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見える感情、見えないまま  作者: 颍川
第二十七章 雪解けの音――ああ、これが心臓の音か
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第一百四十三話

---


【十二月二十五日・金曜日・夕方】


緒山家の扉が背後で閉まったとき、石原はようやく自分が玄関に立っていることに気づいた。


「……お邪魔します」


誰もいない廊下へ向かって、そう声をかける。

隣で靴を脱いでいた緒山が、顔を上げた。


「久希、なんでそんなにかしこまってるんですか?初めてじゃないんですから」


たしかに、ここへ来るのは初めてじゃない。でも、今までとは違った。

これまでは、「石原くん」だった。「杏ちゃんのお兄ちゃん」で、「娘の同級生」だった。

でも今日は――


そこまで考えかけたところで、リビングの方から足音が近づいてきた。


「あら、朋奈おかえり――って、あら?」


緒山の母親が廊下の角から、ひょいと顔を出す。

石原を見た瞬間、その目がぱっと明るくなった。


「久希くんも来てたの? いらっしゃい!」


声はいつも通り明るかった。

けれど石原は気づいた。彼女の視線が、一瞬だけ自分と緒山の間を行き来したことに。


「こんばんは。お邪魔します」


石原は軽く頭を下げた。


「いいのよいいのよ、全然邪魔じゃないから」


緒山の母親はぱたぱたと手を振った。

そのあと、何か思い出したように振り返る。


「あなたー!」


「んー? どうしたー?」


リビングの奥から、緒山の父親の声が返ってきた。


「私たち、さっきスーパー行くって話してなかった?」


二秒ほど、間が空いた。


「……え? あー、そうだな。スーパーだったな」


緒山の父親が新聞を持ったまま出てきた。

その表情が、どこか妙だった。


夫婦は一瞬だけ視線を交わす。

その速さは、まるでリハーサル済みみたいだった。


「そうそう、明日の朝ごはんの材料を買わないとね〜」


緒山の母親はそう言いながら玄関へ向かった。

途中、娘の肩を軽く叩き――小声で何かを囁いた。


石原には聞こえなかった。

ただ、緒山の耳の先が少し赤くなったのは見えた。


「じゃあ二人とも、ゆっくりしててね〜。私たち、たぶん二時間くらい? 三時間くらい?まあ、とにかく急いで帰らないから!」


靴を履きながら、緒山の母親がにこっと笑った。


「久希くん、晩ご飯食べていきなさいね。冷蔵庫にあるから、温めればすぐ食べられるし」


「あの、俺――」


「はいはい、遠慮しない遠慮しない」


その頃には、もう扉を開けていた。


「ほら、あなた。早く早く」


緒山の父親は半ば押し出されるように外へ出る。

石原の横を通り過ぎるとき、複雑そうな顔で彼を見た。


「君とは、そのうちちゃんと話すからな! 俺は――」


そこまで言ったところで、そのまま外へ引っ張られていった。

扉が閉まると、玄関が静かになった。


石原はその場に立ったまま、閉じた扉を見つめる。何を言えばいいのか分からなかった。

背後から、小さな笑い声が聞こえた。


「お父さんの顔……」


緒山は口元を押さえて笑っていた。


「面白すぎました」


石原が振り返った。

彼女は目を弓なりに細めて笑っている。さっき雪の中で、自分をからかったときと同じ顔だった。


「……お前の母さん、何て言ったんだ?」


緒山の笑みが、一瞬だけ止まった。

それから、少し頬を赤くする。


「……何でもないです」


「いや、絶対何か言ってただろ」


「本当に何でもないですって」


緒山はそう言って、くるりと背を向けた。彼女の声だけが、家の中からふわりと届く。


「久希も靴を揃えたら、早く上がってきてね。私の部屋で話しましょ」


石原の動きが、一瞬止まった。


――部屋。前にも入ったことはある。

夏休みのあの日、緒山が泣きながら『止まるのが怖い』と零した夜だ。


……でも、今日は違う。


石原は深く息を吸った。

それから靴を揃えて、中へ入っていった。


---


緒山の部屋は、前に来たときとほとんど変わっていなかった。

窓際には机があり、壁際には本棚、ベッドには淡い水色のシーツが敷かれている。


窓の外ではまだ雪が降り続けていて、空はもう暗かった。

