第三十三話
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「先輩!?」
緒山の声で、石原ははっと我に返った。
視界に映るのは、行き交う生徒たちだけだった。立花の姿は、もうどこにもない。
「今の……美里ちゃんの声だよね? どこにいるの?」
緒山は焦った様子で周囲を見回した。だが、どこにも姿は見えない。
石原は胸の奥で渦巻く感情を押し殺した。
ここで事情を知らない緒山に探させても、無駄になるだけだ。下手をすれば、また立花を刺激しかねない。
「緒山さん」
ひとつ、深く息を吸う。声は低く、しかしはっきりとしていた。
「立花さんの状況は、少し特殊だ。
少し時間が必要だし……特定のやり方でないと見つけられない。緒山さんは先に教室へ戻ってくれ。いつも通り、周りに気づかれないように。立花さんのことは、俺に任せてほしい」
緒山の目に宿る強い心配の色を見て、石原はわずかに声を和らげた。
「必要になったら、すぐ連絡する。
だから今は――俺を信じてくれ」
緒山はじっと彼を見つめた。
その瞳には、普段見せない焦りと、確かな決意が浮かんでいる。
問い詰めたい衝動よりも、信じたい気持ちが勝った。
彼女は小さくうなずき、鞄からスマートフォンを取り出して見せた。
「ちゃんと連絡してくださいね、先輩。絶対に……見つけてあげてください」
ちょうどそのとき、始業のチャイムが鳴り響いた。
二人は校門の前で、手早く別れた。
緒山は教室へ駆け出し、石原はその場で踵を返した。人の流れに逆らい、そのまま校内の奥へと走った。
必死に、探す。
図書館。中庭。部室棟の裏。林の中。
名を呼び続ける声は、やがて焦りを帯び、次第にかすれていった。
だが返ってくるのは、虚しく響く自分の声と、通りすがりの訝しげな視線だけだ。
彼は、すべての気配を断ち切るように身を隠している彼女を――見つけられなかった。
ただ、見つからない、というわけではない。
その感覚が、余計に胸を締めつけた。
本来なら、自分には“視える”はずなのに――その特別な力が、今はまるで働いていない。
無力感が、じわじわと全身を覆っていった。
“視える”という自分の力すら、信じられなくなりそうだった。
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【Another View――立花美里】
石原の視線がかすめていく、人の流れの端で、廊下の曲がり角、木陰の下――
立花は、ずっとそこにいた。
“消える”制服を着たまま、下唇を強く噛みしめ、爪を掌に食い込ませて。
痛みで、声が漏れないよう無理やり抑え込んでいた。
音を立てない影のように、離れた場所から、頑なに彼の後ろを追い続けていた。
最初に感じたのは、冷えきったような感覚だった。
「……ほら、やっぱり。先輩も、もう“見えてない”んだ」
けれど、花壇のそばで、彼が背を向けたまま足を止め、息をついた、そのとき。
胸の奥に、負けたくない気持ちがふっと湧き上がった。
立花は木の陰から、そっと顔だけ出して、その背中に向かって、思いきり変な顔をしてみせた。
鼻にしわを寄せて、舌を出した。
いつも生徒会室で、言い合いになったときみたいに。
やった瞬間、心臓が喉まで跳ね上がった。
でも。石原は、まったく反応しなかった。
手でこめかみを押さえたまま、疲れた目で遠くを見ているだけだった。
「……」
立花はすぐに木の後ろへ体を引っ込めた。
ざらついた幹に背中を押しつける。
胸の奥が、すっと冷えていった。
残っていたわずかな期待も、そこで消えた。
さっきまでの冷え切った感覚が、少しずつ胸を刺すような感情へと変わっていく。
「もう、見えてないのに……」
胸の奥に、じわりとした感情が広がっていった。
もう一度、試した。
廊下で彼が歩いてくるのを見て、先回りした。
わざと足音を強く立てた。
