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見える感情、見えないまま  作者: 颍川
第六章 崩壊——それでも、私は見てほしい
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第二十九話

---


【五月十三日・月曜日・午前】


午前の授業が始まる前のことだ。


石原は一年A組の教室の後ろのドア脇に立ち、手には飾り気のない紙袋を提げていた。


自分から動くタイプじゃない。

まして、こんなふうに“待ち伏せ”なんて、なおさらだ。


それでも、今は――教室で騒ぐ生徒たちの向こう、窓際の席にだけ視線が引き寄せられていた。


立花は頬杖をつき、窓の外をぼんやりと眺めている。

朝の光に照らされた横顔は、不思議なくらい静かだった。


まるで、周囲の喧騒とは薄い膜一枚で切り離されているかのように。


今日はいつものように能力で着飾ることもなく、ごく普通の制服姿だった。

それがかえって、妙に印象に残った。


紙袋の持ち手にかかる指先に、わずかに力がこもった。

石原は一度、深く息を吸い――一歩を踏み出そうとした。


---


月曜の朝。まだ空が白み始めたばかりの時間だった。

石原は妹に起こされる前に自然と目を覚ました。


昨夜は、ほとんど眠れていない。

暗闇の中で、立花が背を向けて去っていく姿が、何度も脳裏に浮かんだ。


無言のまま朝食を済ませる。

靴を履き替えようとしたとき、ふと棚の上の紙袋が目に入った。


ほんの数秒、手が止まった。

――それでも結局、半ば引っ掴むように紙袋を手に取り、鞄の中へ押し込んだ。


……以前も、こんな感じだった。


杏がクラスで孤立していた、あの頃。

毎朝、同じように鞄を掴んで家を飛び出していた。


「お兄ちゃん、今日はやけに早いね!」


目をこすりながら部屋から出てきた杏が、身支度を整えた彼の姿を見て、きょとんとする。


「なに、朝から特殊部隊の訓練でもしてるの?」


「……早く寝ただけだ」


石原は顔を逸らした。


杏はぱちぱちと瞬きをし、彼の顔と妙に膨らんだ鞄を見比べる。

やがて、にこっと口元を緩めた。


「は~いはい、そーいうことね~。じゃあついでに――」


そう言うと、くるりと踵を返してキッチンへ駆けていく。


「待ってて! お兄ちゃんに、エネルギー満点の超豪華弁当作ってあげる!」


---


【登校】


マンションの下で緒山朋奈と合流したとき、彼女はどうしてこんなに早いのかは聞かず、ただいつも通りに微笑んだだけだった。


学校までの道のりは、いつもより短く感じられ、妙に静かだった。


石原はどこか上の空で、意識は何度もあの紙袋へと引き戻されていた。


緒山は無理に話題を探すこともなく、時折ぽつりと一言二言だけ言葉を添えていた。


校門の前で別れるとき、彼女は足を止めて、くるりと振り返った。


朝の光が、髪の先にやわらかく差し込んでいた。


「先輩」


その声は軽やかで、それでいてはっきりと耳に届き、どこか穏やかな温もりを含んでいた。


「お昼、またね~」


石原は小さく頷き、低く応じた。


「……ああ」


余計な詮索もなければ、露骨な励ましもない。


それなのに、鞄のストラップを握りしめていた手の力が、ほんの少しだけ抜けた気がした。


---


石原は今、立花の教室の前に立っている。


教室の中では、立花が、ふっと息を吐いた。


窓の外の遠くを見ていた視線を引き戻し、ゆっくりと俯く。

ペンが、指先でくるくると回り始める。

同じ動きを、何度も繰り返す。


石原は息を整えた。

そして、足を持ち上げる。


――そのまま、一歩踏み出そうとした、その瞬間。


ドッ!


笑い声と、小さなざわめきが一気に弾けた。


数人の女子生徒がふざけ合いながら、立花の席の横を通り過ぎる。

そのうちの一人が、不意に――立花の肩に肘を強くぶつけた。


「きゃっ!」


立花の体がぐらりと前に崩れる。

机に突っ伏すように倒れ込む。


筆箱が弾け飛び、鉛筆、消しゴム、定規が――床へばらばらと散らばる。


「あっ、ごめん!」


ぶつかった女子が慌てて声を上げる。

仲間と一緒にしゃがみ込み、散らばった文具を拾い集める。


拾い終えると、そのまま机の上へ戻す。


一人の女子が、何気ない調子で言う。


「もう、ちゃんと前見て歩きなよ。

美里ちゃん来たら、ちゃんと謝んなきゃね」


「はーい」


「ていうか……美里ちゃん、まだ来てないんだ?」


違和感のない口調で、手慣れた様子で文具を整え、そのついでに開きっぱなしの教科書まで揃える。


そして――何事もなかったかのように、笑いながらその場を通り過ぎていく。


視線が彼女に向くことは、一度もなかった。まるで――最初から、そこに誰もいなかったかのように。


立花はゆっくりと体を起こし、唇を噛む。


石原は、扉の前で動きを止めた。

瞳がわずかに細まる。


(……どういうことだ。見えていない……?)


