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見える感情、見えないまま  作者: 颍川
第四章 告白——僕が見た、彼女の本当の気持ち
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第二十三話

---


石原は一人、ボックス席に座ったままだった。胸の内には、さっきまでよりずっと確かな落ち着きが残っている。


『また会えて、よかった』


自分で言った言葉が、まだ胸の奥で響いていた。


どれくらい時間が経ったのか、自分でもわからない。


「お客様?」


店員の声で、石原は我に返った。


「ご注文はいかがなさいますか?」


顔を上げた。


店員が横に立っていた。顔にはきっちりとした営業スマイルが貼りついている。


だが、テーブルの上の空になったカップに目を落とした瞬間、


店員の動きがふっと止まり、ほんの一瞬だけ、顔に戸惑いの色がよぎった。


【店員の感情:困惑60、礼儀40】


店員は首をかしげた。


「このカップ……」


頭をかきながら、何かをうまく思い出せないような顔をした。


「すみません、お客様。

 おかわり、お持ちしましょうか?」


「いえ。もう出ます」


石原は静かに答えた。


その困惑を、石原ははっきり見ていた。


――やっぱり、これが初めてじゃない。


泉方橋のときも、昨日の学校でも、同じような違和感があった。


緒山が能力を使ったあと、周りの人たちに妙なズレみたいなものが残る。


胸の奥に、はっきり言葉にできない異様さが引っかかった。


……けれど、今それ以上考えても答えは出ない。


店を出た。


夕方の風が頬を撫でた。少し冷たい。


だが、頭の中は驚くほど澄んでいた。


緒山は、胸にしまっていた記憶を打ち明けてくれた。


そして――もう一度、光をくれた。


だったら、今度は自分が動く番だ。石原の中で、何かを変えようという決意が静かに固まっていった。


……自分も、何かしなきゃいけない。


秘密を分けてくれた、あの少女のために。


自分を気にかけてくれる、生徒会の仲間のために。


そして――今朝、自分のせいで泣かせてしまった妹のためにも。


---


【五月九日・木曜日・夜】


【石原家】


鍵を回す音は、ほとんど気づかれないほど小さかった。


石原が家に入ると、リビングで妹がソファに丸まって漫画を読んでいた。


物音に気づくと、杏はちらりと視線だけを上げた。それだけだった。


いつもなら「お兄ちゃんおかえり!」と飛びついてくるのに、今日はそんな様子はない。


【石原杏の感情:落ち込み60、意地40】


部屋の空気が、どこかぎこちない。


石原はすぐ自分の部屋へは行かなかった。かといって、いきなり謝ることもしなかった。


キッチンへ向かい、麦茶を二杯注いだ。


それからソファの前へ戻り、片方を妹の前のローテーブルに置いた。


「ただいま」


いつもより少し柔らかい声だった。ちらちらと妹の様子も窺っている。


「……ん」


杏はぼそっと返事をした。目はまだ漫画に落ちていたが、ページはめくられていなかった。


石原は隣に腰を下ろす。視線は向けず、ただグラスの中で揺れる水面を見つめた。


「今日さ……『泉方情』っていうカフェに行ってきた」


独り言みたいな口調だった。


「ほら、杏が中学のころさ。行きたいって騒いでたのに、俺が“高い”って言ってやめた店」


杏の肩が、わずかに動いた。


「……おいしかった?」


「うん。結構よかった」


少し間を置いてから、石原は続ける。


「今度、一緒に行こう」


そして、声を落とした。


「……ごめん、杏。

 今朝は……言い方、きつかった」


「父さんを探すな」とも言わない。

「お前が悪い」とも言わない。


ただ、自分のきつい口調と苛立ちを謝った。


杏はようやく顔を上げ、補修テープだらけの漫画を横に置いて、赤くなった目で兄を睨む。


「……バカお兄ちゃん」


「うん」


素直に受け止めた。


「超バカ!」


「うんうん」


杏は鼻をすすって麦茶をつかみ、ごくごくと大きく喉を鳴らしてんでから、ドン、とテーブルに置いた。


「……私が、ちょっと現実見えてないのかもしれないけど」


杏は小さく息を吸った。


「でも……あの人みたいにはなりたくない。家族を置いていく人には……なりたくない」


声は、最後のところでかすかに震えていた。


“あの人”が誰を指しているのか、石原にはわかっていた。父のことだ。


正直、父親の行方について希望なんてもう持てていなかった。

それでも――昔と同じ考えのままではいられなくなっていた。


石原は静かに言う。


「……一緒に探すよ、杏」


「……うん」


杏は小さく頷いた。


「約束ね」


その瞬間、ぽろりと涙が落ちた。


杏は少し距離を詰めて、そっと兄の肩に額を預けた。


ほんの数秒そうしていたが、次の瞬間には、自分でもその格好が恥ずかしくなったのか、顔を真っ赤にして石原を押しのけた。


「つ、次また……あんなこと言ったら!」


腕を組んで精一杯怖い顔を作ったが、すぐに崩れる。視線を落とし、声も小さくなっていく。


