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見える感情、見えないまま  作者: 颍川
第四章 告白——僕が見た、彼女の本当の気持ち
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第十九話

---


石原はドアの前に立ったまま、ドア越しに何度も声をかけた。


「杏……俺、そういうつもりで言ったんじゃない」


「杏が父さんを探したいのは分かってる。ただ……」


「ただ、これ以上つらい思いをしてほしくないだけなんだ」


言葉を重ねれば重ねるほど、話はどんどんまとまらなくなっていく。

自分でも、言い訳をしているみたいだと思った。


返ってくるのは、部屋の中からときおり漏れる押し殺したすすり泣きだけだった。


石原はドアに額をつけた。


「……ごめん」


今度は何も説明しなかった。

ただ、それだけを言った。


長い沈黙が続いた。


やがて、ドアの向こうから小さな声が返ってきた。


「……今は、一人でいたい」


石原はしばらくその場に立ったままでいたが、 ゆっくり自分の部屋へ戻った。


---


石原はベッドの端に腰を下ろしたまま、部屋の灯りもつけずにいた。


さっき、杏が叫んだ言葉を思い出す。


――「もし私まで探すのやめたら、本当に誰も探さなくなるじゃん」


そのとき初めて分かった。杏は、意地になっているわけじゃない。ただ、怖かったのだ。


あの人の存在が、本当にこの世界から忘れられてしまうことが。

残るのが、写真一枚と書類の山だけになってしまうことが。


石原にも、同じように怯えていた時期があった。


母さんが本当に戻ってこないんじゃないか。

父さんが、本当に自分たちを見捨てたんじゃないか。


ずっと怖かった。


でも、いつからか――諦めることを覚えた。


杏は、まだ諦めていない。


どちらのほうが勇敢なのか、石原には分からなかった。


窓の外から、電車の警笛が遠く聞こえてくる。


石原はスマホを手に取った。

画面には、杏のアイコンが表示されている。


何か送ろうとして、でも何を打てばいいのか分からず、指が止まった。


結局、打ったのは一行だけだ。


「行ってくる」


送信して、スマホをポケットにしまい、石原は立ち上がる。


部屋を出るとき、石原は振り返って杏のドアを見た。


ドアは、まだ閉まったままだった。


---


石原は、自分がどうやって学校まで来たのか覚えていなかった。


靴を履き替え、

歩いて、

改札を通り、

電車が来れば乗って、着けば降りる。


そんな動作を、まるでプログラムみたいにこなした気がする。


誰かと肩がぶつかった。


「すみません」


そう言われて、三秒遅れて――


「あ……いえ」


そんな返事をした気がする。


気づけば校門の前で、石原はそこで一度はっとした。


どうやってここまで来たのか、思い出せない。


石原はうつむいたまま、校舎へ向かった。


廊下は朝のざわめきに満ち、人の流れが絶えなかった。

生徒が横を走り抜けていく。

笑いながら話す声があちこちから聞こえてくる。


視界の端では、感情タグがちらちらと跳ねていた。

まるで、耳元を飛び回る鬱陶しい羽虫みたいに。


でも今日は、それを鬱陶しいと思う気力すらなかった。


ただ歩いて、教室の前まで来ると、ドアを開けて席に着き、そのまま机に伏せる。


腕に顔を埋めたあと、ぴくりとも動かなかった。


---


春野陽明は、廊下の向こうから石原の姿を見つけていた。


うつむいて歩いている。

足取りも、いつもより遅い。


全身、どこか薄い灰がかかったみたいに沈んで見えた。


春野は職員室へ向かう途中だったが、足を止めた。


一瞬だけ迷ってから、向きを変え、石原の教室へ向かった。


教室の前まで来ると、石原はもう机に伏していて、ぴくりとも動かなかった。


春野が中へ入ろうとした、その瞬間。


視界の端に、人影が映った。


廊下の角。

見覚えのある姿だった。


石原杏だ。


そこに立ったまま、そっと教室の中をのぞいていた。

手には紙パックを握りしめている。


……朝、渡せなかったやつか?


杏は教室の中を見回し、一つ一つ席を確かめるように視線を動かした。


そして――机に伏している兄の姿に、視線が止まった。


そのまま、数秒立ち尽くした。


でも、教室には入らなかった。


杏は視線を落とすと、紙パックをポケットに押し込んだ。

そのままくるりと背を向け、立ち去ろうとする。


「杏ちゃん?」


春野が声をかけると、杏はびくっと肩を震わせた。

手に持っていた弁当箱が、危うく落ちそうになる。


……弁当も持ってきていたらしい。


「か、会長……」


声が固い。


「兄ちゃんに会いに来たのか?」


杏は首を横に振った。


春野は教室の中で机に伏している石原をちらりと見て、それから声を落として言った。


「今日は、ちょっと調子悪そうだな」


杏は何も言わなかった。

ただ、目元が少し赤くなった。


杏は弁当箱を春野に差し出す。


「……これ、お兄ちゃんに」


小さな声で、「私……先に行きます」と言った。


そう言うと、杏はくるりと背を向け、そのまま廊下を走っていった。


春野はその場に立ったまま、遠ざかる背中を見送る。


ふと、朝届いていたメッセージを思い出した。


石原からの一言。


『今日の昼、俺は休みます』


そのときは深く考えなかった。


でも――


今なら、少し分かる気がする。


春野は静かに教室へ入り、弁当を石原の机に置いた。

石原は依然として黙ったまま机に伏せっている。


春野は小さく息を吐いて、それから、何も言わず教室を出ていった。


---


教室の中で、石原は机に突っ伏したまま、ぴくりとも動かなかった。


昼休みのチャイムは、とっくに鳴り終わっていた。

周りのざわめきは、水の向こうから聞こえてくるみたいにぼやけている。

目は閉じていた。それでも、視界の端では感情タグがまだちかちかと跳ねていた――【興奮】【疲労】【苛立ち】。

どれも小さな針みたいに、こめかみの奥をちくちく刺してくる。


頭の中で何度もぐるぐる回っていたのは、朝に杏が口にしたあの言葉だった。


――「お兄ちゃんに、そんなふうに心が痛くなること言われるのが怖かったんだよ」


あのとき、杏の目元は赤く、声も震えていた。

強く突き飛ばされたときの手の熱が、まだ胸のあたりに残っている気がする。


(俺はいったい、何を言って……)


石原は顔をさらに腕の中へ沈めた。


(あいつは、ただ諦めたくないだけなんだ)

(それだけなのに……俺より、ずっと勇敢だ)


謝りたい。

ちゃんと、何かを伝えたい。


でも、言葉は喉の奥で詰まっていた。

水を吸った綿みたいに重くて、鈍く沈んだまま、びくとも動かない。


(……緒山さん、今日は来てないな)


何の前触れもなく、そんなことを思った。


石原はその考えに、わずかに固まる。

それからようやく気づいた。


――自分は、緒山さんに会うことをどこかで期待していたらしい。


あの生徒会室で、いつものようににこにこ笑いながら近づいてきて。

よく分からないことを言って。

しかも、いつの間にかのどうにも調子を狂わされるやり方で、沈んだ気分の底から引っ張り上げてしまう。


でも、今日は緒山さんが来ていない。


昨日、ふとした拍子に見せた青白い顔。

それなのに、やけに明るすぎる笑顔。


(……大丈夫なのか)


そう思った瞬間、石原はすぐその考えを振り払った。


(妹のことさえまともに向き合えてないくせに、何を他人の心配なんかしてるんだよ)


唇がわずかに歪んだ。

顔を、さらに机へ押しつけた。


窓の外の陽射しが、ひどくまぶしかった。

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