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見える感情、見えないまま  作者: 颍川
第四章 告白——僕が見た、彼女の本当の気持ち
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第十八話

---


【五月八日・水曜日・夜】


杏は、そっと足音を忍ばせながら兄の部屋の前まで歩いていき、ドアにぴたりと耳を当てた。


部屋の向こうから、笑い声の混じった兄の声が聞こえてくる。


「……緒山さん、いやそれはさすがに言い方があるだろ」


続いて、弾んだ女の声が返ってくる。


「えー、だって先輩だって……」


電話越しに聞こえてくる二人のやり取りを耳にしているうちに、杏の口元は自然とゆるんでいった。


「もう……ばかなお兄ちゃん。思ったより進展早いじゃん……」


けれど、兄のことを思って浮かんだその嬉しさは、ほんの一瞬で消えた。


笑みはゆっくりと消えていき、代わりに、言葉にしづらい複雑な不安が胸の奥にじわりと広がっていくのが分かる。


杏はゆっくりと自分の部屋へ戻り、そっとドアを閉めた。


カチッと音をさせて、デスクライトを点けた。


机の上には、あの茶封筒のファイルがまだ開いたままになっていた。


両親の古い写真に、施設からの訪問記録、それから自分でネットで調べて印刷した「行方不明者を探すための手引き」のページ――どれも机の上に広げられたままで、まるで片づけきれない古いものがそのまま積み残されているみたいだった。


杏は椅子に腰を下ろし、その写真をじっと見つめていた。


写真の中では、両親が笑っている。


その真ん中に立っているのは、まだ小さかった頃の自分と兄だった。


数か月前、兄は毎日帰ってきてもほとんど何も話さず、そのまま自分の部屋に閉じこもっていた頃のことを、杏は思い出した。


最近は少し違ってきていた。帰ってきたときの眉間のしわも前ほど深くはなく、夕飯のときには、自分から学校のことをぽつぽつ話すことさえあった。


そして、ついさっきドアに耳を当てて聞いた、あの笑い声のことも。


ほんのかすかなものだったけれど、杏にはちゃんと聞こえた。


(やっと……昔みたいに笑えるようになってきたのに)


杏はスマホを取り出し、「施設の田中さん」とのやり取りを開いた。


上へスクロールしていくと、並んでいるのはほとんど全部、杏から送ったメッセージばかりだった。


「田中さん、この前おっしゃっていた新しい手がかりのこと、もう少し詳しく教えてもらえませんか?」


「その住所、調べられましたか?」


「もう一度だけでも、聞いてもらえませんか……」


相手の返事はいつも丁寧だった。けれど、これといった進展は何もなかった。


杏はもう、何度も何度も尋ねてきた。


そして、杏は思い出す。以前、兄にこのことを切り出した時、兄は長いこと黙り込んで、たった一言だけ言ったのを。


「……もう、探すのはやめろ」


声はひどく静かだった。けれど、その奥にある疲れを杏は聞き取ってしまった。たぶん――失望も。


杏は、兄に怒られること自体は怖くなかった。


怖かったのは、「探すのはやめろ」と言われることのほうだった。


(……どうやって切り出せばいいんだろう)


杏はファイルを閉じ、デスクライトを消した。


暗闇の中、杏はベッドに横になって、天井をぼんやり見つめる。


隣の部屋からは、まだ兄が電話している声がかすかに聞こえてきた。抑えた声ではあったけれど、それでも時折まじる笑い声だけは、ちゃんと耳に届いてくる。


杏は寝返りを打ち、顔を枕に埋めた。


窓の外では、月明かりだけが静かだ。


杏は、何も言わなかった。


---


【五月九日・木曜日・朝】


昨日の生徒会の空気がよほど心を緩めてくれたのか、石原は久しぶりにぐっすり眠れた。


目を覚ますと、部屋にはもう朝日がたっぷり差し込んでいる。数秒ぼんやりしてから、ようやく気づいた。


――今日は杏が起こしに来なかった。


(もうこんな時間か……緒山さん、待たせすぎてないか?)


石原はスマホを手に取る。画面には、少し前に届いていた緒山さんからのメッセージが表示されていた。


「生徒会で急ぎの用事ができちゃって、先に行くね! 先輩、遅刻しないでよ〜!」


以前なら、こうして一人で迎える朝にほっとしたはずだった。

けれど今は――胸の奥を、かすかな物足りなさがよぎる。


……いや。


その感情はすぐに、強い羞恥に押し流された。


(お、俺は……何を期待してるんだ!?)