街灯の明かりが窓ガラスに映り、雪の影を部屋の中へ落としている。


「座ってください」


緒山が机の椅子を指した。自分はベッドの端へ腰を下ろす。

石原も椅子に座った。


エアコンが、低く唸るような音を立てている。


緒山はすぐには話さず、俯いて自分の手を見つめていた。何かを考えているみたいだった。

石原は黙って待った。


数秒後、緒山が顔を上げ、小さく笑った。


「実は、久希を部屋に呼んだの……見せたいものがあったからなんです」


そう言って、机の引き出しを開く。取り出したのは、一冊のノートだった。

星空柄の表紙で、角は少し擦れていて、何度も開かれた跡があった。


石原には見覚えがあった。


「これ……」


「うん」


緒山がうなずいた。


「私の『願いごとリスト』です」


彼女はノートを石原へ差し出した。

石原は受け取り、ゆっくり表紙を眺めた。

記憶より少しだけ古びていた。でも、間違いない。


夏休み、電車の中で緒山が見せてくれたノートだ。

そのあと林で、二人で小さな人影を描いたことも覚えている。


石原はページを開いた。彼女らしい整った字で、達成済みの項目が並んでいた。


【✓ 久希と一緒に林でお昼を食べる】

【✓ 久希と一緒に夏祭りの花火を見る】

【✓ 久希に「朋奈」って呼んでもらう】


石原の指先が、その文字の上で一瞬止まった。

そのまま、次のページをめくった。後ろの方のページには、いくつもチェックが入っていた。

覚えているものもある。覚えていないものもある。


項目の横には、緒山らしい茶目っ気のあるメモも書かれていた。

石原がそこを見るたび、緒山は慌てて隠そうとしてきた。


石原は少し笑って、またページをめくった。

そして、後半に差しかかったところで手が止まった。


そのページだけ、どこか雰囲気が違った。文字が少し薄かった。

書いたあと、何度も開かれたみたいに、紙が柔らかくなっていた。


そこには、こう書かれていた。


【久希と一緒にやりたいこと P.S. デートではありません】


その下には、まだ何も書かれていない項目欄が並んでいた。チェックも入っていない。


石原は、その文字を数秒見つめた。

それから顔を上げる。緒山がこちらを見ていた。膝の上で、指先をぎゅっと絡めていた。

少し緊張した顔をしていた。でも、その奥には期待も混ざっている。


「……これ」


石原はページを指差した。


「いつ書いたんだ?」


「ずっと前です」


緒山の声は小さかった。


「……『消える』前には、もう書いてました。でも、ずっと見せられなくて」


彼女は少しだけ間を空ける。


「前に、『もう全部達成した』って言ったじゃないですか」


緒山は俯いた。


「あれ、嘘だったんです。全部じゃなくて……ただ、このページだけは見せたくなかったんです」


石原は何も言わなかった。


急かさず、その続きを待っていた。


「だって、このページだけは……」


緒山は俯き、自分の指先を見つめる。


「久希とじゃないとできないことばかりだから。普通の願いじゃなくて……私たち』じゃないと意味がないことなんです」


そう言って、少しだけ顔を逸らした。横顔が、うっすら赤くなっていた。


「そのあと、いろんなことがありました。私、消えちゃって……でも久希が、また見つけてくれて」


彼女はノートへそっと手を置いた。


「本当なら、このノートもなくなっているはずだったんです。でも世界が修正されたあと、また私のところに戻ってきてて……」


表紙に置いた指先が、少し震えている。


「それで、このページを見るたび思ってたんです。また見せてもいいのかなって。わがまますぎないかなって」


緒山は小さく息を吐いた。


「久希は、もう私のためにいっぱい頑張ってくれたのに。これ以上、何かお願いするのは違うんじゃないかなって……」


「朋奈」


石原が静かに遮った。緒山が顔を上げる。

石原はノートを閉じ、そっと彼女の手に戻した。


「やればいい」


緒山が目を瞬かせた。


「……え?」


「さっき言ってただろ。俺と一緒にやりたいことなんだろ?」


石原は淡々と続けた。


「だったら、やればいい」


緒山はぽかんと石原を見つめた。


「でも……久希はもう、私のためにいっぱい――」


「分かってる」


石原は短く言った。


「だからこそ、最後までやった方がいい。後悔を残さないためにも」


少し考えてから、もう一度口を開く。