「……そのときは……その……い、一日、口きかないから!」


石原は思わず笑った。

胸に乗っていた重たい石が、やっと落ちた気がした。


目の前にいるのは、怒ったふりをしている小さな猫みたいな妹。


石原は手を伸ばし、ぽん、とその頭を撫でた。


「もう言わないよ」


静かに、約束した。


---


妹と話を終えたあと、石原は自分の部屋に戻った。


ベッドに仰向けになり、天井を見つめる。


脳裏をよぎるのは、緒山の最後に見せたあの笑顔だった。


それから、あの言葉。


――「ほら、空……ちゃんと落ちてきてないでしょ?」


石原はゆっくり手を上げ、左胸にそっと触れた。さっき、彼女が耳を当てた場所だった。


「ここにあるのに……こんなに、強く脈打ってるのに」

石原は小さく呟いた。


目を閉じると、ふっと笑みがこぼれた。誰にも聞こえないくらい、静かな笑いだった。


---


【翌日・生徒会室】


石原が生徒会室のドアを開けると、ちょうど春野が顔を上げた。

目が合った瞬間、春野は見るからに一瞬ぽかんとした。

すぐに口元が緩み、ほっとしたように肩の力を抜いた。


【春野陽明の感情:安心75、安堵25】


――昨日、石原があんな様子で飛び出していったあと、生徒会室では残った三人で慌てて小さな話し合いが開かれていた。


「いやいや、石原絶対おかしかっただろ」


春野は頭をかきながら、困ったような顔をしていた。


「昨日までは普通だったのにさ。急にあんな……」


「きっとすごく辛いことがあったんですよ!」


立花はぎゅっと小さな拳を握ったが、すぐに肩を落とした。


「もしかして……私がスカートに着替えさせたから怒ったんでしょうか……」


「そこまでの罪じゃない」


花野は本をめくりながら、顔も上げない。


「たぶん生徒会の仕事にまだ慣れてないか、妹と喧嘩したか」


「ど、どうしましょう……!」


立花はますます慌てた。


「差し入れ持っていきます?

それとも私、先輩が好きそうな服に着替えて――」


「いや待て待て、それはやめてくれ」


春野は慌てて両手を振った。


「今は下手に構いすぎると逆効果だ。とりあえず普段通りでいこう。今まで通りでいい」


「同意……面倒」


「そこでやる気なくすのやめてくださいよ!」


だからこそ、石原の目がもう昨日みたいに荒れていないのを見て、春野はようやく本当にほっとした。


「さてと」


春野はホワイトボードを軽く叩いた。


「今週末の中等部体育祭の見学な。要するに“勉強してこい係”――まあ、実質ただの志願者だ」


部屋の中を見渡す。


「誰か志願者いるか?」


生徒会室の空気は、思ったより軽かった。


石原も自分の席に座りながら感じていた。昨日より、ずっと楽だった。


そのとき、隣から肘で軽くつつかれた。見ると、緒山だった。


目が合うと、二人は小さく笑い合った。


それを向かいから見ていた花野は、露骨に不機嫌そうな顔になると、本の角度を変え、ますます顔を上げなくなった。


春野の視線はゆっくりと部屋を一周し、最後に立花で止まった。


今日は、いかにも気合の入ったワンピースを着て、背筋もぴんと伸びている。けれど視線は落ち着かず、指先でこっそりスカートの裾をいじっていた。


石原はふと思い出した。彼女の少し変わった能力と、かつて陸上の特待生だったという話を。


中等部の体育祭。


……複雑な気持ちなのかもしれない。


昨日、自分もああやって緒山に背中を押されたことが、ふと脳裏をよぎった。


「誰かのために、何かしたい……」


そんな小さな衝動が胸の中で静かに膨らみ、気づけば手を上げていた。


「春野」


春野が振り向き、他の三人も少し意外そうに同時にこちらを見た。


「俺と、立花さんで行こう」


言葉はまっすぐで、飾り気も前置きもなく、少しぶっきらぼうですらあった。


部屋が一瞬、静まり返った。


「えっ!?」


立花は驚きのあまり勢いよく顔を上げると、自分の鼻先を指差したまま、目を見開いて固まった。


「わ、私とですか!?」


【立花美里の感情:驚愕70、困惑30】


石原はその大げさな反応に少し気まずくなりながらも、頷いて言葉を続けた。


「うん。

立花さん……アイデア多いし。

こういう行事、俺たちより詳しそうだし」


理由としてはかなり不器用で、少しも気の利いた言い方にはなっていなかった。


ただ――行きたそうなのに言い出せない顔を見てしまった。だから背中を押したかったし、自分もこの集まりのために何かしたかった。それだけだった。


立花はぽかんと口を開けたまま、石原を見つめた。頬が、ゆっくり赤くなっていく。


「せ、先輩……ほんとに……」


周囲の視線にはどこか笑いを含んだ気配があって、石原は居心地悪そうに顔をそらした。


ふと横を見ると、緒山がにやにやしながらこちらを見て、机の下でひそかに親指を立てている。


「……はは」


石原は頭をかいた。


……こういうのも、悪くない。


だが石原はまだ知らない。自分のその少し不器用な一言が、小石みたいに立花の心へ落ちて、大きな波紋を広げ、その先にある“走ること”や後悔や執着の記憶まで揺らしていくことを。

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