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見える感情、見えないまま  作者: 颍川
第二十七章 雪解けの音――ああ、これが心臓の音か
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第一百四十二話

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校舎から校門までは、それほど長い道ではない。

けれど雪の日は、いつもより少し歩みが遅くなる。


石原は傘を差し、できるだけ緒山が濡れないよう、彼女を真ん中に入れている。

そのせいで、自分の片肩には雪が積もっていた。


緒山はそれに気づくと、そっと彼の腕を石原の方へ押し戻した。


「傘、ずれてます」


「ずれてない」


「ずれてます」


彼女は譲らず、傘を元の位置へ押し戻す。


「肩、真っ白ですよ」


石原は自分の肩を見る。たしかに白かった。

軽く肩を揺らすと、雪がぱらぱらと落ちる。

――それでも、また傘を緒山の方へ傾けた。


緒山は思わず笑った。


「先輩、そのままだと風邪ひきますよ?」


「お前の方が薄着だろ」


「薄着なのは……」


そこまで言って、緒山は言葉を止める。

石原が横を向いて彼女を見た。


「何が?」


緒山は答えなかった。代わりに手を伸ばし、落ちてきた雪をひとひら受け止める。

掌の上で溶けていく雪を、じっと見つめていた。数秒してから、少し照れたように口を開いた。


「雪が体に落ちる感じ、好きなんです」


彼女は小さく笑った。


「冷たくて、軽くて……なんだか、少しだけ何かを忘れられる気がして」


石原は何も言わなかった。

夏休み、緒山の家で夕飯を食べた日のことを思い出した。

彼女の母親が、そっと緒山の手の甲に触れていたこと。まるで、何かを確かめるみたいな触れ方だった。

それから、あの日の夕方、緒山が隠れるように薬を飲んでいた姿も。


まだ聞いていないことがある。彼女が、まだ話していないこともある。


駅を出て、見慣れた道を家の方へ歩いていく。


積もった雪には、浅い足跡がいくつも残っていた。街路樹も、白く染まっていた。

ときどき枝の雪が落ち、ぼふっ、と鈍い音を立てた。


「先輩」


緒山が不意に口を開いた。


「ん?」


「さっき、生徒会室で会長が体調のこと聞いたとき……」


少し間が空いた。


「気づいてましたよね」


石原の足が、一瞬だけ止まった。だが何も言わず、そのまままた歩き出す。

緒山も数秒黙ったあと、小さな声で言った。


「……ごめんなさい」


「何にだよ」


「みんなに嘘をついたから」


彼女は前を向いたまま続けた。


「『大丈夫です』って言いましたけど……本当は、嘘なんです」


石原は黙ったまま、続きを待った。


雪は静かに降り続けている。傘に当たる音だけが、かすかにさらさらと響いていた。


緒山は何かを決めるみたいに、深く息を吸った。


「私の異能力……まだ、消えてないんです」


今度こそ、石原は立ち止まった。石原は振り返った。

緒山も足を止めていた。けれど彼女は石原を見ず、ただ足元の雪を見つめている。


「執念も……たぶん、まだ残っています。それが何なのか、自分でもちゃんとは分からないんですけど……心のどこかが、まだ詰まったままで」


白い息が、静かに空へ溶けていった。


「能力も残っています。使おうと思えば、今でも使えます」


石原は数秒黙ってから、低く聞いた。


「……なんでみんなに嘘をついた」


緒山がゆっくり顔を上げる。瞳の奥に、雪明かりが映っていた。

そのさらに奥に、ほんの少しだけ怯えも見えた。


「もうすぐお正月だからです」


小さな声だった。


「みんな、やっと安心してたんです。全部終わったって、すごく嬉しそうで……」


彼女は少し俯いた。


「そんなときに、また心配をかけたくなかったんです」


それから、さらに声を弱めた。


「それに……みんなにあんなに頑張って見つけてもらったのに。先輩だって、あんなことになりかけたのに……」


雪が彼女の髪に落ちた。睫毛にも、小さく触れていく。

それでも彼女は動かなかった。ただ、石原の反応を待つみたいに立っている。


石原は、十一月のことを思い出した。

みんなが緒山を忘れていた頃。彼女の家の前に立ち、返事のない空間へ向かって話しかけていた日々。

聞こえているかも分からなかった。それでも、彼は声をかけ続けた。


「……それで」


石原が静かに口を開いた。


「今それを俺に言ったってことは、お前はどうしたいんだ」


緒山が、ゆっくり顔を上げる。


「俺だけに話して、面倒だって思われるとか考えなかったのか?」


石原は、少し冗談めかして笑った。

緒山は一瞬きょとんとしたあと、ゆっくり笑った。肩の力が、少し抜けたように見えた。


「だって先輩は……私にとって、特別な人ですから」


石原は言葉に詰まった。

不意打ちみたいなその一言に、頬がじわっと熱くなった。

誤魔化すように頭を掻く。


そんな石原の反応を見て、緒山の笑みが少し深くなった。

彼女は半歩だけ前へ出る。傘の真ん中へ入り、下から石原を見上げた。


