第四章 見えない少女――色褪せていく世界
【前書き】
こんにちは。
いつも読んでいただき、本当にありがとうございます!
ここ最近の作業ペースとして、1章あたりの修正+翻訳にだいたい2〜3日ほどかかることが分かってきました。
今後もしばらくは、このくらいのペースで更新していく予定です。
もし更新が遅れそうなときは、「活動報告」でお知らせしますので、
のんびりお待ちいただけたら嬉しいです。
それから、少しだけ個人的なお話を。
今回の「立花編」は、実はかなり前に書いたエピソードです。
久しぶりに読み返してみると、「あれ、こんな子だったかな」と思うところもあったのですが——
それでも、教室の隅で小さくなっている彼女の姿を見ると、
やっぱり胸が少し苦しくなりました。
同時に、石原の変化にも改めて気づかされました。
人と距離を取っていた彼が、少しずつ誰かのために動くようになっていること。
それが、どこか嬉しくて、少し誇らしくも感じました。
そんな二人の物語を、楽しんでいただけたら嬉しいです。
ちなみに、立花編は全3話+後日談の予定です。
今回はその1話目になります。
それでは、本編をどうぞ。
---
【五月十日・金曜日・夕方】
金曜日最後の体育の授業で、突然、体力テストが実施された。
石原久希は、自分のものとは思えないほど重くなった身体を引きずりながら、息を切らし、足元をふらつかせつつ、どうにか生徒会室へとたどり着いた。
そのまま力が抜けたように、手近な椅子へと崩れ落ちる。
もはや口を開く気力すら残っていなかった。
「はぁ……はぁ……」
「おう石原、どこのヤクザに追われてきたんだ?」
春野陽明は手にしていた書類を机に置き、その無様な姿を見て思わず茶化した。
立花美里は背の高い椅子に腰かけたまま、小さな脚をぶらぶらと揺らし、異なる色の瞳をぱちぱちと瞬かせる。
「先輩、弱すぎじゃない〜?ただの体力テストでしょ?」
無邪気ゆえに、遠慮のない一言だった。
「う、うるさい……」
石原はかすれた声で言い返す。
その隣で、緒山朋奈がそっと水の入ったコップを差し出し、やわらかな声で補足した。
「美里ちゃん、前は陸上部の特待生だったんだよ〜。すごく速かったんだよ」
春野が興味深そうに口を挟む。
「百メートルはベスト十二秒五、八百も二分三十切り。校内どころか、市内でもトップクラスだぞ」
【立花美里の感情:誇り65>?:;+】
「えぇ——?!」
石原は思わず声を上げ、目の前の小柄な少女をまじまじと見つめた。
どうにも、このロリ体型とその記録が結びつかない。
「ほ、本当かよ……バケモンか?」
「……マジかよ。バケモンじゃねえか」
立花の頬がぷくっと膨れる。
「先輩、それどういう意味なのだ!」
「別に。ただ感心しただけだ」
立花は少し気まずそうに顔をそらし、声を落とした。
「も、もう昔の話なのだ……今はそんなに速く走れないし」
石原はようやく息を整え、何気なく問いかける。
「じゃあ来週の体育祭、何に出るんだ?その記録なら、クラスにかなり貢献できるだろ」
その瞬間、生徒会室の空気がわずかに固まった。
立花の笑みが、ぴたりと止まる。
無意識にスカートの裾をぎゅっとつまんだ。
「やだよ!走ったら汗かくし……可愛い服だって汚れちゃうし!」
【立花美里の感情:緊張30%^&*(】
石原の視界に、彼女の感情タグが激しく揺れているのが映る。
「そうか……それは残念だな」
「じゃあせめてマスコットでもやるか、立花!」
春野の軽口で、場の空気が再び和らぐ。
立花はじろりと彼を睨みつけた。
話題を変えるため――そして、あのカフェで決めた「もっと積極的になる」という自分との約束を果たすために。
石原は一度深く息を吸い、できるだけ自然な調子で切り出した。
「その……立花さん。明後日、中等部のボランティア行くんだろ。少し早めに集合しないか?」
立花は一瞬きょとんとしたが、すぐに小さく頷く。
「う、うん。じゃあ……明後日の朝八時、泉方橋で待ち合わせでいい?」
「ああ」
石原は短く答えた。
その傍らで静かに書類を整理していた緒山は、ほんのわずかに指の動きを止める。
窓の外から差し込む夕焼けの光が、彼女の横顔をやわらかく照らしていた。
その表情はいつも通り穏やかで、そこに特別な変化は見て取れなかった
---
【五月十二日・日曜日・朝】
玄関の鏡の前で、
石原久希は少し居心地の悪そうに、
自分の着ている薄いグレーのカジュアルシャツの裾を軽く引いた。
これはいつものように適当に手に取ったTシャツではない。
昨夜、杏にクローゼットの前に引き止められ、あれこれと散々選び直された末に、ようやく決まった一着だ。
曰く――
「頑張りすぎてる感じはしないのに、ちゃんとして見える“勝負服”だよ!」
「……ちょっと堅くないか」
鏡に向かって小さく呟く。
「ぜんぜん大丈夫!お兄ちゃん、そのくらいがちょうどいいって!」
横からぬっと顔を出した杏が、
腰に手を当てて、
いかにも“自分はプロです”と言わんばかりの表情で言い切った。
「いい?美里ちゃんと一緒のときは、
ちゃんと彼女の意見も聞くんだよ?あの子、
うちのクラスのファッション担当なんだから!」
「……分かった」
石原は短く返すと、そのまま玄関のドアを開けて外へ出ていった。
足音が徐々に遠ざかり、やがて完全に聞こえなくなる。
それを確認するように、杏はそっとドアに耳を当てた。
しばらくじっとしていたが、やがて顔を上げると、すぐにスマホを取り出してLINEを開く。
「本部へ。ターゲット、出発したよ!」
送信した瞬間、ほとんど間を置かずに返信が届いた。
「了解!こっちも出る!」
「うん、確認したよ〜」
杏は満足げにスマホを閉じると、口元に小さく得意げな笑みを浮かべた。
静かな玄関には、もう誰の気配も残っていなかった。
---
時間は金曜日の午後へとさかのぼる。
石原久希が立花に「一緒にボランティアに行かないか」と提案したその頃——
何も知らない石原杏は、ソファに寝転がって漫画を読んでいた。
そのとき、スマホが突然けたたましく震える。
気だるげに画面を一瞥した杏は、次の瞬間、勢いよく体を起こした。
「ええええ——っ?!」
信じられない、といった様子で何度も目をこすり、見間違いでないことを確認する。
「あの筋金入りの省エネ体質のお兄ちゃんが……
自分から女の子を誘うなんて!?
