第一百四十五話
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【一月・待つ時間】
新年の鐘が鳴ってから、雪は一度も降らなかった。
緒山は毎朝、家を出る前に窓の外を見た。
ノートを鞄へ入れる日もあれば、机の上へ置いたままの日もあった。
自分が何を待っているのか、誰にも言わなかった。でも石原だけは知っていた。
ある日の放課後、二人で帰っている途中、緒山がふいに立ち止まった。
空を見上げた。石原もつられて上を見た。
――灰色の空が広がっているだけだった。
「どうした?」
「ううん。雪降りそうかなって思っただけです」
緒山は笑い、そのまままた歩き出した。
石原も何も言わず、隣を歩いた。
その日の夜、緒山はノートの最後のページを開き、長いことその文字を見つめていた。
【雪の日に久希へ告白する】
やがてノートを閉じ、引き出しへしまった。
――けれど翌日には、また鞄へ入れていた。
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【二月・日常】
二月、バレンタインの日。
生徒会室には大量のチョコが集まっていた。
ほとんどは春野と花野宛てで、あとは、なぜか立花にもいくつか届いていた。
「なんで私も貰ってるんですか?」
立花が机のチョコを見て首を傾げた。
「ロリ体型で、顔が可愛いから」
花野が無表情で答えた。
「誰がロリ体型ですか!?」
立花は頬を膨らませた。
その隣で、杏は笑いすぎて机に突っ伏していた。
緒山もくすくす笑っていた。そして、自分で作った手作りチョコをこっそり石原へ渡した。
――黙っててくださいね。そんな目で訴えてきた。
石原は小さくうなずき、チョコをポケットへしまった。
放課後、二人で並んで帰る道で、緒山が聞いた。
「美味しかったですか?」
「まだ食ってない」
「帰ったらちゃんと食べてくださいね」
「……ちゃんと味わう」
分かれ道まで来たところで、緒山がふと思い出したように言った。
「来年は、抹茶味とか作ってみたいかもです」
石原が彼女を見る。緒山は一瞬固まり、それから慌てて手を振った。
「な、なんでもないです! ただ言ってみただけで!」
でも、その日の夜。緒山はまたノートを開いていた。
ページの端に、小さな字を書き足した。
【来年は抹茶味のチョコを作る】
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【三月・送別会】
三月最後の金曜日、生徒会室では春野と花野の送別会が開かれていた。
送別会といっても、大げさなものではない。
みんなで集まって、お菓子を食べたり飲み物を飲んだりしながら、他愛ない話をしているだけだった。相変わらず、春野はいじられ役で、花野はいつも通り淡々としていた。
「会長、大学入ったら何するんですか?」
立花が聞いた。
春野は少し笑った。
「とりあえず免許かな。そのあと……一人旅とかしてみたいかも」
「一人でですか?」
杏が目を丸くした。
「寂しくないんです?」
「んー……たまには一人ってのも悪くないかなって」
「それならお兄ちゃん、参考になりますよ」
杏が石原を指差した。
「一人行動、超得意なので」
生徒会室に笑いが広がった。
石原は呆れたように小さく首を振った。
花野は湯呑みを置き、珍しく自分から口を開く。
「私は大学院進学を優先。その後は海外も視野に入れている」
「真汐ちゃん、かっこいい〜」
緒山が感心したように声を伸ばした。
花野は彼女をちらりと見た。口元がほんの少しだけ動いた。
――たぶん、笑った。
送別会も半ばを過ぎた頃、春野がふいに紙コップを持ち上げた。
「まあ、俺たちは卒業するけど。生徒会自体は続くからな」
そして石原を見た。
「石原、あとは任せた」
石原は真面目な顔で立ち上がり、うなずいた。
「ああ」
「あと、緒山も」
春野が意味深に笑った。
「お前ら二人なら、まあ大丈夫だろ」
緒山は一瞬きょとんとして、それから吹き出した。
