第三十二話
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地味な制服のまま校内を歩いていると、立花美里は、流れに逆らう小さな魚みたいだと感じていた。
気を抜けば、そのままどこかへ押し流されそうで、その感覚が、ずっと背中にまとわりついている。
前は、あの華やかな服に視線が集まっていたのに、今は――ほとんど、そのまま通り過ぎていく。
教室に入ると、その感覚はさらに強くなる。
隣の女子が振り向いて、何か言いかける。視線が顔をかすめる。一瞬だけ止まって――そのまま、別の方向へ逸れていく。
「……あれ、立花さん今日休み?」
「わ、私……ここにいるよ……!」
慌てて声を出す。それでようやく、相手は気づいたように目を見開く。
「あっ、ごめん! 全然気づかなかった……!」
ぎこちない笑顔を浮かべる
廊下でも同じだ。気を配らないと、本当にぶつかる。
人の動きを読んで、避けなければならない。一瞬でも遅れると、そのままぶつかる。
肩や肘に当たる感触が、何度も重なる。
強く当たられて、よろけることもある。この体じゃ、受け止めきれない。
「見えないみたいに扱われる」――その感覚が、そのまま体に響く。
そのたびに、細い針みたいな痛みが、胸の奥に刺さる。
……このまま続けて、意味あるのかな。
ふと、そんな考えが浮かぶ。
それでも――石原がいる。ちゃんと、見てくれている。
それだけが、支えだった。
昼休みの生徒会室では、そこだけは、他とは少し違っていた。
小さな部屋だけれど、彼女にとっては、逃げ込める場所だった。
初日、時間ぎりぎりに部屋へ入った。
顔を上げずに、そのまま静かに中へ入る。ドアの近くで、そのまま動かない。
石原は、いつも通り書類を見ていた。ちらっと視線を上げて、軽く声をかけた。
そのあと、湯気の立つ麦茶を、そっと机に置いた。いつも座っている場所に置いてある。
春野が顔を上げた。その視線が室内を流れる。
一瞬だけ、引っかかったように間が空く。
立花は、息を止めた。
「お、立花。今日はちゃんとしてんな。ちょっと雰囲気違って分かんなかったわ」
【春野陽明の感情:困惑30、友好70】
張りつめていたものが、少しだけ緩む。
「たまには……真面目っぽいのも、いいかなって」
声が少しだけ固い。指先は、まだ冷たいままだった。
緒山がペンを置いた。やわらかく笑った。
「うん、すごく似合ってるよ。美里ちゃん。すっきりしてて、いい感じ」
まっすぐな目で見ている。変な探りもない。
【緒山朋奈の感情:安堵65@‘’#/】
花野は、帳簿から目だけ上げる。
「最初からそうしていればいいのに。ああいう服、作業中は邪魔」
淡々と。
【花野真汐の感情:平坦100】
「真汐先輩、ほんと分かってないな~」
杏が資料を抱えて入ってくる。立花の姿を見て、ぱっと顔を明るくした。
「わっ、美里ちゃん、雰囲気全然違う! ……あ、ねえねえ」
近づいて、こっそり声を落とす。
「聞いてよ。今朝、お兄ちゃんがさ、『女の子が急に地味な格好したら元気ないって思われるかな』とか聞いてきて。もう、ほんとズレてるよね~」
くすっと笑う。
【石原杏の感情:愉快50、嘲笑30、支持20】
特別扱いされるわけでもない。無視されるわけでもない。
ただ、そこにいる前提で話される。軽口と、いつものやり取りが交わされる。
それだけで、胸の奥に、やわらかいものが広がっていった。
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石原の存在そのものが、どこか気持ちを落ち着かせてくれる。
彼の視線は、気づけばこちらに向いている。押しつけがましくない距離で、ふっと向けられるその視線が。
いつの間にか、立花も、その視線を探すようになっていた。
窓際で、午後の光に包まれた彼の横顔は、どこか静かに沈んで見えた。
なんとなく目を向けると、ちょうど視線が合うことがある。
ほんの一瞬だけ、軽く頷いてくる。
それだけで、また視線は落ちていく。
確かめたいわけじゃない。
ただ――そこにいるのを、見たくなる。
一度、議論が詰まったとき、ふっと笑ってしまった。
つられるように、窓際へ目を向ける。
彼が、こちらを見ていた。
わずかに口元を緩め、眉を少しだけ上げた。
――どうした?
