第一百四十六話
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帰り道、桜並木は少しずつ後ろへ遠ざかっていった。
二人は並んで歩きながら、とりとめのない話をしていた。
昨日、立花がまた変なスタンプをグループに投げてきたこと。杏が最近ハマっているアニメのこと。春野から「大学の学食、思ったより美味かった」とメッセージが来たこと。
――本当に、どうでもいい話ばかりだ。
けれど話しているうちに、石原の声が少しずつ小さくなっていった。
緒山は横目で彼を見た。
石原は隣を歩いたまま、まっすぐ前を向いていた。
表情はいつも通り。けれど、頬と耳だけが妙に赤かった。
緒山は小さく瞬きをした。何も言わず、そのまま歩き続ける。
やがて緒山の家が近づいてくると、石原の足取りが少し遅くなった。
彼女が鍵を取り出して振り返ると、石原は二歩ほど離れた場所に立っていた。
帰るわけでもなく、かといってついてくるわけでもない。何度か口を開きかけては、結局閉じていた。
「久希?」
「……いや、別に」
石原は視線を逸らし、地面を見た。
緒山は首を傾げる。
真っ赤になった耳の先が、あまりにも分かりやすかった。
思わず口元が緩んだ。
「どうしたんですか?」
わざと声を柔らかくした。
「何か言いたいこと、あるんじゃないですか?」
「ない」
「ほんとに? 今ならまだ間に合いますよ〜?」
「……別に」
石原は拳を軽く握った。それから意を決したみたいに顔を上げ、緒山を見る。
「俺……」
そこまで言って止まった。数秒後、また視線を逸らし、そのまま背を向けた。
――なのに、足は動かなかった。
「……やっぱ何でもない。早く入れよ」
歩き出そうとした瞬間、背後から駆け寄る足音がした。
石原が振り返るより先に、細い腕が首へ回される。
緒山だった。
彼女は石原の前へ回り込み、つま先立ちになった。
目を閉じて、そのまま唇を重ねる。
軽かった。まるで、桜の花びらが水面へ落ちるみたいに。
石原の体が一瞬固まった。それから、静かに目を閉じた。
世界から音が消える。
どれくらいそうしていたのか分からない。
数秒だったのか。それとも、もっと長かったのか。
やがて緒山がそっと離れ、半歩下がった。
顔は少し赤かった。でも笑みは、いたずらを成功させた子供みたいだった。
「久希が欲しかったのって、これですよね?」
くすっと笑った。
「約束してた『ご褒美』ですよ」
石原は何も言えなかった。喉がわずかに動いた。
気づけば、彼の手は緒山の手首を掴んでいた。
緒山は吹き出した。
小さく笑いながら、その手をやんわり外す。
それから玄関へ向き直り、ドアを軽く叩いた。
「じゃあ、私はここで――」
言葉が途中で止まった。
ドアが開いたその向こうに、二人立っていたからだ。
緒山の父親と母親が、玄関に並んで立っていた。
母親はにこにこしていた。その目は完全に、「全部見てたけど、あえて言わない」と語っていた。
一方、父親は無表情だった。ただ、石原はその口元が微妙に引きつったのを見逃さなかった。
空気が三秒ほど止まった。
「……お父さん、お母さん」
緒山の声は落ち着いていた。でも耳だけは真っ赤だった。
「玄関で何してるんですか?」
「ん〜?」
母親はあっさり答えた。
「帰ってきた音がしたから、お迎えしようと思って開けたのよ。でも、そっちがなんか良い雰囲気だったから〜」
「良い雰囲気」。
そこだけ、妙に含みを持たせて言った。
緒山が黙った。石原も黙った。
その横で、緒山の指がそっと石原をつねった。
父親は依然として無言だった。ただ、口元だけがぴくぴくしている。
「……その」
ようやく石原が口を開いく。少し声が掠れていた。
「こんばんは。俺、そろそろ――」
「久希くん、ちょっと待って」
母親が笑顔のまま止めた。
「ちょうどいいところだ。飯はもうすぐできる。今夜はここで食べていけ。小杏にももう連絡してある」
石原は緒山を見る。彼女も彼を見ていた。目を細め、笑っている。
そして彼女の指が、さりげなく彼の指の間に滑り込み、そっと絡まった。
石原の指先が微かに動いく。振りほどくことはしなかった。ただ少しだけ指を絡め直し、彼女の手を握り返した。
顔を赤らめながら、彼はその様子を見ていた緒山の両親へ、小さくうなずいた。
「お邪魔します」
緒山の母親は口元を押さえてくすくす笑い、夫の腕をそっとつついた。
緒山の父親は一つ咳払いをして、玄関先で横に身をずらした。
「入りなさい、久希くん」
夕日が二人の影を長く伸ばし、玄関先の階段へ落としている。
どこにでもあるようで、それでも特別な夕暮れだった。
遠くでは、桜がまだ舞い落ちている。
二人は向きを変え、扉の中へ入っていった。
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夕食の後、緒山は石原と杏を玄関まで送っる。
そして、杏に向かってウインクを一つ送った。
杏はすぐにそれに気づき、兄の肩をぽんと叩くと、にこにこしながら先に帰っていった。
「じゃあね、お兄ちゃん」
石原が何か言う間もなく、彼女はぴょんぴょん跳ねるように階段を上がっていっく。少し進んだところで振り返り、手を振った。
石原は少し照れながら、妹の背中に向かって笑った。
夜風に、桜の香りが混じっている。
石原が振り返ると、緒山が玄関先の階段に立って彼を見ていた。風に揺れる髪が、街灯の明かりを受けて柔らかく輝いている。
それから彼女は、ぽつりと口を開いた。声は夜風の中へ溶けていく。
「久希」
「ん?」
「明日も……一緒に出かけよう」
石原は彼女を見つめる。彼女の瞳に月明かりが映っていた。
「うん」
「明日、早く来ないかな……」
そう言って、彼女は先に笑った。自分で言った言葉が、少し恥ずかしかったみたいに。
石原も笑う。
「来るよ。寝て、目を覚ましたら……きっと、あっという間だ」
緒山はそれ以上何も言わなかった。ただそこに立って、微笑みながら彼を見ている。
夜風がまた二人の間を通り抜け、彼女の肩にかかった髪先を揺らした。
遠くの街灯が、二人の影を階段の上に映している。二つの影は寄り添うように重なり、離れることはなかった。
桜はまだ散っていた。一枚、二枚と、花びらは彼女の肩へ、彼の足元へ舞い落ちていく。
夜風が二人の間をすり抜け、花びらを運びながら、遠くへと流れていった。