「会長、それだと私たち結婚するみたいじゃないですか」
「そこまでは言ってない」
春野が眉を上げた。
また笑いが起きた。緒山も一緒に笑った。
――けれど、笑ったあと。ほんの一瞬だけ、彼女の表情が静かになった。
『二人がいなくなったら、私たちどうすればいいんだろう』
その言葉が喉まで出かかった。でも、言わなかった。
緒山は春野と花野を見た。そして、ふと思った。
――この人たちは、「いなくなる」わけじゃない。前へ進むだけなんだ。
なら、自分も。ちゃんと前へ進めているんだろうか。
送別会が終わると、みんな少しずつ帰っていった。
緒山はしばらく生徒会室に残り、壁に貼られた写真を眺めていた。
文化祭、体育祭、夏祭り……どの写真にも、自分が写っていた。
来年の今頃には、また新しい生徒会がここにいて、新しい写真を撮っているんだろう。
そしてたぶん、自分もまだここにいる。
緒山は鞄の中のノートに触れた。取り出しはしなかった。
でも胸の奥で、何かが静かに動いた気がした。
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【四月・入学】
四月の初日、泉方新高には新入生たちがやって来ていた。
石原は新しい生徒会長として、制服姿で校門に立っていた。
その隣には緒山がいて、手には新入生向けの案内冊子を抱えている。
「緊張してます?」
緒山が笑いながら聞いた。
「別に」
「嘘です。手、震えてますよ」
石原は自分の手を見下ろした。
……本当に少し震えていた。
小さく息を吸った。
緒山はくすっと笑い、そっと彼の手の甲に触れた。
「大丈夫です。私、隣にいますから」
石原は彼女を見た。何も言わなかった。
でも、そのあと手は震えなくなった。
新入生たちが、次々と校門をくぐっていった。
緊張している子。楽しそうな子。無表情な子。
緒山は案内を配りながら、その新しい顔ぶれを眺めていた。
ふと、自分が転校してきた頃を思い出した。あの頃の自分も、こんな顔をしていたんだろうか。
未来なんて、何も分からなくて。
「緒山先輩! 石原先輩!」
元気な声が、思考を遮った。
緒山が視線を下ろすと、明るい雰囲気の男子生徒が、満面の笑みで立っていた。
「俺、佐藤っていいます! 今日から新入生です! よろしくお願いします!」
緒山は少し驚いたあと、笑顔になった。
「ようこそ、佐藤くん」
佐藤は勢いよく頭を下げ、背筋を伸ばして校門をくぐっていった。
石原が横で言った。
「立花さんの後輩だっけ」
「うん、後輩らしいです」
緒山は佐藤の背中を見送りながら笑った。
「すごく楽しそうでしたね」
「新しい始まりだからだろ」
石原が淡々と返した。
――新しい始まり。
緒山はその言葉を心の中で繰り返した。
そのとき、遠くから朝日守と葵が歩いてくるのが見えた。
朝日守は、葵の手を引いていた。
葵は今日、初めて学校を見学しに来たらしく、目をきらきらさせながら辺りを見回している。
「お兄ちゃん! ここ、すっごく綺麗!」
「そうだな」
朝日守が笑った。
二人が校門を通るとき、朝日守は石原たちへ軽く会釈した。
葵も元気よく手を振った。
「緒山お姉ちゃん! 石原お兄ちゃん! こんにちはー!」
緒山も笑って手を振り返した。
二人が離れていったあと、緒山がぽつりと呟いた。
「葵ちゃん、元気になりましたね」
「朝日さんも、前より楽そうだった」
石原が静かに答える。
緒山はそれ以上何も言わなかった。ただ、人の流れていく校庭を見つめている。
誰かが去って、誰かがやって来る。
その大きな流れの中に、自分も立っている気がした。
――でも。もう流されているだけじゃない。
石原と一緒に、自分の足で前へ進んでいる。
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【四月・桜】
四月中旬、校内の桜は満開を迎えていた。
その日の放課後は部活もなく、石原と緒山は一緒に桜を見に来ていた。
とはいっても、本格的な花見ではない。桜並木を並んで歩きながら、ときどき見上げるだけだ。
