第三章 告白――僕が見た、彼女の本当の気持ち
【前書き】
いつも読んでいただき、本当にありがとうございます!
ここまで三章をお届けしましたが、続く立花美里編(全三章)の翻訳・推敲に、
もう少しお時間をいただきたく思います。
(目安として、一週間程度で順次公開していく予定です)
原作はすでに完結していますので、必ず最後までお届けします。
どうか温かい目で見守っていただけると嬉しいです。
次章も楽しみにしていただけたら嬉しいです。
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【五月八日・水曜日・夜】
杏は、そっと足音を忍ばせながら兄の部屋の前まで歩いていき、ドアにぴたりと耳を当てた。
部屋の向こうから、笑みの混じった兄の声が聞こえてきた。
「……緒山さん、いやそれはさすがに言い方があるだろ」
続いて、弾んだ女の声が返ってくる。
「えー、だって先輩だって……」
電話越しに聞こえてくる二人のやり取りを耳にしているうちに、杏の口元は自然とゆるんでいった。
「もう……ばかなお兄ちゃん。思ったより進展早いじゃん……」
けれど、兄のことを思って浮かんだその嬉しさは、ほんの一瞬で消えた。
笑みはゆっくりと消えていき、代わりに、言葉にしづらい複雑な不安が胸の奥にじわりと広がっていった。
杏はゆっくりと自分の部屋へ戻り、そっとドアを閉めた。
カチッと音がして、デスクライトが点いた。
机の上には、あの茶封筒のファイルがまだ開いたままになっていた。
両親の古い写真に、施設からの訪問記録、それから自分でネットで調べて印刷した「行方不明者を探すための手引き」のページ――どれも机の上に広げられたままで、まるで片づけきれない古いものがそのまま積み残されているみたいだった。
杏は椅子に腰を下ろし、その写真をじっと長いこと見つめていた。
写真の中では、両親が笑っていた。
その真ん中に立っているのは、まだ小さかった頃の自分と兄だった。
数か月前、兄が毎日帰ってきてもほとんど何も話さず、そのまま自分の部屋に閉じこもっていた頃のことを、杏は思い出した。
最近は少し違っていた。帰ってきたときの眉間のしわも前ほど深くはなく、夕飯のときには、自分から生徒会のことをぽつぽつ話すことさえあった。
そして、ついさっきドアに耳を当てたまま聞いた、あの笑い声のことも。
ほんのかすかなものだった。けれど、杏にはちゃんと聞こえた。
(やっと……昔みたいに笑えるようになってきたのに。)
杏はスマホを取り出し、「施設の田中さん」とのやり取りを開いた。
上へスクロールしていくと、並んでいるのはほとんど全部、杏から送ったメッセージばかりだった。
「田中さん、この前おっしゃっていた新しい手がかりのこと、もう少し詳しく教えてもらえませんか?」
「その住所、調べられましたか?」
「もう一度だけでも、聞いてもらえませんか……」
相手の返事はいつも丁寧だった。けれど、これといった進展は何もなかった。
杏はもう、何度もそう尋ねてきた。
前にこのことを兄に切り出したときのことを、杏はふと思い出した。あのとき兄は長いこと黙り込んだあと、最後にただ一言だけ――
「……もう、探すのはやめろ」
声はひどく静かだった。けれど、その奥にある疲れを杏は聞き取ってしまった。たぶん――失望も。
杏は、兄に怒られること自体は怖くなかった。
怖かったのは、「探すのはやめろ」と言われることのほうだった。
(……どうやって切り出せばいいんだろう)
杏はファイルを閉じ、デスクライトを消した。
暗闇の中、杏はベッドに横になって、天井をぼんやり見つめた。
隣の部屋からは、まだ兄が電話している声がかすかに聞こえてきた。抑えた声ではあったけれど、それでも時折まじる笑い声だけは、ちゃんと耳に届いた。
杏は寝返りを打ち、顔を枕に埋めた。
窓の外では、月明かりだけが静かだった。
杏は、何も言わなかった。
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【五月九日・木曜日・朝】
昨日の生徒会の空気がよほど心を緩めてくれたのか、石原は久しぶりにぐっすり眠れた。
目を覚ますと、部屋にはもう朝日がたっぷり差し込んでいた。数秒ぼんやりしてから、ようやく気づく。
――今日は杏が起こしに来ていなかった。
(もうこんな時間か……緒山さん、待たせすぎてないか?)
石原はスマホを手に取った。画面には、少し前に届いていた緒山さんからのメッセージが表示されていた。
「生徒会で急ぎの用事ができちゃって、先に行くね! 先輩、遅刻しないでよ〜!」
以前なら、こうして一人で迎える朝にほっとしたはずだった。
けれど今は――胸の奥を、かすかな物足りなさがよぎった。
……いや。
その感情はすぐに、強い羞恥に押し流された。
(お、俺は……何を期待してるんだ!?)
