第一百四十三話
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【十二月二十五日・金曜日・夕方】
緒山家の扉が背後で閉まったとき、石原はようやく自分が玄関に立っていることに気づいた。
「……お邪魔します」
誰もいない廊下へ向かって、そう声をかける。
隣で靴を脱いでいた緒山が、顔を上げた。
「久希、なんでそんなにかしこまってるんですか?初めてじゃないんですから」
たしかに、ここへ来るのは初めてじゃない。でも、今までとは違った。
これまでは、「石原くん」だった。「杏ちゃんのお兄ちゃん」で、「娘の同級生」だった。
でも今日は――
そこまで考えかけたところで、リビングの方から足音が近づいてきた。
「あら、朋奈おかえり――って、あら?」
緒山の母親が廊下の角から、ひょいと顔を出す。
石原を見た瞬間、その目がぱっと明るくなった。
「久希くんも来てたの? いらっしゃい!」
声はいつも通り明るかった。
けれど石原は気づいた。彼女の視線が、一瞬だけ自分と緒山の間を行き来したことに。
「こんばんは。お邪魔します」
石原は軽く頭を下げた。
「いいのよいいのよ、全然邪魔じゃないから」
緒山の母親はぱたぱたと手を振った。
そのあと、何か思い出したように振り返る。
「あなたー!」
「んー? どうしたー?」
リビングの奥から、緒山の父親の声が返ってきた。
「私たち、さっきスーパー行くって話してなかった?」
二秒ほど、間が空いた。
「……え? あー、そうだな。スーパーだったな」
緒山の父親が新聞を持ったまま出てきた。
その表情が、どこか妙だった。
夫婦は一瞬だけ視線を交わす。
その速さは、まるでリハーサル済みみたいだった。
「そうそう、明日の朝ごはんの材料を買わないとね〜」
緒山の母親はそう言いながら玄関へ向かった。
途中、娘の肩を軽く叩き――小声で何かを囁いた。
石原には聞こえなかった。
ただ、緒山の耳の先が少し赤くなったのは見えた。
「じゃあ二人とも、ゆっくりしててね〜。私たち、たぶん二時間くらい? 三時間くらい?まあ、とにかく急いで帰らないから!」
靴を履きながら、緒山の母親がにこっと笑った。
「久希くん、晩ご飯食べていきなさいね。冷蔵庫にあるから、温めればすぐ食べられるし」
「あの、俺――」
「はいはい、遠慮しない遠慮しない」
その頃には、もう扉を開けていた。
「ほら、あなた。早く早く」
緒山の父親は半ば押し出されるように外へ出る。
石原の横を通り過ぎるとき、複雑そうな顔で彼を見た。
「君とは、そのうちちゃんと話すからな! 俺は――」
そこまで言ったところで、そのまま外へ引っ張られていった。
扉が閉まると、玄関が静かになった。
石原はその場に立ったまま、閉じた扉を見つめる。何を言えばいいのか分からなかった。
背後から、小さな笑い声が聞こえた。
「お父さんの顔……」
緒山は口元を押さえて笑っていた。
「面白すぎました」
石原が振り返った。
彼女は目を弓なりに細めて笑っている。さっき雪の中で、自分をからかったときと同じ顔だった。
「……お前の母さん、何て言ったんだ?」
緒山の笑みが、一瞬だけ止まった。
それから、少し頬を赤くする。
「……何でもないです」
「いや、絶対何か言ってただろ」
「本当に何でもないですって」
緒山はそう言って、くるりと背を向けた。彼女の声だけが、家の中からふわりと届く。
「久希も靴を揃えたら、早く上がってきてね。私の部屋で話しましょ」
石原の動きが、一瞬止まった。
――部屋。前にも入ったことはある。
夏休みのあの日、緒山が泣きながら『止まるのが怖い』と零した夜だ。
……でも、今日は違う。
石原は深く息を吸った。
それから靴を揃えて、中へ入っていった。
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緒山の部屋は、前に来たときとほとんど変わっていなかった。
窓際には机があり、壁際には本棚、ベッドには淡い水色のシーツが敷かれている。
窓の外ではまだ雪が降り続けていて、空はもう暗かった。
街灯の明かりが窓ガラスに映り、雪の影を部屋の中へ落としている。