石原はぶんぶんと頭を振った。

浮かびかけた妙な感情を、無理やり追い払うように。


身支度を整えて部屋を出ると、家の中がやけに静かだった。


「杏?」


返事はない。


首をかしげたそのとき、玄関のドアが開く音がした。


振り向くと、杏が慌てた様子で家に駆け込んできた。

その腕には、茶封筒がぎゅっと抱え込まれている。


「お兄ちゃん、起きてたの!? は、早く朝ごはん食べて!」


声が少し上ずっているし、視線もどこか落ち着かず、泳いでいた。


【石原杏の感情:慌て51、取り繕い29、疲労20】


石原の視線は、その茶封筒に向けられた。


「こんな朝早く出てたのって、それを取りに行ってたからか?」


杏は反射的に、その茶封筒を背中へ隠した。


声も自然と小さくなる。


「……うん」


「……それ、何なんだ?」


杏はうつむいたまま、口を開きかけて――やめた。


【石原杏の感情:迷い47、恐れ53】


石原は妹の様子がおかしいことに気づいた。


少しかがみ込み、そっと杏の頭に手を置く。軽く撫でながら、やわらかく笑って言った。


「そんなに隠すようなものなのか、杏」


杏はしばらく黙っていたが、やがて、ようやく小さな声で答える。


「……施設の田中さんが、月に一度の訪問で来てて」


その言葉を聞いた瞬間、石原の胸はすっと冷えた。


「……それで?」


杏は答えなかった。


代わりに、ぎゅっと首を横に振った。


その瞬間、杏の目の縁がみるみる赤くなる。


「……っ」


次の瞬間、杏は石原の胸に飛び込んできた。

小さな肩が、泣くのをこらえきれないようにかすかに震えている。


石原は妹を強く抱きしめた。


胸の奥が重く詰まる。


――そんなことは、誰よりも分かっている。


茶封筒に入っているのが、いつだって同じ言葉だということを。


――連絡不能。


---


何年もの間、施設からの定期的な連絡と、判で押したような「連絡不能」の報告が、とうの昔に石原の希望を消し去っていた。


石原の中では、父親についての結論はもう出ている。


――家族を捨てて逃げた臆病者。


だから探し続けることは、ただ自分を傷つけるだけだ。

石原はそう思っていた。


けれど、妹の杏は違ったのだ。


どれほどかすかな希望でも、杏はまだ捨てきれずにいた。

父親を見つけたい。

壊れた家族が、いつかまた元に戻る日を夢見て――。


この根本的な違いが、兄妹のあいだに見えない壁を作っていた。


石原は、食卓の上に置かれた茶封筒を見つめた。

そして、ゆっくり息を吸った。


頭の中に、いくつもの光景がよぎる。


母親が家を出ていった日のこと。

冷蔵庫の扉に、びっしり貼られていたメモ。


父親が最後に向けてきた、あの視線。

空っぽで、疲れ切っていて。

まるで魂が抜けたみたいな目だった。


施設から毎月きまってかかってきた電話。

告げられる言葉は、いつも同じだった。


「連絡不能」。


電話を切ったあと、杏はいつも目元を赤くしたまま、それでも笑って言うのだ。


「大丈夫だよ、お兄ちゃん」


いくつもの記憶が重なり、胸を押し潰す。


息が詰まった。


「杏……なんで、またこんなこと調べてるんだ」


なるべく感情を抑えて言ったつもりだった。

けれど、声には苛立ちがにじんでいた。


杏は視線を落としたまま、小さく答えた。


「……前の手がかり、ちょっと整理してただけ」


「昨日、また夜更かししただろ」


杏の目の下には、うっすらと隈ができていた。

それを見た瞬間、石原の胸の奥で何かが一気にせり上がった。


やるせなさと、どうしようもない無力感。

二つが混ざり合い――


思わず、口から言葉が飛び出した。


「あんな人のために、自分をすり減らすなよ……」


言った瞬間――

しまった、と思った。


杏が、はっと顔を上げる。


その目を見た瞬間、石原の胸がぎくりとした。

彼女の目の奥で、何かが――

音もなく砕けた気がした。


「あんな人……?」


声が震えていた。


「お兄ちゃん、私が好きでこんなことしてると思う?」


「何度も何度も、『連絡不能』って聞かされるのが……

平気だと思う?」


杏は立ち上がった。


拳をぎゅっと握りしめる。


「でも……でも、もし私まで探すのやめたら……」


その言葉を叫んだとき、杏の目の縁は真っ赤になっていた。


「本当に、誰も探さなくなるじゃん……!」


石原は口を開いた。


何か言わなきゃ、と思った。


でも――


言葉が出ない。


喉の奥で、全部引っかかってしまう。


「……やっぱり」


杏の声は、もう涙で震えていた。


「お兄ちゃん、絶対そう言うと思った。だから……施設の田中さんから電話が来ても……言えなかったんだよ」


「杏、俺は――」


「――お兄ちゃんに、そんなふうに心が痛くなること言われるのが怖かったんだよ!」


杏は石原を強く押しのけた。


そのまま振り返りもせず、自分の部屋へ駆けていった。


バン――!


ドアが閉まる音。


続いて、鍵のかかる音が響いた。


石原はその場に立ち尽くす。


まるで――


あのドアの音で、思いきり頬を叩かれたみたいに。

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