石原はぶんぶんと頭を振った。
浮かびかけた妙な感情を、無理やり追い払うように。
身支度を整えて部屋を出ると、やけに家の中が静かだった。
「杏?」
返事はなかった。
首をかしげたそのとき、玄関のドアが開く音がした。
振り向くと、杏が慌てた様子で家に駆け込んできた。
その胸には、茶封筒のファイル袋がぎゅっと抱え込まれていた。
「お兄ちゃん、起きてたの!? は、早く朝ごはん食べて!」
声が少し上ずっていた。
視線もどこか落ち着かず、泳いでいた。
【石原杏の感情:慌て51、取り繕い29、疲労20】
石原の視線は、そのファイル袋に落ちた。
「こんな朝早く出てたのって、それを取りに行ってたからか?」
杏は反射的に、そのファイル袋を背中へ隠した。
声も自然と小さくなった。
「……うん」
「……それ、何なんだ?」
杏はうつむいたまま、口を開きかけて――やめた。
【石原杏の感情:迷い47、恐れ53】
石原は妹の様子がおかしいことに気づいた。
少しかがみ込み、そっと杏の頭に手を置く。軽く撫でながら、やわらかく笑って言った。
「そんなに隠すようなものなのか、杏」
杏はしばらく黙っていた。
やがて、ようやく小さな声で答えた。
「……施設の田中さんが、月に一度の訪問で来てて」
その言葉を聞いた瞬間、石原の胸はすっと冷えた。
「……それで?」
杏は答えなかった。
代わりに、ぎゅっと首を横に振った。
その瞬間、目の縁がみるみる赤くなった。
「……っ」
次の瞬間、杏は石原の胸に飛び込んできた。
小さな肩が、泣くのをこらえきれないようにかすかに震えていた。
石原は妹を強く抱きしめた。
胸の奥が重く詰まった。
――そんなことは、誰よりも分かっている。
あの茶封筒のファイル袋に入っているのが、いつだって同じ言葉だということを。
そこに記されている言葉も、ずっと変わらない。
――連絡不能。
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長い年月のあいだ、施設からの定期的な連絡と、毎回同じ「連絡不能」という文言の報告書。それはとうの昔に、石原の中に残っていた希望をすり減らしていた。
石原の中では、父親についての結論はもう出ていた。
――家族を捨てて逃げた臆病者。
だから探し続けることは、ただ自分を傷つけるだけだ。
石原はそう思っていた。
けれど、妹の杏は違った。
どれほどかすかな希望でも、杏はまだ捨てきれずにいた。
父親を見つけたい。
壊れた家族が、いつかまた元に戻る日を――。
この根本的な違いが、兄妹のあいだに見えない壁を作っていた。
石原は、食卓の上に置かれた茶封筒のファイル袋を見つめた。
そして、ゆっくり息を吸った。
その瞬間――頭の中に、いくつもの光景がよぎった。
母親が家を出ていった日のこと。
冷蔵庫の扉に、びっしり貼られていたメモ。
父親が最後に向けてきた、あの視線。
空っぽで、疲れ切っていて。
まるで魂が抜けたみたいな目だった。
施設から毎月きまってかかってきた電話。
告げられる言葉は、いつも同じだった。
「連絡不能」。
電話を切ったあと、杏はいつも目元を赤くしたまま、それでも笑って言った。
「大丈夫だよ、お兄ちゃん」
いくつもの記憶が重なり、胸を押し潰した。
息が詰まった。
「杏……なんで、またこんなこと調べてるんだ」
なるべく感情を抑えて言ったつもりだった。
けれど、声には苛立ちがにじんでいた。
杏は視線を落としたまま、小さく答えた。
「……前の手がかり、ちょっと整理してただけ」
「昨日、また夜更かししただろ」
目の下には、うっすらと隈ができていた。
それを見た瞬間、石原の胸の奥で何かが一気にせり上がった。
やるせなさと、どうしようもない無力感。
二つが混ざり合い――
思わず、口から言葉が飛び出した。
「そんな奴のために、自分をすり減らすなよ……」
言った瞬間――
しまった、と思った。
杏が、はっと顔を上げた。
その目を見た瞬間、石原の胸がぎくりとした。
彼女の目の奥で、何かが――
音もなく砕けた気がした。
「そんな人……?」
声が震えていた。
「お兄ちゃん、私が好きでこんなことしてると思う?」
「何度も何度も、『連絡不能』って聞かされるのが……
平気だと思う?」
杏は立ち上がった。
拳をぎゅっと握りしめた。
「でも……でも、もし私まで探すのやめたら……」
その言葉を叫んだとき、杏の目の縁はとうとう赤くなっていた。
「本当に、誰も探さなくなるじゃん……!」
石原は口を開いた。
何か言わなきゃ、と思った。
でも――
言葉が出ない。
喉の奥で、全部引っかかってしまった。
「……やっぱり」
杏の声は、もう涙で震えていた。
「お兄ちゃん、絶対そう言うと思った」
「だから……施設の田中さんから電話が来ても……
言えなかったんだよ」
「杏、俺は――」
「――お兄ちゃんに、そんなふうに心が痛くなること言われるのが怖かったんだよ!」
杏は石原を強く押しのけた。
そのまま振り返りもせず、自分の部屋へ駆けていった。
バン――!
ドアが閉まる音。
続いて、鍵のかかる音が響いた。
石原はその場に立ち尽くした。
まるで――
あのドアの音で、思いきり頬を叩かれたみたいに。
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彼はドアの前に立ったまま、ドア越しに何度も声をかけた。
「杏……俺、そういうつもりで言ったんじゃない」
「杏が父さんを探したいのは分かってる。ただ……」
「ただ、これ以上つらい思いをしてほしくないだけなんだ」
言葉を重ねるほど、話はどんどんまとまらなくなっていった。
自分でも、言い訳をしているみたいだと思った。
返ってくるのは、部屋の中からときおり漏れる押し殺したすすり泣きだけだった。
石原はドアに額をつけた。
「……ごめん」
今度は何も説明しなかった。
ただ、それだけを言った。
長い沈黙が続いた。
やがて、ドアの向こうから小さな声が返ってきた。
「……今は、一人でいたい」
石原はしばらくその場に立ったままでいた。
それから、ゆっくり自分の部屋へ戻った。
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石原はベッドの端に腰を下ろしたまま、部屋の灯りもつけなかった。
さっき、杏が叫んだ言葉を思い出した。
――「もし私まで探すのやめたら、本当に誰も探さなくなるじゃん」
そのとき初めて分かった。杏は、意地になっているわけじゃない。ただ、怖いんだ。
あの人の存在が、本当にこの世界から忘れられてしまうことが。
残るのが、写真一枚と書類の山だけになってしまうことが。
石原にも、同じように怯えていた時期があった。
母さんが本当に戻ってこないんじゃないか。
父さんが、本当に自分たちを見捨てたんじゃないか。
ずっと怖かった。
でも、いつからか――諦めることを覚えた。
杏は、まだ諦めていない。
どちらのほうが勇敢なのか、石原には分からなかった。
窓の外から、始発電車の警笛が遠く聞こえてきた。
石原はスマホを手に取った。
画面には、杏のアイコンが表示されていた。
何か送ろうとして、でも何を打てばいいのか分からず、指が止まった。
結局、打ったのは一行だけだった。
「行ってくる」
送信して、スマホを置き、石原は立ち上がった。
部屋を出るとき、石原は振り返って杏のドアを見た。
ドアは、まだ閉まったままだった。
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石原は、自分がどうやって学校まで来たのか覚えていなかった。
靴を履き替え、
歩いて、
改札を通り、
電車が来れば乗って、着けば降りる。
そんな動作を、まるでプログラムみたいに繰り返していた気がする。
誰かに肩をぶつけられた。
「すみません」
そう言われて、三秒遅れて――
「あ……いえ」
そんな返事をした気がする。
気づけば校門の前で、石原はそこで一度はっとした。
どうやってここまで来たのか、思い出せない。
石原はうつむいたまま、校舎へ向かった。
廊下は朝のざわめきに満ち、人の流れが絶えなかった。
生徒が横を走り抜けていく。
笑いながら話す声があちこちから聞こえてくる。
視界の端では、感情タグがちらちらと跳ねていた。
まるで、耳元を飛び回る鬱陶しい羽虫みたいに。
でも今日は、それを鬱陶しいと思う気力すらなかった。
ただ歩いて、教室の前まで来ると、ドアを開けて席に着き、そのまま机に伏せた。
腕に顔を埋めた。
ぴくりとも動かなかった。
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春野陽明は、廊下の向こうから石原の姿を見つけていた。
うつむいて歩いている。
足取りも、いつもより遅い。
全身に、どこか薄い灰がかかったみたいに沈んで見えた。
春野は最初、職員室へ向かうつもりだった。
だが途中で足を止めた。
一瞬だけ迷ってから、向きを変えた。
石原の教室へ向かった。
教室の前まで来ると、石原はもう机に伏していて、ぴくりとも動かなかった。
春野が中へ入ろうとした、その瞬間。
視界の端に、人影が映った。
廊下の角。
見覚えのある姿だった。
石原杏だった。
そこに立ったまま、そっと教室の中をのぞいていた。
手には牛乳パックを握りしめていた。
……朝、渡せなかったやつか?
