第十七話
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夕陽が傾き、放課後の校内が少しずつ静かになっていくころだった。
花野はそのまま稽古へ向かい、残った生徒会の面々はそろって校門を出た。
「えっ、私だけこっちなの!?」
分かれ道の前で、立花が情けない声を上げた。
「気をつけて帰ってね、美里ちゃん」
緒山が笑って手を振った。
「じゃあな」
「また明日」
石原と春野も声をかける。
「わかってるってば!」
立花は頬を膨らませながらも、すぐにいつもの明るい顔に戻ると、そのまま元気よく駆けていった。
スカートが軽やかに弧を描く。
残った三人は並んで駅へ向かった。
電車に乗り込んで少ししたところで、春野が隣の石原に声をかけてきた。
「初日の“本番”はどうだった? 俺たちみたいな変人集団に、引かなかったか?」
春野はどこか面白がるように笑った。
「……まあ、大丈夫です」
石原は少しだけ間を置いてから、続けた。
「思ってたより、ずっと良かった」
「“ずっと良かった”だけ?」
緒山がすぐ横から顔を寄せてきた。わざとらしく肩を落とし、今にも泣きそうな顔をしてみせる。
「私たち、十二分に熱意も誠意も出して、先輩に“ここのみんな超楽しくて超あったかいから、ぜひ入ってください〜!”って空気を全力で伝えようとしてたのに……」
「それで『ずっと良かった』だけなんですか? うう、会長、これ失敗っぽいですよ……」
「おいおい、巻き込むな」
春野は苦笑しながらも、目だけは面白がるように細めている。
そんな二人の掛け合いに、石原もとうとう観念したように口を開いた。
「……最高だったよ。夢みたいだった。いや、夢の中で思い描くより、ずっといい場所だった。最高すぎた」
まるで吐き出すように、一気に言い切っていた。
言い終えた瞬間、自分でもひどく気恥ずかしくなって、石原は顔をそむけた。
ほんの一瞬、沈黙が落ちた。
そして次の瞬間、春野と緒山が同時に笑い出した。
それはからかいじゃなく、心から嬉しそうな笑いだ。
「石原からそんなに素直な感想が聞けるなら、今日一日だけで十分元が取れたな」
春野が肩を軽く叩く。
横で緒山が目を細めた。夕陽に照らされたその笑顔は、やけにやわらかく見える。
「先輩って……やっぱり可愛いですね」
そんなふうに言い合っているうちに、電車が駅に着いた。
春野は先に降りるらしい。
「じゃあ、また明日な。二人とも」
軽く手を振ると、そのまま人混みの中へ紛れていった。
やがていつもの最寄り駅に着いて降りると、夕方の風がひんやりと頬を撫で、さっきまで車内に満ちていた喧騒も、どこか遠くへ退いていくように思えた。
「先輩」
緒山が静かに呼びかけた。
「ん?」
振り向くと、緒山はやわらかく笑いながらまっすぐこちらを見ていた。
「……生徒会へ、ようこそ」
短い一言だったのに、その重みははっきり伝わってくる。
その笑顔を見た瞬間、石原にはもう“感情タグ”なんて必要なかった。
この瞬間の緒山の気持ちだけは、タグなんてなくてもちゃんとわかった。
そこに満ちていたまっすぐな喜びは、驚くほどはっきりと石原に伝わった。
……息を忘れそうになるほどに。
「……ありがとう」
結局口から出たのは、その言葉だけだった。少し不器用な響きだったが、その意味を自分ではちゃんとわかっている。
ふと顔を見合わせて、二人は自然に笑い合った。
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夕食の時間。
石原はどこか上の空だった。
箸は動いているのに、意識だけがまるで別の場所にあった。
今日のことが、頭の中で何度も再生されていた。
生徒会室に漂っていたコーヒーの香り。
春野の苦笑い。
頬をぷくっと膨らませたかと思えば、すぐに機嫌を直す立花。
花野の、そっけない顔をしたまま的確に背中を押してくるような一言。
そして――緒山の笑顔。
あのときの気持ちは、もうタグなんてなくてもわかる気がした。
「お兄ちゃーん! お兄ちゃん!」
遠くから飛んできた声が、だんだん近づいてきて、ようやく石原を回想から引き戻した。
「ん?どうした?」
「さっきから何回呼んでると思ってるの!」
杏は頬を膨らませ、箸を持ったままぷんぷんと怒ってみせた。
「帰ってきてからずっとぼーっとしてるし、ご飯食べてる間も上の空だし……」
杏はじっと石原を見つめてきた。
「今日、生徒会で何か特別なことでもあったの?」
相変わらず、変なところで鋭い。
石原は軽く咳払いした。
「別に。仕事を教えてもらってただけだ」
「ふーん?」
杏がわざとらしく声を伸ばした。
「でもさ、聞いたよ?」
目をきらりとさせて笑った。
「お兄ちゃん、朋奈さんと一緒だったんでしょ? しかも、一日ずーっと」
情報が早すぎる。これはもう、ごまかしきれそうにない。
石原は観念した。
「……ああ。誘ってくれたのは緒山さんだし、今日もいろいろ案内してもらった」
「へえ――」
杏は意味ありげにうなずくと、ふっと身を乗り出して声をひそめた。
まるで重大な秘密でも打ち明けるみたいな顔で。
