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見える感情、見えないまま  作者: 颍川
第三章 新しい生活——彼女たちが見えない世界
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第十六話

---


小さなひと騒動が収まったあと、春野はどうにか立ち直っていた――もっとも、頭の上には「八百字の振り返りレポート」という暗雲が、まだしっかり居座っていたけれど。


その春野が、トレーを持ってこちらへ歩いてきた。

トレーの上には淹れたてのコーヒーが数杯並んでいて、ふわりと香りが広がった。


「ほら、差し入れ」


カップが机に触れて小さな音を立てた。その音が、まるで合図みたいだった。


立花が雑誌の陰からひょいと顔を出し、緒山はスマホを置き、花野でさえちらりと目を上げた。


「わあ! 会長特製ブレンド!」


立花の目がぱっと輝いた。


「可愛いお嬢さんのためなら、いくらでもどうぞ」


春野はわざとらしく、紳士ぶって一礼した。


「むっ! また人をちっちゃい子扱いして!」


頬を膨らませながらも、カップはちゃんと受け取っている。


立花のカップは小ぶりで、表面にはうさぎのイラストが入っていた。今日の妙に手の込んだ装いとは、なんとも不思議な対比になっている。


花野も一杯受け取った。

ひと口だけ含み、そのまま二秒ほど黙る。


「……まあ、悪くない」


「……最高評価ってことで受け取っとくよ」


春野が苦笑した。


立花の後ろを回って、次の一杯を石原の前に置いた。

そして緒山の番になったところで、春野の手が少し止まる。


緒山の前には、すでに自分の保温ボトルが置かれていて、そこから麦茶の香りがほのかに立っていた。


「あ、私は大丈夫です」


そう言って、笑いながらボトルを軽く揺らした。


「夜、眠れなくなっちゃうから」


石原はそのボトルをちらりと見やった。


「先輩?」


緒山は小さく首をかしげ、目元をふわりと弧にする。


「何ぼーっとしてるんですか?」


「……いや、なんでもない」


視線を外し、コーヒーをひと口飲んだ。

少し苦かったが、飲めないほどではない。


生徒会室は、少し静かになった。


コーヒーの香りがゆっくりと空気に溶け、窓から差し込む夕陽と混ざり合って、部屋全体をやわらかな橙色に染めていた。


立花はカップを両手で包み、小さく口をつけながら、ちらりと石原のほうを見た。


石原がその視線に気づいて顔を上げると、立花はあわててカップに顔を埋めた。


数秒して、立花はまたちらりとこちらを見た。


石原がもう一度顔を上げると、立花はまたカップに顔を埋める。


三度目になって、さすがの石原も口を開いた。


「……俺の顔、何かついてる?」


「けほっ、げほっ、ごほっ――!」


立花は派手にむせ、口を押さえて咳き込みながら、顔を真っ赤にした。


「な、ないです! だ、誰が先輩なんか見て――!」


【立花美里の感情:パニック72#@¥%】


石原は一瞬固まった。


……何かまずいこと言ったか?


「美里ちゃんってね〜」


横から緒山が口を挟んできた。語尾をわざと伸ばしながら、目元は楽しそうに三日月みたいに細まっている。


「先輩ともっとお話ししたいのに、ちょっと照れちゃってるんですよ〜」


「ち、違います!」


それ以上は言わず、立花はまたカップへ顔を沈めた。

カップの向こうから覗いている耳は真っ赤だ。


石原はその赤い耳を見て、どう反応していいのかわからなくなった。


「統計上、」


部屋の隅から、平坦な声が飛んできた。


花野は顔も上げず、本をめくる手も止めないまま言う。


「コーヒーでむせる確率と発話頻度には、正の相関がある。立花。今日は平時より発話量が二十七パーセント増加している」


「真汐ちゃん、なんでも記録しないでください!」


「サンプルには沈黙の権利がある。ただし、発言した内容はすべてデータになる」


立花は口を開きかけて、すぐに閉じた。

その顔には、「反論できない」とはっきり書いてある。


春野が横で吹き出した。


石原もそのやり取りを見て、つられるように小さく笑った。


石原は思わず、みんなの感情タグへ目を向けた。


【愉快71】【安堵64】【平静82】【好#@¥%】……


数字は穏やかに揺れている。もう、棘みたいには感じない。むしろ、呼吸みたいに自然だった。


石原は視線を落とし、もうひと口コーヒーを含んだ。


コーヒーの香りと夕陽のぬくもりが、生徒会室の中をゆっくりと満たしていく。

椅子に座る者もいれば、立ったまま机にもたれる者もいる。

それぞれがカップを手に、とりとめのない話を交わしていた。


ときおり、軽い笑い声が弾けた。


温かいカップを両手で包みながら、石原はその光景を眺める。


胸の奥に、じんわりと温かいものが満ちていった。

それはコーヒーの苦みよりも、ずっとはっきりした現実感を伴っていた。


――人って、こんなふうに関わることもできるんだな。


その気づきは、コーヒーのぬくもりと部屋に満ちた笑い声を伴ったまま、静かに胸の奥へ沈んでいった。


長いあいだ胸の底に居座っていた疑いと冷たさが、少しずつ薄れていく。


石原はふと顔を上げ、視線を部屋の中へ巡らせた。


最後に視線が止まったのは――緒山だった。


緒山は麦茶を小さくすすっていて、こちらの視線に気づいたらしかった。

顔を上げた緒山と、まっすぐ目が合った。


緒山はわずかに首をかしげ、それから――やわらかな笑みを静かに浮かべた。

そこにあったのは、ただまっすぐで混じり気のない安心感だった。


夕陽が窓から差し込み、その瞳の奥で細かな光がやわらかく揺れていた。


「先輩、思ったよりここに馴染んでますね」


声は控えめだったのに、周囲の談笑の中でも不思議なくらいはっきり届いた。


その言葉は、やさしい確認のように聞こえた。今日一日の変化を、ちゃんと見ていたのだと伝えるみたいに。


――ほら。少し外へ踏み出してみても、そんなに悪くなかったでしょう?


そんな意味まで含んでいる気がした。


胸の奥が、あたたかいのに少しだけ痛むようにきゅっと締まった。


石原は口を開く。

けれど結局出たのは、ぎこちないくせにどこか真面目な一言だけだった。


「……うん。ありがとう」


誘ってくれたことも、あきらめずにいてくれたことも、そしてここを少しだけ安心していられる場所にしてくれたことも――本当はそう言いたかった。けれど、その言葉は胸の内にしまっておいた。


緒山は笑みを少しだけ深めたが、何も言わなかった。

そして、また静かにカップを持ち上げる。


その無言の理解と肯定は、部屋の空気にゆっくりと広がっていった。


忙しくて、騒がしくて、少し混乱もした。それでも、ひどく満ち足りた一日目だった。


そしてその一日は、穏やかな句点を打つように静かに終わった。

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