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見える感情、見えないまま  作者: 颍川
第六章 崩壊——それでも、私は見てほしい
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第三十話

---


【五月十三日・月曜日・昼休み】


午前の授業中、石原は授業の内容が、ほとんど頭に入ってこなかった


立花がぶつかられて倒れた、あの瞬間のこと。

そのあと、誰一人として彼女に気づかず、まるでそこにいないかのように視線が通り過ぎていった、その様子。


――何度も、頭の中で繰り返される。悪意はないがだからこそ、余計に気味が悪い。


服屋の店員や今朝のあの女子たち。偶然にしては出来すぎている。


「……異能力の代償か」


その言葉が浮かんだ瞬間、ひとつの考えが形を取り、そこから枝分かれするように、これまでの記憶と次々に結びついていく。


――いつも、目を引く格好で現れる。

――「一瞬で着替える」と、小さなマジックみたいに笑っていた。


あれは遊びでも、見せびらかしでもない。


それは、日々をやり過ごすための消耗戦だ。


「……気づかれなくなるのが、怖いのか」


だから、可愛さで自分を覆い隠し、視線を引き寄せる。


だから、走ることを避ける。昔は輝いていた場所で、今の自分が埋もれてしまうのが怖くて。


だから佐藤の前で、逃げた。


完璧な「先輩」でいられなくなったとき、その下にある、本当の自分が平凡で、誰にも見られない存在かもしれないと。


「見てほしい」


その想いが、深く根を張り、人の視線を引き寄せる力になった。


石原の胸が、重く沈む。


同じ異能力者として、分かってしまう。


だからこそ、皮肉だ。


強く願ったものの裏側で、「存在が薄れていく」という代償を背負っている。


能力を手放した瞬間、世界がまるで最初からいなかったかのように、彼女を見過ごす。


息が詰まる。


理解したはずなのに、楽にはならない。むしろ、はっきり見えてしまった。


立花が、どんな場所に立たされているのか。


このままじゃ――まずい。


あのやり方で逃げ続けるのを、放っておくわけにはいかない。


能力に頼るたびに、「本当の自分」から、遠ざかっていく。


……だが。確かめなければならない。


この胸の奥を締めつける仮説が、ただの思い込みで済む話なのか。


---


昼休みのチャイムが鳴る。


生徒たちが一斉に動き出す。

食堂へ、部活へ、人の流れが広がっていく。


石原は鞄を手に取り、そのまま生徒会室へ向かった。


扉を開けると、中にいたのは、春野だけだった。

キーボードを叩く音が、部屋に響いている。


「よ、石原。まだ誰も来てなくてさ、俺ちょっと寂しいんだけど」


顔も上げずに、軽い調子で言う。


石原が室内を軽く見回すと、立花の席には、高さを調整するクッションだけが、ぽつんと置かれている。


やはり、来ていない。


「春野」


石原は、何でもないように口を開く。


「立花、たぶんクラスで少し手間取ってます。来週の展示の準備で」


適当な理由を、淡々と並べる。


「朝、ちょっと厄介そうにしてたから、様子を見に行くけど、来ますか。人手があった方が早い」


春野が、手を止めた。


「クラス展示? あいつでも詰まることあるんだな」


くすっと笑って、椅子を引く。


「いいよ、行こうぜ」


深く考える様子もなく、さっとパソコンを閉じて立ち上がった。


---


一年A組の教室の扉は、半分だけ開いていた。


教室の後方、その隅に立花が、一人で立っていた。


隣の机には、色鮮やかなワンピースが数着、置かれている。

どれもきちんと畳まれ、整然と並べられていた。

周囲の質素な机や椅子の中でそこだけが、浮いて見える。


彼女は扉に背を向けたまま、わずかに俯いている。


自分の姿を確かめていた。


深い紺のプリーツスカートは、腰にきちんと収まっている。下ろしたばかりで、まだ皺ひとつない。


