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見える感情、見えないまま  作者: 颍川
第六章 崩壊――それでも、私は見てほしい
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第三十二話

---


地味な制服のまま校内を歩いていると、立花美里は、流れに逆らう小さな魚みたいだと感じていた。

気を抜けば、そのままどこかへ押し流されそうで、その感覚が、ずっと背中にまとわりついている。


前は、あの華やかな服に視線が集まっていたのに、今は――ほとんど、そのまま通り過ぎていく。


教室に入ると、その感覚はさらに強くなる。

隣の女子が振り向いて、何か言いかける。視線が顔をかすめる。一瞬だけ止まって――そのまま、別の方向へ逸れていく。


「……あれ、立花さん今日休み?」


「わ、私……ここにいるよ……!」


慌てて声を出す。それでようやく、相手は気づいたように目を見開く。


「あっ、ごめん! 全然気づかなかった……!」


ぎこちない笑顔を浮かべる


廊下でも同じだ。気を配らないと、本当にぶつかる。

人の動きを読んで、避けなければならない。一瞬でも遅れると、そのままぶつかる。


肩や肘に当たる感触が、何度も重なる。

強く当たられて、よろけることもある。この体じゃ、受け止めきれない。


「見えないみたいに扱われる」――その感覚が、そのまま体に響く。

そのたびに、細い針みたいな痛みが、胸の奥に刺さる。


……このまま続けて、意味あるのかな。

ふと、そんな考えが浮かぶ。


それでも――石原がいる。ちゃんと、見てくれている。

それだけが、支えだった。


昼休みの生徒会室では、そこだけは、他とは少し違っていた。

小さな部屋だけれど、彼女にとっては、逃げ込める場所だった。


初日、時間ぎりぎりに部屋へ入った。

顔を上げずに、そのまま静かに中へ入る。ドアの近くで、そのまま動かない。


石原は、いつも通り書類を見ていた。ちらっと視線を上げて、軽く声をかけた。

そのあと、湯気の立つ麦茶を、そっと机に置いた。いつも座っている場所に置いてある。


春野が顔を上げた。その視線が室内を流れる。

一瞬だけ、引っかかったように間が空く。


立花は、息を止めた。


「お、立花。今日はちゃんとしてんな。ちょっと雰囲気違って分かんなかったわ」


【春野陽明の感情:困惑30、友好70】


張りつめていたものが、少しだけ緩む。


「たまには……真面目っぽいのも、いいかなって」


声が少しだけ固い。指先は、まだ冷たいままだった。

緒山がペンを置いた。やわらかく笑った。


「うん、すごく似合ってるよ。美里ちゃん。すっきりしてて、いい感じ」


まっすぐな目で見ている。変な探りもない。


【緒山朋奈の感情:安堵65@‘’#/】


花野は、帳簿から目だけ上げる。


「最初からそうしていればいいのに。ああいう服、作業中は邪魔」


淡々と。


【花野真汐の感情:平坦100】


「真汐先輩、ほんと分かってないな~」


杏が資料を抱えて入ってくる。立花の姿を見て、ぱっと顔を明るくした。


「わっ、美里ちゃん、雰囲気全然違う! ……あ、ねえねえ」


近づいて、こっそり声を落とす。


「聞いてよ。今朝、お兄ちゃんがさ、『女の子が急に地味な格好したら元気ないって思われるかな』とか聞いてきて。もう、ほんとズレてるよね~」


くすっと笑う。


【石原杏の感情:愉快50、嘲笑30、支持20】


特別扱いされるわけでもない。無視されるわけでもない。

ただ、そこにいる前提で話される。軽口と、いつものやり取りが交わされる。

それだけで、胸の奥に、やわらかいものが広がっていった。


---


石原の存在そのものが、どこか気持ちを落ち着かせてくれる。

彼の視線は、気づけばこちらに向いている。押しつけがましくない距離で、ふっと向けられるその視線が。


いつの間にか、立花も、その視線を探すようになっていた。


窓際で、午後の光に包まれた彼の横顔は、どこか静かに沈んで見えた。

なんとなく目を向けると、ちょうど視線が合うことがある。


ほんの一瞬だけ、軽く頷いてくる。

それだけで、また視線は落ちていく。


確かめたいわけじゃない。

ただ――そこにいるのを、見たくなる。


一度、議論が詰まったとき、ふっと笑ってしまった。

つられるように、窓際へ目を向ける。


彼が、こちらを見ていた。

わずかに口元を緩め、眉を少しだけ上げた。


――どうした?


