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見える感情、見えないまま  作者: 颍川
第二十七章 雪解けの音――ああ、これが心臓の音か
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第一百四十六話

---


帰り道、桜並木は少しずつ後ろへ遠ざかっていった。


二人は並んで歩きながら、とりとめのない話をしていた。

昨日、立花がまた変なスタンプをグループに投げてきたこと。杏が最近ハマっているアニメのこと。春野から「大学の学食、思ったより美味かった」とメッセージが来たこと。


――本当に、どうでもいい話ばかりだ。

けれど話しているうちに、石原の声が少しずつ小さくなっていった。


緒山は横目で彼を見た。


石原は隣を歩いたまま、まっすぐ前を向いていた。

表情はいつも通り。けれど、頬と耳だけが妙に赤かった。


緒山は小さく瞬きをした。何も言わず、そのまま歩き続ける。


やがて緒山の家が近づいてくると、石原の足取りが少し遅くなった。

彼女が鍵を取り出して振り返ると、石原は二歩ほど離れた場所に立っていた。

帰るわけでもなく、かといってついてくるわけでもない。何度か口を開きかけては、結局閉じていた。


「久希?」


「……いや、別に」


石原は視線を逸らし、地面を見た。

緒山は首を傾げる。


真っ赤になった耳の先が、あまりにも分かりやすかった。

思わず口元が緩んだ。


「どうしたんですか?」


わざと声を柔らかくした。


「何か言いたいこと、あるんじゃないですか?」


「ない」


「ほんとに? 今ならまだ間に合いますよ〜?」


「……別に」


石原は拳を軽く握った。それから意を決したみたいに顔を上げ、緒山を見る。


「俺……」


そこまで言って止まった。数秒後、また視線を逸らし、そのまま背を向けた。

――なのに、足は動かなかった。


「……やっぱ何でもない。早く入れよ」


歩き出そうとした瞬間、背後から駆け寄る足音がした。

石原が振り返るより先に、細い腕が首へ回される。


緒山だった。


彼女は石原の前へ回り込み、つま先立ちになった。

目を閉じて、そのまま唇を重ねる。


軽かった。まるで、桜の花びらが水面へ落ちるみたいに。


石原の体が一瞬固まった。それから、静かに目を閉じた。


世界から音が消える。

どれくらいそうしていたのか分からない。

数秒だったのか。それとも、もっと長かったのか。


やがて緒山がそっと離れ、半歩下がった。

顔は少し赤かった。でも笑みは、いたずらを成功させた子供みたいだった。


「久希が欲しかったのって、これですよね?」


くすっと笑った。


「約束してた『ご褒美』ですよ」


石原は何も言えなかった。喉がわずかに動いた。

気づけば、彼の手は緒山の手首を掴んでいた。


緒山は吹き出した。

小さく笑いながら、その手をやんわり外す。

それから玄関へ向き直り、ドアを軽く叩いた。


「じゃあ、私はここで――」


言葉が途中で止まった。

ドアが開いたその向こうに、二人立っていたからだ。


緒山の父親と母親が、玄関に並んで立っていた。


母親はにこにこしていた。その目は完全に、「全部見てたけど、あえて言わない」と語っていた。

一方、父親は無表情だった。ただ、石原はその口元が微妙に引きつったのを見逃さなかった。


空気が三秒ほど止まった。


「……お父さん、お母さん」


緒山の声は落ち着いていた。でも耳だけは真っ赤だった。


「玄関で何してるんですか?」


「ん〜?」


母親はあっさり答えた。


「帰ってきた音がしたから、お迎えしようと思って開けたのよ。でも、そっちがなんか良い雰囲気だったから〜」


「良い雰囲気」。

そこだけ、妙に含みを持たせて言った。


緒山が黙った。石原も黙った。

その横で、緒山の指がそっと石原をつねった。


父親は依然として無言だった。ただ、口元だけがぴくぴくしている。


「……その」


ようやく石原が口を開いく。少し声が掠れていた。


「こんばんは。俺、そろそろ――」


「久希くん、ちょっと待って」


母親が笑顔のまま止めた。


「ちょうどいいところだ。飯はもうすぐできる。今夜はここで食べていけ。小杏にももう連絡してある」


石原は緒山を見る。彼女も彼を見ていた。目を細め、笑っている。

そして彼女の指が、さりげなく彼の指の間に滑り込み、そっと絡まった。


石原の指先が微かに動いく。振りほどくことはしなかった。ただ少しだけ指を絡め直し、彼女の手を握り返した。

顔を赤らめながら、彼はその様子を見ていた緒山の両親へ、小さくうなずいた。


「お邪魔します」


緒山の母親は口元を押さえてくすくす笑い、夫の腕をそっとつついた。

緒山の父親は一つ咳払いをして、玄関先で横に身をずらした。


「入りなさい、久希くん」


夕日が二人の影を長く伸ばし、玄関先の階段へ落としている。

どこにでもあるようで、それでも特別な夕暮れだった。


遠くでは、桜がまだ舞い落ちている。

二人は向きを変え、扉の中へ入っていった。


---


夕食の後、緒山は石原と杏を玄関まで送っる。

そして、杏に向かってウインクを一つ送った。


杏はすぐにそれに気づき、兄の肩をぽんと叩くと、にこにこしながら先に帰っていった。


「じゃあね、お兄ちゃん」


石原が何か言う間もなく、彼女はぴょんぴょん跳ねるように階段を上がっていっく。少し進んだところで振り返り、手を振った。


石原は少し照れながら、妹の背中に向かって笑った。


夜風に、桜の香りが混じっている。

石原が振り返ると、緒山が玄関先の階段に立って彼を見ていた。風に揺れる髪が、街灯の明かりを受けて柔らかく輝いている。


それから彼女は、ぽつりと口を開いた。声は夜風の中へ溶けていく。


「久希」


「ん?」


「明日も……一緒に出かけよう」


石原は彼女を見つめる。彼女の瞳に月明かりが映っていた。


「うん」


「明日、早く来ないかな……」


そう言って、彼女は先に笑った。自分で言った言葉が、少し恥ずかしかったみたいに。


石原も笑う。


「来るよ。寝て、目を覚ましたら……きっと、あっという間だ」


緒山はそれ以上何も言わなかった。ただそこに立って、微笑みながら彼を見ている。


夜風がまた二人の間を通り抜け、彼女の肩にかかった髪先を揺らした。

遠くの街灯が、二人の影を階段の上に映している。二つの影は寄り添うように重なり、離れることはなかった。


桜はまだ散っていた。一枚、二枚と、花びらは彼女の肩へ、彼の足元へ舞い落ちていく。

夜風が二人の間をすり抜け、花びらを運びながら、遠くへと流れていった。

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