しかも相手が、まるで中学生みたいに見える美里ちゃんって!?」
すぐさま緒山朋奈との個別チャットを開き、指をせわしなく動かす。
「朋奈さん!ほんと!?お兄ちゃんが——」
ほぼ同時に返信が返ってきた。
「うん、見てたよ。
先輩が自分から同級生を手伝おうとするなんて、とてもいいことだよね」
文の最後には、笑顔の絵文字。
杏は眉をひそめた。
……なんか普通すぎる。朋奈さんらしくない。
普段なら、感嘆符や顔文字がいくつも飛んでくるはずだ。
ここ数日、兄と緒山が毎晩楽しそうにやり取りしていた光景が頭をよぎる。
ふと、ひとつの考えが頭をよぎった。
(もしかして……朋奈さん、ちょっとヤキモチ焼いてる?)
その瞬間、杏の中である“とんでもない名案”が形になる。
くすっと悪戯っぽく笑うと、手早くグループチャットを作成した。
——もちろん、兄と立花は除外して。
「諸君!
極秘任務『鈍感なお兄ちゃんの初(仮)デート観察作戦』、ただいま発動!
参加者大募集〜!」
春野陽明はほぼ一秒で参加した。
「こんな面白そうな話、会長の俺が外れるわけないだろ!
部下の将来の幸せ、ちゃんと見届けてやらないとな!」
一方、緒山の返事は少し遅れて届いた。
「それって……あんまりよくないんじゃないかな?こっそり観察するなんて……」
「もしお兄ちゃんがドジって美里ちゃん泣かせちゃったら、すぐ助けに入れるでしょ?」
杏はいたずらっぽい笑顔のスタンプを添える。
スマホの向こうで、「フォロー」という言葉を見つめた緒山は、しばらく迷った末——結局、その小さな引っかかりに抗えなかった。
「……わかった。でも、邪魔はしないこと、ね」
「やった!決まりだね!」
ちなみに、花野真汐にも春野が声をかけてみたが、返ってきたのは簡潔な一言だけだった。
「つまらない」
——こうして、日曜の朝。
妹主導、生徒会の主要メンバー(表向き)参加による“極秘観察作戦”が決行されることになった。
電車の駅に、三人が順に集まる。
緒山はアイボリーのワンピースに淡いブルーのカーディガン。
手には小さな編み込みのバッグ、普段より少しだけ手の込んだメイクは——
寝不足をごまかすためかもしれない。
春野はパーカー姿で、首からは携帯用の双眼鏡をぶら下げている。完全に“見物しに来た”顔だ
「装備ガチすぎない?」
杏がツッコむ。
ちなみに彼女自身は、デニムのオーバーオールにキャップという、完全に“探偵少女”スタイルだった。
「備えあれば憂いなし、だろ?」
春野は肩をすくめる。
三人はそれぞれの思惑を胸に、電車に乗り込んだ。
---
【泉方橋・橋のたもと】
石原久希は、約束より十分早く、橋のたもとに着いた。
——だが。
立花美里は、すでにそこにいた。
ツインテール。
赤と黒のチェック柄のスカート。
肩には、ふわふわのウサギ型バッグ。
……今日も、抜かりない“可愛いフル装備”だ。
「せ、先輩……けっこう時間ぴったりなんだね。」
ちらり、と石原の服装に視線を向ける。
その目がほんの少しだけ明るくなる——
が、口調は相変わらず容赦がない。
「服のセンス、ちょっとは良くなったのだ……
でもそれ、絶対小杏に選んでもらったでしょ?」
口調は相変わらず容赦がない。
「余計なお世話だ……
っていうか、立花さんこそ。
中学生に紛れるつもりでその格好か?」
「はぁ?!」
ぴたり、と空気が止まる。
次の瞬間——
立花の反撃が飛んできた。
立花に一方的にまくし立てられ、石原は思わず言葉に詰まる。
石原はわずかに視線を逸らす。
……少し、言い過ぎたか。
「体育祭までは、まだ時間あるな……」
一拍おいて。
「……今、どこ行く?」
短く、切り替える。
立花はスマホで時間を確認し——にやり、と口元を歪めた。
「先輩。まだ早いしさ——ちょっと付き合ってほしいのだ。」
指差した先。
「ほら、あそこの雑貨屋。すっごく可愛いのだよ。ちょうど通り道だし」
石原は一瞬だけ考え、
「ああ、いいぞ」
とだけ答えた。
——こうして二人は歩き出す。
他愛もない会話を交わしながら、
二人は自然と笑い合い、
そのまま歩き出した。
その少し離れた場所。
春野陽明は、双眼鏡越しにその様子をしっかりと覗いていた。
---
店に入った瞬間、立花はまるで自分のホームに戻ったかのように生き生きとし始めた。
きらきらと目を輝かせながら、ラックの間を軽やかに行き来する。
気になった服を次々に手に取っては、自分の体に当てて確かめる。
「この生地ね、軽くて動きやすいの。あとこのカット、ウエストが細く見えるのだよ〜」
くるりと振り返り、石原に見せてくる。
石原は最初は適当に相槌を打っていたが、次第にその熱に引き込まれていった。
彼女の手元から視線が外れ、ふと店の奥へ向く。
窓際に掛けられた、一着のワンピース。
淡いブルー。シンプルで、落ち着いたデザイン。
……立花が普段選ぶ“可愛い系”とは、明らかに違う。
だが。
(……三回目だ)
そのたびに、ほんの少し長く見つめて——
指先でハンガーをなぞり、けれど最後には視線を逸らす。
「……あれ、気になるのか?」
気づけば、口に出していた。
「えっ?」
立花がびくっと肩を揺らす。
「な、なに言ってるのだ!ああいうの、全然似合わないし!」
早口でまくし立てる。
【立花美里の感情:緊張24#¥%*(】
……やっぱりな。
石原は彼女の“感情表示”を見て、それ以上は追及しなかった。
「試せば分かるだろ」
