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見える感情、見えないまま  作者: 颍川
第二十七章 雪解けの音――ああ、これが心臓の音か
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第一百四十五話

---


【一月・待つ時間】


新年の鐘が鳴ってから、雪は一度も降らなかった。


緒山は毎朝、家を出る前に窓の外を見た。

ノートを鞄へ入れる日もあれば、机の上へ置いたままの日もあった。


自分が何を待っているのか、誰にも言わなかった。でも石原だけは知っていた。


ある日の放課後、二人で帰っている途中、緒山がふいに立ち止まった。

空を見上げた。石原もつられて上を見た。


――灰色の空が広がっているだけだった。


「どうした?」


「ううん。雪降りそうかなって思っただけです」


緒山は笑い、そのまままた歩き出した。

石原も何も言わず、隣を歩いた。


その日の夜、緒山はノートの最後のページを開き、長いことその文字を見つめていた。


【雪の日に久希へ告白する】


やがてノートを閉じ、引き出しへしまった。

――けれど翌日には、また鞄へ入れていた。


---


【二月・日常】


二月、バレンタインの日。


生徒会室には大量のチョコが集まっていた。

ほとんどは春野と花野宛てで、あとは、なぜか立花にもいくつか届いていた。


「なんで私も貰ってるんですか?」


立花が机のチョコを見て首を傾げた。


「ロリ体型で、顔が可愛いから」


花野が無表情で答えた。


「誰がロリ体型ですか!?」


立花は頬を膨らませた。

その隣で、杏は笑いすぎて机に突っ伏していた。


緒山もくすくす笑っていた。そして、自分で作った手作りチョコをこっそり石原へ渡した。


――黙っててくださいね。そんな目で訴えてきた。

石原は小さくうなずき、チョコをポケットへしまった。


放課後、二人で並んで帰る道で、緒山が聞いた。


「美味しかったですか?」


「まだ食ってない」


「帰ったらちゃんと食べてくださいね」


「……ちゃんと味わう」


分かれ道まで来たところで、緒山がふと思い出したように言った。


「来年は、抹茶味とか作ってみたいかもです」


石原が彼女を見る。緒山は一瞬固まり、それから慌てて手を振った。


「な、なんでもないです! ただ言ってみただけで!」


でも、その日の夜。緒山はまたノートを開いていた。

ページの端に、小さな字を書き足した。


【来年は抹茶味のチョコを作る】


---


【三月・送別会】


三月最後の金曜日、生徒会室では春野と花野の送別会が開かれていた。


送別会といっても、大げさなものではない。

みんなで集まって、お菓子を食べたり飲み物を飲んだりしながら、他愛ない話をしているだけだった。相変わらず、春野はいじられ役で、花野はいつも通り淡々としていた。


「会長、大学入ったら何するんですか?」


立花が聞いた。

春野は少し笑った。


「とりあえず免許かな。そのあと……一人旅とかしてみたいかも」


「一人でですか?」


杏が目を丸くした。


「寂しくないんです?」


「んー……たまには一人ってのも悪くないかなって」


「それならお兄ちゃん、参考になりますよ」


杏が石原を指差した。


「一人行動、超得意なので」


生徒会室に笑いが広がった。

石原は呆れたように小さく首を振った。


花野は湯呑みを置き、珍しく自分から口を開く。


「私は大学院進学を優先。その後は海外も視野に入れている」


「真汐ちゃん、かっこいい〜」


緒山が感心したように声を伸ばした。

花野は彼女をちらりと見た。口元がほんの少しだけ動いた。


――たぶん、笑った。


送別会も半ばを過ぎた頃、春野がふいに紙コップを持ち上げた。


「まあ、俺たちは卒業するけど。生徒会自体は続くからな」


そして石原を見た。


「石原、あとは任せた」


石原は真面目な顔で立ち上がり、うなずいた。


「ああ」


「あと、緒山も」


春野が意味深に笑った。


「お前ら二人なら、まあ大丈夫だろ」


緒山は一瞬きょとんとして、それから吹き出した。