「座ってください」
緒山が机の椅子を指した。自分はベッドの端へ腰を下ろす。
石原も椅子に座った。
エアコンが、低く唸るような音を立てている。
緒山はすぐには話さず、俯いて自分の手を見つめていた。何かを考えているみたいだった。
石原は黙って待った。
数秒後、緒山が顔を上げ、小さく笑った。
「実は、久希を部屋に呼んだの……見せたいものがあったからなんです」
そう言って、机の引き出しを開く。取り出したのは、一冊のノートだった。
星空柄の表紙で、角は少し擦れていて、何度も開かれた跡があった。
石原には見覚えがあった。
「これ……」
「うん」
緒山がうなずいた。
「私の『願いごとリスト』です」
彼女はノートを石原へ差し出した。
石原は受け取り、ゆっくり表紙を眺めた。
記憶より少しだけ古びていた。でも、間違いない。
夏休み、電車の中で緒山が見せてくれたノートだ。
そのあと林で、二人で小さな人影を描いたことも覚えている。
石原はページを開いた。彼女らしい整った字で、達成済みの項目が並んでいた。
【✓ 久希と一緒に林でお昼を食べる】
【✓ 久希と一緒に夏祭りの花火を見る】
【✓ 久希に「朋奈」って呼んでもらう】
石原の指先が、その文字の上で一瞬止まった。
そのまま、次のページをめくった。後ろの方のページには、いくつもチェックが入っていた。
覚えているものもある。覚えていないものもある。
項目の横には、緒山らしい茶目っ気のあるメモも書かれていた。
石原がそこを見るたび、緒山は慌てて隠そうとしてきた。
石原は少し笑って、またページをめくった。
そして、後半に差しかかったところで手が止まった。
そのページだけ、どこか雰囲気が違った。文字が少し薄かった。
書いたあと、何度も開かれたみたいに、紙が柔らかくなっていた。
そこには、こう書かれていた。
【久希と一緒にやりたいこと P.S. デートではありません】
その下には、まだ何も書かれていない項目欄が並んでいた。チェックも入っていない。
石原は、その文字を数秒見つめた。
それから顔を上げる。緒山がこちらを見ていた。膝の上で、指先をぎゅっと絡めていた。
少し緊張した顔をしていた。でも、その奥には期待も混ざっている。
「……これ」
石原はページを指差した。
「いつ書いたんだ?」
「ずっと前です」
緒山の声は小さかった。
「……『消える』前には、もう書いてました。でも、ずっと見せられなくて」
彼女は少しだけ間を空ける。
「前に、『もう全部達成した』って言ったじゃないですか」
緒山は俯いた。
「あれ、嘘だったんです。全部じゃなくて……ただ、このページだけは見せたくなかったんです」
石原は何も言わなかった。
急かさず、その続きを待っていた。
「だって、このページだけは……」
緒山は俯き、自分の指先を見つめる。
「久希とじゃないとできないことばかりだから。普通の願いじゃなくて……私たち』じゃないと意味がないことなんです」
そう言って、少しだけ顔を逸らした。横顔が、うっすら赤くなっていた。
「そのあと、いろんなことがありました。私、消えちゃって……でも久希が、また見つけてくれて」
彼女はノートへそっと手を置いた。
「本当なら、このノートもなくなっているはずだったんです。でも世界が修正されたあと、また私のところに戻ってきてて……」
表紙に置いた指先が、少し震えている。
「それで、このページを見るたび思ってたんです。また見せてもいいのかなって。わがまますぎないかなって」
緒山は小さく息を吐いた。
「久希は、もう私のためにいっぱい頑張ってくれたのに。これ以上、何かお願いするのは違うんじゃないかなって……」
「朋奈」
石原が静かに遮った。緒山が顔を上げる。
石原はノートを閉じ、そっと彼女の手に戻した。
「やればいい」
緒山が目を瞬かせた。
「……え?」
「さっき言ってただろ。俺と一緒にやりたいことなんだろ?」
石原は淡々と続けた。
「だったら、やればいい」
緒山はぽかんと石原を見つめた。
「でも……久希はもう、私のためにいっぱい――」
「分かってる」
石原は短く言った。
