第二十六話
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【泉方新高・中等部】
日差しが、容赦なく校庭を焼く。
石原は持ち場に立ったまま動かず、汗が首筋を伝って滴り落ちる。
シャツがじわりと張り付く。
――暑い。
視線だけをわずかに動かす。
日陰の受付テントでは、立花が椅子に座り、足をぶらつかせながら気楽そうにしていた。
「先輩、これどうぞ!」
声がして、振り向く。
ボランティアベストの男子が、冷えたペットボトルを差し出していた。
「この暑さで立ちっぱなし、きついっすよね」
石原は少し間を置いて受け取る。
「……助かる。名前は?」
「中等部三年の佐藤です!」
額の汗を拭い、にかっと笑う。
「自分の出番、まだ先なんで。暇してたんすよ」
――いいやつだな。
「先輩、泉方新高っすよね?」
急に声のトーンが上がり、指がテントの方を指す。
「あそこにいる人も、そうですよね!」
「立花美里っていうんですけど――元陸上部のエースで、めちゃくちゃ速くて――自分、前に教えてもらったことあるんです!」
【佐藤の感情:興奮80、期待20】
言葉が止まらず、目はまっすぐだった。
石原は一度だけテントの方を見る。
立花は、うつむいたまま動かない。
――視線が戻る。
「気づいてないっぽいけど……
今、ぼーっとしてるみたいで」
「……そうか。でもいいんです!」
佐藤は首を振る。
「今は高校生だし、生徒会の先輩だし。忙しいっすよね」
ぐっと拳を握る。
「次のレース、絶対いい走りします!」
そう言って手を振り、そのまま走り去っていった。
背中はすぐに人混みに紛れる。
石原はそれを少しだけ目で追い、それからもう一度テントを見る。
立花は、やはりうつむいたままだった。
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競技が始まったあと、石原は立花のそばに移動した。
「立花」
「……ん、あ。先輩」
顔を上げる。いつもの笑顔。
二人はそのまま、スタンドの端へと並んで移動する。
トラックでは、4×100リレーが始まっていた。
立花がすっと手を上げ、一点を指す。
「赤の第四走者。あれ、さっきの子」
声は小さい。
「佐藤。今はエースだよ」
視線の先で、バトンが渡る。
走り出すと同時に、一気に差を広げていく。速い。
――そのままトップでゴール。
周囲から歓声が上がる。
「……速いですね」
かすかな声で、ぽつりと呟く。
口元がわずかに上がり、すぐに戻る。
――そのとき。
「すみませんっ!」
慌てた声に、振り向くと、チアの女子が一人、駆け寄ってくる。スカートの裾を押さえていた。
「針とかありますか? 破れちゃって……!」
立花がすっと前に出る。
「大丈夫、任せて」
いつもの笑顔で、布に指先を触れる。
――白い光が、一瞬。
次の瞬間、破れは消えていた。
「えっ、すご……魔法!?」
「正解〜。秘伝のちょっとした技なんだ」
ぱち、とウインクして胸を張る。
「うわぁ、ありがとうございます!」
女子は何度も頭を下げて走って戻っていく。
すぐに、もう二人がやってくる。
「ほんとだ、直ってる!」
「小学生みたいに小さくて可愛いのにすごい! ありがとう!」
その一言で、立花の動きが止まる。
ぴたりと動きが止まる。
「……小学生?」
声が低い。
一瞬、間。
石原の肩がわずかに揺れる。
「……ふっ」
小さく漏れる。
「笑いましたね、今」
立花が振り向く。
「……笑ってない」
「絶対笑いました!」
距離を詰め、小さな拳がぽすぽすと腕に当たる。
軽いが、しつこい。
「やめろ」
「やめない!」
二人の距離が近づき、周囲の視線が集まる。
少し離れた場所で、先ほどの三人が顔を見合わせ、小さく笑い合うと、そのままそっと離れていった。
ふと風が吹き、テントの布がわずかに揺れた。
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【観客席・死角の観察場所】
