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見える感情、見えないまま  作者: 颍川
第五章 見えない少女——色褪せていく世界
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第二十六話

---


【泉方新高・中等部】


日差しが、容赦なく校庭を焼く。


石原は持ち場に立ったまま動かず、汗が首筋を伝って滴り落ちる。

シャツがじわりと張り付く。


――暑い。


視線だけをわずかに動かす。


日陰の受付テントでは、立花が椅子に座り、足をぶらつかせながら気楽そうにしていた。


「先輩、これどうぞ!」


声がして、振り向く。


ボランティアベストの男子が、冷えたペットボトルを差し出していた。


「この暑さで立ちっぱなし、きついっすよね」


石原は少し間を置いて受け取る。


「……助かる。名前は?」


「中等部三年の佐藤です!」


額の汗を拭い、にかっと笑う。


「自分の出番、まだ先なんで。暇してたんすよ」


――いいやつだな。


「先輩、泉方新高っすよね?」


急に声のトーンが上がり、指がテントの方を指す。


「あそこにいる人も、そうですよね!」


「立花美里っていうんですけど――元陸上部のエースで、めちゃくちゃ速くて――自分、前に教えてもらったことあるんです!」


【佐藤の感情:興奮80、期待20】


言葉が止まらず、目はまっすぐだった。


石原は一度だけテントの方を見る。


立花は、うつむいたまま動かない。


――視線が戻る。


「気づいてないっぽいけど……

今、ぼーっとしてるみたいで」


「……そうか。でもいいんです!」


佐藤は首を振る。


「今は高校生だし、生徒会の先輩だし。忙しいっすよね」


ぐっと拳を握る。


「次のレース、絶対いい走りします!」


そう言って手を振り、そのまま走り去っていった。

背中はすぐに人混みに紛れる。


石原はそれを少しだけ目で追い、それからもう一度テントを見る。


立花は、やはりうつむいたままだった。


---


競技が始まったあと、石原は立花のそばに移動した。


「立花」


「……ん、あ。先輩」


顔を上げる。いつもの笑顔。


二人はそのまま、スタンドの端へと並んで移動する。


トラックでは、4×100リレーが始まっていた。


立花がすっと手を上げ、一点を指す。


「赤の第四走者。あれ、さっきの子」


声は小さい。


「佐藤。今はエースだよ」


視線の先で、バトンが渡る。


走り出すと同時に、一気に差を広げていく。速い。


――そのままトップでゴール。

周囲から歓声が上がる。


「……速いですね」

かすかな声で、ぽつりと呟く。

口元がわずかに上がり、すぐに戻る。


――そのとき。


「すみませんっ!」


慌てた声に、振り向くと、チアの女子が一人、駆け寄ってくる。スカートの裾を押さえていた。


「針とかありますか? 破れちゃって……!」


立花がすっと前に出る。


「大丈夫、任せて」


いつもの笑顔で、布に指先を触れる。


――白い光が、一瞬。


次の瞬間、破れは消えていた。


「えっ、すご……魔法!?」


「正解〜。秘伝のちょっとした技なんだ」


ぱち、とウインクして胸を張る。


「うわぁ、ありがとうございます!」


女子は何度も頭を下げて走って戻っていく。


すぐに、もう二人がやってくる。


「ほんとだ、直ってる!」


「小学生みたいに小さくて可愛いのにすごい! ありがとう!」


その一言で、立花の動きが止まる。


ぴたりと動きが止まる。

「……小学生?」


声が低い。


一瞬、間。

石原の肩がわずかに揺れる。


「……ふっ」


小さく漏れる。


「笑いましたね、今」


立花が振り向く。


「……笑ってない」


「絶対笑いました!」


距離を詰め、小さな拳がぽすぽすと腕に当たる。

軽いが、しつこい。


「やめろ」


「やめない!」


二人の距離が近づき、周囲の視線が集まる。


少し離れた場所で、先ほどの三人が顔を見合わせ、小さく笑い合うと、そのままそっと離れていった。