「だからこそ、最後までやった方がいい。後悔を残さないためにも」
少し考えてから、もう一度口を開く。
「それに、お前ひとつ忘れてる」
「……何を?」
石原は、彼女の持つノートを指差した。
「そこに書いてあるの、『久希と一緒にやりたいこと』なんだろ」
緒山は小さくうなずく。
「なら、ちょうどいい」
石原は少しだけ口元を緩めた。
「俺の方にも、朋奈と一緒にやりたいことがある」
緒山がぱちりと瞬く。
「何ですか?」
石原は彼女を見た。
「お前のそのリスト。全部『達成済み』に変えること」
緒山が固まった。じっと石原を見つめる。
唇が少し動いた。何か言おうとして――でも、言葉にならなかった。
そのまま、ゆっくり目の縁が赤くなっていった。
「……久希」
小さな声だった。
石原は少し困ったように眉を下げる。
「おい、泣くほどまずいこと言ったか?」
「違います……」
緒山は首を横に振った。手の甲で目元を擦りながら、小さく笑った。
「まずくないです……ただ……」
緒山は深く息を吸った。どうにか声を落ち着かせようとしているみたいだった。
「……ずるいです」
小さく笑った。
「お願いしたの、私の方なのに。結局また、久希の方が先に嬉しいこと言うんですから」
石原は返す言葉が見つからず、そのまま彼女を見ていた。
緒山は少しずつ呼吸を整える。それからノートを開き、あのページを出した。
「じゃあ……いつから始めます?」
「今日はもう遅いだろ」
石原は窓の外を見た。空はもう完全に暗くなっている。
「明日からでいいんじゃないか」
「明日……」
緒山は少し考えた。
「二十六日ですね。年末まで、あと六日」
「六日か」
石原はうなずいた。
「間に合うのか?」
緒山は空白のリストを見つめた。そして、ふっと笑う。
「間に合います」
ゆっくり顔を上げた。まだ少し目は赤かった。でも、笑顔は明るかった。
「これ、そんなに時間がかかることじゃないんです。ただ……久希が隣にいてくれたらいいだけだから」
彼女は少し照れたように続ける。
「それに、年が明けても……これからも、ずっと一緒にいますし」
その笑顔を見ていると、石原は不思議な気分になった。
雪の夜も、暖房の音も、この部屋の空気さえも、全部どこか軽く感じる。
「じゃあ、明日からだな」
「はいっ」
緒山が嬉しそうにうなずいた。
「じゃあ最初は――」
彼女はノートをめくった。
【久希と一緒に好きな服を買いに行く】
そして顔を上げる。
「……いいですか?」
石原は項目を見て、小さくうなずいた。
「もちろん」
緒山はノートを閉じ、胸に抱きしめる。それから、長く息を吐いた。
「よかったぁ……断られるかと思ってました」
「なんでだよ」
「だって」
緒山が首を傾げた。
「昔の久希って、人が多い場所、すごく苦手だったじゃないですか。服を買うならショッピングモールですし。年末とか、絶対混んでるし……」
「人は変わるだろ」
石原がそう言うと、緒山はくすっと笑った。
「うん。久希は変わりました」
わざと間を空けた。
「『久希って呼べ』って、自分から言っちゃうくらいには」
石原の耳の先がまた熱くなった。
緒山は楽しそうに笑った。それから立ち上がり、ノートを引き出しへ戻す。
「さてと、下に行きましょうか。お母さん、冷蔵庫に晩ご飯があるって言ってましたし。温めますね。久希も食べていってください」
石原も立ち上がり、彼女の後を追って扉の方へ向かった。
扉の前まで来たところで、緒山がふいに振り返った。
「久希」
「ん?」
部屋の暖かな灯りが、彼女の瞳に映っていた。
「一緒にいてくれて、ありがとうございます」
石原は一秒だけ黙った。それから手を伸ばした。そっと、緒山の頭を撫でた。
あの世界で、彼女を落ち着かせたときみたいに。でも今度は、もっと優しく。もっとゆっくり。
「言っただろ。何度も礼言わなくていい」
緒山は目を丸くした。それから、ゆっくり笑った。
「……うん」
小さく息を漏らすように言った。
「大好きです、久希」
二人は並んで階段を下り、キッチンへ向かった。
窓の外では、まだ雪が降り続けていた。世界は静かな白に包まれていた。
そして明日から。六日間の時間が、二人だけのものになる。




