第三十一話
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石原は先に教室を出た。歩く速さは、速すぎもせず、遅すぎもしない。
立花は一瞬だけ迷ったあと、その背中を追う。三歩ほど距離を空けたまま、黙ってついていった。
廊下は騒がしく、人の流れが絶えず行き交っている。
何度も視線が彼女の上をかすめるが、すぐに逸れていく。
――やはり、見られていない。
そう実感するたびに、立花はさらに頭を低くした。
前を歩く石原が、さりげなく進路をずらし、人の密集を外していく。
その背中が、ざわめきの中に細い空間をつくっていた。まるでそこだけ、わずかに静けさが残っているかのように。
二人は、生徒会室には向かわなかった。
校舎の脇へ折れ、人の少ない通路を進む。さらに奥、古い清掃用具が積まれた階段の踊り場へとたどり着いた。
光が届きにくく、息をひそめるような静けさが満ちている。
石原は壁に背を預け、少し離れた場所で俯いたまま立つ立花を見た。
自然と、言葉のない時間が流れる。
「……どうして、先輩は……私が見えるんですか」
かすれた声だった。
「ここにいるからだ」
石原は間を置かずに答えた。
「……ふざけないでください。先輩も分かってるでしょ……他の人、みんな――」
言葉が詰まる。
「……誰も、私に気づかない。
どうして、先輩だけ……?」
石原は少し黙る。
「分からない。……たぶん、俺の“異常”の一部だ」
短く言う。
「立花さんが服を変えられるみたいに。俺は――感情のタグが見える」
石原は一歩近づき、わずかな間を置いてから言った。
「でも、春野が、お前を見ずに通り過ぎたとき――あれを見てるだけってのは無理だった」
立花の肩が小さく震える。
「……分かるんですか。あれが……どんな感じか」
石原の中で、記憶がよぎる。押し寄せる感情と、息が詰まる感覚。
「同じじゃない……けど」
石原は一度言葉を切り、わずかに息を整えた。
「周りから切り離される感覚や、一人で抱えるしかない状況は、嫌でも分かる」
少し、声が低くなる。石原は静かに続けた。
「どんな感じなんだ。何を、そんなに怖がってる?」
立花は固まったまま、やがて力が抜ける。
「……見えなくなるのが、怖いんです」
絞り出すような声。
「隠れるとかじゃない……少しずつ、薄くなっていく……みたいに」
言葉が途切れたあと、彼女はゆっくり顔を上げた。
「水に溶けるみたいに……気づいたときには、自分でも分からなくなるの」
赤くなった目から、涙が静かにこぼれる。
「ちゃんと、やってるのに……可愛い服、着て。ちゃんと笑って、ちゃんと話して……」
「そうしないと……誰も見てくれない。
“立花美里”が、ここにいるって――」
石原は、何も言わない。
「でも……止めたら」
声が詰まる。
「普通に戻ったら……消える」
小さく、吐き出す。
「だから――やめられない。ずっと続けなきゃいけない……可愛いままで、ずっと」
息が荒くなる。
「じゃないと……そのうち、先輩にも見えなくなる……!」
石原は、静かに待つ。
――少しして。口を開いた。
「……分かった。
“見られないと消える”――そういうルールなんだな。
……それが、代償か」
「……代償……」
「俺にもある。見える代わりに――ノイズが増える」
淡々と続ける。
「だから分かる。代償は、消えない」
立花が顔を上げる。少しだけ、空気が変わる。
「……でも」
石原の声が、わずかに変わる。
「それ、前より重くなってるだろ」
立花の瞳が揺れた。
――思い出す。
最初は、両親の前を通り過ぎても気づかれなかっただけだった。
けれど座れば、ちゃんと気づいてもらえた。
それが今では――声を出さなければ、存在すら認識されない。
その差。
「このまま続けたら」
静かに言う。
「不安になるたびに、能力に頼ったら」
わずかな間。
「そのうち――」
さらに低く。
「どんな格好をしていても、そのうち見えなくなるかもしれない」
わずかな間を置いて、石原は続けた。
「……俺にも」
その一言が深く、刺さる。立花の顔から血の気が引く。
それが一番、怖い。
「……わ、分からない……でも……使わなかったら、今すぐ……」
首を振る。呼吸が乱れる。
「だから、ここで止めよう。これ以上進ませないんだ」
一歩、踏み出す。
「その能力に頼るほど、逆に削られる。――分かってるだろ」
さらに一歩。距離が縮まる。
「立花さん」
まっすぐに見据える。
「俺は、君が見える」
はっきりと。
「綺麗な服のときじゃない。今みたいに普通の制服で、俯いて震えてても、ちゃんと見える。名前も呼べる」
短く息を吸う。
「これが、俺の“異常”だ」
「だから、一回だけでいい」
石原はまっすぐに言った。
「その力を使わずに、普通のままでいてみよう。そのまま見られることに、少しずつ慣れていくんだ」
「それしか方法はない」
石原は迷いなく言い切った。
立花の手が小さく震える。
「……見えてる」
石原は、迷いなくそう言った。
今の自分を、この格好で、この場所で――
彼の視線は、決して外れなかった。
それは、立花にとって初めての感覚だった。
怖いはずなのに、不思議と心の奥に、確かな重みが残っていく。
彼の視線は、どこまでも逃げなかった。
「……試すだけ……なら」
かすれた声で、そう呟く。
「……ああ」
石原は短く頷いた。
「明日の昼休み。生徒会室に来てくれ」
「制服でいい。無理なら帰ってもいい。――それでも、俺はそこにいる」
沈黙が続く。
その静けさの中で、立花の心は大きく揺れていた。
それでも――やがて、彼女はゆっくりと小さく頷いた。
「……分かりました」
それを見て、石原も小さく頷く。張り詰めていた力が、わずかに抜けた。
口元が、ほんのわずかに緩んだ。
「……俺は、ずっと見えてるから。明日な、立花さん」
彼の視線は、最後まで逸れなかった。
まるで――消えてしまいそうな彼女を、この場所に繋ぎ止めるかのように。