風が吹くたび、薄桃色の花びらがふわりと舞った。
まるで雪みたいに、静かに降ってくる。
緒山は手を伸ばし、一枚を受け止めた。
「久希」
「ん?」
「これ、雪みたいじゃないですか?」
石原も空を見上げた。
風に乗って回りながら落ちる桜は、たしかに少し雪に似ていた。
雪より軽くて、雪より暖かくて、ちゃんと春の気配がする。
「色を除けば、まあ似てる」
緒山は掌の花びらを見つめたまま、ふっと黙り込んだ。
石原は、彼女が何を考えているのか分かっていた。少し先へ歩き、それから振り返った。
「朋奈」
緒山が顔を上げた。
「来年の今頃は、もっと綺麗に咲いてるかもな」
石原は、いつも通りの口調で言った。
「また見に来よう」
緒山は彼を見つめた。
風が吹き、花びらが石原の肩や髪へ落ちる。
彼は払おうともせず、ただ静かに笑っていた。
その姿を見た瞬間、緒山の胸に、いくつもの言葉が浮かんだ。
何度も口にした「来年」。
こっそり書き足した「来年は抹茶味」。
送別会の日に、ふと思ったこと。
――ああ。私、ずっと楽しみにしてたんだ。
意識していたわけじゃない。でも自然と、「来年」を当たり前みたいに思っていた。
緒山は鞄からノートを取り出す。
石原は隣へ来たが、何も言わなかった。
緒山は最後のページを開いた。
そこに残っていた文字。
【雪の日に久希へ告白する】
彼女はしばらくそれを見つめたあと、ペンを取り出す。
そして、「雪の日」の部分へ静かに線を引いた。
代わりに、その横へ書き足した。
【久希の隣で】
ペン先が少し止まった。
それから最後に、小さく【済】をつけた。本当に、小さな印だった。
でも顔を上げたとき、緒山の目は少し赤くなっていた。
石原が不思議そうに見た。
「どうした、朋奈」
「……なんでもないです」
緒山は鼻をすすり、ノートを胸へ抱き寄せる。
「ただ……なんか、久希に騙された気分で」
「は? 何をだよ」
「だって、『来年また来よう』って……そんなの、私――」
そこまで言って、言葉が止まった。
石原もすぐには返さなかった。
数秒あと、彼はそっと緒山を抱き寄せる。
とても軽い抱擁だった。枝の桜を散らしてしまわないようにするみたいに。
「たしかに、先のことは分からない」
石原が静かに言った。
「そんなの、誰にも分からないし」
少し間を置いた。
「でも、一つだけ分かる」
「……何ですか?」
「今、お前はここにいる」
緒山が目を瞬かせた。
石原は視線を逸らし、頭上の桜を見上げる。
「今、お前はここで、俺と一緒に桜見てる」
その声は穏やかだった。
「それで十分だろ」
風が吹いた。花びらが、二人の頭へ降り積もる。
「先のことは……その時また考えればいい」
緒山の肩が小さく震えた。
次の瞬間、彼女は石原へ抱きつき、顔を肩へ埋める。
「……久希、ずるいです」
くぐもった声だった。少し鼻にかかっていた。
「またそういうこと言う」
石原は返事をしなかった。ただ、静かに彼女の背を撫でる。
桜は降り続けていた。まるで、冷たくない雪みたいに。
遠くでは、新入生たちの笑い声が聞こえた。
今頃、春野と花野も新しい生活を始めているんだろう。
朝日兄妹はどこかで花を見ているかもしれない。立花と杏は、また甘いものを半分こしているかもしれない。
みんな、少しずつ前へ進んでいる。
その流れの中で、緒山はふと思った。
――前に進むのって、案外怖くないのかもしれない。
彼女はゆっくり石原から離れ、一歩下がった。そして彼を見た。
「久希、好きです」
「……俺も」
「来年も、来ましょうね」
緒山の目は、花びらの光よりずっと明るかった。
石原は静かにうなずいた。
「ああ」
二人は並んで歩き出した。
背後には、桜の花びらが道いっぱいに薄桃色の層を作っていた。
緒山の鞄の中では、ノートが静かに揺れていた。
最後のページには、ついさっきつけた小さな【済】の印。
そしてその隣には、いつの間にか小さな文字が増えていた。
【まだまだ、たくさんの来年がある】
緒山の胸の奥で、長い間ふわふわしていた何かが、ようやく静かに落ち着いた気がした。