「会長、それだと私たち結婚するみたいじゃないですか」


「そこまでは言ってない」


春野が眉を上げた。

また笑いが起きた。緒山も一緒に笑った。


――けれど、笑ったあと。ほんの一瞬だけ、彼女の表情が静かになった。


『二人がいなくなったら、私たちどうすればいいんだろう』


その言葉が喉まで出かかった。でも、言わなかった。


緒山は春野と花野を見た。そして、ふと思った。

――この人たちは、「いなくなる」わけじゃない。前へ進むだけなんだ。


なら、自分も。ちゃんと前へ進めているんだろうか。


送別会が終わると、みんな少しずつ帰っていった。


緒山はしばらく生徒会室に残り、壁に貼られた写真を眺めていた。

文化祭、体育祭、夏祭り……どの写真にも、自分が写っていた。


来年の今頃には、また新しい生徒会がここにいて、新しい写真を撮っているんだろう。

そしてたぶん、自分もまだここにいる。


緒山は鞄の中のノートに触れた。取り出しはしなかった。

でも胸の奥で、何かが静かに動いた気がした。


---


【四月・入学】


四月の初日、泉方新高には新入生たちがやって来ていた。


石原は新しい生徒会長として、制服姿で校門に立っていた。

その隣には緒山がいて、手には新入生向けの案内冊子を抱えている。


「緊張してます?」


緒山が笑いながら聞いた。


「別に」


「嘘です。手、震えてますよ」


石原は自分の手を見下ろした。

……本当に少し震えていた。


小さく息を吸った。

緒山はくすっと笑い、そっと彼の手の甲に触れた。


「大丈夫です。私、隣にいますから」


石原は彼女を見た。何も言わなかった。

でも、そのあと手は震えなくなった。


新入生たちが、次々と校門をくぐっていった。

緊張している子。楽しそうな子。無表情な子。


緒山は案内を配りながら、その新しい顔ぶれを眺めていた。

ふと、自分が転校してきた頃を思い出した。あの頃の自分も、こんな顔をしていたんだろうか。

未来なんて、何も分からなくて。


「緒山先輩! 石原先輩!」


元気な声が、思考を遮った。

緒山が視線を下ろすと、明るい雰囲気の男子生徒が、満面の笑みで立っていた。


「俺、佐藤っていいます! 今日から新入生です! よろしくお願いします!」


緒山は少し驚いたあと、笑顔になった。


「ようこそ、佐藤くん」


佐藤は勢いよく頭を下げ、背筋を伸ばして校門をくぐっていった。

石原が横で言った。


「立花さんの後輩だっけ」


「うん、後輩らしいです」


緒山は佐藤の背中を見送りながら笑った。


「すごく楽しそうでしたね」


「新しい始まりだからだろ」


石原が淡々と返した。


――新しい始まり。

緒山はその言葉を心の中で繰り返した。


そのとき、遠くから朝日守と葵が歩いてくるのが見えた。

朝日守は、葵の手を引いていた。

葵は今日、初めて学校を見学しに来たらしく、目をきらきらさせながら辺りを見回している。


「お兄ちゃん! ここ、すっごく綺麗!」


「そうだな」


朝日守が笑った。


二人が校門を通るとき、朝日守は石原たちへ軽く会釈した。

葵も元気よく手を振った。


「緒山お姉ちゃん! 石原お兄ちゃん! こんにちはー!」


緒山も笑って手を振り返した。

二人が離れていったあと、緒山がぽつりと呟いた。


「葵ちゃん、元気になりましたね」


「朝日さんも、前より楽そうだった」


石原が静かに答える。

緒山はそれ以上何も言わなかった。ただ、人の流れていく校庭を見つめている。


誰かが去って、誰かがやって来る。

その大きな流れの中に、自分も立っている気がした。


――でも。もう流されているだけじゃない。

石原と一緒に、自分の足で前へ進んでいる。


---


【四月・桜】


四月中旬、校内の桜は満開を迎えていた。


その日の放課後は部活もなく、石原と緒山は一緒に桜を見に来ていた。

とはいっても、本格的な花見ではない。桜並木を並んで歩きながら、ときどき見上げるだけだ。


風が吹くたび、薄桃色の花びらがふわりと舞った。

まるで雪みたいに、静かに降ってくる。


緒山は手を伸ばし、一枚を受け止めた。


「久希」


「ん?」