立花は慌てて首を振った。

心臓が、ひとつ跳ねる。


別の日の昼休み、眠気がまとわりついて、まぶたが重い。


ぼんやりしたまま、視線を感じる。

やわらかくて、静かな視線だった。


目を開けると、石原が見ていた。

何も言わずに、そのまま、少し冷えた麦茶を、数センチだけこちらに寄せた。


カップを手に取る。ひんやりした感触が、掌に広がる。

その感触が、胸のあたりまで静かに落ちてくる。

麦茶の香りと一緒に、気持ちも少し落ち着いていく。


目を合わせられない。


小さく口をつけて、少しずつ飲む。

頬が、じわっと熱くなる。

そのまま、耳の先まで広がっていく。


---


ふとしたときに、目がいく。


考え込むとき、机を軽く叩く指先や、一番上まできちんと留められたシャツのボタン、窓の外を見るときの横顔。


どうでもいいはずのものばかり。

なのに、一人になると、思い出す。


あとになってから、遅れて実感がやってくる。

胸の奥が、少し落ち着かない。


感謝でも、頼りでもない。

小さな波紋みたいに広がっていく。

どう扱えばいいのか分からないまま――ほんの少しだけ、甘い。


少しずつ、張りつめていたものが、ほどけていく。


制服のまま、生徒会室にいることにも、それも、前みたいに苦しくはなくなってきた。

小さく、控えめではあるけれど、会話の中で、少しだけ声を出せるようにもなって。

前の自分よりずっと小さい声でも、それでも、ちゃんと自分の言葉として出てくる。


怖さは消えない。ふとした瞬間、体の奥が冷える。

見落とされるたびに、呼吸が浅くなる。

それでも、昼休みだけは、ここにいれば、彼がいる。


それだけで、少し力を抜ける。

ちゃんと見てもらえるし、受け止めてもらえる。


その積み重ねが、ゆっくり根を張っていく。まだ浅いままでも、確かに根を張っていて、いつか地面を割って芽を出すみたいに。


「……もしかしたら」


そんな言葉が、胸の奥に浮かぶ。石の隙間から顔を出すような、小さな芽みたいに。


日々は揺れる。穏やかなときもある。

隣の子が、自然に消しゴムを貸してくれる。

廊下で、軽く会釈される。


けれど、冷たい感触は、消えない。

すり抜けられる、あの感覚が。それが、ついてくる。


昼休みのあの時間に、頼るようになる。

あの視線にも、自然と頼るようになっていた。


でも、温かさが増すほど、別の冷たさも、はっきりしてくる。

――先輩にとって、重くなってないだろうか?