杏は教室の中を見回し、一つ一つ席を確かめるように視線を動かした。
そして――机に伏している兄の姿に、視線が止まった。
そのまま、数秒立ち尽くした。
でも、教室には入らなかった。
杏は視線を落とすと、牛乳をポケットに押し込んだ。
そのままくるりと背を向け、立ち去ろうとした。
「杏ちゃん?」
春野が声をかけた。
杏はびくっと肩を震わせた。
手に持っていた弁当箱が、危うく落ちそうになった。
……弁当も持ってきていたらしい。
「か、会長……」
声が固い。
「兄ちゃんに会いに来たのか?」
杏は首を振った。
春野は教室の中で机に伏している石原をちらりと見て、それから声を落として言った。
「今日は、ちょっと調子悪そうだな」
杏は何も言わなかった。
ただ、目元が少し赤くなった。
杏は弁当箱を春野に差し出した。
「……これ、兄ちゃんに」
小さな声で、「私……先に行きます」と言った。
そう言うと、杏はくるりと背を向け、そのまま廊下を走っていった。
春野はその場に立ったまま、遠ざかる背中を見送った。
ふと、朝届いていたメッセージを思い出した。
石原からの一言。
『今日の昼、俺は休みます』
そのときは深く考えなかった。
でも――
今なら、少し分かる気がする。
春野は静かに教室へ入り、弁当を石原の机に置いた。
小さく息を吐いた。
それから、何も言わず教室を出ていった。
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教室の中で、石原は机に突っ伏したまま、ぴくりとも動かなかった。
昼休みのチャイムは、とっくに鳴り終わっていた。
周りのざわめきは、水の向こうから聞こえてくるみたいにぼやけていた。
目は閉じていた。それでも、視界の端では感情タグがまだちかちかと跳ねていた――【興奮】【疲労】【苛立ち】。
どれも小さな針みたいに、こめかみの奥をちくちく刺していた。
頭の中で何度もぐるぐる回っていたのは、朝に杏が口にしたあの言葉だった。
――「お兄ちゃんに、そんなこと言われるのが怖かったんだよ」
あのとき、杏の目元は赤く、声も震えていた。
強く突き飛ばされたときの手の熱が、まだ胸のあたりに残っている気がした。
(俺……何言ってたんだよ)
石原は顔をさらに腕の中へ沈めた。
(あいつは、ただ諦めたくないだけなんだ)
(それだけなのに……俺より、ずっと勇敢だ)
謝りたい。
ちゃんと、何かを伝えたい。
でも、言葉は喉の奥で詰まっていた。
水を吸った綿みたいに重くて、鈍く沈んだまま、びくとも動かない。
(……緒山さん、今日は来てないな)
何の前触れもなく、そんなことを思った。
石原はその考えに、わずかに固まった。
それからようやく気づいた。
――自分は、緒山さんに会うことをどこかで期待していたらしい。
あの生徒会室で、いつものようににこにこ笑いながら近づいてきて。
よく分からないことを言って。
しかも、いつの間にかこっちをあのどうにも調子を狂わされるやり方で、沈んだ気分の底から引っ張り上げてしまう。
でも、今日は緒山さんが来ていない。
昨日、ふとした拍子に見せた青白い顔。
それなのに、やけに明るすぎる笑顔。
(……大丈夫なのか)
そう思った瞬間、石原はすぐその考えを振り払った。
(妹のことさえまともに向き合えてないくせに、何を他人の心配なんかしてるんだよ)
唇がわずかに歪んだ。
顔を、さらに机へ押しつけた。
窓の外の陽射しが、ひどくまぶしかった。
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【放課後・生徒会室】
生徒会室では、春野陽明がホワイトボードの前に立ち、意気揚々と体育祭の準備案を説明していた。
立花美里はというと、目をきらきらさせながら話を聞いていて、思いつくたびに手を挙げては、自由すぎる案を口にしていた。
その一方で、石原だけは無表情のまま、部屋の隅に座っていた。
頬杖をついたまま、視線はどこにも定まっていなかった。
その隣、本来なら緒山が座っている席は、今日は空いたままだった。
ぽっかり空いたその場所は、妙に冷たい欠けのようで、賑やかなはずの部屋の中にいる石原にだけ、いっそうはっきりとした寂しさを感じさせた。
(緒山さん……今日は休みか)
(また体調、悪いのか……?)
