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見える感情、見えないまま  作者: 颍川
第五章 見えない少女——色褪せていく世界
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第二十八話

---


【五月十二日・日曜日・夕方】


【石原家】


石原が疲れた体で帰宅すると、玄関には見慣れない女性用の靴が置かれていた。室内からは味噌汁と焼き魚の香りがふわりと漂ってくる。


「ただいま……」


「おかえり、お兄ちゃん! 本日の功労者さまご到着〜!」


キッチンから顔を出した杏はエプロン姿で、手にはフライ返しを持っている。


「今日は特別にごちそう用意してるからね〜」


石原は靴を脱いで手に持っていた紙袋を自室に置き、キッチンへ向かおうとする。


「ノンノン、兄貴が楽しむのはそっちじゃないよ〜?」


にやりと笑った杏は、そのままキッチンに引っ込んだ。


少し戸惑いながら石原がリビングへ入ると、低いテーブルの前に緒山がいて、丁寧に食器を並べていた。


気配に気づいた彼女は顔を上げ、いつもの柔らかな笑みを浮かべる。


「こんばんは、先輩」


「……緒山さん? どうしてここに……」


「私が呼んだの〜」


皿を運びながら、杏が楽しそうに割って入る。


「だってお兄ちゃん、みんなの期待背負って頑張ってたでしょ? それに朋奈さんも心配してたし――ね?」


緒山は少し頬を赤らめながら、小さく頷いた。


「……その、先輩の様子が少し気になってて。よかったら、お話を聞ければと……」


「……わざわざ、悪いな」


石原は短く答えた。


---


夕食の雰囲気は、思っていたよりずっと穏やかだった。


杏の料理は相変わらず美味しく、緒山が持ってきたデザートも見た目が華やかで上品な甘さだった。


無言で過ごしていた一日の疲れが、温かい食事と二人の他愛ない会話の中で、少しずつほどけていく。


気がつけば、緒山も杏もよく笑っていた。


その様子を見ながら、石原もふっと表情を緩める。


「……緒山も、家族だったらよかったのにな」


何気なくこぼれた一言だった。


「……え?」


二人が同時に顔を上げる。


自分の発言の意味に気づいたときには、すでに遅かった。


目の前の二人はそろって顔を赤くしている。


「お兄ちゃん……せめて雰囲気作ってから言ってよ……私いるんだけど」


杏が顔を覆いながらぼそりと呟く。


「……悪い、緒山さん」


石原が視線を逸らすと、緒山は一瞬固まったあと、慌てて笑顔を作った。


「い、いえ、大丈夫ですっ。あの、それより――」


……少し間を置いてから

早口で話題を変える。


「……その、今日の体育祭は……どうでしたか?」


石原は一瞬言葉に詰まる。


【杏の感情:嬉しい34/不安46/その他20】

【緒山朋奈の感情:高揚32@#%$*】


二人は変わらず笑っているが、その奥にある気配を、石原は見逃さなかった。


(……心配させるわけにはいかない)