そんな不安が、胸に残る。引きずられるように、消耗していく。


そして、体育祭の一週間前の、ある日。


---


【五月二十三日・木曜日・朝】


【立花家】


家を出る前、鏡の前で身支度をしている間、立花の視線は何度か机の隅へと流れた。

そこには、小さなフォトフレームがあった。裏返しのまま机に伏せられていて、ずっとそのままだ。


「……もう、考えない」


小さく首を振る。鏡の中の自分に向けて、何度か笑顔をつくる。


今日も制服のままだ。けれど、ほんの少しだけ変えた。

能力は使っていない。自分の手で、シャツの襟元に小さな苺のブローチを留める。


引き出しの中には、前に買ったままのヘアピンがある。ずっと使えずにいたものだ。

少し迷ってから、薄い青の、星と月の形をひとつ選ぶ。耳の横の髪に、そっと差し込む。


……やってみたかった。

こういう小さなものを、「立花美里」としてではなく、自分として選びたかった。


指先でブローチに触れる。それから、髪の横も軽く整える。

鏡の中には、きちんとした制服に、ほんの少しだけ色が添えられている。


気持ちが上を向く。息を吸って、リビングへ向かう。


父は新聞を読んでいる。母はテーブルを片付けている。

その前で足を止める。くるっと一回、軽く回ってみせる。


「ねえ、お母さん、お父さん。今日の私、どうかな?」


明るく言ってみる。少しだけ様子をうかがうような声だった。


母の手は止まらない。

視線がこちらをかすめて――そのまま外れる。

コップを持って、そのままキッチンへ向かう


「牛乳、足りなかったかしら……」


父は顔を上げない。

ただ、新聞をめくる。


立花の笑顔が、そのまま固まる。

少しだけ、立ち尽くす。それから、何も言わずに鞄を手に取る。

そのまま玄関へ向かい、靴を履く。


静かに、ドアを閉める。


「……あの子、今日も何も言わずに出ていったの?」


母の声が聞こえる。


「ん?ああ……急いでたんじゃないか」


新聞をめくる音が続く。


廊下に立ち尽くす。体の奥から、じわじわと冷えていく。


……さっきのことを思い返す。


父と母は気づかなかったんじゃない。最初から、届いていなかった。

まるで最初から、そこにいなかったみたいに。


「……代償」

その言葉が、浮かぶ。


首を横に振る。考えないようにして、階段を駆け下りる。胸にまとわりつく冷たさを振り払うように。


---


【校門前・朝】


立花は、いつもよりずっと早く来ていた。

校門脇の銀杏の木の下に立つ。そこは視界が開けていて、人の流れからも少し外れた場所だった。


朝の風が抜ける。耳元の髪が揺れ、淡い青の星と月のピンがかすかに頬に触れる。

思わず指先を動かして、胸元の苺のブローチを整える。


「……最初に見つけてくれるの、先輩だったらいいな」


そんな考えが浮かんで、少しだけ頬が熱くなる。

家を出る前に感じていた、あの重さも、胸の奥から少しずつ薄れていく。


「……気づくかな。これくらい」


小さな変化。

でも――あの人なら、きっと気づく。


あの視線を思い出す。ちゃんとこちらを捉える、あの目を。

それだけで、胸の奥が少し軽くなる。

もし気づいたら、一瞬だけ足を止めて、それから――


「似合ってる」

いつもの調子で、そう言うかもしれない。


そこまで想像して、思わず笑いそうになる。

思わずつま先立ちになる。人の流れの向こうを探す。

似た色の髪が目に入るたび、胸が小さく跳ねる。


待つ時間は、少しだけ落ち着かなくて、それでもどこかやわらかい。

人に紛れる感じも、今はあまり気にならない。


「……そろそろ、かな」


時間を確認するように、頭の中で数える。鼓動も、少し速い。


やがて、遠くに、二つの影が見えた。

石原と緒山だった。


並んで歩きながら、何か話している。

石原は少し顔を傾けて、頷いている。

朝の光が、その輪郭をやわらかく包んでいた。


待っていた人が、そこにいる。


手を上げる。名前を呼ぼうとして――その瞬間。

笑顔も、呼吸も、そのまま止まった。


石原の視線が流れる。

校門、そして銀杏の木へと流れていく。

そして――彼女の前を、そのまま通り過ぎていく。


視線は、止まらない。何も引っかかった様子もない。

そこに何もないみたいに、通り過ぎていく。

会話は途切れることなく続いたまま。足も止まらない。


そのまま、彼女のすぐ横を通り過ぎていく。


近い――近すぎる距離なのに。

緒山の髪の匂いが、かすかに届く。

石原のシャツの襟の皺まで見える距離なのに。


それなのに。彼の視線は、一度も向かない。


「……せん、ぱい……」


声にならない。風にほどける。

二人の背中が、遠ざかっていく。


「――先輩ッ!!」


喉が裂けるように叫ぶ。

その声に反応して、石原の足が止まる。振り向いた。

視線が急に動く。人の中を探して、揺れて――そして、止まる。


涙で崩れた彼女の顔に。


【立花美里の感情:崩壊34@#·*】


「……立花、さん?」


戸惑いをにじませながら、名前を呼ぶ。


――その瞬間、立花は弾かれたように背を向ける。人にぶつかりながら、走る。

そのまま校舎の奥へと駆けていく。影の中へ消える。


石原が一歩出る。追おうとした瞬間、腕を引かれる。


「先輩? 立花さん、どうしたんですか?」


緒山が周囲を見る。いつもの朝の風景しか、そこにはない。

石原はその場に立ち尽くし、彼女が消えた方向を見つめた。


さっきの一瞬の、「すり抜けた」感覚と、そのあとの焦点の合う瞬間が、残酷なほどはっきりと残っている。


彼女はずっとそこにいて、小さな変化を重ねながら、見つけてもらうつもりで待っていた。


なのに。それなのに、自分は、呼ばれるまで、その存在が「見えなかった」。

声がなければ、もう捉えられない。そこまで、薄れている。


脆い信頼は、石原が「見えない」まま彼女の横を通り過ぎた瞬間に、完全に砕け散った。


そして。更に深い恐怖が思い浮かぶ――次に彼女が叫んでも、その声すら「聞こえなく」なっていたら?

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