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見える感情、見えないまま  作者: 颍川
第二十七章 雪解けの音――ああ、これが心臓の音か
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第一百四十四話

---


【十二月二十六日・土曜日】


雪は止んでいた。空気は澄みきっていて、出かけるにはちょうどいい天気だった。


年末のショッピングモールは、人でいっぱいだった。ざわめきが波みたいに押し寄せてきる。


緒山は石原の袖を掴み、人混みの中を器用に進んでいった。もう片方の手には、二着のコートを抱えている。


振り返って聞いた。


「どっちがいいと思います?」


石原は真面目に見比べた。


「左のやつ」


「理由は?」


「色が似合ってる」


緒山がぱちりと瞬きする。左のコートを羽織り、そのまま鏡の前でくるりと回った。

鏡の中で、石原がこちらをじっと見ているのが見えた。視線が合った瞬間、彼は慌てたみたいに目を逸らした。

緒山は小さく笑った。でも、何も言わなかった。


「じゃあ、これにします」


鏡へ向かって呟いた。それから、ふと口をついた。


「……来年着ても普通に使えそうですね。流行り廃りもなさそうですし」


言ったあと、自分で少し固まった。

石原は隣で、自然に返す。


「じゃあ、来年も着ればいい」


緒山は振り返った。

石原はもうレジの方へ歩いていた。

緒山はその場に残り、そっとコートの生地に触れる。


それからノートを取り出した。


【久希と一緒に好きな服を買う】


その項目の後ろへ、静かに【済】をつけた。


---


【十二月二十七日・日曜日】


スーパーの年末コーナーは、赤一色だった。正月用品が山積みになっていた。


緒山がカートを押し、石原が棚から商品を取っていった。


「これはお母さん好きそうですし……あ、この辺は杏ちゃんが好きそうですね」


緒山は呟きながら、次々とカートへ入れていった。

その途中、餅売り場の前でふと足を止めた。


「あ、これ」


彼女は一袋手に取った。


「うち、毎年これ買うんです」


賞味期限を確認して、そのままカートへ入れた。


「来年もこれ買いましょうか」


あまりにも自然な口調だった。

カートを押して数歩進んでから、ようやく自分がまた「来年」と言ったことに気づいた。


緒山はそっと石原を盗み見る。

石原は買い物メモを見ていた。


気づいていないみたいだった。

緒山は少しだけ安心して――同時に、なぜか少しだけ寂しくなった。


会計を終えたあと、彼女はノートを開き、【久希と一緒に美味しいものを買う】の後ろへ小さく【済】をつけた。


---


【十二月二十八日・月曜日】


映画館の中は暖かかった。

二人は並んで座り、スクリーンを見つめていた。


ちょうど物語が、一番泣ける場面に入ったところだった。


緒山が小さく鼻をすすった。

こっそり手の甲で目元を拭おうとしたところで――横からティッシュが差し出される。

振り向いた。石原は無表情のままスクリーンを見ていた。けれど、ティッシュだけが彼女の手元へ向けられていた。


緒山は受け取り、小さな声で言った。


「……ありがとうございます」


映画が終わった。館内が明るくなった。

緒山はまだ少し目が赤いまま、上映室を出た。


「……すごく泣けました」


石原が隣を歩いていた。


「まあ、分かる」


「久希も泣いてました?」


「泣いてない」


「嘘です」


「……少しだけ」


緒山は吹き出した。モールの吹き抜けまで歩いたところで、彼女がふと口を開いた。


「このシリーズ、来年続編があるらしいですよ」


少し間を置いた。それから笑いながらノートを取り出す。


「じゃあ、そのときまた一緒に来ましょうね」


そう言って、【久希と一緒に映画を見る】の後ろへ、静かに【済】をつけた。


---


【十二月二十九日・火曜日】


気の向くまま歩いているうちに、二人は校内のあの林まで来ていた。


ベンチには薄く雪が積もっている。

緒山は手でそれを払い、自分は片側に腰を下ろした。もう半分を、石原のために残すみたいに。


二人は並んで腰を下ろした。

辺りは静かで、ときどき枝から雪が滑り落ちる音だけが、小さく響く。


「最初にここで、久希とちゃんと話したときは……こんなふうになるなんて思ってませんでした」


緒山がぽつりと呟いた。石原は何も返さず、ただ彼女を見ていた。

緒山は遠くを見つめたまま、ふと、聞こえるか聞こえないかくらいの声で言った。


「来年の今頃は……もっと雪、降ってるかもしれませんね」


それから振り向いた。


「そのときも、また来ます?」


石原はうなずいた。


「ああ」


緒山は嬉しそうに笑い、ノートを取り出して、【久希と一緒に林へ行く】の後ろへ静かに【済】をつけた。


---


【十二月三十日・水曜日】


緒山家のキッチンは、朝から二人で小さな騒ぎになっていた。


「塩、どこでしたっけ!?」


「さっきお前が置いただろ」