「ちょっとわがままかもしれないですけど……」


声が少しだけ柔らかくなった。


「先輩も一緒に、解決してくれませんか?」


雪明かりの中で、彼女の目はひどく明るかった。周りの雪よりも、ずっと。

石原は、その瞳を見つめた。そしてふと思い出した。


――ずっと昔のようで、ほんの半年前。

まだ一人で林にいて、誰とも関わらないように昼飯を食べていた頃のことを。

もしあの頃の自分に、「いつか雪の中で、女の子にこんな目で見つめられて、『特別な人』だなんて言われる日が来る」


そう言ったら。たぶん、相手の正気を疑っていた。そんなわけあるか、と。


……でも、これは本当だった。夢みたいだけど、ちゃんと現実だった。


石原は深く息を吸った。吐き出した白い息が、冷たい空気の中へ溶けていった。


「えぇ〜」


わざとらしく声を伸ばす。


「俺だって面倒なのは苦手なんだけどな。じゃあ、こっちも一つ条件出していいか?」


緒山がぱちりと瞬きをした。


「何ですか?」


石原は彼女を見る。口元が、ほんの少しだけ上がった。


「……久希って呼べよ。朋奈」


緒山が固まった。

数秒、そのまま石原を見つめる。まるで今の言葉が、本当に彼の口から出たのか確認しているみたいだった。


それから。彼女の目が、ゆっくり月みたいに細くなった。笑みが、目元から口元へ広がっていった。


「ぷっ……ふふ」


とうとう耐えきれなかったみたいに、緒山が吹き出した。

慌てて口元を押さえたが、肩はずっと震えている。睫毛に乗った雪まで、小さく揺れていた。


「せ、先輩……っ」


笑いを堪えきれず、声が途切れ途切れになった。


「本当に……あの橋で、私から逃げようとしてた先輩ですか……?」


石原は顔が熱くなるのを感じ、視線を逸らす。


「嫌なら別にいい」


「いえいえ、嫌じゃないです。全然」


緒山は一度深呼吸して、必死に笑いを落ち着かせる。

それから、少しだけ照れた顔で笑った。


「分かりました、久希」


その名前が彼女の口からこぼれると、他の誰に呼ばれるのとも違って聞こえた。


石原はもう一度、緒山を見る。視線が重なった。


二人の間を、雪が静かに降っていた。細かく、淡く。

まるで世界の音だけが、ミュートされたみたいだった。


「久希」


緒山が、もう一度呼んだ。今度は笑っていなかった。

ただ、その響きを確かめるみたいに、そっと。


石原は耳の先が熱くなるのを感じる。


「……ん」


短く返事をした。


そのまま、二人は数秒だけ見つめ合っていた。

雪が傘を叩き、肩に落ち、睫毛にも静かに触れていく。


石原はふと思った――このまま突っ立ってるの、なんか間抜けだな。

でも、不思議と動きたくなかった。


そのときだった。緒山の視線が、一瞬だけ石原の唇へ落ちる。すぐに逸れた。

本当に、一瞬だった。見間違いかと思うほど短かった。


……けれど、石原は見逃さなかった。


林でのことを思い出す。後ろから抱きつかれて。

それから――その先のことも、ちゃんと覚えていた。


今は雪の中だ。一本の傘の下。名前を呼び合った直後。


(……こういう時って)

(何かした方がいいのか?)


鼓動が少し速くなった。


石原は、ゆっくり顔を近づける。

緒山は動かなかった。待っているみたいに、静かに目を伏せる。

睫毛が小さく震えていた。そこへ雪が触れて、細かなダイヤみたいに光った。


石原は、もう少しだけ距離を詰める。吐息の温度が分かるくらい近くなった。

緒山が、そっと目を閉じた。石原も目を閉じ――唇に、柔らかくて冷たい感触が触れた。


……いや、違う。


石原は目を開けた。

緒山が、いたずらっぽく笑っていた。


彼女の指先が、石原の唇を押さえていた。雪の温度を含んだ、冷たい指だった。


「こういうことは」


緒山がくすっと笑った。


「ご褒美に取っておいた方が、もっとドキドキしません?」


石原は固まった。数秒遅れて、ゆっくり顔を離した。

そして、笑いを堪えている緒山の顔を見て――どんな顔をすればいいのか分からなくなった。


緒山は、とうとう吹き出した。さっきよりずっと大きく笑っていた。

腰を折り、膝に手をついて、傘までぐらぐら揺れている。


「せ、先輩……じゃなくて、久希の顔……っ」


息も絶え絶えに笑った。


「ま、真っ赤です……ほんと、太陽みたい……っ」


石原は自分の頬に触れる。たしかに熱かった。

思わずため息が漏れる――なのに、口元は勝手に緩んでいた。


「ほら、立てよ」


石原はそう言って、緒山へ手を伸ばした。


「雪、強くなってきたし」


緒山はその手を取って立ち上がる。目元には、笑いすぎた涙が少し浮かんでいた。

それでも、彼女の目は嬉しそうに輝いている。


「久希」


「ん?」


「一緒にいてくれて、ありがとうございます」


緒山は柔らかく笑った。


「執念も――一緒に解決していきましょうね」


石原は彼女を見る。


それから、また少しだけ傘を緒山の方へ寄せた。


「……ああ」


雪は、まだ降り続けている。


二人はまた歩き出した。足跡が一つ深く、一つ浅く、雪の上に並んで伸びていく。

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