「ぷははっ――!」
杏は春野から“借りた”ミニ双眼鏡を構えたまま、笑いすぎて体をぐらぐらさせる。
「お兄ちゃん、また殴られてる! 美里ちゃん、殴る速度速すぎでしょ〜!」
「いやぁ、青春だねえ」
春野は、どこから調達してきたのか分からないポップコーンを抱え、
もぐもぐ(と楽しそうに食べながら、
時おり緒山の方へ視線をやる。
「でも、さっきの立花、珍しくちゃんと試合見てたな」
緒山は微笑みながら、遠くの二人に視線を向ける。
じゃれ合うように距離を詰めては離れる二人を、穏やかに見つめていた。
だが、ふとその視線が立花の横顔をかすめる。
どこか張り詰めたような、その表情に――ほんのわずかに、目の奥が揺れた。
だがそれもすぐに収め、いつものやわらかな声音で言葉を継ぐ。
「そうだね。美里ちゃん、ほんと元気だよね」
その直後。
春野と杏が、くるっと同時に振り向いた。
同じタイミングで、同じような笑みを浮かべていた。
「……え、どうしたの?」
「へへ〜」
杏がにやりと笑い、身を乗り出す。
「それよりさ〜。この前のカフェで、朋奈さんとお兄ちゃん、何か“いいこと”あったんじゃないの?」
春野もすぐに続く。
顎に手を当てて、興味深そうに言う。
「石原のあの頑固さを曲げさせるなんて……緒山副会長、なかなかやるじゃん」
「ち、違うよ!」
緒山の頬が一瞬で赤くなり、思わず声が上ずる。
「ただ普通に話しただけだし! 変なことなんて何もないってば!」
「へぇ〜?」
杏がさらに顔を近づける。
「“普通に”ね〜?」
「顔に全部出てるぞ」
春野が肩をすくめて笑う。
「もう答え分かっちゃったな」
「も、もう……違うってば……!」
緒山は言葉に詰まり、顔を赤くしたまま二人を軽く睨むと、くるりと顔を背けた。
そのまま、何事もなかったかのように試合の方へ視線を戻す。
だが、耳の先まで真っ赤になっているのは隠しきれていなかった。
杏と春野は顔を見合わせ、小さく笑う。
それ以上は何も言わず、そのまま見逃してやった。
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その頃――
観客席の賑やかさとは、まるで別世界のように。
立花がふいに動きを止め、さっきまでの軽口も手の動きもすべて消えた。
ゆっくりと視線だけがグラウンドへ戻る。
赤いユニフォームの集まりの中央で、佐藤がチームメイトに囲まれていた。
笑いながら身振りで先ほどの走りを再現し、それに応えて周囲も笑い、歓声が上がる。
――そこだけ、やけに眩しく見えた。
立花は何も言わず、その光景を見つめたまま動かなかった。
周囲のざわめきや歓声が、どこか遠くに感じられる。
石原も同じ方向へ視線を向ける。
……あいつか。
最初は、ただ拗ねているだけだと思っていたが――
「……佐藤、速かったな」
「……うん」
返事は小さいが、視線は動かない。
だが――その目にあるものは、そんな軽いものではなかった。
石原の胸が、わずかに重くなる。
「運動もできて、成績もいいし……面倒見もいいし、顔もいいし……全部そろってますし」
少しの間。
「普通に受験して、泉方新高に来るんでしょうね――私みたいに、スポーツ枠じゃなくて」
石原は頬をかく。
「ずいぶん完璧な設定だな」
「事実ですもん」
口元がわずかに上がり、すぐに沈む。
「きっとすぐ人気者になりますよ。クラスの中心で、みんなに囲まれて」
言葉が一定のリズムで並び、まるで覚えたものをなぞるように止まらない。
「……そういう人、ほんとにいるんですよね」
小さく途切れ、その声はどこか空っぽだった。
風が吹き、前髪が揺れる。
「誰だって、いいとこはあるだろ」
「……私にはないですけど」
視線は下に落ち、まつげがかすかに震える。
石原の視線が止まり、胸の奥が鈍く軋む。
あのときの自分と、どこか重なった。
言葉を探す。
「立花――」
その瞬間。
――パンッ!