「知らないですって――あっ、火が強すぎる!」


緒山が慌てて火を弱めに行った。

その横で、石原は淡々と野菜を切っていた。妙に包丁さばきが安定していた。


三十分後、テーブルの上には、見た目はいまいちだが、湯気の立つ料理が並んでいる。


二人で向かい合って座った。

緒山は自分で作った料理をひと口食べ、少し噛んでから微妙な顔になった。


「……ちょっとしょっぱいかもです」


石原も食べた。


「悪くない」


「久希、それ何食べても言いますよね」


「本当に悪くない」


緒山は、石原が黙々とご飯を食べる姿を見て、ふっと笑った。


「一緒に料理するの、こんなに楽しいんですね。来年のお正月は、私がお父さんたちに年越しのご飯を作ってみようかな」


そこまで言って、自分で止まった。

石原が顔を上げた。緒山は慌てて視線を逸らし、ご飯をかき込んだ。


「……た、食べましょ食べましょ」


食後、緒山は逃げるみたいにキッチンへ向かった。

洗い物をしながら、こっそりノートを開いた。


そして、【久希と一緒に料理する】の後ろへ、小さく【済】をつけた。


---


【十二月三十一日・木曜日】


大晦日の緒山家のリビングは、暖かな空気に包まれていた。


緒山の母親が忙しそうに台所を行き来し、杏はその手伝いをしている。


石原はリビングの隅で、緒山の父親と将棋をしていた。

――三局連続で詰まされた。


食後、テレビでは紅白歌合戦が流れていた。

杏と緒山は並んで見ていて、ときどき楽しそうに笑っていた。


零時が近づいた頃、緒山がそっと石原の腕をつついた。


「ベランダ、行きません?」


二人はこっそりリビングを抜け出した。


外では、いつの間にかまた雪が降り始めている。

ベランダへ出た瞬間、冷たい空気が頬を打った。


夜空にはまばらな花火が咲いている。

けれど、その半分は雪雲に隠れていた。


緒山は手すりへ寄りかかり、白い息を吐いた。


「久希」


「ん?」


「来年も、一緒に花火見ましょうね」


そう言ったあと、彼女は少し笑った。


「この数日、『来年』っていっぱい言ってますね、私」


石原は何も言わなかった。ただ、静かに彼女を見ていた。


「来年も……一緒にいたいです」


緒山はノートを取り出す。


今日の項目。


【久希と一緒に年越しのご飯を食べる】


そこへ、そっと【済】をつけた。


――けれど。そのまま、彼女の手が止まった。

ノートを見つめたまま、動かなかった。


緒山は、「来年」という、かつてはひどく遠かった言葉と、この数日で何度も口にした約束を思い出していた。


「来年」。そんな曖昧で、遠い未来の話。

昔の自分なら、怖くて言えなかった。


けれど今は違う。

さっき自分が考えていたのは、「明日、何を着て出かけよう」


そんなことじゃなくて、「あと何回、明日を迎えられるんだろう」


その瞬間、石原の手が、ノートを持つ彼女の手へ重なった。

彼は何も言わなかった。ただ――


「ああ」


短いその一言が、緒山の胸へ静かに落ちてくる。

なのに、どんな約束よりも重たく感じた。


遠くで、除夜の鐘が鳴り始めた。


緒山はノートを閉じ、石原の手を握った。


「明けましておめでとう、久希」


「明けましておめでとう、朋奈」


---


【一月一日・金曜日・未明】


除夜の鐘の余韻が、まだ夜風の中に残っていた。


二人がベランダからリビングへ戻ると、緒山の両親はすでに部屋へ戻っていて、杏もソファで丸くなって眠っていた。身体には毛布がかかっていた。


緒山はそっと近づき、肩まで毛布を引き上げる。

杏は眠ったまま何かを呟き、寝返りを打って、また静かになった。


「今日は泊まっていきません?」


緒山が小声で言った。


「今から杏ちゃんを起こすのも悪いですし」


石原はソファの杏を見て、小さくうなずいた。


緒山は押し入れから予備の布団を取り出し、二人で音を立てないようリビングへ敷いた。

天井の照明は消し、残したのはフロアライトだけ。暖かな黄色い光が、部屋全体をぼんやり染めていた。


横になったあとも、石原はしばらく眠れなかった。

天井を見つめたまま、ぼんやりと目を開けていた。


「久希」


隣から、緒山の声がした。彼女もまだ起きているらしい。


「ん」


「ノート……見ます?」


石原が横を向くと、緒山はもうノートを差し出していた。

灯りの下で、小さく揺らしてみせる。


石原はそれを受け取り、ページをめくった。

前半には、これまで【済】をつけてきた項目が並んでいた。

そして後ろの方へ進むと、あのページが目に入った。


【久希と一緒にやりたいこと P.S. デートではありません】


その下に並んでいた空欄は、ほとんど埋まっていた。

【済】がついていないのは、最後の一つだけ。


【雪の日に久希へ告白する】


石原は、その一行を見て動きを止めた。


「……これ」


「変ですよね」


隣から、緒山の声が返ってきた。少し恥ずかしそうに唇を結んでいた。


「もう恋人なのに、今さらこんなこと気にしてるなんて」


石原は何も言わなかった。ただ、静かに彼女を見る。