朝の杏との言い争いの記憶も絡み合って、胸の奥に解けないまま引っかかっていた。まるで乱れた糸の塊でも押し込まれたみたいで、石原は思わず小さく息を漏らした。
「おや?」
そのため息を、立花が見逃すはずがない。
すぐ石原のそばに寄ってきて、いつもの自分なりのやり方で場を明るくしようと、にっと笑った。
「先輩、今日も省エネモード全開なのだ! それじゃダメだよ?」
石原は反応しなかった。視線すら動かさない。
【立花美里の感情:心配21(&¥%%……】
自分の気遣いを完全に無視された形になって、立花はむっと頬を膨らませたが、次の瞬間にはいたずらっぽい顔になった。
指をすっと伸ばして石原の腕にちょんと触れた瞬間、光がぱっと弾けた。
「うわっ!?」
石原は椅子から跳ね上がった。
自分の体を見下ろすと、いつの間にか派手な色合いの、フリルだらけの大げさなロングドレスを身につけていた。
顔にはあからさまな困惑と、少しだけ恨めしそうな色が浮かんだ。
春野はそれを見て、腹を抱えて笑った。
【立花美里の感情:#@/$*%】
「立花」
平淡な声が響いた。
花野真汐は手にしていた本を閉じ、いつもの死んだ魚みたいな目で部屋を見渡した。
「石原、状態が良くない。残りの文書作業はいったん中断。今から私と校外施設の確認に行く」
「え……?」
石原はまだドレス姿のまま固まっていた。
「だ、ダメなのだ!」
立花は自分の底上げ用の椅子から飛び降り、机に両手をばしんとついた。背伸びしながら、必死に花野の“圧”に対抗するみたいに目線を合わせる。
「先輩はまだ仕事がいっぱい残ってるのだ! それに私が先に――」
花野は表情一つ変えず、淡々と問い返した。
「なら、どうして今こんなことをした」
「……っ」
立花の勢いは一気にしぼみ、視線を落として小さくつぶやいた。
「……元気なさそうだったから。ちょっと元気出してほしくて……」
【立花美里の感情:落ち込み64¥%……*&】
しゅんとしたまま椅子に戻った立花が、おとなしく指を動かして石原の服を元の制服に戻すのを見て――
石原の胸に、わずかな罪悪感がよぎった。
深く息を吸った。
それから、自分の頬をぱちんと強めに叩いた。
はっきりした痛みが走り、そのおかげで頭の中に渦巻いていた感情のざわめきが少しだけ引いた。
(……ダメだ)
(自分のことで、生徒会のみんなにこんな空気まで背負わせてどうする)
石原は立ち上がった。
「行きましょう、花野さん」
声もいつもの落ち着いた調子に戻っていた。
花野はそれ以上何も言わず、そのまま先にドアへ向かった。
石原は春野と立花に軽くうなずいてから、そのあとに続いた。
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校内の人影は、昼休みの頃より少し減っていた。
廊下に響いているのは、まばらな足音だけだった。
花野はゆっくり歩いていた。急いではいないが、一歩一歩はしっかりしていた。
その少し後ろを、石原が記録ノートを手にしたままついていった。
最初の調査場所は、中庭の掲示板だった。
花野は破れている掲示物を指差し、「これはどう記録する?」と尋ねた。石原が答えると、花野は小さくうなずいた。
そして、また歩き出した。
ここまでは――特に問題はなかった。
だが、校舎の連絡通路に差しかかったところで、急に人が増えた。
部活の時間がひと区切りついたのだろう。
あちこちから生徒たちがどっと廊下へあふれ出してきた。
笑い声や足音、誰かの大きな呼び声が入り混じって、廊下は一気に騒がしくなった。
その瞬間、石原の視界には感情タグがあふれ出した。
【興奮73】
【疲労42】
【苛立ち58】
【眠気61】
【期待39】
まるで花火みたいに次々と弾けながら、視界の中へ密に流れ込んでくる。
石原はくらりと眩暈を覚え、足がわずかに鈍った。
顔を落として手元の記録ノートを見ると、書かれた文字がうまく追えず、揺れて見えた。
「石原」
前方から飛んできたその声は、花野のものだった。
石原が顔を上げると、少し先で花野が別の生徒と話していた。
その生徒がこちらを見て、少し好奇心をにじませた顔をした。
「こちらは……?」
花野は淡々と答えた。
「新しく入った書記。石原」
その生徒は一瞬きょとんとしたあと、にこっと笑った。
「へえ……石原さんも生徒会なんですね」
その瞬間、石原の指がぎゅっとペンを握りしめた。
頭の中で、その言葉が勝手に別の意味へとすり替わる。
――お前みたいなのが、生徒会に入れるわけがないだろ。
「石原先輩、思っていたよりずっと穏やかな人なんですね。あ、そういえば――石原先輩が生徒会に入れたのって、緒山副会長の推薦だって聞きましたけど、彼女は今――」
相手が言い終わる前に、石原が口を挟んだ。
「……緒山とは関係ない!」
思わず声が飛び出し、その大きさは自分で思っていたよりずっと大きかった。
その生徒は目を丸くした。花野は石原をきつく一瞥した。
石原自身も固まった。どうして今、あんなふうに声を荒げたのか、自分でも分からなかった。
「……すみません。ちょっと……まだ慣れてなくて」
花野は何も言わなかった。
ただ視線をその生徒へ戻し、声色もさっきとまったく同じままで言った。
「それで。さっきの話の続きだけど、どこまでだった?」
その生徒は苦笑いを浮かべて「え、ああ……はい」と返し、頭をかきながらまた説明を始めた。
石原はノートを見下ろした。書かれた文字は、もうぐにゃぐにゃに歪んでいた。
ペンを握る指が、かすかに震えていた。
花野は、石原を見なかった。
でも――質問の間は少しだけ長くなっていた。一つ問いかけるたびに、前よりほんの少し長めの間を置いてから、次の質問へ移っていた。
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生徒会室に戻ると、春野がホワイトボードの前で体育祭の準備について説明していた。
「――だから、この辺りは配置を見直した方がいい。去年の案は安全面に問題があった」
横で、立花が勢いよく手を挙げた。
「会長! 会長! 装飾、私が担当してもいいのだ?」
「いいけど、お前の“着替え能力”でチアをファッションショーにするのはやめろよ」
「しないのだ!」
笑い声や話し合う声、資料をめくる音があちこちで重なっていた。
いつも通りの、生徒会室だった。
石原は部屋の隅に座ったまま、視線はどこにも定まっていなかった。
声は聞こえてくるのに、どこか遠かった。水の向こうから届くみたいに、全部がぼんやりしていた。
頭の中では、さっきの言葉がまだぐるぐる回っていた。
――「石原先輩、思っていたよりずっと穏やかな人なんですね」
それから、朝に杏が目を赤くして叫んだあの言葉も。
――「お兄ちゃんに、そんなこと言われるのが怖かったんだよ」
いくつもの声が頭の中で重なり合って、どんどん大きく、どんどんうるさくなっていった。