短く言う。
妹の言葉を思い出す。
——彼女の意見もちゃんと聞いてあげて。
少しは、背中を押すべきかもしれない。
「たまには、違うのもいいと思う」
立花は言葉を詰まらせた。
「……っ」
ちらり、ともう一度ワンピースを見る。
少し迷ってから——
「……わ、分かったのだ。ちょっとだけだからね?」
顔を赤くしながらそれを手に取り、そのまま試着室へと入っていった。
数分後。
カーテンが開く。
出てきた立花に、石原は一瞬だけ目を見張った。
淡いブルーが、よく似合っている。
柔らかな色合いが肌を引き立て、どこか落ち着いた雰囲気を纏わせていた。
いつもの幼さが、ほんの少しだけ薄れて——
静かで、大人びた別の表情。
立花は裾をぎゅっとつまみ、視線を泳がせる。
「へ、変じゃない……?やっぱり私、こういうの似合わない気がするのだ……」
「いや」
即答だった。
「似合ってる」
間を置かず、続ける。
「いつもと違うな。……もっと大人しいし、それに……なんだろう、少し“素”に見える」
立花の表情が、ぱっと明るくなる。
「……ほんと?」
くるりと振り返り、鏡を見る。
そのとき——
通りかかった店員が、何気なく石原に声をかけた。
「彼女さん、いかがでしたか?
サイズなどお手伝いしましょうか?」
「いや、俺じゃなくて——」
石原は、鏡の前を指す。
「そっちに」
店員の視線が、立花の方へ向く。
——だが。
焦点が、合わない。
そのまま、何もない場所を見るように流れていく。
「……?」
店員は首をかしげた。
「すみません、お連れ様は外に出られましたか?」
「は?」
石原の思考が止まる。
振り返る。
立花の笑顔が、固まっていた。
みるみるうちに、顔から血の気が引いていく。
——今、何かがおかしい。
その瞬間、照明の下で彼女の輪郭がわずかに揺らいだように見えた
「立花?」
「っ、あ……大丈夫なのだ!」
不自然なほど明るい声。
その瞬間、店員の視線がぴたりと合った。
「あ、失礼しました。気づきませんでした」
立花は、無理やりいつもの笑顔を作る。
「なによそれ〜。そこまで小さくないのだよ?」
軽く笑ってみせる。
そして、自分の服を見下ろし——小さく息を吐いた。
「やっぱりダメなのだ。ちょっと大人すぎるし、似合わないし!」
くるりと背を向ける。
「着替えてくる!」
ほとんど逃げるように、試着室へ戻っていった。
——しばらくして。
戻ってきた立花は、いつもの格好に戻っていた。
ツインテールも整え直されている。
「どう?やっぱりこっちの方がいいでしょ?」
くるっとその場で回る。
何事もなかったみたいに、笑う。
完璧な、いつもの笑顔。
石原はしばらくその顔を見ていた。
……引っかかる。
だが——
「……ああ」
それだけ答えた。
「そろそろ行くぞ。時間だ」
「うん!」
立花は元気よく頷き、そのまま店の外へ。
足取りは軽い。
——まるで、早く離れたいみたいに。
石原は少し遅れて後を追う。
視線の先。
その小さな背中は、再び“可愛い”で丁寧に包み直されていた
---
【服屋の向かい・コンビニのガラス越し】
「ターゲット、服屋に入った!」
杏はコンビニのガラスにぴたりと張りつき、小声で報告する。
春野はポテチをかじりながら双眼鏡を構え、面白そうに向こうを覗き込む。
「展開早いな、石原。いきなり服屋に連れてくとかよ」
緒山朋奈は少し後ろに立ち、両手を軽く重ねて、向かいのショーウィンドウを見つめていた。
店内では、二人の姿がラックの間を行き来している。
立花が服を手に取り、石原に見せる。石原はそれに頷いた。
やがて、立花はあの淡いブルーのワンピースを手に取り、そのまま試着室へと入っていった。
緒山のまつげが、わずかに揺れた。
「わっ、美里ちゃん、あんな大人っぽいの選ぶんだ」
杏は小声で驚き、顎に手を当てて、まるで探偵のような表情を浮かべる。
「いつもの“可愛い路線”と全然違うじゃん……」
春野は興味津々といった様子で覗き込みながら、軽く肩をすくめた。
「まあ、たまにはああいうのもいいんじゃねえか」
そして双眼鏡を少し動かし、
「それにしても石原のやつ、ほんと木みてえに突っ立ってんな」
「でしょ〜」
杏はくすっと笑う。
「絶対あれ、“似合ってるよ”とか直球で言ってるよ。ほんと、工夫ないんだから」
しばらくして、試着室のカーテンが開いた。
「おっ」
春野が軽く口笛を吹く。
「いいじゃん、似合ってるな」
杏も身を乗り出し、思わず声を漏らす。
「うわ……意外と大人っぽい……」
店内では二人が何か言葉を交わし、石原の一言に、立花の表情がぱっと明るくなった。
だが次の瞬間、彼女はすぐに鏡の方へ向き直った。
そのとき、店員が二人に近づき、石原に声をかける。
——直後。
立花の動きが、ぴたりと止まった。
次の瞬間、彼女はくるりと背を向け、そのまま試着室へ駆け戻っていった。
カーテンが揺れた。
「……ん?」
杏が首をかしげる。
「今の、なんか変じゃなかった?」
「よく見えなかったな」
春野はポテチの袋を脇に置きながら言う。
「でも……戻ってきたとき、妙に笑ってたな。ちょっと明るすぎるっていうかさ」
「……」
緒山は何も言わず、店内を見つめたままだった。
視線は、先ほどの試着室のあたりに留まっている。
やがて二人が店を出る。
立花が先に出て、軽やかな足取りでさっさと歩いていく。
石原は少し遅れてその後ろを歩き、どこか考え込むように視線を落としていた。
