第二十七話
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【午後・体育祭終了後】
立花は姿を見せず、石原のメッセージにも既読がついたまま、返信はなかった。
石原は何も言わず、午後の仕事をすべて淡々とこなす。
最後の観客が去り、喧騒が潮のように引いていくと、彼はひとつ深く息を吸い、グラウンドの方へと歩き出した。
夕焼けがトラックをやわらかな橙色に染めている。
休憩スペースのベンチには、佐藤が一人で座っていた。俯いたまま、手元では無意識にスニーカーの紐をいじっている。
「……あの」
声をかけると、佐藤は顔を上げ、相手が石原だと気づくとすぐに立ち上がった。
「石原先輩!」
【佐藤の感情:落胆28/困惑44/自責28】
笑顔はなんとか作っているが、その奥の揺らぎは隠しきれていない。
「少し時間いいか。立花のことで話したい」
佐藤はわずかに目を見開き、すぐに力強く頷いた。まるで、誰かに聞いてほしかったかのように。
「先輩……あのあと、どうなりましたか?」
「分からない。先に帰った」
佐藤は少し言葉を詰まらせ、視線を落とす。
「……やっぱり、俺が余計なこと言って、怒らせちゃったんですよね」
「違う。お前のせいじゃない」
石原ははっきりと言い切った。
「……あいつは、別のことで悩んでる」
しばらくの沈黙のあと、佐藤はジャージの内ポケットに手を入れ、少し折れ目のついた写真を取り出した。
「先輩、これ……」
石原はそれを受け取る。
写っているのは陸上部の集合写真だった。皆がカメラに向かって笑っている。
その中央で、小柄な体ながら背筋をまっすぐ伸ばし、ひときわ明るい笑顔を見せているのが立花だった。
頬をわずかに赤らめ、片手は仲間の肩に、もう片方にはストップウォッチを握っている。
見ているだけで、その熱が伝わってくるような笑顔だった。
「去年の大会前に撮ったんです」
佐藤の声には、どこか懐かしさが滲んでいた。
「この頃の立花先輩、本当にすごくて……
走るときは目が輝いてて、練習も誰より真剣で、休憩のときは一番よく笑って。
応援も全力で、声が枯れるまで続けてくれて……
本当に、最高の先輩でした」
石原は写真を見つめたまま、今日の彼女の姿を思い出す。
青ざめた顔、そして逃げるように去っていった背中。
同じ人物だとは、どうしても思えなかった。
「……ああ」
短く、そう答える。
佐藤も写真を見つめ、つられるように笑みを浮かべるが、その表情はすぐに曇った。
「でも……高校に入ってから、少し変わった気がして」
声が少し落ちる。
「たまに見かけても、なんていうか……距離がある感じで。笑ってはいるんですけど、どこか無理してるように見えて……」
指先が写真の端をなぞる。
「やっぱり、高校って大変なんですかね」
石原は何も答えず、静かに写真を返した。
頭の中に浮かぶのは、生徒会室でのどこか作ったような笑い声や、「子供」と言われたときの過剰な反応、そしてさきほどの逃げるような姿だった。
――あれは変わったのではなく、自分を守るために殻を作っただけだ。
その考えに、胸の奥がわずかに重くなる。
佐藤は写真を大切そうにしまい、少し照れくさそうに後頭部をかいたあと、小さな声で言った。
「……俺、ずっと先輩のこと尊敬してて」
少し間を置く。
「……ああやって笑ってる先輩が、好きなんです」
言葉は控えめだが、はっきりしていた。
「また、前みたいに……心から笑ってるところ、見たいです」
石原は、目の前の後輩を見つめる。
真っ直ぐで、濁りのない目だった。
その視線に、胸の奥で何かが静かに決まる。
石原はゆっくりと立ち上がった。
「分かった」
短く言い、佐藤をまっすぐ見据える。
「俺がなんとかする。……あいつを、もう一度ちゃんと笑わせる」
その声には迷いがなかった。
「信じてくれ」
佐藤は一瞬息を呑み、それから強く頷いた。
「……はい! お願いします、石原先輩!」
夕焼けの中、二人の影が長く伸びる。
その影は、静かに重なっていた。
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石原は、次第に静まり返っていく街を歩いていた。
佐藤の言葉――「ああやって笑っている先輩が好きなんです」という一言と、立花のあの憂いを帯びた表情が、頭の中で何度も重なっていく。
体育祭のときの彼女の様子を思い返す。
あれは、ただの自嘲ではなかった。
――あいつは、あの後輩を怖がっている。
では、何を恐れているのか。
追い抜かれることか。それとも、“かつてのエースだった自分”が、もう誰の目にも映らなくなることか。
だからこそ、先に距離を取った。
近づかなければ、比べられることもない。
そうやって、可能性から目を逸らした。
だが、距離を置けば置くほど、相手は変わらず輝いていて、しかも自分に向けてまっすぐな信頼を寄せてくる。
その事実が、かえって彼女を追い詰めていく。
まるで蔦のように、罪悪感が絡みつき、締め付ける。
自分は逃げた人間だ。そんな自分に、尊敬される資格なんてない――きっと、そう思っている。
……全部、繋げてしまってるのかもしれない。
受験のことも、新しい環境のことも。
――逃げたことの、罰だって。
石原の胸が、ずしりと重く沈む。
これは単なる嫉妬じゃない。
誇りを持っていた人間が、「もうトップではいられないかもしれない」という現実に耐えきれず、自分自身を遠ざけ続けている状態だ。
彼女は華やかな服をまとい、新しい居場所を築こうとしている。
まるで言い聞かせるように。
――ほら、私は別の場所でもちゃんとやれている。
だが、その外側のきらびやかさの裏で、彼女自身が自分を裁いている。
そこにあったのは、ただの孤独だった。
ふと、昔の記憶がよみがえる。
学校の用具室で、杏がひとり泣いていた。
肩を震わせながら、それでも声を押し殺していた。
クラスの噂に耐えきれなくて。
人の目から逃げるみたいに、ひとりで抱え込んでいた。
あのとき、自分は何をしていた。
扉の外で拳を握りしめ、何もできずに立ち尽くしていただけだった。
中から聞こえてくる押し殺した泣き声が、何度も胸を打ち、どうしてもっと早く気づけなかったのかと悔やむことしかできなかった。
石原は深く息を吸い、顔を上げる。
そして今、同じ光景が目の前にある。
スタンドに立ち、顔を青ざめさせたまま、人混みへと逃げていった立花の背中。
その姿が、杏のそれと重なる。
胸の奥に、嫌に残った。
あのとき、できなかったこと。
だったら、今度は――
せめて、手を伸ばしてみるくらいはできるはずだ。
――放っておけるわけがない。
朝に立ち寄ったあのセレクトショップの前で、石原は足を止めた。
ショーウィンドウの中には、あの淡い青のワンピースが、まだ静かに掛けられている。
彼は少しだけそれを見つめ、それから扉を押し開けた。
数分後。
店を出てきた彼の手には、紙袋がひとつ。
中には、きれいに畳まれた淡い青の布地。
それが彼女にとってどんな意味を持つのか、石原には分からない。
それでも――あのとき、それを見つめる彼女の目に、確かに光があったことだけは覚えていた。