その瞬間、石原は勢いよく立ち上がった。
「春野」
口をついて出たその声は、自分でも驚くほど乾いていた。
春野が振り向き、手にしたチョークが宙で止まった。
「俺、今日は……先に帰る」
「おい、石原――」
石原は振り返らないままドアを開け、生徒会室を出て廊下へ出た。
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背後から足音が聞こえ、それはどんどん近づいてきた。
肩に手が置かれた。押さえる力は少し強かった。
「石原!」
彼は足を止めたが、振り返らなかった。
春野は息を切らしていた。走って追いかけてきたのだ。
「どうした? 仕事がうまくいかないのか? それとも誰かに何か言われたのか?」
その声には、珍しく焦りが滲んでいた。
「言ってくれ。俺が何とかする!」
石原はうつむいたまま、何も言わなかった。
なのに胸の内側では、もう何もかもが津波みたいに荒れ狂っていた。
生徒会のみんなの顔が、次々と脳裏をよぎる――
緒山の温かい笑顔。
立花のふくれた頬。
春野の大げさで騒がしい調子。
花野の静かな死んだ魚みたいな目。
感情タグのざわつく気配が耳の奥でまとわりつき、そこに妹の声まで重なった。
「私、お兄ちゃんがそんなこと言うのが怖いんだよ!」
どんな敵意よりも彼を怯えさせたのは、灰色だった自分の世界に突然差し込んできた光まで、いつか父親みたいに何の前触れもなく消えてしまうかもしれない、ということだった。
その中でもいちばん眩しかった光を思えば、どうしても生徒会室のあの空席が浮かんだ。彼女は、今日は来ていない。
メッセージを送っても緒山さんから返事はない。春野ですら、彼女が休んだ理由をちゃんとは知らなかった。
彼は思い出した。彼女の顔が、ときどきふっと青白くなることを。そして、いつも必要以上に明るい笑顔を。
そんな些細な違和感が、今この瞬間に限って、やけに大きく感じられた。
まだはっきり形にもしたくない思いが、水底の影みたいに心の奥をかすめた。
「もし……」
彼はその考えを、無理やり断ち切った。もう、それ以上考えることができなかった。
それでもその思いは、水底に沈む影みたいに、胸の奥へ重く居座ったままだった。
胸が重い。かつて手に入れたわずかな温もりが、今ではすべて棘となって胸に刺さっていた。
「俺は、ここにいてはいけない……」
「どうせ、また全部台無しにする……」
「妹すら……」
「こんな自分……何を――」
最後の思いが形になる前に、それは彼を完全に押し潰した。
彼は顔を上げ、小さく息を吐いた。
「ごめん……少し、一人になりたい」
春野が返事をする前に、彼はそのまま背を向け、足元の定まらないまま放課後の人波の中へ紛れ込んでいった。
背後で、春野はもう追ってこなかった。
---
石原は、自分がどうやってこの喫茶店まで来たのか覚えていなかった。
気がついたときには、すでにその店の前に立っていた。
「泉方情」と書かれた木の看板が、夕暮れの中でやわらかな光を灯していた。
はっきりした目的地なんてなかった。
頭の中がぐちゃぐちゃのまま歩いていたら、足だけが勝手にここまで連れてきていたみたいだった。
まるで、何かに引き寄せられるみたいに。
ドアを押して店に入ると、店員が近づいてきた。
「お客様、何名様でしょうか?」
一瞬、誰に話しかけられているのかわからなかった。それが自分だと気づいて、ようやく口を開いた。
「……一人です」
店のいちばん奥のボックス席に体を沈めた。
メニューを渡されたが、しばらく眺めていても文字が頭に入ってこなかった。
「……カフェラテで」
それだけ言って、やがて運ばれてきたカップを見たとき、石原はわずかに目を瞬かせた。表面には、ハート型のラテアートが描かれていた。
石原は、そのハートを数秒じっと見つめた。
……ハートのラテアート。
ふいに、ひどく曖昧で、今にもこぼれ落ちそうな光景が脳裏をよぎった。
陽の光の中、鼻をすすりながら泣いている黒く長い髪の少女の横顔。
そして、少し鼻にかかった声で、無理に明るく振る舞うような冗談めいた言葉。
……何て言っていた? そこだけが、どうしても聞き取れない。
思い出そうとしても輪郭はすぐに崩れてしまい、残ったのは、空っぽに反響するみたいなぼんやりした感覚だけだった。
どうして、よりにもよってここなんだ。どうして、この店とこのコーヒーだけが、こんな妙な感覚を呼び起こすんだ?
考えを巡らせる間もなく、前触れもなく激しい眩暈が襲ってきた。世界がぐらりと揺れ、心臓の鼓動が乱れ、口の中には馴染んでしまった鉄の味が広がった。
「……うっ」
低く呻き、冷たいテーブルに額を押しつけた。
この痛みのせいで、またあの不在の気配と結びついてしまう。
散らかった考えが、また波みたいに押し寄せてくる。
今日は来ていない。
――体調でも崩したのか。
ときどき見せる、あの血の気の引いた顔を思い出した瞬間、胸の奥には、体の痛みとは別の、説明のつかない重さがもう一つ沈んだ。
しばらくして症状が引くと、石原はラテのカップを見つめた。胸の内側に、ひどく苦くて渋いものが残っていた。
「……俺、何やってんだろ」
胸の奥から、ある思いが浮かび上がる。
――会いたい。
理由なんてわからない。
ただ、彼女の笑顔が見たい。
元気なのか、それだけでも知りたい。
だが、その直後。もっと重たい無力感と自嘲が押し寄せてきた。
……会って、どうする。
こんな姿を見せるのか?
自嘲がこみ上げてきて、石原はただ目を閉じるしかなかった。
考えを断ち切るみたいに、カップを持ち上げた。
冷めかけたコーヒーを、一気に流し込んだ。
その瞬間――
「げほっ……!」
喉に引っかかり、激しく咳き込んだ。
「ははっ、そんなに急いで飲むからだよ」
聞き慣れた、楽しそうな笑いを含んだ声。石原の心を散々かき乱してきたのに、なぜか無性に聞きたかった声だった。
石原は、はっと顔を上げた。
咳き込みすぎて涙で滲んだ視界の向こう。
そこにいたのは――
緒山朋奈だった。
向かいの席に座り、いつもの笑顔を浮かべていた。
まるで曇り空を一瞬で晴らしてしまうような、あの笑顔。
ただ――
その奥に、ほんのわずかな疲れが滲んでいる気がした。
「緒山……さん!?」
咳で掠れたその声には、信じられないという色がありありと滲んでいた。
その瞬間、巨大な安堵が一気に押し寄せた。ずっと宙づりだった心が、ようやく落ち着く場所を見つけたみたいだった。
けれど同時に、その安堵が余計に自分を情けなく思わせた。
石原はほとんど反射的に顔を背け、彼女の視線を避けた。今のこのみっともない顔を、見られたくなかった。
「そんなに会いたくなかったんですか、先輩〜?」
わざとらしくしょんぼりした顔をしてみせると、緒山は立ち上がると、そのまま石原の隣に腰を下ろした。
石原は少しだけ体を横へずらし、無意識に距離を取った。
