第二十二話
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緒山両手で顎を支えながら石原を見ていた。その瞳だけが、妙に明るく見える。
「先輩、当ててみてください。どうやってここ見つけたと思います?」
いたずらっぽく、ぱちりとウインクしてみせる。
石原は窓の外へ目をやった。空中で止まったままの鳥を見て、すべてを察した。
さっきの体調不良は、この世界に“停止”がかかっていた証拠だったのだ。
【緒山朋奈の感情:#$%¥?】
「……また、迷惑かけたな」
低く、疲れきった声だった。
「迷惑?」
緒山は首をかしげた。その笑顔は、ひどくまっすぐだった。
「私はただ……先輩に会いたかっただけですよ?」
その一言は、とあ湖に落ちた小石みたいに胸の奥へ沈み、波紋みたいに静かに広がっていった。だからこそ、余計にいたたまれなかった。
「緒山さん……」
石原は歯を食いしばるようにして、ずっと胸の奥に引っかかっていた問いを絞り出した。
「俺ってさ……もしかして、心ない人間なのかな」
「杏に、あんなひどいこと言って。学校でも……何もかも、台無しにしてばっかりだ」
「……俺、いつも一番ひどいやり方で、そばにいる人たちを傷つけてる気がする」
「ぷっ――」
緒山は何の前触れもなく吹き出した。嘲るような笑いじゃない。まるで、呆れるくらいおかしくて、でもどこか可愛い冗談でも聞いたみたいな笑い方だった。
石原が呆気に取られていると――
緒山はふいに立ち上がり、そのまま身を乗り出して、そっと耳を彼の左胸に当てた。
時間が、本当に止まったみたいだ。
石原は全身を強張らせ、頭の中が真っ白になる。ただ感じられるのは、頬に触れる柔らかな髪の感触と、胸の奥でやけに大きく響く自分の鼓動だけだった。
数秒後、緒山は顔を上げた。その表情には、どこかしてやったりみたいな笑みが浮かんでいた。
「先輩、うそつきですね~」
指先で彼の胸を軽くつつくと、びくりと石原の体が揺れた。
「ちゃんとここにあるじゃないですか。こんなに一生懸命ドキドキしてて、こんなにあったかいのに……どうして、ないなんて言うんですか?」
緒山はくすくす笑いながら、もう二、三度いたずらっぽくつついた。
「ふふ~、いいなぁ。ちょっと羨ましいです」
その瞬間、石原の顔は一気に赤くなった。思わず椅子ごと後ろへ引き、
「な、な……っ! なに羨ましがってんだよ!」
と、完全にパニックになりながら言い返した。
一方の緒山も、少し遅れて自分のしたことに気づいたらしい。耳の先まで赤くして、慌てて俯いた。
「だ、だって……先輩があんなこと言うから……つい、勢いで……」
さっきまでよりずっと細く、頼りない声だった。
そのまま二人の間に、短くて、妙に気まずくて、それでいてどこか柔らかい沈黙が落ちた。
石原の鼓動はまだ落ち着かず、鼻先には彼女の髪のほのかな香りが残っている気がする。
その静けさの中で、石原の脳裏には抑えようもなく、いくつもの光景がよぎっていった。
林の中で、閉ざしていた彼の世界に太陽みたいな笑顔で踏み込んできた彼女。
校舎で、彼女がごく自然に自分の腕を取ってきたときの、あの緊張をほどいていくようなぬくもり。
コンビニ前で悪意の視線を真正面から受け止めて、「私は先輩の彼女です!」とコンビニ前で言い切ったときの、あのまっすぐな瞳。
どの記憶も、やけに鮮やかで、やけにあたたかかった。だからこそ、今の自分の情けなさとひどく対照的だった。
感謝と戸惑いと、それから説明のつかない鼓動みたいなものが胸の中で混ざり合い、発酵するみたいに膨らんで、ついには心の壁を押し破った。
石原は顔を上げた。もう視線は逃げなかった。声は小さかったが、驚くほど真剣だった。
「緒山さん……」
少し言葉を探してから、石原は続けた。
「この数日、俺のためにいろいろしてくれたよな。そばにいてくれて、助けてくれて……こんなくだらない愚痴まで聞いてくれて。……でも、なんで?」
口にしたあとで、自分でも少し唐突すぎたかもしれないと思った。
「俺たち、まだ知り合って数日だろ。……なんで、俺にそこまで優しくしてくれるんだ」
緒山はすぐには答えなかった。
ただ、静かに彼を見つめていた。
やがて彼女は視線を落とし、ふっと小さく笑う。
それはいつもの明るい笑顔とは違っていた。もっと軽やかでもっと静かで、どこか遠い記憶を思い出しているような笑みだった。
「先輩……本当に、“数日”だと思います?」
石原は言葉を失った。
「違いますよ」
緒山は顔を上げ、まっすぐ彼の目を見た。
「私たち……もう会ってるんです。学校の林の中で」
石原の呼吸が、ふっと止まった。
「その日、ひとりの女の子が、そこで泣いてました」
「そこへ、同じくらいひどく孤独そうな男の子が歩いてきたんです」
「その子はそこでしばらく困ったみたいに立ってて……それから、すごく不器用に言ったんです」
緒山はわざとぎこちない口調を真似した。
「『……ここ、あんまり人来ないから』」
その瞬間、記憶の欠片が一気に胸の奥から浮かび上がった。林の中、黒く長い髪を揺らし、背中を震わせて泣いていた少女――
