒会室の扉が、わずかに開く。
隙間から、いくつかの視線がそっとのぞき込んでいた。
先頭にいたのは、緒山。
彼女にいつもの笑顔はなかく、石原とその腕の中の立花にその視線は注がれている。
何も言わなかった。
ただ、立っていた。
その後ろで、春野はわずかに眉を顰め、石原を見てから立花を見て、唇を引き結んで何も言わなかった。
さらに奥には、花野が影の中に立っている。
その視線が一瞬だけ立花の頭の上に乗った手で止まり、すぐに逸らされた。
緒山の服の裾を小さな手でぎゅっと握り締め、兄と立花を見つめて、下唇を噛んでいる。
時間が数秒止まったようだった。
最初に動いたのは、緒山だった。
そっと扉を押した。
開けた。
二歩、前へ進んだ。
少し距離を取って――しゃがんだ。
立花の高さまで、目線を落とした。
「……美里ちゃん」
やわらかく。
「見えたよ。全部」
立花の体が、かすかに揺れた。
「先輩、ちゃんと見つけたね」
少し間を置いて。
「それと――私たちも」
まっすぐ。
「今、ちゃんと『見えてる』よ」
視線を、外さなかった。
春野も歩み寄った。
頭をかいた。
「……その、なんだ」
軽く咳払いをした。
「廊下で抱き合ってるのは、さすがに目立つだろ」
少し間を置いて立花を見た。
「中、戻るか。ここじゃ話しづらい」
そのときにはもう、花野は中に戻っていた。
何も言わないまま、二人の席に、湯気の立つ麦茶を置く。
杏が、小さく口を開いた。
「……美里ちゃん」
控えめな声で。
「お兄ちゃん、すごく心配してたし……
私たちも……」
言葉がつかえた。
それでも。
「中、入ろ……?
あの……お菓子、作ってきたから」
子どもっぽく不器用な慰め方だったが、ひどく誠実だった。
石原の腕の中。
さっきまで抜けていた力が少しずつ戻ってきているのが感じられた。
石原は、ゆっくり腕を離した。
それでも、すぐ横に手を残した。
支えられる位置に。
緒山が上着を持ってきた。
そっと、肩にかけた。
立花はゆっくり、顔を上げた。
涙で霞む目の中に、周囲を取り囲む数人の顔が映った――緒山、春野、花野、杏。
彼らの視線は、全員が彼女の上にあった。
ずっとつきまとっていたズレが、今は無い。多くの安定した視線が集まることで、不思議なほど遮断された。
「私……」
立花は口を開いたが、声は嗄れており、さらに多くの涙が溢れ出す。
緒山が手を伸ばし、冷えた指をそっと握った。
「大丈夫」
小さく。
「中、行こ。ね?」
立花は、その手を見た。
それから一同りを見た。
最後に、石原を見る。
目が合った。
立花は、ほんの少しだけ頷いて。
緒山に手を引かれて、ゆっくりと生徒会室へ入っていく。
扉が、静かに閉まった。
慣れ親しんだ中の空気。木の匂い。
ここで――
最初に“見せた”。
最初に、制服で座った。
立花にとっての最初の「安全地帯」だ。
そして――
そこにいる全員が。
今、ちゃんと。
自分が『見えて』いた。