「……違う」
ほとんど聞こえないくらいの小さな声で、石原はそう否定した。
違う。会いたくなかったんじゃない。ただ――体調を崩して学校にも来られない相手に、こんな感情のゴミをこれ以上ぶつけたくなかっただけだ。
---
緒山は向かいの席で、両手で顎を支えながら石原を見ていた。その瞳だけが、妙に明るく見えた。
「先輩、当ててみてください。どうやってここ見つけたと思います?」
いたずらっぽく、ぱちりとウインクした。
石原は窓の外へ目をやった。空中で止まったままの鳥を見て、すべてを察した。
さっきの体調不良は、この世界に“停止”がかかっていた証拠だったのだ。
【緒山朋奈の感情:#$%¥?】
「……また、迷惑かけたな」
低く、疲れきった声だった。
「迷惑?」
緒山は首をかしげた。その笑顔は、ひどくまっすぐだった。
「私はただ……先輩に会いたかっただけですよ?」
その一言は、凍った湖に落ちた小石みたいに胸の奥へ沈み、波紋みたいに静かに広がっていった。だからこそ、余計にいたたまれなかった。
「緒山さん……」
石原は歯を食いしばるようにして、ずっと胸の奥に引っかかっていた問いを絞り出した。
「俺ってさ……
もしかして、心ない人間なのかな」
「杏に、あんなひどいこと言って。
学校でも……何もかも、台無しにしてばっかりだ」
「……俺、いつも一番ひどいやり方で、そばにいる人たちを傷つけてる気がする」
「ぷっ――」
緒山は何の前触れもなく吹き出した。嘲るような笑いじゃない。まるで、呆れるくらいおかしくて、でもどこか可愛い冗談でも聞いたみたいな笑い方だった。
石原が呆気に取られていると――
緒山はふいに立ち上がり、そのまま身を乗り出して、そっと耳を彼の左胸に当てた。
時間が、本当に止まったみたいだった。
石原は全身を強張らせ、頭の中が真っ白になった。ただ感じられるのは、頬に触れる柔らかな髪の感触と、胸の奥でやけに大きく響く自分の鼓動だけだった。
数秒後、緒山は顔を上げた。その表情には、どこかしてやったりみたいな笑みが浮かんでいた。
「先輩、うそつきですね~」
指先で彼の胸を軽くつつくと、びくりと石原の体が揺れた。
「ちゃんとここにあるじゃないですか。こんなに一生懸命ドキドキしてて、こんなにあったかいのに……どうして、ないなんて言うんですか?」
緒山はくすくす笑いながら、もう二、三度いたずらっぽくつついた。
「ふふ~、いいなぁ。ちょっと羨ましいです」
その瞬間、石原の顔は一気に赤くなった。思わず椅子ごと後ろへ引き、
「な、な……っ! なに羨ましがってんだよ!」
と、完全に言葉を崩しながら言い返した。
一方の緒山も、少し遅れて自分のしたことに気づいたらしい。耳の先まで赤くして、慌てて俯いた。
「だ、だって……先輩があんなこと言うから……つい、勢いで……」
さっきまでよりずっと細く、頼りない声だった。
そのまま二人の間に、短くて、妙に気まずくて、それでいてどこか柔らかい沈黙が落ちた。
石原の鼓動はまだ落ち着かず、鼻先には彼女の髪のほのかな香りが残っている気がした。
その静けさの中で、石原の脳裏には抑えようもなく、いくつもの光景がよぎっていった。
林の中で、閉ざしていた彼の世界に太陽みたいな笑顔で踏み込んできた彼女。
校舎で、彼女がごく自然に自分の腕を取ってきたときの、あの緊張をほどいていくようなぬくもり。
電車の中で、悪意の視線を真正面から受け止めて、「私は先輩の彼女です!」と大きな声で言い切ったときの、あのまっすぐな瞳。
どの記憶も、やけに鮮やかで、やけにあたたかかった。だからこそ、今の自分の情けなさとひどく対照的だった。
感謝と戸惑いと、それから説明のつかない鼓動みたいなものが胸の中で混ざり合い、発酵するみたいに膨らんで、ついには心の壁を押し破った。
石原は顔を上げた。もう視線は逃げなかった。声は小さかったが、驚くほど真剣だった。
「緒山さん……」
少し言葉を探してから、石原は続けた。
「この数日、俺のためにいろいろしてくれたよな。そばにいてくれて、助けてくれて……こんなくだらない愚痴まで聞いてくれて。……でも、なんで?」
口にしたあとで、自分でも少し唐突すぎたかもしれないと思った。
「俺たち、まだ知り合って数日だろ。……なんで、俺にそこまで優しくしてくれるんだ」
けれど、緒山はすぐには答えなかった。
ただ、静かに彼を見つめていた。カフェの柔らかな灯りの中で、その瞳はひどく優しく見えたし、その奥には別の色まで宿っているようだった。
やがて彼女は視線を落とし、ふっと小さく笑った。
それはいつもの明るい笑顔とは違っていた。もっと軽くて、もっと静かで、どこか遠い記憶を思い出しているような笑みだった。
「先輩……本当に、“数日”だと思います?」
石原は言葉を失った。
「違いますよ」
緒山は顔を上げ、まっすぐ彼の目を見た。
「私たち……もう会ってるんです。学校の林の中で」
石原の呼吸が、ふっと止まった。
「その日、ひとりの女の子が、そこで泣いてました」
「そこへ、同じくらいひどく孤独そうな男の子が歩いてきたんです」
「その子はそこでしばらく困ったみたいに立ってて……それから、すごく不器用に言ったんです」
緒山はわざとぎこちない口調を真似した。
「『……ここ、あんまり人来ないから』」
その瞬間、記憶の欠片が一気に胸の奥から浮かび上がった。林の中、黒く長い髪を揺らし、背中を震わせて泣いていた少女――
「『泣いても問題は解決しない。
でも……一回泣いたくらいで、
空が本当に落ちてくるわけじゃない』」
その言葉と同時に、ぼやけていた景色が一気に輪郭を取り戻した。
石原の瞳が、わずかに見開かれた。
「……それだけ言って、その人は振り返りもせず帰っちゃいました」
緒山は石原の表情を見つめていた。その目にはうっすら涙が浮かんでいたのに、笑顔は驚くほど明るかった。
「すごく不器用でしたよね。
全然やさしくない言い方で」
緒山は小さく笑ってから言った。
「でもね、先輩」
その声は静かでやわらかいのに、まっすぐ石原の胸に届いた。
その記憶は石原の中を温かく流れていき、長い時間をかけて胸の奥を満たしていった。石原の口元にも、ようやくほどけたような笑みが浮かんだ。
「ああ……思い出した。そのあと、その子が追いかけてきてさ。『泉方情』っていうカフェでラテを奢るって言って、しかも“ハートのラテアートがいい”って……子供みたいな注文までして」
緒山がぱっと顔を上げた。
「そうそう! そしたらその先輩、顔真っ赤にして全力で逃げたんですよ! ほんと、あのときから全然変わってないですよね」
二人の間に笑い声が広がった。さっきまで胸を締めつけていた重さは、いつの間にか少し薄れていた。
少しして、緒山はふっと静かになった。
「でも……先輩。そのときの女の子にとっては、空が本当に落ちてきそうなくらいつらかったんです。だから――あの言葉は、本当に光みたいでした」