「これ、雪みたいじゃないですか?」


石原も空を見上げた。

風に乗って回りながら落ちる桜は、たしかに少し雪に似ていた。

雪より軽くて、雪より暖かくて、ちゃんと春の気配がする。


「色を除けば、まあ似てる」


緒山は掌の花びらを見つめたまま、ふっと黙り込んだ。

石原は、彼女が何を考えているのか分かっていた。少し先へ歩き、それから振り返った。


「朋奈」


緒山が顔を上げた。


「来年の今頃は、もっと綺麗に咲いてるかもな」


石原は、いつも通りの口調で言った。


「また見に来よう」


緒山は彼を見つめた。


風が吹き、花びらが石原の肩や髪へ落ちる。

彼は払おうともせず、ただ静かに笑っていた。


その姿を見た瞬間、緒山の胸に、いくつもの言葉が浮かんだ。


何度も口にした「来年」。

こっそり書き足した「来年は抹茶味」。

送別会の日に、ふと思ったこと。


――ああ。私、ずっと楽しみにしてたんだ。

意識していたわけじゃない。でも自然と、「来年」を当たり前みたいに思っていた。


緒山は鞄からノートを取り出す。

石原は隣へ来たが、何も言わなかった。


緒山は最後のページを開いた。

そこに残っていた文字。


【雪の日に久希へ告白する】


彼女はしばらくそれを見つめたあと、ペンを取り出す。

そして、「雪の日」の部分へ静かに線を引いた。

代わりに、その横へ書き足した。


【久希の隣で】


ペン先が少し止まった。

それから最後に、小さく【済】をつけた。本当に、小さな印だった。

でも顔を上げたとき、緒山の目は少し赤くなっていた。


石原が不思議そうに見た。


「どうした、朋奈」


「……なんでもないです」


緒山は鼻をすすり、ノートを胸へ抱き寄せる。


「ただ……なんか、久希に騙された気分で」


「は? 何をだよ」


「だって、『来年また来よう』って……そんなの、私――」


そこまで言って、言葉が止まった。

石原もすぐには返さなかった。


数秒あと、彼はそっと緒山を抱き寄せる。

とても軽い抱擁だった。枝の桜を散らしてしまわないようにするみたいに。


「たしかに、先のことは分からない」


石原が静かに言った。


「そんなの、誰にも分からないし」


少し間を置いた。


「でも、一つだけ分かる」


「……何ですか?」


「今、お前はここにいる」


緒山が目を瞬かせた。

石原は視線を逸らし、頭上の桜を見上げる。


「今、お前はここで、俺と一緒に桜見てる」


その声は穏やかだった。


「それで十分だろ」


風が吹いた。花びらが、二人の頭へ降り積もる。


「先のことは……その時また考えればいい」


緒山の肩が小さく震えた。

次の瞬間、彼女は石原へ抱きつき、顔を肩へ埋める。


「……久希、ずるいです」


くぐもった声だった。少し鼻にかかっていた。


「またそういうこと言う」


石原は返事をしなかった。ただ、静かに彼女の背を撫でる。


桜は降り続けていた。まるで、冷たくない雪みたいに。


遠くでは、新入生たちの笑い声が聞こえた。


今頃、春野と花野も新しい生活を始めているんだろう。

朝日兄妹はどこかで花を見ているかもしれない。立花と杏は、また甘いものを半分こしているかもしれない。


みんな、少しずつ前へ進んでいる。


その流れの中で、緒山はふと思った。

――前に進むのって、案外怖くないのかもしれない。


彼女はゆっくり石原から離れ、一歩下がった。そして彼を見た。


「久希、好きです」


「……俺も」


「来年も、来ましょうね」


緒山の目は、花びらの光よりずっと明るかった。

石原は静かにうなずいた。


「ああ」


二人は並んで歩き出した。

背後には、桜の花びらが道いっぱいに薄桃色の層を作っていた。


緒山の鞄の中では、ノートが静かに揺れていた。

最後のページには、ついさっきつけた小さな【済】の印。

そしてその隣には、いつの間にか小さな文字が増えていた。


【まだまだ、たくさんの来年がある】


緒山の胸の奥で、長い間ふわふわしていた何かが、ようやく静かに落ち着いた気がした。

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