「よし、追うよ!」
杏が手を振る。
「次いこ次!」
「待って」
緒山が呼び止める。
視線はまだ店の入口に残っていた。
「……さっきの、少し変じゃなかった?」
「どこが?」
春野は気にした様子もなく肩をすくめ、手についたポテチの塩を払う。
「順調そのものだろ。むしろここからが本番だ」
「ほら行くぞ」
杏も歩き出す。
緒山は一度だけ店の中へと視線を向けた。
先ほどの場所――試着室のカーテン。
……もう揺れてはいない。
「……うん」
小さく頷き、二人の後を追う。
胸の奥に、小さな引っかかりだけが、いつまでも消えずに残っていた。
---
【泉方新高・中等部】
日差しが、容赦なく校庭を焼く。
石原久希は持ち場に立ったまま動かず、汗が首筋を伝って滴り落ちる。
シャツがじわりと張り付く。
——暑い。
視線だけをわずかに動かす。
日陰の受付テントでは、立花美里が椅子に座り、足をぶらつかせながら気楽そうにしていた。
「先輩、これどうぞ!」
声がして、振り向く。
ボランティアベストの男子が、冷えたペットボトルを差し出していた。
「この暑さで立ちっぱなし、きついっすよね」
石原は少し間を置いて受け取る。
「……助かる。名前は?」
「中等部三年の佐藤です!」
額の汗を拭い、にかっと笑う。
「自分の出番、まだ先なんで。暇してたんすよ」
——いいやつだな。
「先輩、泉方新高っすよね?」
急に声のトーンが上がり、指がテントの方を指す。
「あそこにいる人も、そうですよね!」
「立花美里っていうんですけど——
元陸上部のエースで、めちゃくちゃ速くて——
自分、前に教えてもらったことあるんです!」
【佐藤の感情:興奮80、期待20】
言葉が止まらず、目はまっすぐだった。
石原は一度だけテントの方を見る。
立花は、うつむいたまま動かない。
——視線が戻る。
「気づいてないっぽいですけど……
今、ぼーっとしてるみたいで」
「……そうか」
「でもいいんです!」
佐藤は首を振る。
「今は高校生だし、生徒会の先輩だし。忙しいっすよね」
ぐっと拳を握る。
「次のレース、絶対いい走りします!」
そう言って手を振り、そのまま走り去っていった。
背中はすぐに人混みに紛れる。
石原は少しだけ目で追い、それからもう一度テントを見る。
立花は、やはりうつむいたままだった。
---
競技が始まったあと、石原は立花の姿を見つけた。
「立花」
「……ん、あ。先輩」
顔を上げる。いつもの笑顔。
二人はそのまま、スタンドの端へと並んで移動する。
トラックでは、4×100リレーが始まっていた。
立花がすっと手を上げ、一点を指す。
「赤の第四走者。あれ、さっきの子」
声は小さい。
「佐藤。今はエースだよ」
視線の先で、バトンが渡る。
走り出すと同時に、一気に差を広げていく。速い。
——そのままトップでゴール。
周囲から歓声が上がる。
「……速いね」
かすかな声で、ぽつりと呟く。
口元がわずかに上がり、すぐに戻る。
——そのとき。
「すみませんっ!」
慌てた声に、振り向く。
チアの女子が一人、駆け寄ってくる。スカートの裾を押さえている。
「針とかありますか?破れちゃって……!」
立花がすっと前に出る。
「大丈夫、任せて」
いつもの笑顔で、布に指先を触れる。
——白い光が、一瞬。
次の瞬間、破れは消えていた。
「えっ、すご……魔法!?」
「正解〜。家伝のちょっとした技なんだ」
ぱち、とウインクして胸を張る。
「うわぁ、ありがとうございます!」
女子は何度も頭を下げて走って戻っていく。
すぐに、もう二人がやってくる。
「ほんとだ、直ってる!」
「すごいね!ありがとう、小さい子みたいで可愛い!」
その一言で、立花の動きが止まる。
ぴたりと動きが止まる。
「……小さい子?」
声が低い。
一瞬、間。
石原の肩がわずかに揺れる。
「……ふっ」
小さく漏れる。
「笑ったのだな、今」
立花が振り向く。
「……笑ってない」
「絶対笑ったのだ!」
距離を詰め、小さな拳がぽすぽすと腕に当たる。
軽いが、しつこい。
「やめろ」
「やめない!」
二人の距離が近づき、周囲の視線が集まる。
少し離れた場所で、先ほどの三人が顔を見合わせ、小さく笑い合うと、そのままそっと離れていった。
ふと風が吹き、テントの布がわずかに揺れた。
---
【観客席・死角の観察場所】
「ぷははっ——!」
石原杏は春野陽明から“借りた”ミニ双眼鏡を構えたまま、笑いすぎて体をぐらぐらさせる。
「お兄ちゃん、また“殴られてる”!美里ちゃん、手ぇ速すぎでしょ〜!」
「いやぁ、青春だねえ」
春野陽明は、どこから調達してきたのか分からないポップコーンを抱え、
ぽりぽりと楽しそうに食べながら、
時おり緒山の方へ視線をやる。
「でも、さっきの立花、珍しくちゃんと試合見てたな」
緒山朋奈は微笑みながら、遠くの二人に視線を向ける。
じゃれ合うように距離を詰めては離れる二人を、穏やかに見つめていた。
だが、ふとその視線が立花の横顔をかすめる。
どこか張り詰めたような、その表情に——ほんのわずかに、目の奥が揺れた。
だがそれもすぐに収め、いつものやわらかな声音で言葉を継ぐ。
「そうだね。美里ちゃん、ほんと元気だよね」
その直後。
春野と杏が、ぴたりと同時に振り向いた。
同じタイミングで、同じような笑みを浮かべていた。
「……え、どうしたの?」
「へへ〜」
杏がにやりと笑い、身を乗り出す。