顔を上げた緒山は、まっすぐ石原を見つめた。
「私が今してることって、ただ一つだけなんです。昔のあの、不器用な先輩に伝えたいんです」
微笑んで、緒山は言った。
「ほら、見てください。空、ちゃんと落ちてきてないでしょう? それどころか――こんなにきれいな、青い空になりました。先輩のおかげで」
石原はただ、彼女を見つめていた。自分がとっくに忘れていた記憶を、彼女はずっと胸の中で大事に抱えていて、今こうして光に変えて返してくれている。
胸の奥が激しく揺れた。自分は、人の好意を疑ってばかりで、杏を怒らせてしまったことも、父を探すのを諦めかけたことも――全部、ここへつながっていた気がした。
その瞬間、石原の胸の内側ではもう何もかもがひっくり返るみたいに揺れ、ずっと自分で積み上げてきた壁が一気に崩れ落ちた。
知らないうちに放った言葉が、
誰かの光になっていた。
そしてその光が、今度は彼女の手の中で大事に守られたまま戻ってきて、消えかけていた自分をもう一度あたためている。
驚きと羞恥と、それから言葉にできない高鳴りみたいなものが、胸の奥で一気に爆ぜた。
ずっと疑っていた自分が、急にひどく恥ずかしくなった。……でも違った。この好意は偶然なんかじゃない。ずっと前から、静かに続いていたものだった。
石原はしばらく黙っていた。
言いたいことは山ほどあった。謝りたかったし、礼も言いたかったし、どうしてそこまで覚えているのかも聞きたかった。
けれど、どの言葉も喉の奥で止まってしまって、一つも形にならなかった。
結局、石原は少し俯いて、ほとんど聞こえない声で言った。
「……また会えて……よかった」
緒山は一瞬きょとんとした。それから――ふっと笑った。
「先輩……そういうこと言うの、ずるいですよ」
その笑顔を見て、石原はようやく気づいた。さっきの言い方は、思っていた以上に親しげだったのかもしれない。そう気づいた瞬間、耳の奥まで一気に熱くなった。
「い、いや、その……違くて……!」
慌てて両手を振り、しどろもどろに弁解を始める。
緒山はくすくす笑いながらその様子を見ていた。石原の不器用な説明を聞き終えると、もうそれ以上からかうことはせず、ふっと静かになって窓の外へ視線を向けた。
止まったままの光の中で、その横顔はどこか見慣れないものみたいに見えた。
数秒後、彼女はもう一度こちらを向いた。笑みは少しだけ薄れていたけれど、
「先輩、私……そろそろ帰らないと」
声は明るかった。けれど、ほんの少しだけ急いでいるようにも聞こえた。
「これ以上遅いと、家族が心配しますから」
【緒山朋奈の感情:失落24#$%@】
「……お、おう」
石原はうなずいた。だがその直後、胸の奥に小さな疑問が浮かんだ。……帰るって、どこへだ。家族が心配する? 時間、止まってるんじゃなかったか?
「じゃあ、また明日。学校で!」
緒山はすっと立ち上がり、肩にバッグを掛けた。
「……送るよ。入口まで」
「だ、大丈夫です!」
緒山はほとんど反射みたいに断ると、手をひらひら振りながら、軽い足取りで入口のほうへ下がっていった。
「家に着いたら、ちゃんと能力も解除しますから!
先輩は……そのコーヒー、ちゃんと飲み切ってくださいね!」
言い終わるころには、もう背を向けていた。そのまま扉を抜けて――彼女の姿は、止まった街の中へ溶けていった。
石原はしばらくその方向を見つめていた。それから、ゆっくり席に座り直した。
目の前のカップを見ると、もう空だった。石原は思わず苦笑した。
「もう飲み終わってるって……」
さっきの出来事を思い返すと、胸の奥がじんわりと温かくなった。
「……またな、緒山さん」
小さく呟いた。
---
石原は一人、ボックス席に座ったままだった。胸の内には、さっきまでよりずっと確かな落ち着きが残っていた。
『また会えて、よかった』
自分で言った言葉が、まだ胸の奥で響いていた。
どれくらい時間が経ったのか、自分でもわからなかった。
「お客様?」
店員の声で、石原は我に返った。
「ご注文はいかがなさいますか?」
顔を上げた。
店員が横に立っていた。顔にはきっちりとした営業スマイルが貼りついている。
だが、テーブルの上の空になったカップに目を落とした瞬間、
店員の動きがふっと止まり、ほんの一瞬だけ、顔に戸惑いの色がよぎった。
【店員の感情:困惑60、礼儀40】
店員は首をかしげた。
「このカップ……」
頭をかきながら、何かをうまく思い出せないような顔をした。
「すみません、お客様。
おかわり、お持ちしましょうか?」
「いえ。もう出ます」
石原は静かに答えた。
その困惑を、石原ははっきり見ていた。
――やっぱり、これが初めてじゃない。
泉方橋のときも、昨日の学校でも、同じような違和感があった。
緒山が能力を使ったあと、周りの人たちに妙なズレみたいなものが残る。
胸の奥に、はっきり言葉にできない異様さが引っかかった。
……けれど、今それ以上考えても答えは出ない。
店を出た。
夕方の風が頬を撫でた。少し冷たかった。
だが、頭の中は驚くほど澄んでいた。
緒山は、胸にしまっていた記憶を打ち明けてくれた。
そして――もう一度、光をくれた。
だったら、今度は自分が動く番だ。石原の中で、何かを変えようという決意が静かに固まっていった。
……自分も、何かしなきゃいけない。
秘密を分けてくれた、あの少女のために。
自分を気にかけてくれる、生徒会の仲間のために。
そして――今朝、自分のせいで泣かせてしまった妹のためにも。
---
【石原家】
鍵を回す音は、ほとんど気づかれないほど小さかった。
石原が家に入ると、リビングでは妹がソファに丸まって漫画を読んでいた。
物音に気づくと、杏はちらりと視線だけを上げた。それだけだった。
いつもなら「お兄ちゃんおかえり!」と飛びついてくるのに、今日はそんな様子はない。
【石原杏の感情:落ち込み60、意地40】
部屋の空気が、どこかぎこちない。
石原はすぐ自分の部屋へは行かなかった。かといって、いきなり謝ることもしなかった。
靴を脱いでキッチンへ向かい、麦茶を二杯注いだ。
それからソファの前へ戻り、片方を妹の前のローテーブルに置いた。
「ただいま」
いつもより少し柔らかい声だった。ちらちらと妹の様子も窺っている。
「……ん」
杏はぼそっと返事をした。目はまだ漫画に落ちていたが、ページはめくられていなかった。
石原は隣に腰を下ろした。視線は向けず、ただグラスの中で揺れる水面を見つめた。
「今日さ……『泉方情』っていうカフェに行ってきた」
独り言みたいな口調だった。
「ほら、杏が中学のころさ。行きたいって騒いでたのに、俺が“高い”って言ってやめた店」
杏の肩が、わずかに動いた。
「……おいしかった?」
「うん。結構よかった」
少し間を置いてから、石原は続けた。
「今度、一緒に行こう」
そして、声を落とした。
「……ごめん、杏。
今朝は……言い方、きつかった」
