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見える感情、見えないまま  作者: 颍川
第二十六章 半分の未来――君の声が聞こえるまで
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第一百四十話

---


次に目を覚ましたとき、そこにあったのは、病院の白い天井だった。

石原はゆっくり瞬きをし、頭上の照明に目を慣らす。


隣から勢いよく人影が飛び込んできた。


「お兄ちゃん! やっと起きた!」


視界に入ってきたのは杏だった。目元が少し赤かった。


「びっくりしたんだから! 低血糖ならちゃんと言ってよ! 朝起こしたときから顔色悪かったのに、平気だって言い張るし!そのくせ校門まで行ったところで倒れるし――」


杏は次から次へと言葉をまくし立てた。

石原はそれを聞きながら、別のことを考えていた。


低血糖? 倒れた理由は――


石原は勢いよく身体を起こした。


「朋奈は?」


杏は目を丸くした。次の瞬間、吹き出した。


「馬鹿だなあ、お兄ちゃん。目が覚めて最初の一言が、私へのお礼じゃなくて朋奈さんのことなの?」


杏は額に手を当てる。


「熱はないよね? 一回倒れただけで頭まで変になっちゃった?」


杏の様子は自然だった。「朋奈さん」と口にしたときも、何の違和感もなかった。

杏は覚えている。朋奈のことを。ただ――


「最近、毎日べったり一緒にいるじゃん」

「今朝だってメッセージ来てたし。大丈夫。朋奈さんは元気。問題があるのは、お兄ちゃんの方だから」


石原は固まった。


「毎日べったり……?」


石原はベッドサイドへ視線を向け、そこにあったカレンダーを見た。


十二月二十三日。一月じゃない。

石原は数秒動けなかった。


頭の中にはまだ残っていた――伝達を続けたときの眩暈。胸を握り潰されるような痛み。

最後に、朋奈の手が自分を引き寄せた感触。


夢じゃない。あれは確かにあった。

それなのに。カレンダーにははっきりと書かれていた。十二月二十三日。


「……お兄ちゃん?」


杏が顔を覗き込んできた。手には半分まで剥いたリンゴ。


「どうしたの? ぼーっとして」


「今日……何日だ?」


「十二月二十三日」


杏は即答した。


「低血糖で午前中ずっと寝てたんだよ? 本当に頭、ぼーっとしてるんじゃない?」


十二月二十三日。低血糖。午前中ずっと寝ていた。


石原は杏を見た。

表情は普通だった。寝不足の痕跡もない。泣き続けたような目でもない。

処置室の前で泣き崩れていた人間には見えなかった。


そして、杏は朋奈を覚えている。その名前を口にすることも、あまりにも自然だった。


だが――あの二か月あまりを覚えているようには見えない。

交代制も。あの線も。初詣の日に倒れたことも。伝達の最中に意識を失ったことも。何も。


石原はゆっくりベッドに背中を預ける。そして目を閉じた。


(……どういうことだ)


石原はふと思い出す。こういうことは初めてじゃなかった。

泉方橋でも。校舎でも。朋奈の異能力を目の当たりにしたとき。似たようなことが起きていた。


(……本当に妙だな)


杏の言葉から考えるなら、みんな朋奈を覚えている。

生徒会の一員として。

そして自分の――恋人として。たぶん。


石原は小さく息を吐いた。

まるで世界そのものが、自分が朋奈に告白して、付き合うことになった記憶を補完したみたいだった。


けれど。彼女が消えたことも。みんなで必死に探したことも。誰も覚えていない。


(……覚えているのは)


石原は目を閉じたまま考えた。


(俺と朋奈だけなのかもしれないな)