「それよりさ〜。この前のカフェで、朋奈さんとお兄ちゃん、何か“いいこと”あったんじゃないの?」
春野もすぐに続く。
顎に手を当てて、興味深そうに言う。
「石原のあの頑固さを曲げさせるなんて……緒山副会長、なかなかやるじゃん」
「ち、違うよ!」
緒山の頬が一瞬で赤くなり、思わず声が上ずる。
「ただ普通に話しただけだし!変なことなんて何もないってば!」
「へぇ〜?」
杏がさらに顔を近づける。
「“普通に”ね〜?」
「顔に全部出てるぞ」
春野が肩をすくめて笑う。
「もう答え分かっちゃったな」
「も、もう……違うってば……!」
緒山は言葉に詰まり、顔を赤くしたまま二人を軽く睨むと、くるりと顔を背けた。
そのまま、何事もなかったかのように試合の方へ視線を戻す。
だが、耳の先まで真っ赤になっているのは隠しきれていなかった。
杏と春野は顔を見合わせ、小さく笑う。
それ以上は何も言わず、そのまま見逃してやった。
---
その頃——
観客席の賑やかさとは、まるで別世界のように。
立花はふいに動きを止め、さっきまでの軽口も手の動きもすべて消えていた。
ゆっくりと視線だけがグラウンドへ戻る。
赤いユニフォームの集まりの中央で、佐藤がチームメイトに囲まれていた。
笑いながら身振りで先ほどの走りを再現し、それに応えて周囲も笑い、歓声が上がる。
——そこだけ、やけに眩しく見えた。
立花は何も言わず、その光景を見つめたまま動かなかった。
周囲のざわめきや歓声が、どこか遠くに感じられる。
石原も同じ方向へ視線を向ける。
……あいつか。
最初は、ただ拗ねているだけだと思っていたが——
「……佐藤、速かったな」
「……うん」
返事は小さいが、視線は動かない。
だが——その目にあるものは、そんな軽いものではなかった。
石原の胸が、わずかに重くなる。
「運動もできて、成績もいいし……面倒見もいいし、顔もいいし……全部そろってるし」
少しの間。
「普通に受験して、泉方新高に来るんだろうな——
私みたいに、スポーツ枠じゃなくて」
石原は頬をかく。
「ずいぶん完璧な設定だな」
「事実だもん」
口元がわずかに上がり、すぐに沈む。
「きっとすぐ人気者になるよ。クラスの中心で、みんなに囲まれて」
言葉が一定のリズムで並び、まるで覚えたものをなぞるように止まらない。
「……そういう人、ほんとにいるんだよね」
小さく途切れ、その声はどこか空っぽだった。
風が吹き、前髪が揺れる。
「誰だって、いいとこはあるだろ」
「……私にはないけどね」
視線は下に落ち、まつげがかすかに震える。
石原の視線が止まり、胸の奥が鈍く軋む。
あのときの自分と、どこか重なった。
言葉を探す。
「立花——」
その瞬間。
——パンッ!
発令銃の音が弾け、歓声が一気に押し寄せて言葉を飲み込む。
強い風が吹き抜け、立花の髪が揺れる。
【立花美里の感情:失落34……&*)0】
「先輩、午後の仕事……休ませてください」
振り返るが目は合わず、そのまま歩き出す。
背中が、どこか小さく見えた。
「待てよ」
石原が手を伸ばして肩を掴むと、立花の足が止まる。
「さっきの言い方が悪かったなら——」
「もういい」
途中で遮る。
顔を上げると、目は赤く、それでもまっすぐだった。
「そういう綺麗ごと、いらない。
私のこと、どれだけ知ってるの?」
石原の喉が詰まり、手がわずかに緩む。
その隙に、立花は肩を外した。
「……最初から、来るつもりなかったし」
手の甲で目元を強く拭う。
「……ごめん」
そのまま歩き出す。
「立花先輩!」
下から声が飛び、二人の動きがぴたりと止まる。
視線を落とすと、スタンド下に佐藤が立っていた。
汗だくのまま、無邪気に笑っている。
「先輩!久しぶりっすね!午後のレース、一緒にアップしませんか?前みたいに!」
まっすぐな目には、曇りのない期待と信頼があった。
立花の動きが完全に止まる。
数秒ののち、視線がぶつかる。
胸の奥のぐちゃぐちゃと、あまりにもまっすぐなそれが正面から衝突する。
顔から血の気が引く。
「……ごめん」
声を震わせて一歩下がり、次の瞬間には振り返って逃げるように走り出した。
足取りを乱しながら、そのまま人混みの中へ消えていった。
佐藤の手が途中で止まり、笑顔も固まる。
「……先輩?」
次に石原を見る。
「先輩……俺、なんか言いました?」
石原は答えず、視線を消えた方向へ向けたまま動かない。
胸の重さは消えない。
数秒ののち、手を上げて佐藤の肩を一度叩く。
「関係ない」
少し間を置き、もう一度軽く叩く。
「……気にするな。今は——あいつが、自分で向き合うしかないだけだ」
視線は戻らないまま、観客席のざわめきだけが残った。
---
遠くのスタンド——
「……美里ちゃん、走ってっちゃった……」
杏は双眼鏡を下ろし、さっきまでの笑みを消した。
春野も手を止め、わずかに眉をひそめる。
「……地雷、踏んだかもな」
緒山は何も言わず、そのまま視線を遠くへ向けている。
人の波とざわめきの中で、そこだけぽっかりと空いた場所に目が留まる。
そしてゆっくりと、その視線はスタンドに戻る。
石原久希が、ひとり立っていた。
体の横に垂れた手が、無意識に、ゆっくりと握られていく。
そのとき、スマホの画面がふっと光る。
表示されたのは、短い一行。
『大丈夫。気にするな』
いかにも石原らしい、短くて硬い文面。
三人は顔を見合わせる。
「……行く?」
杏が少し身を乗り出しかけて、止まる。