立花は慌てて首を振った。
心臓が、ひとつ跳ねる。
別の日の昼休み、眠気がまとわりついて、まぶたが重い。
ぼんやりしたまま、視線を感じる。
やわらかくて、静かな視線だった。
目を開けると、石原が見ていた。
何も言わずに、そのまま、少し冷えた麦茶を、数センチだけこちらに寄せた。
カップを手に取る。ひんやりした感触が、掌に広がる。
その感触が、胸のあたりまで静かに落ちてくる。
麦茶の香りと一緒に、気持ちも少し落ち着いていく。
目を合わせられない。
小さく口をつけて、少しずつ飲む。
頬が、じわっと熱くなる。
そのまま、耳の先まで広がっていく。
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ふとしたときに、目がいく。
考え込むとき、机を軽く叩く指先や、一番上まできちんと留められたシャツのボタン、窓の外を見るときの横顔。
どうでもいいはずのものばかり。
なのに、一人になると、思い出す。
あとになってから、遅れて実感がやってくる。
胸の奥が、少し落ち着かない。
感謝でも、頼りでもない。
小さな波紋みたいに広がっていく。
どう扱えばいいのか分からないまま――ほんの少しだけ、甘い。
少しずつ、張りつめていたものが、ほどけていく。
制服のまま、生徒会室にいることにも、それも、前みたいに苦しくはなくなってきた。
小さく、控えめではあるけれど、会話の中で、少しだけ声を出せるようにもなって。
前の自分よりずっと小さい声でも、それでも、ちゃんと自分の言葉として出てくる。
怖さは消えない。ふとした瞬間、体の奥が冷える。
見落とされるたびに、呼吸が浅くなる。
それでも、昼休みだけは、ここにいれば、彼がいる。
それだけで、少し力を抜ける。
ちゃんと見てもらえるし、受け止めてもらえる。
その積み重ねが、ゆっくり根を張っていく。まだ浅いままでも、確かに根を張っていて、いつか地面を割って芽を出すみたいに。
「……もしかしたら」
そんな言葉が、胸の奥に浮かぶ。石の隙間から顔を出すような、小さな芽みたいに。
日々は揺れる。穏やかなときもある。
隣の子が、自然に消しゴムを貸してくれる。
廊下で、軽く会釈される。
けれど、冷たい感触は、消えない。
すり抜けられる、あの感覚が。それが、ついてくる。
昼休みのあの時間に、頼るようになる。
あの視線にも、自然と頼るようになっていた。
でも、温かさが増すほど、別の冷たさも、はっきりしてくる。
――先輩にとって、重くなってないだろうか?
そんな不安が、胸に残る。引きずられるように、消耗していく。
そして、体育祭の一週間前の、ある日。
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【五月二十三日・木曜日・朝】
【立花家】
家を出る前、鏡の前で身支度をしている間、立花の視線は何度か机の隅へと流れた。
そこには、小さなフォトフレームがあった。裏返しのまま机に伏せられていて、ずっとそのままだ。
「……もう、考えない」
小さく首を振る。鏡の中の自分に向けて、何度か笑顔をつくる。
今日も制服のままだ。けれど、ほんの少しだけ変えた。
能力は使っていない。自分の手で、シャツの襟元に小さな苺のブローチを留める。
引き出しの中には、前に買ったままのヘアピンがある。ずっと使えずにいたものだ。
少し迷ってから、薄い青の、星と月の形をひとつ選ぶ。耳の横の髪に、そっと差し込む。
……やってみたかった。
こういう小さなものを、「立花美里」としてではなく、自分として選びたかった。
指先でブローチに触れる。それから、髪の横も軽く整える。
鏡の中には、きちんとした制服に、ほんの少しだけ色が添えられている。
気持ちが上を向く。息を吸って、リビングへ向かう。
父は新聞を読んでいる。母はテーブルを片付けている。
その前で足を止める。くるっと一回、軽く回ってみせる。
「ねえ、お母さん、お父さん。今日の私、どうかな?」
明るく言ってみる。少しだけ様子をうかがうような声だった。
母の手は止まらない。
視線がこちらをかすめて――そのまま外れる。
コップを持って、そのままキッチンへ向かう
「牛乳、足りなかったかしら……」
父は顔を上げない。
ただ、新聞をめくる。
立花の笑顔が、そのまま固まる。
