表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
見える感情、見えないまま  作者: 颍川
第六章 崩壊——それでも、私は見てほしい
PR
33/109

第三十一話

---


石原は先に教室を出た。歩く速さは、速すぎもせず、遅すぎもしない。


立花は一瞬だけ迷ったあと、その背中を追う。三歩ほど距離を空けたまま、黙ってついていった。


廊下は騒がしく、人の流れが絶えず行き交っている。


何度も視線が彼女の上をかすめるが、すぐに逸れていく。

――やはり、見られていない。


そう実感するたびに、立花はさらに頭を低くした。


前を歩く石原が、さりげなく進路をずらし、人の密集を外していく。


その背中が、ざわめきの中に細い空間をつくっていた。まるでそこだけ、わずかに静けさが残っているかのように。


二人は、生徒会室には向かわなかった。


校舎の脇へ折れ、人の少ない通路を進む。さらに奥、古い清掃用具が積まれた階段の踊り場へとたどり着いた。


光が届きにくく、息をひそめるような静けさが満ちている。

石原は壁に背を預け、少し離れた場所で俯いたまま立つ立花を見た。

自然と、言葉のない時間が流れる。


「……どうして、先輩は……私が見えるんですか」

かすれた声だった。


「ここにいるからだ」

石原は間を置かずに答えた。


「……ふざけないでください。先輩も分かってるでしょ……他の人、みんな――」


言葉が詰まる。


「……誰も、私に気づかない。

どうして、先輩だけ……?」


石原は少し黙る。


「分からない。……たぶん、俺の“異常”の一部だ」


短く言う。


「立花さんが服を変えられるみたいに。俺は――感情のタグが見える」


石原は一歩近づき、わずかな間を置いてから言った。


「でも、春野が、お前を見ずに通り過ぎたとき――あれを見てるだけってのは無理だった」


立花の肩が小さく震える。


「……分かるんですか。あれが……どんな感じか」


石原の中で、記憶がよぎる。押し寄せる感情と、息が詰まる感覚。


「同じじゃない……けど」

石原は一度言葉を切り、わずかに息を整えた。


「周りから切り離される感覚や、一人で抱えるしかない状況は、嫌でも分かる」


少し、声が低くなる。石原は静かに続けた。

「どんな感じなんだ。何を、そんなに怖がってる?」


立花は固まったまま、やがて力が抜ける。


「……見えなくなるのが、怖いんです」


絞り出すような声。


「隠れるとかじゃない……少しずつ、薄くなっていく……みたいに」


言葉が途切れたあと、彼女はゆっくり顔を上げた。


「水に溶けるみたいに……気づいたときには、自分でも分からなくなるの」


赤くなった目から、涙が静かにこぼれる。


「ちゃんと、やってるのに……可愛い服、着て。ちゃんと笑って、ちゃんと話して……」


「そうしないと……誰も見てくれない。

“立花美里”が、ここにいるって――」


石原は、何も言わない。


「でも……止めたら」


声が詰まる。


「普通に戻ったら……消える」


小さく、吐き出す。


「だから――やめられない。ずっと続けなきゃいけない……可愛いままで、ずっと」


息が荒くなる。


「じゃないと……そのうち、先輩にも見えなくなる……!」


石原は、静かに待つ。


――少しして。口を開いた。


「……分かった。

“見られないと消える”――そういうルールなんだな。

……それが、代償か」


「……代償……」


「俺にもある。見える代わりに――ノイズが増える」


淡々と続ける。


「だから分かる。代償は、消えない」


立花が顔を上げる。少しだけ、空気が変わる。


「……でも」


石原の声が、わずかに変わる。


「それ、前より重くなってるだろ」


立花の瞳が揺れた。


――思い出す。


最初は、両親の前を通り過ぎても気づかれなかっただけだった。

けれど座れば、ちゃんと気づいてもらえた。


それが今では――声を出さなければ、存在すら認識されない。


その差。


「このまま続けたら」


静かに言う。


「不安になるたびに、能力に頼ったら」


わずかな間。


「そのうち――」


さらに低く。


「どんな格好をしていても、そのうち見えなくなるかもしれない」

わずかな間を置いて、石原は続けた。

「……俺にも」


その一言が深く、刺さる。立花の顔から血の気が引く。


それが一番、怖い。


「……わ、分からない……でも……使わなかったら、今すぐ……」


首を振る。呼吸が乱れる。


「だから、ここで止めよう。これ以上進ませないんだ」


一歩、踏み出す。


「その能力に頼るほど、逆に削られる。――分かってるだろ」


さらに一歩。距離が縮まる。


「立花さん」


まっすぐに見据える。


「俺は、君が見える」


はっきりと。


「綺麗な服のときじゃない。今みたいに普通の制服で、俯いて震えてても、ちゃんと見える。名前も呼べる」


短く息を吸う。


「これが、俺の“異常”だ」


「だから、一回だけでいい」


石原はまっすぐに言った。


「その力を使わずに、普通のままでいてみよう。そのまま見られることに、少しずつ慣れていくんだ」


「それしか方法はない」

石原は迷いなく言い切った。


立花の手が小さく震える。


「……見えてる」

石原は、迷いなくそう言った。


今の自分を、この格好で、この場所で――

彼の視線は、決して外れなかった。


それは、立花にとって初めての感覚だった。

怖いはずなのに、不思議と心の奥に、確かな重みが残っていく。


彼の視線は、どこまでも逃げなかった。


「……試すだけ……なら」

かすれた声で、そう呟く。


「……ああ」

石原は短く頷いた。


「明日の昼休み。生徒会室に来てくれ」


「制服でいい。無理なら帰ってもいい。――それでも、俺はそこにいる」


沈黙が続く。

その静けさの中で、立花の心は大きく揺れていた。


それでも――やがて、彼女はゆっくりと小さく頷いた。


「……分かりました」


それを見て、石原も小さく頷く。張り詰めていた力が、わずかに抜けた。


口元が、ほんのわずかに緩んだ。


「……俺は、ずっと見えてるから。明日な、立花さん」


彼の視線は、最後まで逸れなかった。

まるで――消えてしまいそうな彼女を、この場所に繋ぎ止めるかのように。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