春野はわずかに考え、首を振った。
「いや……ああ言うってことは、今は来るなってことだろ」
一拍置いて、続ける。
「……あいつの性格、分かってるだろ」
杏は唇をかみ、言葉を飲み込む。
「でも……」
緒山はまだ視線を外さない。
遠くの石原を、まっすぐ見つめたまま。
そして、静かに口を開く。
「……でも、本当に見てるだけってわけにはいかないよ」
声はやわらかいが、はっきりしていた。
杏は小さく頷き、二人と視線を交わす。
「うん。お兄ちゃんのことは信じてる。でも——本当に必要になったら、すぐ手を伸ばせるようにしておく」
言葉はなかったが、三人の間に意思は通っていた。
誰も動かない。
距離はそのまま。
踏み込まず、それでも離れない。
---
【午後・体育祭終了後】
立花は姿を見せず、石原のメッセージにも既読がついたまま、返信はなかった。
石原は何も言わず、午後の仕事をすべて淡々とこなす。
最後の観客が去り、喧騒が潮のように引いていくと、彼はひとつ深く息を吸い、グラウンドの方へと歩き出した。
夕焼けがトラックをやわらかな橙色に染めている。
休憩スペースのベンチには、佐藤が一人で座っていた。俯いたまま、手元では無意識にスニーカーの紐をいじっている。
「……あの」
声をかけると、佐藤は顔を上げ、相手が石原久希だと気づくとすぐに立ち上がった。
「石原先輩!」
【佐藤の感情:失落28/困惑44/自責28】
笑顔はなんとか作っているが、その奥の揺らぎは隠しきれていない。
「少し時間いいか。立花のことで話したい」
佐藤はわずかに目を見開き、すぐに力強く頷いた。まるで、誰かに聞いてほしかったかのように。
「先輩……あのあと、どうなりましたか?」
「分からない。先に帰った」
佐藤は少し言葉を詰まらせ、視線を落とす。
「……やっぱり、俺が余計なこと言って、怒らせちゃったんですよね」
「違う。お前のせいじゃない」
石原ははっきりと言い切った。
「……あいつは、別のことで悩んでる」
しばらくの沈黙のあと、佐藤はジャージの内ポケットに手を入れ、少し折れ目のついた写真を取り出した。
「先輩、これ……」
石原はそれを受け取る。
写っているのは陸上部の集合写真だった。皆がカメラに向かって笑っている。
その中央で、小柄な体ながら背筋をまっすぐ伸ばし、ひときわ明るい笑顔を見せているのが立花美里だった。
頬をわずかに赤らめ、片手は仲間の肩に、もう片方にはストップウォッチを握っている。
見ているだけで、その熱が伝わってくるような笑顔だった。
「去年の大会前に撮ったんです」
佐藤の声には、どこか懐かしさが滲んでいた。
「この頃の立花先輩、本当にすごくて……
走るときは目が輝いてて、練習も誰より真剣で、休憩のときは一番よく笑って。
応援も全力で、声が枯れるまで続けてくれて……
本当に、最高の先輩でした」
石原は写真を見つめたまま、今日の彼女の姿を思い出す。
青ざめた顔、そして逃げるように去っていった背中。
同じ人物だとは、どうしても思えなかった。
「……ああ」
短く、そう答える。
佐藤も写真を見つめ、つられるように笑みを浮かべるが、その表情はすぐに曇った。
「でも……高校に入ってから、少し変わった気がして」
声が少し落ちる。
「たまに見かけても、なんていうか……距離がある感じで。笑ってはいるんですけど、どこか無理してるように見えて……」
指先が写真の端をなぞる。
「やっぱり、高校って大変なんですかね」
石原は何も答えず、静かに写真を返した。
頭の中に浮かぶのは、学生会室でのどこか作ったような笑い声や、「子供」と言われたときの過剰な反応、そしてさきほどの逃げるような姿だった。
――あれは変わったのではなく、自分を守るために殻を作っただけだ。
その考えに、胸の奥がわずかに重くなる。
佐藤は写真を大切そうにしまい、少し照れくさそうに後頭部をかいたあと、小さな声で言った。
「……俺、ずっと先輩のこと尊敬してて」
少し間を置く。
「……ああいうふうに笑ってる先輩が、好きなんです」
言葉は控えめだが、はっきりしていた。
「また、前みたいに……心から笑ってるところ、見たいです」
石原は、目の前の後輩を見つめる。
真っ直ぐで、濁りのない目だった。
その視線に、胸の奥で何かが静かに決まる。
彼はゆっくりと立ち上がった。
「分かった」
短く言い、佐藤をまっすぐ見据える。
「俺がなんとかする。……あいつ、もう一度ちゃんと笑わせる」
その声には迷いがなかった。
「信じてくれ」
佐藤は一瞬息を呑み、それから強く頷いた。
「……はい!お願いします、石原先輩!」
夕焼けの中、二人の影が長く伸びる。
その影は、どこかで静かに重なっていた。
---
石原は、次第に静まり返っていく街を歩いていた。
佐藤の言葉――「ああやって笑っている先輩が好きなんです」という一言と、立花美里のあの憂いを帯びた表情が、頭の中で何度も重なっていく。
体育祭のときの彼女の様子を思い返す。
あれは、ただの自嘲ではなかった。
――あいつは、あの後輩を怖がっている。
では、何を恐れているのか。
追い抜かれることか。それとも、“かつてのエースだった自分”が、もう誰の目にも映らなくなることか。
だからこそ、先に距離を取った。
近づかなければ、比べられることもない。
そうやって、可能性から目を逸らした。
だが、距離を置けば置くほど、相手は変わらず輝いていて、しかも自分に向けてまっすぐな信頼を寄せてくる。
