第二十三話
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石原は一人、ボックス席に座ったままだった。胸の内には、さっきまでよりずっと確かな落ち着きが残っている。
『また会えて、よかった』
自分で言った言葉が、まだ胸の奥で響いていた。
どれくらい時間が経ったのか、自分でもわからない。
「お客様?」
店員の声で、石原は我に返った。
「ご注文はいかがなさいますか?」
顔を上げた。
店員が横に立っていた。顔にはきっちりとした営業スマイルが貼りついている。
だが、テーブルの上の空になったカップに目を落とした瞬間、
店員の動きがふっと止まり、ほんの一瞬だけ、顔に戸惑いの色がよぎった。
【店員の感情:困惑60、礼儀40】
店員は首をかしげた。
「このカップ……」
頭をかきながら、何かをうまく思い出せないような顔をした。
「すみません、お客様。
おかわり、お持ちしましょうか?」
「いえ。もう出ます」
石原は静かに答えた。
その困惑を、石原ははっきり見ていた。
――やっぱり、これが初めてじゃない。
泉方橋のときも、昨日の学校でも、同じような違和感があった。
緒山が能力を使ったあと、周りの人たちに妙なズレみたいなものが残る。
胸の奥に、はっきり言葉にできない異様さが引っかかった。
……けれど、今それ以上考えても答えは出ない。
店を出た。
夕方の風が頬を撫でた。少し冷たい。
だが、頭の中は驚くほど澄んでいた。
緒山は、胸にしまっていた記憶を打ち明けてくれた。
そして――もう一度、光をくれた。
だったら、今度は自分が動く番だ。石原の中で、何かを変えようという決意が静かに固まっていった。
……自分も、何かしなきゃいけない。
秘密を分けてくれた、あの少女のために。
自分を気にかけてくれる、生徒会の仲間のために。
そして――今朝、自分のせいで泣かせてしまった妹のためにも。
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【五月九日・木曜日・夜】
【石原家】
鍵を回す音は、ほとんど気づかれないほど小さかった。
石原が家に入ると、リビングで妹がソファに丸まって漫画を読んでいた。
物音に気づくと、杏はちらりと視線だけを上げた。それだけだった。
いつもなら「お兄ちゃんおかえり!」と飛びついてくるのに、今日はそんな様子はない。
【石原杏の感情:落ち込み60、意地40】
部屋の空気が、どこかぎこちない。
石原はすぐ自分の部屋へは行かなかった。かといって、いきなり謝ることもしなかった。
キッチンへ向かい、麦茶を二杯注いだ。
それからソファの前へ戻り、片方を妹の前のローテーブルに置いた。
「ただいま」
いつもより少し柔らかい声だった。ちらちらと妹の様子も窺っている。
「……ん」
杏はぼそっと返事をした。目はまだ漫画に落ちていたが、ページはめくられていなかった。
石原は隣に腰を下ろす。視線は向けず、ただグラスの中で揺れる水面を見つめた。
「今日さ……『泉方情』っていうカフェに行ってきた」
独り言みたいな口調だった。
「ほら、杏が中学のころさ。行きたいって騒いでたのに、俺が“高い”って言ってやめた店」
杏の肩が、わずかに動いた。
「……おいしかった?」
「うん。結構よかった」
少し間を置いてから、石原は続ける。
「今度、一緒に行こう」
そして、声を落とした。
「……ごめん、杏。
今朝は……言い方、きつかった」
「父さんを探すな」とも言わない。
「お前が悪い」とも言わない。
ただ、自分のきつい口調と苛立ちを謝った。
杏はようやく顔を上げ、補修テープだらけの漫画を横に置いて、赤くなった目で兄を睨む。
「……バカお兄ちゃん」
「うん」
素直に受け止めた。
「超バカ!」
「うんうん」
杏は鼻をすすって麦茶をつかみ、ごくごくと大きく喉を鳴らしてんでから、ドン、とテーブルに置いた。
「……私が、ちょっと現実見えてないのかもしれないけど」
杏は小さく息を吸った。
「でも……あの人みたいにはなりたくない。家族を置いていく人には……なりたくない」
声は、最後のところでかすかに震えていた。
“あの人”が誰を指しているのか、石原にはわかっていた。父のことだ。
正直、父親の行方について希望なんてもう持てていなかった。
それでも――昔と同じ考えのままではいられなくなっていた。
石原は静かに言う。
「……一緒に探すよ、杏」
「……うん」
杏は小さく頷いた。
「約束ね」
その瞬間、ぽろりと涙が落ちた。
杏は少し距離を詰めて、そっと兄の肩に額を預けた。
ほんの数秒そうしていたが、次の瞬間には、自分でもその格好が恥ずかしくなったのか、顔を真っ赤にして石原を押しのけた。
「つ、次また……あんなこと言ったら!」
腕を組んで精一杯怖い顔を作ったが、すぐに崩れる。視線を落とし、声も小さくなっていく。
「……そのときは……その……い、一日、口きかないから!」
石原は思わず笑った。
胸に乗っていた重たい石が、やっと落ちた気がした。