「『泣いても問題は解決しない。
でも……一回泣いたくらいで、
空が本当に落ちてくるわけじゃない』」
その言葉と同時に、ぼやけていた景色が一気に輪郭を取り戻す。
石原の瞳が、わずかに見開かれた。
「……それだけ言って、その人は振り返りもせず帰っちゃいました」
緒山は石原の表情を見つめていた。その目にはうっすら涙が浮かんでいたのに、笑顔は驚くほど明るかった。
「すごく不器用でしたよね。
全然やさしくない言い方で」
緒山は小さく笑って言った。
「でもね、先輩」
その声は静かでやわらかいのに、まっすぐ石原の胸に届いた。
その記憶は石原の中を温かく流れていき、長い時間をかけて胸の奥を満たしていった。石原の口元にも、ようやくほどけたような笑みが浮かんだ。
「ああ……思い出した。そのあと、その子が追いかけてきてさ。『泉方情』っていうカフェでラテを奢るって言って、しかも“ハートのラテアートがいい”って……子供みたいな注文までして」
「そうそう! そしたらその先輩、顔真っ赤にして全力で逃げたんですよ! ほんと、あのときから全然変わってないですよね」
二人の間に笑い声が広がった。さっきまで胸を締めつけていた重さは、いつの間にか薄れていた。
少しして、緒山はふっと静かになった。
「でも……先輩。そのときの女の子にとっては、空が本当に落ちてきそうなくらいつらかったんです。だから――あの言葉は、本当に光みたいでした」
顔を上げた緒山は、まっすぐ石原を見つめた。
「私が今してることって、ただ一つだけなんです。昔のあの、不器用な先輩に伝えたいんです」
微笑んで、緒山は言った。
「ほら、見てください。空、ちゃんと落ちてきてないでしょう? それどころか――こんなにきれいな、青い空になりました。先輩のおかげで」
石原はただ、彼女を見つめていた。自分がとっくに忘れていた記憶を、彼女はずっと胸の中で大事に抱えていて、今こうして光に変えて返してくれている。
胸の奥が激しく揺れた。自分は、人の好意を疑ってばかりで、杏を怒らせてしまったことも、父を探すのを諦めかけたことも――全部、ここへつながっていた気がした。
その瞬間、石原の胸の内側ではもう何もかもがひっくり返るみたいに揺れ、ずっと自分で積み上げてきた壁が一気に崩れ落ちる。
知らないうちに放った言葉が、
誰かの光になっていた。
そしてその光が、今度は彼女の手の中で大事に守られたまま戻ってきて、消えかけていた自分をもう一度あたためている。
驚きと羞恥と、それから言葉にできない高鳴りみたいなものが、胸の奥で一気に爆ぜた。
ずっと疑っていた自分が、急にひどく恥ずかしくなった。……でも違った。この好意は偶然なんかじゃない。ずっと前から、静かに続いていたものだった。
石原はしばらく黙っていた。
言いたいことは山ほどあった。謝りたかったし、礼も言いたかったし、どうしてそこまで覚えているのかも聞きたかった。
けれど、どの言葉も喉の奥で止まってしまって、一つも形にならなかった。
結局、石原は少し俯いて、ほとんど聞こえない声で言う。
「……また会えて……よかった」
緒山は一瞬きょとんとした。それから――ふっと笑った。
「先輩……そういうこと言うの、ずるいですよ」
その笑顔を見て、石原はようやく気づいた。さっきの言い方は、思っていた以上に親しげだったのかもしれない。そう気づいた瞬間、耳の奥まで一気に熱くなった。
「い、いや、その……違くて……!」
慌てて両手を振り、しどろもどろに弁解を始める。
緒山はくすくす笑いながらその様子を見ていた。石原の不器用な説明を聞き終えると、もうそれ以上からかうことはせず、ふっと静かになって窓の外へ視線を向けた。
止まったままの光の中で、その横顔はどこか見慣れないものみたいに見えた。
数秒後、彼女はもう一度こちらを向いた。笑みは少しだけ薄れていたけれど、
「先輩、私……そろそろ帰らないと」
声は明るかった。けれど、ほんの少しだけ急いでいるようにも聞こえる。
「これ以上遅いと、家族が心配しますから」
【緒山朋奈の感情:落胆24#$%@】
「……お、おう」
石原はうなずいた。だがその直後、胸の奥に小さな疑問が浮かんだ。……帰るって、どこへだ。家族が心配する? 時間、止まってるんじゃなかったか?
「じゃあ、また明日。学校で!」
緒山はすっと立ち上がり、肩にバッグを掛けた。
「……送るよ。入口まで」
「だ、大丈夫です!」
緒山はほとんど反射みたいに断ると、手をひらひら振りながら、軽い足取りで入口のほうへ下がっていった。
「家に着いたら、ちゃんと能力も解除しますから!
先輩は……そのコーヒー、ちゃんと飲み切ってくださいね!」
言い終わるころには、もう背を向けている。そのまま扉を抜けて――彼女の姿は、止まった街の中へ溶けていった。
石原はしばらくその方向を見つめていた。それから、ゆっくり席に座り直した。
目の前のカップを見ると、もう空だった。石原は思わず苦笑する。
「もう飲み終わってるって……」
さっきの出来事を思い返すと、胸の奥がじんわりと温かくなった。
「……またな、緒山さん」
小さく呟いた。