発令銃の音が弾け、歓声が一気に押し寄せて言葉を飲み込む。
強い風が吹き抜け、立花の髪が揺れる。
【立花美里の感情:落胆34……&*)0】
「先輩、午後の仕事……休ませてください」
振り返るが目は合わず、そのまま歩き出す。
背中が、どこか小さく見えた。
「待てよ」
石原が手を伸ばして肩を掴むと、立花の足が止まる。
「さっきの言い方が悪かったなら――」
「もういいんです」
途中で遮る。
顔を上げると、目は赤く、それでもまっすぐだった。
「そういう綺麗ごと、いらないんです。
私のこと、どれだけ知ってるの?」
石原の喉が詰まり、手がわずかに緩む。
その隙に、立花は石原の手から逃れる。
「……最初から、来るつもりなかったし」
立花が手の甲で目元を強く拭う。
「……ごめん」
そのまま歩き出す。
「立花先輩!」
下から声が飛び、二人の動きがぴたりと止まる。
視線を落とすと、スタンド下に佐藤が立っていた。
汗だくのまま、無邪気に笑っている。
「先輩! 久しぶりっすね! 午後のレース、一緒にアップしませんか? 前みたいに!」
まっすぐな目には、曇りのない期待と信頼があった。
立花の動きが完全に固まった。
下から向けられるその澄んだ明るい笑顔を見て、自分の中で渦巻く薄暗さと、さっきの無様な取り乱しを思い返し、立花の顔からさっと血の気が引く。
「……ごめん」
声を震わせて一歩下がり、次の瞬間には逃げるように走り出した。
足取りを乱しながら、そのまま人混みの中へ消えていく。
佐藤の動きが止まり、笑顔も固まる。
「……先輩?」
次に石原を見る。
「先輩……俺、なんかまずいこと言いました?」
石原は答えず、視線を彼女が消えた方向へ向けたまま動かない。
胸の重さは消えない。
「……気にするな。今は――あいつが、自分で向き合うしかないだけだ」
視線は戻らないまま、観客席のざわめきだけが残った。
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遠くのスタンド――
「……美里ちゃん、走ってっちゃった……」
杏は双眼鏡を下ろし、さっきまでの笑みを消した。
春野も手を止め、わずかに眉をひそめる。
「……地雷、踏んだかもな」
そう言って、春野は心配そうにグループチャットにメッセージを送る。
『お二人さん、進捗はいかがですか?』
緒山は何も言わず、視線をスタンドに留めていた。
そこに、石原がひとり立っていた。
体の横に垂れた手が、無意識に、ゆっくりと握られていく。
緒山はスマホを取り出し、グループチャットを開く。
表示されたのは、短い一行。
『大丈夫。気にするな』
いかにも石原らしい、短くて硬い文面。
三人は顔を見合わせる。
「……行く?」
杏が少し身を乗り出しかけて、止まる。
春野はわずかに考え、首を振った。
「いや……ああ言うってことは、今は来るなってことだろ」
一拍置いて、続ける。
「……あいつの性格、分かってるだろ」
杏は唇をかみ、言葉を飲み込む。
「でも……」
緒山はまだ視線を外さない。
遠くの石原を、まっすぐ見つめたまま。
そして、静かに口を開く。
「……でも、本当に見てるだけってわけにはいかないよ」
声はやわらかいが、はっきりしていた。
杏は小さく頷き、二人と視線を交わす。
「うん。お兄ちゃんのことは信じてる。でも――本当に必要になったら、すぐ手を伸ばせるようにしておく」
三人の間に意思は通っていた。
誰も動かない。
距離はそのまま。
踏み込まず、それでも離れはしなかった。