「ねえ、お兄ちゃん。……朋奈さんのLINE、欲しい?」
ほとんど反射だった。
「欲しい」
言った瞬間、杏の顔がぱっと明るくなった。
「やっぱり!」と「捕まえた!」が一緒に弾けたみたいな、満面の笑みだった。
「やっぱりね!」
杏がばんっとテーブルを叩いた。もちろん、皿や茶碗はきっちり避けている。
「今日のお兄ちゃんが変だったの、絶対それじゃん!仕事教えてもらってただけ〜とか言ってたけど、どうせ朋奈さんのこと考えてたんでしょ!顔まで赤かったし!」
「杏!」
耳の奥が熱くなって、石原は慌てて言い返した。
「違う。俺はただ……その……生徒会の仲間と連絡を取る必要があるだけだ」
「仲間〜」
杏は石原の口調を真似するように笑って、いたずらっぽく目を細めた。
「どこのお仲間のこと考えてたら、妹が呼んでも聞こえなくなるの? それにさ、真汐ちゃんも美里ちゃんも“仲間”だよね?」
「なんでその人たちのLINEは、そんなふうに欲しがらないの?」
……完璧な論理だった。反論できない。
石原は肩を落として箸を置き、目の前の小悪魔みたいに小賢しい妹を見た。
「ふん!」
杏は近くのクッションを抱き上げて立ち上がると、わざと大きな声で言った。
「図書委員の私だって、お兄ちゃんのこと何回も誘ったのに! 一回も来てくれなかったのに!」
杏はぷくっと頬を膨らませた。
「なのに朋奈さんに誘われたらすぐ行くんだもん! もう知らない! お兄ちゃんなんてばか!」
クッションを抱えたまま、杏はばたばたと足音を立てて走っていき、そのまま自分の部屋へ駆け込んだ。
バタン、と勢いよくドアは閉まったが、鍵はかかっていなかった。
石原はその閉まったドアを見て、思わず額を押さえながらふっと笑う。
ゆっくりドアへ近づき、軽くノックした。
「おい、杏」
中から、わざと怒ったふりをした、くぐもった声が返ってきた。
「なに! ばかお兄ちゃんは話しかけないで!」
「ほら、拗ねるなって」
石原はドアにもたれた。
声を少しだけ柔らかくして、
「……ちゃんと理由があるんだよ。生徒会のほうは……ちょっと特別でさ」
部屋の向こうが、数秒しんと静かになった。
それから、声が少しだけ小さくなる。
さっきまでのわざとらしい怒りはどこかへ消えていて、残っていたのは少しだけ不器用な心配だった。
「……朋奈さん、いい人なのは知ってるし。お兄ちゃんが信じられるって思うなら……私は別に反対しないけど」
その声は早口で、小さくて、どこか照れくさそうだった。
「それに……」
少し間を置いてから、
「お兄ちゃんの世界が、少し広がるなら、いろんな人と関われるならさ……その方がいいし」
胸の奥が、ふっと温かくなった。
石原が何か言おうとした、そのとき――
ドアの隙間から、きちんと折りたたまれた一枚の紙がすっと滑り出てきた。
石原はそれを拾い上げて、そっと開いた。
きれいな字で、いくつかの名前と対応するLINE IDが並んでいた。
一番上には――「緒山朋奈」。
その下には、「立花美里」と「花野真汐」。
そして一番下には――
丸みのある可愛らしい字で小さな追記があり、横には怒った顔の落書きまで添えられていた。
『P.S.
お兄ちゃんのばーかばーか!
(`へ´)ノ』
石原は思わず笑ってしまった。
部屋の中で杏が「お兄ちゃんばか」とぶつぶつ言いながらも、ちゃんと真面目に連絡先を書き写して、最後にこれを付け足している姿が、ありありと目に浮かんだ。
胸が、じんわり温かくなる。
「ありがとな、杏」
ドア越しに、静かに言った。
中から、聞き取れるかどうかも怪しいくらい小さな声で、「……ふん」とだけ返ってきた。
それきりで、あとは物を片づけるようなかさかさした音だけが、かすかに聞こえてきた。
石原は、杏の部屋の淡い匂いがまだわずかに残っている気のする紙を握ったまま、リビングへ戻る。
窓の外はもうすっかり夜だったが、部屋の灯りはやわらかく、あたたかかった。
スマホを取り出し、紙のいちばん上にある「緒山朋奈」の名前と、その横のIDに目を落とした。
そのIDを見つめたまま、ほんの少しだけ迷う。
……けれど、指はゆっくりと動いた。
検索して、そのまま友だち追加する。
「……新しい生活、ほんとに始まったんだな」
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深夜。
杏は廊下に立ったまま、石原のドアを見つめていた。
しばらく、そのまま立ち尽くしていた。
それから、ふっと小さく息をつくと、くるりと踵を返して自分の部屋へ戻る。
デスクライトをつけると、机の引き出しを開けて、クラフト紙のファイルを取り出した。
それをそっと開く。
中には書類の束が入っていた。表紙や見出しには、「尋ね人」や「失踪者調査進捗」といった文字が並んでいる。
一番上にあったのは、両親が写った古い写真だ。
杏はそれを、しばらくのあいだじっと見つめていた。
写真の中の二人は、笑っていた。
杏は、笑っていなかった。
やがて静かにファイルを閉じ、そのまま引き出しへ戻す。
デスクライトを消した瞬間、部屋は暗闇に沈む。
その闇の中で、小さなため息がひとつだけ漏れた。