緒山も体を横向きにして、石原の方を向いた。

横から差す灯りが、彼女の顔に柔らかな陰影を落としている。


「これ、あとから書き足したんです」


少し間を置いて、続けた。


「……戻ってきたあとに」


彼女は小さく息を吐いた。


「あの日、林で久希が告白してくれたのに……私、断っちゃったじゃないですか」


石原の喉がわずかに動いた。けれど、口は挟まなかった。


「そのあと色々あって、ちゃんと付き合えるようになったけど……」


緒山の声には、まだ少し後悔が混じっていた。


「でも、あの時の久希の顔、ずっと覚えてるんです。すごく勇気を出してくれたのに……私、あんな返事をしちゃって」


最後までは言わなかった。

その代わり、石原がそっと彼女の手を握った。

少し冷えた手だった。


「だから、ちゃんとした機会が欲しかったんです」


緒山も握り返した。


「『待っててください』でもなくて、『好きだけど……』でもなくて」


彼女はまっすぐ石原を見る。


「ちゃんとした告白を。久希と私、二人だけのための告白をしたかったんです」


石原はしばらく黙っていた。それから静かに聞いた。


「……なんで雪の日なんだ?」


緒山がぱちりと瞬きをした。


「雪、好きだからですかね」


「……そうか」


「うん。好きです」


緒山はうなずき、窓の外へ目を向けた。

少しだけ、言葉を探すような間が空いた。


「中学の頃、入院してた時間が長かったんです」


静かな声だった。


「病室の窓から見えるの、何もない中庭だけで。でも冬になると……雪の日だけ、すごく綺麗だったんです」


彼女の声が、どこか遠くを見るようになった。


「雪って静かじゃないですか。雨みたいにうるさくないし、人をびしょ濡れにする感じもしなくて。ただ、ゆっくり落ちてきて……全部を白く覆っていくんです」


緒山は目を伏せる。


「病院の白い壁も。白いシーツも。白い薬も。本当は全部、息苦しいくらい嫌だったのに……」


小さく笑った。


「雪が積もると、なんだか違うものに見えたんです。新しくなったみたいで」


それから再び石原を見た。


「あと、雪って……止んだあとに跡が残るんですよね」


彼女の目が少し柔らかくなった。


「足跡とか、タイヤの跡とか、誰かが作った雪だるまとか。『ここに誰かいた』って、ちゃんと残るんです」


緒山は静かに笑った。


「病室からそれを見るたび思ってました。いつか自分も雪の中へ行って、ちゃんと足跡を残したいって」


彼女はゆっくり言葉を続ける。


「私もここにいたって。ちゃんと生きてたって。そういう証みたいなものを、残したかったんです」


石原は何も言わなかった。ただ、握った手に少しだけ力を込めた。

緒山はその手を見下ろしながら、静かに続ける。


「そのあと、体調が少し良くなって、退院できて……本当に雪の上を歩いたんです。たくさん足跡を残して」

「そのときの気持ち、今でもちゃんと覚えてます」


そして石原を見た。彼女の瞳には、柔らかな光が満ちていた。


「だから、雪の日に告白したかったんです。あの日を……二人だけの、静かな時間にしたくて。その言葉を、雪の上に落として、ちゃんと跡として残したかった。証明したかったんです」


彼女はそこで一度、言葉を切った。


「……あの時の私は、本当に、本気で、何ひとつ隠さずに久希のことが好きだったんだって」


部屋が静かになった。

窓の外では、まだ雪が降っていた。音もなく、ゆっくりと。


石原は空いた方の手を伸ばし、そっと彼女の頭を撫でた。


「じゃあ、待つか」


緒山が目を瞬かせた。


「……何をです?」


「明日だ。俺が付き合う」


緒山は一瞬きょとんとしたあと、ふっと笑った。


「久希、知ってます? 天気予報だと、この先一週間ずっと晴れですよ」


「なら、その次」


「その次も降らなかったら?」


「来年の冬」


石原は淡々と言った。


「今年降らなきゃ来年待てばいい。来年も駄目なら、その次を待てばいい」


緒山は口を開きかけて――そのまま言葉を失った。

石原は静かな声で続ける。


「どうせ、ずっと一緒にいるんだし」


軽い口調だった。でも、その一言は緒山の胸に深く落ちた。目の奥が熱くなった。

緒山は返事をせず、そのまま顔を布団へ埋める。


「……寝ましょう、久希」


少しだけ、声がくぐもっていた。

石原は小さく笑った。フロアライトを消し、もう一度天井を見上げた。


しばらくして、隣からぽつりと声が聞こえる。

独り言みたいに、小さな声だった。


「……待てたら、いいな」


石原は返事をしなかった。でも心の中では、静かに思った。


(絶対、待てる)


窓の外では、まだ雪が降っていた。

雪は屋根に落ち、木々に積もり、始まったばかりの新しい年を静かに白く染めていく。


夜が更けるにつれ、雪は少しずつ弱くなっていった。


最後まで【済】のつかなかった願いだけが、ノートの最後のページに残った。


いつか来る「雪の日」を、静かに待ちながら。

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