背筋を、冷たいものが這い上がる。


一昨日、服屋での光景がよぎった。

店員が、立花を見過ごした、あの違和感が。

あのときの小さな引っかかりが今、何倍にも膨れ上がる。


立花は、俯いたまま、スカートの裾をぎゅっと握りしめる。


ただ、あの女子たちの背中を見つめてまるで固まったかのように、動かない。


石原の胸が、重く沈む。


……これは、ただの「過去の問題」じゃない。

もっと、根の深いものだ。


手にした紙袋を、ぐっと握りしめる。


---


ギッ!


立花が勢いよく立ち上がる。

椅子の脚が床を擦り、耳障りな音を立てた。


何人かの生徒が、不思議そうに、空の椅子へ目を向ける。

だがその視線は、彼女を捉えることなく、そのまま通り過ぎていく。


立花は、机や椅子にぶつかりそうになりながら、教室を飛び出そうとした。


教室の後ろのドアの前で、急に足を止める。


――そこに、石原が立っている。


【立花美里の感情:恐慌55#*-@】


視線がぶつかる。


一瞬だけ、怯えた色がよぎる。

けれどすぐに俯き、体をずらす。


石原の横をすり抜け、そのままトイレへ駆け込んでいった。


石原は、その場に立ち尽くす。


――一分も経たないうちに、扉が開く。


【立花美里の感情:#$@*#%】


出てきた立花は、まるで別人のようだ。


可愛らしいワンピースを身にまとい、髪はツインテールに結い直され、メイクもきちんと整っている。


鏡に向かって、軽く笑顔を確認した。

ひとつ、深呼吸する。


そして、わざと軽やかな足取りで、教室へ戻っていく。


「みんな、おはよ~! ちょっと用事あって遅れちゃった!」


姿を見せるより先に、明るい声が教室に響いた。


「わっ! 美里ちゃん! その服、めっちゃ可愛い!」


一気に、視線が集まる。


色鮮やかな装いに引き寄せられ、クラスメイトたちが彼女を囲んだ。

立花は目を細めて笑いながら、自然に応じる。


――さっきまでの姿など、最初からなかったかのように。


教室の外で、石原は、その光景を見ている。


人に囲まれ、完璧な笑顔を浮かべている彼女。


ほんの数分前。誰にも気づかれず、机に倒れたあの姿。


ふいに、ひとつの考えが頭をよぎる。


普通の格好では――気づかれない。だから、あんなにも装う。

目立つ格好で、自分の存在に気づかせようとしている。


衝撃と焦りで、頭が一気に熱を帯びる。


石原は、数歩教室に踏み込む。


「立花さん!」


教室の空気が、すっと静まる。いくつもの視線が、こちらへ向く。


立花の動きが、一瞬止まる。


ゆっくりと振り返るその目は、どこか他人を見るように、よそよそしい。


「……先輩、何かご用ですか?」


甘い声だが、けれど、その奥は冷えている。


石原の胸が、詰まる。視線が、ワンピースへ落ちる。


そして。


「……その服、今すぐ着替えろ!」


押し殺した声が、低く響く。


教室が、しんと静まり返る。


クラスメイトたちは困惑し、石原と立花の間で視線を行き来させる。

その目には、わずかな警戒と、理解できないものを見る色が浮かぶ。


立花の顔が、一瞬だけ白くなる。


けれど、次の瞬間、さらに明るく、笑った。


わざとらしく首を傾げる。


「え? 私たち、知り合いでしたっけ?

女の子の服にそんなこと言うなんて、失礼じゃないですか?」


柔らかい口調だが、棘があった。


言い切ると、そのままくるりと背を向ける。

何事もなかったかのように、またクラスメイトと笑い合う。


石原だけが、その場に取り残される。拳に力がこもる。さっきの言葉は、あまりにも不器用で。


差し出したはずのものは、一番強い壁に弾かれて届かない。


チャイムが鳴る。


教室の扉が、閉まる。

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