耳に残るほど、大きく。
それから、彼の視界に入りそうな位置で、体を少しだけ傾けた。
石原は足を止めなかった。
そのまま、何もないみたいに通り過ぎていった。
「もう放っておいてよ……!」
喉までせり上がる声を、必死に飲み込んだ。
「そんなに頑張られると……」
ますます自分が、消えゆく重荷になっていく気がした。
その気持ちは、さらに膨らんでいった。
少しだけ、行き場のない苛立ちも混ざっていった。
「先輩が……無理に変えようとするから……」
浮かんだその考えに、自分でも震えてしまう。
すぐに、強い罪悪感に押し潰された。
そんなこと、思っていいはずがないのに。
優しさだって、ちゃんとわかっているのに。
――それでも、言いようのない気持ちは、消えてくれなかった。
「先輩は、もう十分やってくれたよ……」
また、彼が足を止めた。
あてもなく、周りを見回している。
立花は息を整えて、勇気を振り絞った。
彼の真正面に立つ。
そして、何度も手を振った。
「あっち行って」
届かない。
視線は、彼女を通り抜けて、背後の掲示板へと向き、やがて静かに逸れていった。
「……もう、終わりでいいよ。先輩のためにも」
心の中で、何度も繰り返した。
そう言い聞かせることでしか、離れる勇気を保てなかった。
石原が重い足取りで校舎前まで戻ってくる。
壁に背を預け、そのままゆっくりとしゃがみ込み、腕に顔を埋めた――そのとき。
いつもはまっすぐ立っているその背中が、今は小さく丸まっていた。
そんな姿は見たことがなく、ひどく疲れて見えた。
自分を説得するためのあらゆる理由も、彼を押しのけようとしたあらゆる決意
も、
その光景を前に、全部崩れていく。
――離れたくない。
本当に彼の世界から消えてしまうことを想像しただけで。
もう二度と、この背中を見られなくなると思っただけで――胸が苦しくて、息が詰まりそうになった。
――苦しい。
自分が消えることよりも。
自分のせいで、あんな顔をさせていることのほうが――ずっと。
こんな感覚は、初めてだった。
涙が、前触れもなく溢れ出した。
体が震えた。
それでも、唇を強く噛んで、声だけは漏らさなかった。
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スマホが震えた。春野と緒山からだった。
緒山:「石原先輩、どうですか?」
春野:「石原、どこ行った? 立花のことか?」
石原は大木にもたれ、目を閉じたまま指だけを動かした。
「まだ探してる。状況が少し複雑で。昼休み、生徒会室で詳しく話します」
送信すると、そのまま幹に体を預けた。
見えるはずなのに、何もできない。
それが、どんな疲れよりもつらかった。
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【昼休み・生徒会室】
空気が、重かった。
石原の声は大きくはなかったが、静寂の中にはっきりと響いた。
今朝、校門で起きたこと。
イチョウの木の下で待っていた立花。
目の前を通ったのに、気づけなかったこと。
崩れるように泣いていたこと。
そして、午前中ずっと探し続けて、見つけられなかったこと。
全部、隠さずに話した。
“代償”のことも、“存在感の希薄化”のことも。
「……それで、一人でずっと探してたのか?」
腕を組んだ春野が、眉をひそめた。
「守りたいのはわかる。でもさ、こういうのは先に言えよ。
俺たちだって、見えなくてもできることくらい、考えられるだろ」
石原はこめかみを押さえた。声が少しかすれた。
「言って……どうするんですか。
近くにいるのに見えない、それをみんなにも味わわせるんですか。
それとも、見えないまま探して、かえって立花を追い詰めるんですか」
「でも、先輩一人じゃ抱えきれません!」
緒山が思わず口を挟んだ。
「もし……もし先輩でも、うまくいかなかったら?