少しだけ、立ち尽くす。それから、何も言わずに鞄を手に取る。
そのまま玄関へ向かい、靴を履く。
静かに、ドアを閉める。
「……あの子、今日も何も言わずに出ていったの?」
母の声が聞こえる。
「ん?ああ……急いでたんじゃないか」
新聞をめくる音が続く。
廊下に立ち尽くす。体の奥から、じわじわと冷えていく。
……さっきのことを思い返す。
父と母は気づかなかったんじゃない。最初から、届いていなかった。
まるで最初から、そこにいなかったみたいに。
「……代償」
その言葉が、浮かぶ。
首を横に振る。考えないようにして、階段を駆け下りる。胸にまとわりつく冷たさを振り払うように。
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【校門前・朝】
立花は、いつもよりずっと早く来ていた。
校門脇の銀杏の木の下に立つ。そこは視界が開けていて、人の流れからも少し外れた場所だった。
朝の風が抜ける。耳元の髪が揺れ、淡い青の星と月のピンがかすかに頬に触れる。
思わず指先を動かして、胸元の苺のブローチを整える。
「……最初に見つけてくれるの、先輩だったらいいな」
そんな考えが浮かんで、少しだけ頬が熱くなる。
家を出る前に感じていた、あの重さも、胸の奥から少しずつ薄れていく。
「……気づくかな。これくらい」
小さな変化。
でも――あの人なら、きっと気づく。
あの視線を思い出す。ちゃんとこちらを捉える、あの目を。
それだけで、胸の奥が少し軽くなる。
もし気づいたら、一瞬だけ足を止めて、それから――
「似合ってる」
いつもの調子で、そう言うかもしれない。
そこまで想像して、思わず笑いそうになる。
思わずつま先立ちになる。人の流れの向こうを探す。
似た色の髪が目に入るたび、胸が小さく跳ねる。
待つ時間は、少しだけ落ち着かなくて、それでもどこかやわらかい。
人に紛れる感じも、今はあまり気にならない。
「……そろそろ、かな」
時間を確認するように、頭の中で数える。鼓動も、少し速い。
やがて、遠くに、二つの影が見えた。
石原と緒山だった。
並んで歩きながら、何か話している。
石原は少し顔を傾けて、頷いている。
朝の光が、その輪郭をやわらかく包んでいた。
待っていた人が、そこにいる。
手を上げる。名前を呼ぼうとして――その瞬間。
笑顔も、呼吸も、そのまま止まった。
石原の視線が流れる。
校門、そして銀杏の木へと流れていく。
そして――彼女の前を、そのまま通り過ぎていく。
視線は、止まらない。何も引っかかった様子もない。
そこに何もないみたいに、通り過ぎていく。
会話は途切れることなく続いたまま。足も止まらない。
そのまま、彼女のすぐ横を通り過ぎていく。
近い――近すぎる距離なのに。
緒山の髪の匂いが、かすかに届く。
石原のシャツの襟の皺まで見える距離なのに。
それなのに。彼の視線は、一度も向かない。
「……せん、ぱい……」
声にならない。風にほどける。
二人の背中が、遠ざかっていく。
「――先輩ッ!!」
喉が裂けるように叫ぶ。
その声に反応して、石原の足が止まる。振り向いた。
視線が急に動く。人の中を探して、揺れて――そして、止まる。
涙で崩れた彼女の顔に。
【立花美里の感情:崩壊34@#·*】
「……立花、さん?」
戸惑いをにじませながら、名前を呼ぶ。
――その瞬間、立花は弾かれたように背を向ける。人にぶつかりながら、走る。
そのまま校舎の奥へと駆けていく。影の中へ消える。
石原が一歩出る。追おうとした瞬間、腕を引かれる。
「先輩? 立花さん、どうしたんですか?」
緒山が周囲を見る。いつもの朝の風景しか、そこにはない。
石原はその場に立ち尽くし、彼女が消えた方向を見つめた。
さっきの一瞬の、「すり抜けた」感覚と、そのあとの焦点の合う瞬間が、残酷なほどはっきりと残っている。
彼女はずっとそこにいて、小さな変化を重ねながら、見つけてもらうつもりで待っていた。
なのに。それなのに、自分は、呼ばれるまで、その存在が「見えなかった」。
声がなければ、もう捉えられない。そこまで、薄れている。
脆い信頼は、石原が「見えない」まま彼女の横を通り過ぎた瞬間に、完全に砕け散った。
そして。更に深い恐怖が思い浮かぶ――次に彼女が叫んでも、その声すら「聞こえなく」なっていたら?