ふと風が吹き、テントの布がわずかに揺れた。


---


【観客席・死角の観察場所】


「ぷははっ――!」


杏は春野から“借りた”ミニ双眼鏡を構えたまま、笑いすぎて体をぐらぐらさせる。


「お兄ちゃん、また殴られてる! 美里ちゃん、殴る速度速すぎでしょ〜!」


「いやぁ、青春だねえ」


春野は、どこから調達してきたのか分からないポップコーンを抱え、

もぐもぐ(と楽しそうに食べながら、

時おり緒山の方へ視線をやる。


「でも、さっきの立花、珍しくちゃんと試合見てたな」


緒山は微笑みながら、遠くの二人に視線を向ける。


じゃれ合うように距離を詰めては離れる二人を、穏やかに見つめていた。


だが、ふとその視線が立花の横顔をかすめる。


どこか張り詰めたような、その表情に――ほんのわずかに、目の奥が揺れた。


だがそれもすぐに収め、いつものやわらかな声音で言葉を継ぐ。


「そうだね。美里ちゃん、ほんと元気だよね」


その直後。


春野と杏が、くるっと同時に振り向いた。


同じタイミングで、同じような笑みを浮かべていた。


「……え、どうしたの?」


「へへ〜」


杏がにやりと笑い、身を乗り出す。


「それよりさ〜。この前のカフェで、朋奈さんとお兄ちゃん、何か“いいこと”あったんじゃないの?」


春野もすぐに続く。


顎に手を当てて、興味深そうに言う。


「石原のあの頑固さを曲げさせるなんて……緒山副会長、なかなかやるじゃん」


「ち、違うよ!」


緒山の頬が一瞬で赤くなり、思わず声が上ずる。


「ただ普通に話しただけだし! 変なことなんて何もないってば!」


「へぇ〜?」


杏がさらに顔を近づける。


「“普通に”ね〜?」


「顔に全部出てるぞ」


春野が肩をすくめて笑う。


「もう答え分かっちゃったな」


「も、もう……違うってば……!」


緒山は言葉に詰まり、顔を赤くしたまま二人を軽く睨むと、くるりと顔を背けた。


そのまま、何事もなかったかのように試合の方へ視線を戻す。


だが、耳の先まで真っ赤になっているのは隠しきれていなかった。


杏と春野は顔を見合わせ、小さく笑う。


それ以上は何も言わず、そのまま見逃してやった。


---


---


その頃――

観客席の賑やかさとは、まるで別世界のように。


立花がふいに動きを止め、さっきまでの軽口も手の動きもすべて消えた。


ゆっくりと視線だけがグラウンドへ戻る。


赤いユニフォームの集まりの中央で、佐藤がチームメイトに囲まれていた。


笑いながら身振りで先ほどの走りを再現し、それに応えて周囲も笑い、歓声が上がる。


――そこだけ、やけに眩しく見えた。


立花は何も言わず、その光景を見つめたまま動かなかった。


周囲のざわめきや歓声が、どこか遠くに感じられる。


石原も同じ方向へ視線を向ける。


……あいつか。


最初は、ただ拗ねているだけだと思っていたが――


「……佐藤、速かったな」


「……うん」


返事は小さいが、視線は動かない。


だが――その目にあるものは、そんな軽いものではなかった。


石原の胸が、わずかに重くなる。


「運動もできて、成績もいいし……面倒見もいいし、顔もいいし……全部そろってますし」


少しの間。


「普通に受験して、泉方新高に来るんでしょうね――私みたいに、スポーツ枠じゃなくて」


石原は頬をかく。


「ずいぶん完璧な設定だな」


「事実ですもん」


口元がわずかに上がり、すぐに沈む。


「きっとすぐ人気者になりますよ。クラスの中心で、みんなに囲まれて」


言葉が一定のリズムで並び、まるで覚えたものをなぞるように止まらない。


「……そういう人、ほんとにいるんですよね」


小さく途切れ、その声はどこか空っぽだった。


風が吹き、前髪が揺れる。


「誰だって、いいとこはあるだろ」


「……私にはないですけど」


視線は下に落ち、まつげがかすかに震える。


石原の視線が止まり、胸の奥が鈍く軋む。


あのときの自分と、どこか重なった。


言葉を探す。


「立花――」


その瞬間。


――パンッ!