「いや、特に大したことはない」


彼はそう言って、体育祭の軽い出来事や仕事の進み具合だけを簡単に話した。


深い部分には触れない。


二人とも、それ以上は何も聞いてこなかった。


その空気は、不思議と悪くなかった。


---


食後、緒山は後片付けを手伝い、あまり長くは居座らずに帰ることにした。


玄関で靴を履き、振り返る。


見送りに出てきた石原に、やわらかく声をかけた。


「先輩、無理してるときは……いつでも話してくださいね。私、先輩とお話しするの、好きですから」


「……ああ」


石原が頷くと、緒山はほっとしたように微笑んだ。


廊下の灯りの下、その笑顔はどこか澄んで見えた。


「それじゃあ、おやすみなさい。ごちそうさまでした」


彼女が去ったあと、扉が静かに閉まる。


杏はテーブルを拭きながら、何気ない調子で言った。


「朋奈さん、優しいでしょ」


石原は閉まった扉を見つめたまま、少し遅れて頷く。


「……ああ」


しばらくして、杏の手が少しだけ止まる。


「でもさ……“気が利く”っていう意味なら、美里ちゃんも同じなんだよね」


石原が振り向く。


杏は頬杖をつきながら続けた。


「空気も読むし、みんなが楽しくなること言うし、服もいつも可愛くて……ほんと、小さな太陽みたいな子」


そこで一度言葉を区切る。


「……でも、たまに思うんだよね。あの子、すごく疲れてるんじゃないかって」


視線が少し落ちる。


「ずっと“みんなに好かれる自分”を頑張って演じてる感じっていうか」


少し間を置いてから、続けた。


「この前、忘れ物取りに教室戻ったとき、一人でぼーっと座っててさ。表情が全然なくて……普段と別人みたいだった」


静かな声だった。


「すぐ元に戻ったけどね。何もなかったみたいに」


杏は布巾を置き、食器を持ってキッチンへ向かう。


その言葉が、石原の中で繋がった。


佐藤の語った“光の中の立花”と、自分が見た“殻に閉じこもる立花”。


その間にあるもの。


それは、積み重なった“演じ続ける日常”なのかもしれない。


「……そうか」


小さく呟く。


石原はそのまま、玄関の灯りの下に立ち尽くしていた。


---


石原は自室に戻った。


灯りはつけないまま、ベッドの縁に腰を下ろす。


しばらく、そのまま動かなかった。


窓から差し込む月明かりが、床と机を静かに照らしている。


その光の中に、昼間買った紙袋が置かれていた。その中の淡い青色が、ぼんやりと浮かび上がる。


石原はスマホを取り出し、画面を開く。


学生会のグループチャットには、すでに大量のメッセージが流れていた。


春野や花野からは個別にも連絡が来ている。


彼はそれぞれに短く返信した。


『ありがとう。大丈夫だ』


それだけ。


そして、次の画面で指が止まる。


立花のトーク画面。


最後に残っているのは、朝の一言。


『先輩、遅刻しないでくださいね〜』


軽い調子の文面と、添えられた絵文字。


そのまま、時間だけが止まったように残っている。


石原は一度文字を打ち込む。


だが、途中で消す。


もう一度打つ。


また消す。


しばらくその動作を繰り返したあと、彼はようやく一行だけを残した。


『明日、放課後。生徒会室で待つ』


疑問形ではない。


確認でもない。


ただの、決定。


送信ボタンを押す。


既読はつかない。


石原は画面を閉じ、スマホをベッドの横に置いた。


それ以上、確認しようとはしない。


少しだけ体を後ろに預け、暗い天井を見上げる。


胸の奥の重さだけが、残っていた。


それでも、目を逸らすつもりはなかった。


――明日、正面から向き合う。


逃げずに、踏み込む。


あいつが避け続けている、その場所へ。


月明かりだけが、静かに部屋を満たしていた。


---


【Another View ―― 立花美里】


同じ夜。


同じ月明かりの下で。


立花は、部屋の隅で小さく体を丸めていた。


膝を抱え込み、その間に顔を埋める。


手の中のスマホを、強く握りしめている。


画面には、一行のメッセージ。


『明日、放課後。生徒会室で待つ』


視線がそこに釘付けになる。


何度も読み返す。


そのたびに、胸の奥がじわじわと締めつけられる。


「……ばか」


くぐもった声が漏れる。


「ほんと、ばか……」


言葉はそれ以上続かない。


頭の中に浮かぶのは、今日の出来事だった。


佐藤の、あの固まった笑顔。


石原の手が肩を掴んだときの感触。


そして、まっすぐ向けられた視線。


――逃げた。


その事実が、何度も胸を刺す。


ほどけないまま、絡みついてくる。


彼女は震える指で返信欄を開く。


『今日は、ごめんなさい』


打ち込んで、止まる。


消す。


『明日、ちょっと体調が――』


途中で止まり、また消す。


何も残らない。


指先だけが、かすかに震えている。


視線を逸らしても、すぐに戻ってしまう。


見たくないのに、消えてくれない。


画面に残る、たった一行。


『待つ』


短い言葉なのに、逃げ場がない。


胸が詰まり、呼吸が浅くなる。


さっきまでの“自分”が、崩れていくのが分かる


可愛い笑顔も、明るい声も、全部どこかへ落ちてしまったみたいに。


それでも。


その一行だけは、暗闇の中で消えなかった。


小さく、確かに残っている。


立花はスマホを胸に抱き寄せる。


ぎゅっと、強く。


目を閉じる。


開けることができない。


部屋は静まり返っていた。


風もなく、カーテンも揺れない。


ただ、時間だけが静かに過ぎていく。


それでも、朝は来る。

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