「父さんを探すな」とも言わない。
「お前が悪い」とも言わない。
ただ、自分のきつい口調と苛立ちを謝った。
杏はようやく顔を上げ、補修テープだらけの漫画を横に置いて、赤くなった目で兄を睨んだ。
「……バカお兄ちゃん」
「うん」
素直に受け止めた。
「超バカ!」
「うんうん」
杏は鼻をすすって麦茶をつかみ、ごくごくと大きく一口飲んでから、ドン、とテーブルに置いた。
「……私が、ちょっと現実見えてないのかもしれないけど」
杏は小さく息を吸った。
「でも……あの人みたいにはなりたくない。家族を置いていく人には……なりたくない」
声は、最後のところでかすかに震えていた。
“あの人”が誰を指しているのか、石原にはわかっていた。父のことだ。
正直、父親の行方について希望なんてもう持てていなかった。
それでも――昔と同じ考えのままではいられなくなっていた。
石原は静かに言った。
「……一緒に探すよ、杏」
「……うん」
杏は小さく頷いた。
「約束ね」
その瞬間、ぽろりと涙が落ちた。
杏は一歩前に出て、そっと兄の肩に額を預けた。
ほんの数秒そうしていたが、次の瞬間には、自分でもその格好が恥ずかしくなったのか、顔を真っ赤にして石原を押しのけた。
「つ、次また……あんなこと言ったら!」
腕を組んで精一杯怖い顔を作ったが、すぐに崩れた。視線を落とし、声も小さくなっていく。
「……そのときは……その……い、一日、口きかないから!」
石原は思わず笑った。
胸に乗っていた重たい石が、やっと落ちた気がした。
目の前にいるのは、怒ったふりをしている小さな猫みたいな妹。
石原は手を伸ばし、ぽん、とその頭を撫でた。
「もう言わないよ」
静かに、約束した。
---
妹と話を終えたあと、石原は自分の部屋に戻った。
ベッドに仰向けになり、天井を見つめた。
脳裏をよぎるのは、緒山の最後に見せたあの笑顔だった。
それから、あの言葉。
――「ほら、空……ちゃんと落ちてきてないでしょ?」
石原はゆっくり手を上げ、左胸にそっと触れた。さっき、彼女が耳を当てた場所だった。
「ここにあるのに……こんなに、強く脈打ってるのに」
石原は小さく呟いた。
目を閉じると、ふっと笑みがこぼれた。誰にも聞こえないくらい、静かな笑いだった。
---
【翌日・生徒会室】
石原が生徒会室のドアを開けると、ちょうど春野が顔を上げた。
目が合った瞬間、春野は見るからに一瞬ぽかんとした。
すぐに口元が緩み、ほっとしたように肩の力を抜いた。
【春野陽明の感情:安心75、安堵25】
――昨日、石原があんな様子で飛び出していったあと、生徒会室では残った三人で慌てて小さな話し合いが開かれていた。
「いやいや、昨日の石原絶対おかしかっただろ」
春野は頭をかきながら、困ったような顔をしていた。
「昨日までは普通だったのにさ。急にあんな……」
「きっとすごく辛いことがあったんですよ!」
立花はぎゅっと小さな拳を握ったが、すぐに肩を落とした。
「もしかして……私がスカートに着替えたから怒ったんでしょうか……」
「そこまでの罪じゃない」
花野は本をめくりながら、顔も上げない。
「たぶん生徒会の仕事にまだ慣れてないか、妹と喧嘩したか」
「ど、どうしましょう……!」
立花はますます慌てた。
「差し入れ持っていきます?
それとも私、先輩が好きそうな服に着替えて――」
「いや待て待て、それはやめてくれ」
春野は慌てて両手を振った。
「今は下手に構いすぎると逆効果だ。とりあえず普段通りでいこう。今まで通りでいい」
「同意……面倒」
「そこでやる気なくすのやめてくださいよ!」
だからこそ、石原の目がもう昨日みたいに荒れていないのを見て、春野はようやく本当にほっとした。
「さてと」
春野はホワイトボードを軽く叩いた。
「今週末の中等部体育祭の見学な。要するに“勉強してこい係”――まあ、実質ただの志願者だ」
部屋の中を見渡す。
「誰か志願者いるか?」
生徒会室の空気は、思ったより軽かった。
石原も自分の席に座りながら感じていた。昨日より、ずっと楽だった。
そのとき、隣から肘で軽くつつかれた。見ると、緒山だった。
目が合うと、二人は小さく笑い合った。
それを向かいから見ていた花野は、露骨に不機嫌そうな顔になると、本の角度を変え、ますます顔を上げなくなった。
春野の視線はゆっくりと部屋を一周し、最後に立花で止まった。
今日は、いかにも気合の入ったワンピースを着て、背筋もぴんと伸びている。けれど視線は落ち着かず、指先でこっそりスカートの裾をいじっていた。
石原はふと思い出した。彼女の少し変わった能力と、かつて陸上の特待生だったという話を。
中等部の体育祭。
……複雑な気持ちなのかもしれない。
昨日、自分もああやって緒山に背中を押されたことが、ふと脳裏をよぎった。
「誰かのために、何かしたい……」
そんな小さな衝動が胸の中で静かに膨らみ、気づけば手を上げていた。
「春野」
春野が振り向き、他の三人も少し意外そうに同時にこちらを見た。
「俺と、立花さんで行こう」
言葉はまっすぐで、飾り気も前置きもなく、少しぶっきらぼうですらあった。
部屋が一瞬、静まり返った。
「えっ!?」
立花は驚きのあまり勢いよく顔を上げると、自分の鼻先を指差したまま、目を見開いて固まった。
「わ、私とですか!?」
【立花美里の感情:驚愕70、困惑30】
石原はその大げさな反応に少し気まずくなりながらも、頷いて言葉を続けた。
「うん。
立花さん……アイデア多いし。
こういう行事、俺たちより詳しそうだし」
理由としてはかなり不器用で、少しも気の利いた言い方にはなっていなかった。
ただ――行きたそうなのに言い出せない顔を見てしまった。だから背中を押したかったし、自分もこの集まりのために何かしたかった。それだけだった。
立花はぽかんと口を開けたまま、石原を見つめた。頬が、ゆっくり赤くなっていく。
「せ、先輩……ほんとに……」
周囲の視線にはどこか笑いを含んだ気配があって、石原は居心地悪そうに顔をそらした。
ふと横を見ると、緒山がにやにやしながらこちらを見て、机の下でひそかに親指を立てていた。
「……はは」
石原は頭をかいた。
……こういうのも、悪くない。
だが石原はまだ知らない。自分のその少し不器用な一言が、小石みたいに立花の心へ落ちて、大きな波紋を広げ、その先にある“走ること”や後悔や執着の記憶まで揺らしていくことを。
【あとがき】
読了ありがとうございます!
次回、第四章「 見えない少女――色褪せていく世界」では、
ついに立花美里の“本当の姿”が描かれます。
彼女が隠してきたもの、そして“見えなくなる”ことの意味とは……?
もしこの作品を気に入っていただけたら、ブックマークや⭐評価で応援していただけると嬉しいです!
読者の皆様の応援が、私の力になります!
次回更新まで、少しお待たせしますが、必ず戻ってきます。
それでは、また第四章でお会いしましょう!