発令銃の音が弾け、歓声が一気に押し寄せて言葉を飲み込む。


強い風が吹き抜け、立花の髪が揺れる。


【立花美里の感情:落胆34……&*)0】


「先輩、午後の仕事……休ませてください」


振り返るが目は合わず、そのまま歩き出す。


背中が、どこか小さく見えた。


「待てよ」


石原が手を伸ばして肩を掴むと、立花の足が止まる。


「さっきの言い方が悪かったなら――」


「もういいんです」


途中で遮る。


顔を上げると、目は赤く、それでもまっすぐだった。


「そういう綺麗ごと、いらないんです。

私のこと、どれだけ知ってるの?」


石原の喉が詰まり、手がわずかに緩む。


その隙に、立花は石原の手から逃れる。


「……最初から、来るつもりなかったし」


立花が手の甲で目元を強く拭う。


「……ごめん」


そのまま歩き出す。


「立花先輩!」


下から声が飛び、二人の動きがぴたりと止まる。


視線を落とすと、スタンド下に佐藤が立っていた。


汗だくのまま、無邪気に笑っている。


「先輩! 久しぶりっすね! 午後のレース、一緒にアップしませんか? 前みたいに!」


まっすぐな目には、曇りのない期待と信頼があった。


立花の動きが完全に固まった。


下から向けられるその澄んだ明るい笑顔を見て、自分の中で渦巻く薄暗さと、さっきの無様な取り乱しを思い返し、立花の顔からさっと血の気が引く。


「……ごめん」


声を震わせて一歩下がり、次の瞬間には逃げるように走り出した。


足取りを乱しながら、そのまま人混みの中へ消えていく。


佐藤の動きが止まり、笑顔も固まる。


「……先輩?」


次に石原を見る。


「先輩……俺、なんかまずいこと言いました?」


石原は答えず、視線を彼女が消えた方向へ向けたまま動かない。


胸の重さは消えない。


「……気にするな。今は――あいつが、自分で向き合うしかないだけだ」


視線は戻らないまま、観客席のざわめきだけが残った。


---


遠くのスタンド――


「……美里ちゃん、走ってっちゃった……」


杏は双眼鏡を下ろし、さっきまでの笑みを消した。


春野も手を止め、わずかに眉をひそめる。


「……地雷、踏んだかもな」


そう言って、春野は心配そうにグループチャットにメッセージを送る。


『お二人さん、進捗はいかがですか?』


緒山は何も言わず、視線をスタンドに留めていた。

そこに、石原がひとり立っていた。


体の横に垂れた手が、無意識に、ゆっくりと握られていく。


緒山はスマホを取り出し、グループチャットを開く。

表示されたのは、短い一行。


『大丈夫。気にするな』


いかにも石原らしい、短くて硬い文面。


三人は顔を見合わせる。


「……行く?」


杏が少し身を乗り出しかけて、止まる。


春野はわずかに考え、首を振った。


「いや……ああ言うってことは、今は来るなってことだろ」


一拍置いて、続ける。


「……あいつの性格、分かってるだろ」


杏は唇をかみ、言葉を飲み込む。


「でも……」


緒山はまだ視線を外さない。


遠くの石原を、まっすぐ見つめたまま。


そして、静かに口を開く。


「……でも、本当に見てるだけってわけにはいかないよ」


声はやわらかいが、はっきりしていた。


杏は小さく頷き、二人と視線を交わす。


「うん。お兄ちゃんのことは信じてる。でも――本当に必要になったら、すぐ手を伸ばせるようにしておく」


三人の間に意思は通っていた。


誰も動かない。

距離はそのまま。


踏み込まず、それでも離れはしなかった。


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