第十九話
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石原はドアの前に立ったまま、ドア越しに何度も声をかけた。
「杏……俺、そういうつもりで言ったんじゃない」
「杏が父さんを探したいのは分かってる。ただ……」
「ただ、これ以上つらい思いをしてほしくないだけなんだ」
言葉を重ねれば重ねるほど、話はどんどんまとまらなくなっていく。
自分でも、言い訳をしているみたいだと思った。
返ってくるのは、部屋の中からときおり漏れる押し殺したすすり泣きだけだった。
石原はドアに額をつけた。
「……ごめん」
今度は何も説明しなかった。
ただ、それだけを言った。
長い沈黙が続いた。
やがて、ドアの向こうから小さな声が返ってきた。
「……今は、一人でいたい」
石原はしばらくその場に立ったままでいたが、 ゆっくり自分の部屋へ戻った。
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石原はベッドの端に腰を下ろしたまま、部屋の灯りもつけずにいた。
さっき、杏が叫んだ言葉を思い出す。
――「もし私まで探すのやめたら、本当に誰も探さなくなるじゃん」
そのとき初めて分かった。杏は、意地になっているわけじゃない。ただ、怖かったのだ。
あの人の存在が、本当にこの世界から忘れられてしまうことが。
残るのが、写真一枚と書類の山だけになってしまうことが。
石原にも、同じように怯えていた時期があった。
母さんが本当に戻ってこないんじゃないか。
父さんが、本当に自分たちを見捨てたんじゃないか。
ずっと怖かった。
でも、いつからか――諦めることを覚えた。
杏は、まだ諦めていない。
どちらのほうが勇敢なのか、石原には分からなかった。
窓の外から、電車の警笛が遠く聞こえてくる。
石原はスマホを手に取った。
画面には、杏のアイコンが表示されている。
何か送ろうとして、でも何を打てばいいのか分からず、指が止まった。
結局、打ったのは一行だけだ。
「行ってくる」
送信して、スマホをポケットにしまい、石原は立ち上がる。
部屋を出るとき、石原は振り返って杏のドアを見た。
ドアは、まだ閉まったままだった。
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石原は、自分がどうやって学校まで来たのか覚えていなかった。
靴を履き替え、
歩いて、
改札を通り、
電車が来れば乗って、着けば降りる。
そんな動作を、まるでプログラムみたいにこなした気がする。
誰かと肩がぶつかった。
「すみません」
そう言われて、三秒遅れて――
「あ……いえ」
そんな返事をした気がする。
気づけば校門の前で、石原はそこで一度はっとした。
どうやってここまで来たのか、思い出せない。
石原はうつむいたまま、校舎へ向かった。
廊下は朝のざわめきに満ち、人の流れが絶えなかった。
生徒が横を走り抜けていく。
笑いながら話す声があちこちから聞こえてくる。
視界の端では、感情タグがちらちらと跳ねていた。
まるで、耳元を飛び回る鬱陶しい羽虫みたいに。
でも今日は、それを鬱陶しいと思う気力すらなかった。
ただ歩いて、教室の前まで来ると、ドアを開けて席に着き、そのまま机に伏せる。
腕に顔を埋めたあと、ぴくりとも動かなかった。
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春野陽明は、廊下の向こうから石原の姿を見つけていた。
うつむいて歩いている。
足取りも、いつもより遅い。
全身、どこか薄い灰がかかったみたいに沈んで見えた。
春野は職員室へ向かう途中だったが、足を止めた。
一瞬だけ迷ってから、向きを変え、石原の教室へ向かった。
教室の前まで来ると、石原はもう机に伏していて、ぴくりとも動かなかった。
春野が中へ入ろうとした、その瞬間。
視界の端に、人影が映った。
廊下の角。
見覚えのある姿だった。
石原杏だ。
そこに立ったまま、そっと教室の中をのぞいていた。
手には紙パックを握りしめている。
……朝、渡せなかったやつか?
杏は教室の中を見回し、一つ一つ席を確かめるように視線を動かした。
そして――机に伏している兄の姿に、視線が止まった。
そのまま、数秒立ち尽くした。
でも、教室には入らなかった。
杏は視線を落とすと、紙パックをポケットに押し込んだ。
そのままくるりと背を向け、立ち去ろうとする。
「杏ちゃん?」
春野が声をかけると、杏はびくっと肩を震わせた。
手に持っていた弁当箱が、危うく落ちそうになる。
……弁当も持ってきていたらしい。
「か、会長……」
声が固い。
「兄ちゃんに会いに来たのか?」
杏は首を横に振った。
春野は教室の中で机に伏している石原をちらりと見て、それから声を落として言った。
「今日は、ちょっと調子悪そうだな」
杏は何も言わなかった。
ただ、目元が少し赤くなった。
杏は弁当箱を春野に差し出す。
「……これ、お兄ちゃんに」
小さな声で、「私……先に行きます」と言った。
そう言うと、杏はくるりと背を向け、そのまま廊下を走っていった。
春野はその場に立ったまま、遠ざかる背中を見送る。
ふと、朝届いていたメッセージを思い出した。
石原からの一言。
『今日の昼、俺は休みます』
そのときは深く考えなかった。
でも――
今なら、少し分かる気がする。
春野は静かに教室へ入り、弁当を石原の机に置いた。
石原は依然として黙ったまま机に伏せっている。
春野は小さく息を吐いて、それから、何も言わず教室を出ていった。
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教室の中で、石原は机に突っ伏したまま、ぴくりとも動かなかった。
昼休みのチャイムは、とっくに鳴り終わっていた。
周りのざわめきは、水の向こうから聞こえてくるみたいにぼやけている。
目は閉じていた。それでも、視界の端では感情タグがまだちかちかと跳ねていた――【興奮】【疲労】【苛立ち】。
どれも小さな針みたいに、こめかみの奥をちくちく刺してくる。
頭の中で何度もぐるぐる回っていたのは、朝に杏が口にしたあの言葉だった。
――「お兄ちゃんに、そんなふうに心が痛くなること言われるのが怖かったんだよ」
あのとき、杏の目元は赤く、声も震えていた。
強く突き飛ばされたときの手の熱が、まだ胸のあたりに残っている気がする。
(俺はいったい、何を言って……)
石原は顔をさらに腕の中へ沈めた。
(あいつは、ただ諦めたくないだけなんだ)
(それだけなのに……俺より、ずっと勇敢だ)
謝りたい。
ちゃんと、何かを伝えたい。
でも、言葉は喉の奥で詰まっていた。
水を吸った綿みたいに重くて、鈍く沈んだまま、びくとも動かない。
(……緒山さん、今日は来てないな)
何の前触れもなく、そんなことを思った。
石原はその考えに、わずかに固まる。
それからようやく気づいた。
――自分は、緒山さんに会うことをどこかで期待していたらしい。
あの生徒会室で、いつものようににこにこ笑いながら近づいてきて。
よく分からないことを言って。
しかも、いつの間にかのどうにも調子を狂わされるやり方で、沈んだ気分の底から引っ張り上げてしまう。
でも、今日は緒山さんが来ていない。
昨日、ふとした拍子に見せた青白い顔。
それなのに、やけに明るすぎる笑顔。
(……大丈夫なのか)
そう思った瞬間、石原はすぐその考えを振り払った。
(妹のことさえまともに向き合えてないくせに、何を他人の心配なんかしてるんだよ)
唇がわずかに歪んだ。
顔を、さらに机へ押しつけた。
窓の外の陽射しが、ひどくまぶしかった。