美里ちゃんには、私たちみんなが必要なんです」
「彼女が必要としているのは、そういうことじゃない」
ずっと黙っていた花野が、本を閉じて言った。
あの無機質な目が、ゆっくりと全員をなぞった。
「本人が来ていない以上、こちらから関わるべきではない。
過剰な注目は、むしろ逆効果」
春野が苛立ったように頭をかいた。
「じゃあ、何もせずただ待つのかよ」
「鍵は君だ、石原」
花野の視線が向いた。声に起伏はない。
「現状、唯一安定している“アンカー”だ。やり方自体は間違っていない。
だが状態が悪い」
「君は焦りすぎている。全部、自分一人で背負い込んでいる。
その焦燥は、相手に“厄介な存在として扱われている”と感じさせてしまう」
核心を突く分析が生徒会室を静まり返らせる。
石原は何も言えなかった。
喉が詰まった。頭の中も、ぐちゃぐちゃだ。
「……悪い。ちょっと外の空気、吸ってくる」
立ち上がり、誰の顔も見ずに、ドアを開けた。
背後で扉が閉まる。
中からは、春野の抑えた声と、緒山のなだめる声が、かすかに聞こえていた。
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石原は廊下の壁にもたれたまま、顔を上げ、目を閉じていた。
――うまくいかない。
――全部、自分のせいだ。
無力感。
焦り。
不安。
ぐちゃぐちゃに絡まって、離れない。
……自分は確かに、焦りすぎていた。
「救う」ということは決して一人で背負える重荷ではないということを、忘
れかけていた。
シャツ越しに伝わる壁の冷たさ。
それが、少しだけ頭を冷やす。
息を深く吸って、手で軽く頬を叩いた。
――思い出す。
ここ数日のこと。
断片が、ひとつずつ浮かび上がってくる。
見過ごしていたものが、遅れて形を持ち始めた。
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【ある日の昼休み】
立花が、少しだけぎこちなく、それでも勇気を出して、生徒会室から石原を連れ出した日があった。
「ちょっとだけ、いいですか」
二人は屋上に行き日陰になっている給水タンクのそばに腰を下ろした。
静かだった。
けれど風が強くて。
立花の灰色がかった長い髪が、何度も乱れた。
そのたびに、手で押さえていた。
ふいに彼女は口を開いた。
「佐藤君が……別に悪い人じゃないって、わかってる」
視線は、遠く。
グラウンドの白くかすれたトラックに向いていた。
声は、風に流されそうなくらい小さい。
「昔から、ああいう感じでさ。
目、すごくまっすぐで……」
少し、間があった。
「……あんな風に見つめられると、
本当に速く走れる気がしてた」
手の中の、おにぎり。
ぎゅっと握った。
包装が、小さく音を立てた。
「……でも、今はちょっと……あの視線が怖い」
うつむいた。
前髪が落ちて、表情が見えなくなった。
「佐藤君が怖いっていうより……」
途切れた。
「……あんなふうに、明るい場所のすぐそばにいるとさ」
言葉を選ぶみたいに、ゆっくり。
「自分の影、すごく薄く見えない?」
一拍おいて。
「なんていうか……
どうでもいいものみたいに」
ほとんど、つぶやきのようだった。
言い終えたあと、はっとしたように、急に動きだす。
おにぎりを大きく口に押し込んで無理やり噛んだ。
視線は、膝に落ちたまま。
あのとき、石原は、ただ「うん」とだけ返し、軽くうなずいただけだった。
昔の話だと思っていた。
今とのギャップに戸惑っているだけだと。
だから、支えよう、と思った。
だが、今この瞬間、ようやく気づく。
彼女が恐れていたのは佐藤本人ではない。
「他人の光の下に置かれること」によって、自分が覆い
隠され、自分の存在を希薄にされてしまうことへの恐怖
だったのだと。
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今になって、あのときの会話が。
一言一言が、全部繋がっていく。
張りつめていた横顔。
風に乱されていた髪。
無理に飲み込んでいた、あの仕草。
ようやく、理解した。
ここ数日の“試み”。
あれは、過去と向き合うためじゃない。
“代償”が深くなることへの恐怖。
それと戦っていただけだ。
制服を着て。
“見えない存在”として扱われる痛みに耐えて。
まるで、きつい課題をこなすかのように。
でも、心の奥では、ずっと同じ考えを抱えたままだった。
佐藤みたいな、ああいうまっすぐで強い光の隣に立ったとき。
飾りを全部外した自分は、色を失って、薄くなって。
もう、あの視線を向けてもらえなくなるんじゃないか。
彼女が怖がっているのは、“消える”ことじゃない。
自分らしさが、溶けていくこと。
かつて自分を見上げていた後輩から、
「あの程度だった」と思われること。
あの華やかな服は、その不安に抗うための鎧だった。
そして“代償”は、その鎧を彼女から外せなくしている。
……花野の言った通りだ。
急ぎすぎていた。
引き戻すことばかり考えて、足元にあるものを、見ていなかった。
比べられる中で生まれる不安。
自分の存在が、意味を持てなくなる怖さ。
そこが一番の問題だったのに。
もしかしたらこれまでの“支え方”も。
「ちゃんと特別でいろ」
「見られる価値を証明しろ」
そう、無意識に押しつけ不安を強化していたのかもしれない。
「……今度こそ」
石原は立ち上がった。