目の前にいるのは、怒ったふりをしている小さな猫みたいな妹。
石原は手を伸ばし、ぽん、とその頭を撫でた。
「もう言わないよ」
静かに、約束した。
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妹と話を終えたあと、石原は自分の部屋に戻った。
ベッドに仰向けになり、天井を見つめる。
脳裏をよぎるのは、緒山の最後に見せたあの笑顔だった。
それから、あの言葉。
――「ほら、空……ちゃんと落ちてきてないでしょ?」
石原はゆっくり手を上げ、左胸にそっと触れた。さっき、彼女が耳を当てた場所だった。
「ここにあるのに……こんなに、強く脈打ってるのに」
石原は小さく呟いた。
目を閉じると、ふっと笑みがこぼれた。誰にも聞こえないくらい、静かな笑いだった。
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【翌日・生徒会室】
石原が生徒会室のドアを開けると、ちょうど春野が顔を上げた。
目が合った瞬間、春野は見るからに一瞬ぽかんとした。
すぐに口元が緩み、ほっとしたように肩の力を抜いた。
【春野陽明の感情:安心75、安堵25】
――昨日、石原があんな様子で飛び出していったあと、生徒会室では残った三人で慌てて小さな話し合いが開かれていた。
「いやいや、石原絶対おかしかっただろ」
春野は頭をかきながら、困ったような顔をしていた。
「昨日までは普通だったのにさ。急にあんな……」
「きっとすごく辛いことがあったんですよ!」
立花はぎゅっと小さな拳を握ったが、すぐに肩を落とした。
「もしかして……私がスカートに着替えさせたから怒ったんでしょうか……」
「そこまでの罪じゃない」
花野は本をめくりながら、顔も上げない。
「たぶん生徒会の仕事にまだ慣れてないか、妹と喧嘩したか」
「ど、どうしましょう……!」
立花はますます慌てた。
「差し入れ持っていきます?
それとも私、先輩が好きそうな服に着替えて――」
「いや待て待て、それはやめてくれ」
春野は慌てて両手を振った。
「今は下手に構いすぎると逆効果だ。とりあえず普段通りでいこう。今まで通りでいい」
「同意……面倒」
「そこでやる気なくすのやめてくださいよ!」
だからこそ、石原の目がもう昨日みたいに荒れていないのを見て、春野はようやく本当にほっとした。
「さてと」
春野はホワイトボードを軽く叩いた。
「今週末の中等部体育祭の見学な。要するに“勉強してこい係”――まあ、実質ただの志願者だ」
部屋の中を見渡す。
「誰か志願者いるか?」
生徒会室の空気は、思ったより軽かった。
石原も自分の席に座りながら感じていた。昨日より、ずっと楽だった。
そのとき、隣から肘で軽くつつかれた。見ると、緒山だった。
目が合うと、二人は小さく笑い合った。
それを向かいから見ていた花野は、露骨に不機嫌そうな顔になると、本の角度を変え、ますます顔を上げなくなった。
春野の視線はゆっくりと部屋を一周し、最後に立花で止まった。
今日は、いかにも気合の入ったワンピースを着て、背筋もぴんと伸びている。けれど視線は落ち着かず、指先でこっそりスカートの裾をいじっていた。
石原はふと思い出した。彼女の少し変わった能力と、かつて陸上の特待生だったという話を。
中等部の体育祭。
……複雑な気持ちなのかもしれない。
昨日、自分もああやって緒山に背中を押されたことが、ふと脳裏をよぎった。
「誰かのために、何かしたい……」
そんな小さな衝動が胸の中で静かに膨らみ、気づけば手を上げていた。
「春野」
春野が振り向き、他の三人も少し意外そうに同時にこちらを見た。
「俺と、立花さんで行こう」
言葉はまっすぐで、飾り気も前置きもなく、少しぶっきらぼうですらあった。
部屋が一瞬、静まり返った。
「えっ!?」
立花は驚きのあまり勢いよく顔を上げると、自分の鼻先を指差したまま、目を見開いて固まった。
「わ、私とですか!?」
【立花美里の感情:驚愕70、困惑30】
石原はその大げさな反応に少し気まずくなりながらも、頷いて言葉を続けた。
「うん。
立花さん……アイデア多いし。
こういう行事、俺たちより詳しそうだし」
理由としてはかなり不器用で、少しも気の利いた言い方にはなっていなかった。
ただ――行きたそうなのに言い出せない顔を見てしまった。だから背中を押したかったし、自分もこの集まりのために何かしたかった。それだけだった。
立花はぽかんと口を開けたまま、石原を見つめた。頬が、ゆっくり赤くなっていく。
「せ、先輩……ほんとに……」
周囲の視線にはどこか笑いを含んだ気配があって、石原は居心地悪そうに顔をそらした。
ふと横を見ると、緒山がにやにやしながらこちらを見て、机の下でひそかに親指を立てている。
「……はは」
石原は頭をかいた。
……こういうのも、悪くない。
だが石原はまだ知らない。自分のその少し不器用な一言が、小石みたいに立花の心へ落ちて、大きな波紋を広げ、その先にある“走ること”や後悔や執着の記憶まで揺らしていくことを。




