第一百四十二話
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校舎から校門までは、それほど長い道ではない。
けれど雪の日は、いつもより少し歩みが遅くなる。
石原は傘を差し、できるだけ緒山が濡れないよう、彼女を真ん中に入れている。
そのせいで、自分の片肩には雪が積もっていた。
緒山はそれに気づくと、そっと彼の腕を石原の方へ押し戻した。
「傘、ずれてます」
「ずれてない」
「ずれてます」
彼女は譲らず、傘を元の位置へ押し戻す。
「肩、真っ白ですよ」
石原は自分の肩を見る。たしかに白かった。
軽く肩を揺らすと、雪がぱらぱらと落ちる。
――それでも、また傘を緒山の方へ傾けた。
緒山は思わず笑った。
「先輩、そのままだと風邪ひきますよ?」
「お前の方が薄着だろ」
「薄着なのは……」
そこまで言って、緒山は言葉を止める。
石原が横を向いて彼女を見た。
「何が?」
緒山は答えなかった。代わりに手を伸ばし、落ちてきた雪をひとひら受け止める。
掌の上で溶けていく雪を、じっと見つめていた。数秒してから、少し照れたように口を開いた。
「雪が体に落ちる感じ、好きなんです」
彼女は小さく笑った。
「冷たくて、軽くて……なんだか、少しだけ何かを忘れられる気がして」
石原は何も言わなかった。
夏休み、緒山の家で夕飯を食べた日のことを思い出した。
彼女の母親が、そっと緒山の手の甲に触れていたこと。まるで、何かを確かめるみたいな触れ方だった。
それから、あの日の夕方、緒山が隠れるように薬を飲んでいた姿も。
まだ聞いていないことがある。彼女が、まだ話していないこともある。
駅を出て、見慣れた道を家の方へ歩いていく。
積もった雪には、浅い足跡がいくつも残っていた。街路樹も、白く染まっていた。
ときどき枝の雪が落ち、ぼふっ、と鈍い音を立てた。
「先輩」
緒山が不意に口を開いた。
「ん?」
「さっき、生徒会室で会長が体調のこと聞いたとき……」
少し間が空いた。
「気づいてましたよね」
石原の足が、一瞬だけ止まった。だが何も言わず、そのまままた歩き出す。
緒山も数秒黙ったあと、小さな声で言った。
「……ごめんなさい」
「何にだよ」
「みんなに嘘をついたから」
彼女は前を向いたまま続けた。
「『大丈夫です』って言いましたけど……本当は、嘘なんです」
石原は黙ったまま、続きを待った。
雪は静かに降り続けている。傘に当たる音だけが、かすかにさらさらと響いていた。
緒山は何かを決めるみたいに、深く息を吸った。
「私の異能力……まだ、消えてないんです」
今度こそ、石原は立ち止まった。石原は振り返った。
緒山も足を止めていた。けれど彼女は石原を見ず、ただ足元の雪を見つめている。
「執念も……たぶん、まだ残っています。それが何なのか、自分でもちゃんとは分からないんですけど……心のどこかが、まだ詰まったままで」
白い息が、静かに空へ溶けていった。
「能力も残っています。使おうと思えば、今でも使えます」
石原は数秒黙ってから、低く聞いた。
「……なんでみんなに嘘をついた」
緒山がゆっくり顔を上げる。瞳の奥に、雪明かりが映っていた。
そのさらに奥に、ほんの少しだけ怯えも見えた。
「もうすぐお正月だからです」
小さな声だった。
「みんな、やっと安心してたんです。全部終わったって、すごく嬉しそうで……」
彼女は少し俯いた。
「そんなときに、また心配をかけたくなかったんです」
それから、さらに声を弱めた。
「それに……みんなにあんなに頑張って見つけてもらったのに。先輩だって、あんなことになりかけたのに……」
雪が彼女の髪に落ちた。睫毛にも、小さく触れていく。
それでも彼女は動かなかった。ただ、石原の反応を待つみたいに立っている。
石原は、十一月のことを思い出した。
みんなが緒山を忘れていた頃。彼女の家の前に立ち、返事のない空間へ向かって話しかけていた日々。
聞こえているかも分からなかった。それでも、彼は声をかけ続けた。
「……それで」
石原が静かに口を開いた。
「今それを俺に言ったってことは、お前はどうしたいんだ」
緒山が、ゆっくり顔を上げる。
「俺だけに話して、面倒だって思われるとか考えなかったのか?」
石原は、少し冗談めかして笑った。
緒山は一瞬きょとんとしたあと、ゆっくり笑った。肩の力が、少し抜けたように見えた。
「だって先輩は……私にとって、特別な人ですから」
石原は言葉に詰まった。
不意打ちみたいなその一言に、頬がじわっと熱くなった。
誤魔化すように頭を掻く。
そんな石原の反応を見て、緒山の笑みが少し深くなった。
彼女は半歩だけ前へ出る。傘の真ん中へ入り、下から石原を見上げた。
「ちょっとわがままかもしれないですけど……」
声が少しだけ柔らかくなった。
「先輩も一緒に、解決してくれませんか?」