その事実が、かえって彼女を追い詰めていく。
まるで蔦のように、罪悪感が絡みつき、締め付ける。
自分は逃げた人間だ。そんな自分に、尊敬される資格なんてない――きっと、そう思っている。
……全部、繋げてしまってるのかもしれない。
受験のことも、新しい環境のことも。
——逃げたことの、罰だって。
石原の胸が、ずしりと重く沈む。
これは単なる嫉妬じゃない。
誇りを持っていた人間が、「もう最上ではいられないかもしれない」という現実に耐えきれず、自分自身を遠ざけ続けている状態だ。
彼女は華やかな服をまとい、新しい居場所を築こうとしている。
まるで言い聞かせるように。
――ほら、私は別の場所でもちゃんとやれている。
だが、その外側のきらびやかさの裏で、彼女自身が自分を裁いている。
そこにあったのは、ただの孤独だった。
ふと、昔の記憶がよみがえる。
小さな倉庫の中で、小杏がひとり泣いていた。
肩を震わせながら、それでも声を押し殺していた。
クラスの噂に耐えきれなくて。
人の目から逃げるみたいに、ひとりで抱え込んでいた。
あのとき、自分は何をしていた。
扉の外で拳を握りしめ、何もできずに立ち尽くしていただけだった。
中から聞こえてくる押し殺した泣き声が、何度も胸を打ち、どうしてもっと早く気づけなかったのかと悔やむことしかできなかった。
石原は深く息を吸い、顔を上げる。
そして今、同じ光景が目の前にある。
看台に立ち、顔を青ざめさせたまま、人混みへと逃げていった立花の背中。
その姿が、小杏のそれと重なる。
胸の奥に、嫌に残った。
あのとき、できなかったこと。
だったら、今度は――
せめて、手を伸ばしてみるくらいはできるはずだ。
――放っておけるわけがない。
朝に立ち寄ったあの服屋の前で、石原は足を止めた。
ショーウィンドウの中には、あの淡い青のワンピースが、まだ静かに掛けられている。
彼は少しだけそれを見つめ、それから扉を押し開けた。
数分後。
店を出てきた彼の手には、紙袋がひとつ。
中には、きれいに畳まれた淡い青の布地。
それが彼女にとってどんな意味を持つのか、石原には分からない。
それでも――あのとき、それを見つめる彼女の目に、確かに光があったことだけは覚えていた。
---
【五月十二日・日曜日・夕方】
【石原家】
石原久希が疲れた体で帰宅すると、玄関には見慣れない女性用の靴が置かれていた。室内には味噌汁と焼き魚の香りがふわりと広がっている。
「ただいま……」
「おかえり、兄貴!本日の功労者さまご到着〜!」
キッチンから顔を出した杏はエプロン姿で、手にはフライ返しを持っている。
「今日は特別にごちそう用意してるからね〜」
石原は手に持っていた紙袋を引き出しにしまい、靴を脱いでキッチンへ向かおうとする。
「ノンノン、兄貴が楽しむのはそっちじゃないよ〜?」
にやりと笑った杏は、そのままキッチンに引っ込んだ。
少し戸惑いながら石原がリビングへ入ると、低いテーブルの前に緒山朋奈が正座し、丁寧に食器を並べていた。
気配に気づいた彼女は顔を上げ、いつもの柔らかな笑みを浮かべる。
「こんばんは、先輩」
「……緒山?どうしてここに……」
「私が呼んだの〜」
皿を運びながら、杏が楽しそうに割って入る。
「だって兄貴、みんなの期待背負って頑張ってたでしょ?それに朋奈さんも心配してたし——ね?」
緒山は少し頬を赤らめながら、小さく頷いた。
「……その、先輩の様子が少し気になってて。よかったら、お話を聞ければと……」
「……わざわざ、悪いな」
石原は短く答えた。
---
夕食の雰囲気は、思っていたよりずっと穏やかだった。
杏の料理は相変わらず美味しく、緒山が持ってきたデザートも見た目が華やかで上品な甘さだった。
無言で過ごしていた一日の疲れが、温かい食事と二人の他愛ない会話の中で、少しずつほどけていく。
気がつけば、緒山も杏もよく笑っていた。
その様子を見ながら、石原もふっと表情を緩める。
「……緒山も、家族だったらよかったのにな」
何気なくこぼれた一言だった。
「……え?」
二人が同時に顔を上げる。
自分の発言の意味に気づいたときには、すでに遅かった。
目の前の二人はそろって顔を赤くしている。
「兄貴……せめて雰囲気作ってから言ってよ……私いるんだけど」
杏が顔を覆いながらぼそりと呟く。
「……悪い、緒山」
石原が視線を逸らすと、緒山は一瞬固まったあと、慌てて笑顔を作った。
「い、いえ、大丈夫ですっ。あの、それより——」
……少し間を置いてから
少し早口で話題を変える。
「……その、今日の体育祭は……どうでしたか?」
石原は一瞬言葉に詰まる。
【杏の感情:嬉しい34/不安46/その他20】
【緒山朋奈の感情:高揚32@#%$*】
二人は変わらず笑っているが、その奥にある気配を、石原は見逃さなかった。
(……心配させるわけにはいかない)
「いや、特に大したことはない」
彼はそう言って、体育祭の軽い出来事や仕事の進み具合だけを簡単に話した。
深い部分には触れない。
二人とも、それ以上は何も聞いてこなかった。
その空気は、不思議と悪くなかった。
---
食後、緒山は後片付けを手伝い、あまり長くは居座らずに帰ることにした。
玄関で靴を履き、振り返る。
見送りに出てきた石原に、やわらかく声をかけた。
「先輩、無理してるときは……いつでも話してくださいね。私、先輩とお話しするの、好きですから」