上は――白いキャミソール一枚。薄手の肩ひもが、鎖骨の上でかすかに震えている。


手に持っているのは、淡い青の制服のシャツ。片方の袖が力なく垂れ、腕に引っかかっていた。


――このまま、着るべきなのだ。


しかし、指が動かない。


胸元に触れようとして――止まった。


肩甲骨に沿う細い線が、うっすらと浮かんでいる。

緩んだキャミソールの縁が、わずかに肌から浮いている。

鎖骨の下に落ちた影が、呼吸に合わせてかすかに揺れていた。


――もういい。


彼女は、そっと息を吐いた。指先が、胸元から離れる。

代わりに、淡い光が指先からにじみ出る。シャツの輪郭が揺らぎ始めた。


「立花さん」


石原が、声をかけた。


「っ……!」


立花が、弾かれたように振り向く。


顔に浮かんでいるのは、見られたという恐怖と、逃げ場のない羞恥。


反射的に、シャツを胸に抱き寄せた。

腕を強く回し、自分の体を隠した。


「い、石原先輩……!? それに、春野会長も……! な、なんで……っ、出ていってください!」


慌ててシャツを着る。

視線が、二人の間を落ち着きなく揺れる。


石原は、気まずそうに。

「あー、悪い悪い。邪魔したな」


石原の後ろから、春野が半身だけ覗かせた。


教室を見回し、眉をひそめる。


「……あれ? 誰もいなくね?お前、クラスでなんかやってるって言ってなかったか?もう終わった感じ?」


言いながら、その視線が立花の方をかすめた。


その視線は止まらず、捉えもしない――まるで何もない場所を見ているかのように。

そこにいるはずの人間も、その表情も、抱きしめている服さえも、最初から存在しなかったみたいに。


【立花美里の感情:@$*#%】


石原の心臓が、強く縮む。


視界の端に立花の顔が映った。


一瞬、理解できないという色が浮かぶ。

すぐに血の気が引いていった。


……見えていない。

やっぱり、そうか。


「……俺の勘違いかもな」


声の調子を崩さない。


「春野。担任に昼休み呼ばれてたの思い出しました。

先に行って、用件聞いといてくれますか。

俺は……立花がどこ行ったか、見てくる」


「おう、早く来いよ」


春野は、もう一度だけその“空白”に視線を向けた。


そして、背を向けた。足音が、遠ざかっていく。


――静かになる。


立花は、動けずにいた。


自分の制服を見下ろしていた。恐怖と不安が、じわじわと押し寄せてくる。


震える手が上がった。指先に、再び光が宿る。


――また、この“消える服”を変えるつもりだ。


「立花さん!」


石原が踏み込み、その手首を掴んだ。


びくり、と体が跳ねた。すぐに強く振り払われ、半歩ぶん距離が開いた。


見上げてくるその目は、すでに赤く染まっていた。


石原は、追わない。


ただそこに立ち、視線を逸らさず、そのままの彼女を見ていた。


飾り気のない制服も、隠しきれない脆さも、そのすべてを。


驚きも、責めも、憐れみもない。


ただ――見ている。


「……少し、話そう」


低く、静かな声だった。

この教室で彼女を見ているのは自分だけだという事実が、やけに重くのしかかる。


立花の目が揺れる。そこには、恐れと迷いが入り混じっていた。


抱え込むように、自分自身に腕をきつく回していた。


――その姿が、ふいに重なった。


記憶の奥にある光景が浮かび上がる。

隅に追い込まれ、誰にも届かない場所で俯いていた、杏の姿だ。


あのときは、前に出て止めに入った。


今回も、同じように。引き戻すつもりで。


……いや。


今回は、自分しかいない。その感覚が、胸を締めつける。それでも、視線は逸らさない。


「話そう、立花さん」


もう一度。さっきより少しだけ柔らかく、それでも、逃がさない響きを込めて。


立花は俯いたまま、動かない。


やがて――小さく、頷いた。

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