「それに、お前ひとつ忘れてる」


「……何を?」


石原は、彼女の持つノートを指差した。


「そこに書いてあるの、『久希と一緒にやりたいこと』なんだろ」


緒山は小さくうなずく。


「なら、ちょうどいい」


石原は少しだけ口元を緩めた。


「俺の方にも、朋奈と一緒にやりたいことがある」


緒山がぱちりと瞬く。


「何ですか?」


石原は彼女を見た。


「お前のそのリスト。全部『達成済み』に変えること」


緒山が固まった。じっと石原を見つめる。

唇が少し動いた。何か言おうとして――でも、言葉にならなかった。

そのまま、ゆっくり目の縁が赤くなっていった。


「……久希」


小さな声だった。

石原は少し困ったように眉を下げる。


「おい、泣くほどまずいこと言ったか?」


「違います……」


緒山は首を横に振った。手の甲で目元を擦りながら、小さく笑った。


「まずくないです……ただ……」


緒山は深く息を吸った。どうにか声を落ち着かせようとしているみたいだった。


「……ずるいです」


小さく笑った。


「お願いしたの、私の方なのに。結局また、久希の方が先に嬉しいこと言うんですから」


石原は返す言葉が見つからず、そのまま彼女を見ていた。

緒山は少しずつ呼吸を整える。それからノートを開き、あのページを出した。


「じゃあ……いつから始めます?」


「今日はもう遅いだろ」


石原は窓の外を見た。空はもう完全に暗くなっている。


「明日からでいいんじゃないか」


「明日……」


緒山は少し考えた。


「二十六日ですね。年末まで、あと六日」


「六日か」


石原はうなずいた。


「間に合うのか?」


緒山は空白のリストを見つめた。そして、ふっと笑う。


「間に合います」


ゆっくり顔を上げた。まだ少し目は赤かった。でも、笑顔は明るかった。


「これ、そんなに時間がかかることじゃないんです。ただ……久希が隣にいてくれたらいいだけだから」


彼女は少し照れたように続ける。


「それに、年が明けても……これからも、ずっと一緒にいますし」


その笑顔を見ていると、石原は不思議な気分になった。

雪の夜も、暖房の音も、この部屋の空気さえも、全部どこか軽く感じる。


「じゃあ、明日からだな」


「はいっ」


緒山が嬉しそうにうなずいた。


「じゃあ最初は――」


彼女はノートをめくった。


【久希と一緒に好きな服を買いに行く】


そして顔を上げる。


「……いいですか?」


石原は項目を見て、小さくうなずいた。


「もちろん」


緒山はノートを閉じ、胸に抱きしめる。それから、長く息を吐いた。


「よかったぁ……断られるかと思ってました」


「なんでだよ」


「だって」


緒山が首を傾げた。


「昔の久希って、人が多い場所、すごく苦手だったじゃないですか。服を買うならショッピングモールですし。年末とか、絶対混んでるし……」


「人は変わるだろ」


石原がそう言うと、緒山はくすっと笑った。


「うん。久希は変わりました」


わざと間を空けた。


「『久希って呼べ』って、自分から言っちゃうくらいには」


石原の耳の先がまた熱くなった。

緒山は楽しそうに笑った。それから立ち上がり、ノートを引き出しへ戻す。


「さてと、下に行きましょうか。お母さん、冷蔵庫に晩ご飯があるって言ってましたし。温めますね。久希も食べていってください」


石原も立ち上がり、彼女の後を追って扉の方へ向かった。

扉の前まで来たところで、緒山がふいに振り返った。


「久希」


「ん?」


部屋の暖かな灯りが、彼女の瞳に映っていた。


「一緒にいてくれて、ありがとうございます」


石原は一秒だけ黙った。それから手を伸ばした。そっと、緒山の頭を撫でた。

あの世界で、彼女を落ち着かせたときみたいに。でも今度は、もっと優しく。もっとゆっくり。


「言っただろ。何度も礼言わなくていい」


緒山は目を丸くした。それから、ゆっくり笑った。


「……うん」


小さく息を漏らすように言った。


「大好きです、久希」


二人は並んで階段を下り、キッチンへ向かった。


窓の外では、まだ雪が降り続けていた。世界は静かな白に包まれていた。

そして明日から。六日間の時間が、二人だけのものになる。

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