「……ああ」
石原が頷くと、緒山はほっとしたように微笑んだ。
廊下の灯りの下、その笑顔はどこか澄んで見えた。
「それじゃあ、おやすみなさい。ごちそうさまでした」
彼女が去ったあと、扉が静かに閉まる。
杏はテーブルを拭きながら、何気ない調子で言った。
「朋奈さん、優しいでしょ」
石原は閉まった扉を見つめたまま、少し遅れて頷く。
「……ああ」
しばらくして、杏の手が少しだけ止まる。
「でもさ……“気が利く”っていう意味なら、美里ちゃんも同じなんだよね」
石原が振り向く。
杏は頬杖をつきながら続けた。
「空気も読むし、みんなが楽しくなること言うし、服もいつも可愛くて……ほんと、小さな太陽みたいな子」
そこで一度言葉を区切る。
「……でも、たまに思うんだよね。あの子、すごく疲れてるんじゃないかって」
視線が少し落ちる。
「ずっと“みんなに好かれる自分”を頑張って演じてる感じっていうか」
少し間を置いてから、続けた。
「この前、忘れ物取りに教室戻ったとき、一人でぼーっと座っててさ。表情が全然なくて……普段と別人みたいだった」
静かな声だった。
「すぐ元に戻ったけどね。何もなかったみたいに」
杏は布巾を置き、食器を持ってキッチンへ向かう。
その言葉が、石原の中で繋がった。
佐藤の語った“光の中の立花”と、自分が見た“殻に閉じこもる立花”。
その間にあるもの。
それは、積み重なった“演じ続ける日常”なのかもしれない。
「……そうか」
小さく呟く。
返事はない。
石原はそのまま、玄関の灯りの下に立ち尽くしていた。
---
石原久希は自室に戻った。
灯りはつけないまま、ベッドの縁に腰を下ろす。
しばらく、そのまま動かなかった。
窓から差し込む月明かりが、床と机を静かに照らしている。
その光の中に、昼間買った紙袋が置かれていた。淡い青色が、ぼんやりと浮かび上がる。
石原はスマホを取り出し、画面を開く。
学生会のグループチャットには、すでに大量のメッセージが流れていた。
春野や花野からは個別にも連絡が来ている。
彼はそれぞれに短く返信した。
『ありがとう。大丈夫だ』
それだけ。
そして、次の画面で指が止まる。
立花美里のトーク画面。
最後に残っているのは、朝の一言。
『先輩、遅刻しないでくださいね〜』
軽い調子の文面と、添えられた絵文字。
そのまま、時間だけが止まったように残っている。
石原は一度文字を打ち込む。
だが、途中で消す。
もう一度打つ。
また消す。
しばらくその動作を繰り返したあと、彼はようやく一行だけを残した。
『明日、放課後。生徒会室で待つ』
疑問形ではない。
確認でもない。
ただの、決定。
送信ボタンを押す。
既読はつかない。
石原は画面を閉じ、スマホをベッドの横に置いた。
それ以上、確認しようとはしない。
少しだけ体を後ろに預け、暗い天井を見上げる。
胸の奥の重さだけが、残っていた。
それでも、目を逸らすつもりはなかった。
――明日、正面から向き合う。
逃げずに、踏み込む。
あいつが避け続けている、その場所へ。
月明かりだけが、静かに部屋を満たしていた。
---
【Another View —— 立花美里】
同じ夜。
同じ月明かりの下で。
立花美里は、部屋の隅で小さく体を丸めていた。
膝を抱え込み、その上に顔を埋める。
手の中のスマホを、強く握りしめている。
画面には、一行のメッセージ。
『明日、放課後。生徒会室で待つ』
視線がそこに釘付けになる。
何度も読み返す。
そのたびに、胸の奥がじわじわと締めつけられる。
「……ばか」
くぐもった声が漏れる。
「ほんと、ばか……」
言葉はそれ以上続かない。
頭の中に浮かぶのは、今日の出来事だった。
佐藤の、あの止まった笑顔。
石原の手が肩を掴んだときの感触。
そして、まっすぐ向けられた視線。
――逃げた。
その事実が、何度も胸を刺す。
ほどけないまま、絡みついてくる。
彼女は震える指で返信欄を開く。
『今日は、ごめんなさい』
打ち込んで、止まる。
消す。
『明日、ちょっと体調が——』
途中で止まり、また消す。
何も残らない。
指先だけが、かすかに震えている。
視線を逸らしても、すぐに戻ってしまう。
見たくないのに、消えてくれない。
画面に残る、たった一行。
『待つ』
短い言葉なのに、逃げ場がない。
胸が詰まり、呼吸が浅くなる。
さっきまでの“自分”が、崩れていくのが分かる
可愛い笑顔も、明るい声も、全部どこかへ落ちてしまったみたいに。
それでも。
その一行だけは、暗闇の中で消えなかった。
小さく、確かに残っている。
立花はスマホを胸に抱き寄せる。
ぎゅっと、強く。
目を閉じる。
開けることができない。
部屋は静まり返っていた。
風もなく、カーテンも揺れない。
ただ、時間だけが静かに過ぎていく。
それでも、朝は来る。
【あとがき】
ここまで読んでいただき、ありがとうございました!
次回は、
【第五章 崩壊——それでも、私は見てほしい】
彼女はまだ、あの場所で震えています。
そして彼は、それでも彼女を探し続けます。
もし作品を気に入っていただけたら、
ブックマークや⭐評価で応援していただけると励みになります!
また、翻訳について気になる点や、
「こういう表現の方が自然かも?」といったご意見があれば、
気軽にコメントで教えていただけると嬉しいです!
それでは、次回もよろしくお願いします!