雪明かりの中で、彼女の目はひどく明るかった。周りの雪よりも、ずっと。
石原は、その瞳を見つめた。そしてふと思い出した。
――ずっと昔のようで、ほんの半年前。
まだ一人で林にいて、誰とも関わらないように昼飯を食べていた頃のことを。
もしあの頃の自分に、「いつか雪の中で、女の子にこんな目で見つめられて、『特別な人』だなんて言われる日が来る」
そう言ったら。たぶん、相手の正気を疑っていた。そんなわけあるか、と。
……でも、これは本当だった。夢みたいだけど、ちゃんと現実だった。
石原は深く息を吸った。吐き出した白い息が、冷たい空気の中へ溶けていった。
「えぇ〜」
わざとらしく声を伸ばす。
「俺だって面倒なのは苦手なんだけどな。じゃあ、こっちも一つ条件出していいか?」
緒山がぱちりと瞬きをした。
「何ですか?」
石原は彼女を見る。口元が、ほんの少しだけ上がった。
「……久希って呼べよ。朋奈」
緒山が固まった。
数秒、そのまま石原を見つめる。まるで今の言葉が、本当に彼の口から出たのか確認しているみたいだった。
それから。彼女の目が、ゆっくり月みたいに細くなった。笑みが、目元から口元へ広がっていった。
「ぷっ……ふふ」
とうとう耐えきれなかったみたいに、緒山が吹き出した。
慌てて口元を押さえたが、肩はずっと震えている。睫毛に乗った雪まで、小さく揺れていた。
「せ、先輩……っ」
笑いを堪えきれず、声が途切れ途切れになった。
「本当に……あの橋で、私から逃げようとしてた先輩ですか……?」
石原は顔が熱くなるのを感じ、視線を逸らす。
「嫌なら別にいい」
「いえいえ、嫌じゃないです。全然」
緒山は一度深呼吸して、必死に笑いを落ち着かせる。
それから、少しだけ照れた顔で笑った。
「分かりました、久希」
その名前が彼女の口からこぼれると、他の誰に呼ばれるのとも違って聞こえた。
石原はもう一度、緒山を見る。視線が重なった。
二人の間を、雪が静かに降っていた。細かく、淡く。
まるで世界の音だけが、ミュートされたみたいだった。
「久希」
緒山が、もう一度呼んだ。今度は笑っていなかった。
ただ、その響きを確かめるみたいに、そっと。
石原は耳の先が熱くなるのを感じる。
「……ん」
短く返事をした。
そのまま、二人は数秒だけ見つめ合っていた。
雪が傘を叩き、肩に落ち、睫毛にも静かに触れていく。
石原はふと思った――このまま突っ立ってるの、なんか間抜けだな。
でも、不思議と動きたくなかった。
そのときだった。緒山の視線が、一瞬だけ石原の唇へ落ちる。すぐに逸れた。
本当に、一瞬だった。見間違いかと思うほど短かった。
……けれど、石原は見逃さなかった。
林でのことを思い出す。後ろから抱きつかれて。
それから――その先のことも、ちゃんと覚えていた。
今は雪の中だ。一本の傘の下。名前を呼び合った直後。
(……こういう時って)
(何かした方がいいのか?)
鼓動が少し速くなった。
石原は、ゆっくり顔を近づける。
緒山は動かなかった。待っているみたいに、静かに目を伏せる。
睫毛が小さく震えていた。そこへ雪が触れて、細かなダイヤみたいに光った。
石原は、もう少しだけ距離を詰める。吐息の温度が分かるくらい近くなった。
緒山が、そっと目を閉じた。石原も目を閉じ――唇に、柔らかくて冷たい感触が触れた。
……いや、違う。
石原は目を開けた。
緒山が、いたずらっぽく笑っていた。
彼女の指先が、石原の唇を押さえていた。雪の温度を含んだ、冷たい指だった。
「こういうことは」
緒山がくすっと笑った。
「ご褒美に取っておいた方が、もっとドキドキしません?」
石原は固まった。数秒遅れて、ゆっくり顔を離した。
そして、笑いを堪えている緒山の顔を見て――どんな顔をすればいいのか分からなくなった。
緒山は、とうとう吹き出した。さっきよりずっと大きく笑っていた。
腰を折り、膝に手をついて、傘までぐらぐら揺れている。
「せ、先輩……じゃなくて、久希の顔……っ」
息も絶え絶えに笑った。
「ま、真っ赤です……ほんと、太陽みたい……っ」
石原は自分の頬に触れる。たしかに熱かった。
思わずため息が漏れる――なのに、口元は勝手に緩んでいた。
「ほら、立てよ」
石原はそう言って、緒山へ手を伸ばした。
「雪、強くなってきたし」
緒山はその手を取って立ち上がる。目元には、笑いすぎた涙が少し浮かんでいた。
それでも、彼女の目は嬉しそうに輝いている。
「久希」
「ん?」
「一緒にいてくれて、ありがとうございます」
緒山は柔らかく笑った。
「執念も――一緒に解決していきましょうね」
石原は彼女を見る。
それから、また少しだけ傘を緒山の方へ寄せた。
「……ああ」
雪は、まだ降り続けている。
二人はまた歩き出した。足跡が一つ深く、一つ浅く、雪の上に並んで伸びていく。