握っていたシーツから、手の力が抜けた。

杏はリンゴを差し出した。


「はい」


笑顔だった。


「先生も問題ないって言ってたし、少し様子を見たら退院できるって。私は手続きしてくるから」


杏は立ち上がり、扉へ向かった。


「ちゃんと寝ててね」


ドアの前で振り返る。


「あ、そうだ」


杏は思い出したように言う。


「朋奈さん、今夜うちに様子を見に来るって」


少し呆れたように笑った。


「ほんと、仲いいよね。二人とも」


そう言い残して病室を出ていった。


静かになる。石原は一人だった。

白い天井を見上げた。そして、しばらく何も考えられずにいた。


---


【午前】


退院した石原は、そのまま学校へ向かった。

道を歩きながらスマホを取り出し、緒山にメッセージを送る。


『今どこだ?』


送ってからしばらく待った。返信はなかった。

石原はもう一通送る。


『見たら返事してくれ。もう大丈夫だ。今から探しに行く』


それでも、返信は来なかった。


(……朋奈?)


石原はスマホを握り締め、歩く速度を上げた。


---


学校は、いつも通りだった。

十二月二十三日。学期末まであと数日で、みんなクリスマスを待っていた。

廊下では、プレゼントの話をする生徒もいれば、どこへ遊びに行くか相談している生徒もいる。


石原は教室に入り、自分の席に座った。

周りの生徒たちが声をかけてきた。


「石原、昼一緒に食べない?」


「あ、俺たち何人かでラーメン食べに行くんだけど、お前も来る?」


「あのゲーム、クリアした? ちょっと教えてくれよ――」


石原は少しだけ固まった。


こういう誘いは、数か月前の自分なら全部断っていたはずだ。

けれど今は、自分が迷っていることに気づいた。


「今日は……ちょっと用がある。また今度にする。悪い」


同級生たちは特に気にした様子もなく、また別の話を始めた。


石原はスマホを取り出し、もう一度画面を見る。

やはり、返信はなかった。


じっとしていられなくなってきた。


---


昼休みのチャイムが鳴った。


そのときスマホが震え、石原は慌てて画面を見た。

春野からのメッセージだった。


『昼の仕事はなし。それと、生徒会室は改修中だ。ここ数日の活動場所は未定。せっかくの「休み」だ。ちゃんと楽しめ』


石原はそのメッセージを数秒ほど見つめた。

どこか、うまく言えない違和感があった。


スマホをしまい、席を立った。

教室を出て、あの方向へ向かった。


---


石原は林の中へ向かっていた。


その道は、何度も歩いた。

一人で。みんなと一緒に。記憶の中で。そして今、もう一度歩いている。


けれど、今日は少し違った。

理由は分からなかった。ただ、あの場所へ近づくほど鼓動が速くなっていった。


期待しているのかもしれない。気づかないうちに、口元が少し緩んでいた。

自分でも気づかないまま、足が自然と速くなった。

もう少し。あと少し――そう思ったところで、石原はベンチを見つけた。


空っぽだった。

誰もいない。


石原は足を止めた。

口元の笑みがゆっくり消えた。


その場に立ち尽くす。

空のベンチを見つめたまま、数秒、動けなかった。


――その背中に、突然、柔らかな感触があった。

軽く、優しく、誰かが後ろから抱きついている。

髪が頬をかすめる。懐かしい香りがした。


石原の身体が固まった。

鼓動が一度だけ止まりそうになって、次の瞬間、激しく跳ねる。


背後から声が聞こえた。どこか楽しそうで、いたずらっぽい声だった。


「先輩、私の『未来』を半分分けてほしいって言ってましたよね?」


石原は勢いよく振り返った。

朋奈がいた。


木漏れ日が頬を照らしていた。

彼女は笑っていた。目を細めて。少しだけ頬を赤くして。


石原は口を開いた。何か言おうとした。

けれど――


その前に。


朋奈が背伸びをして、唇を重ねた。

ほんの一瞬。羽が落ちるみたいに軽かった。


そして離れた。一歩だけ後ろへ下がる。

石原の固まった顔を見て、さらに楽しそうに笑った。


「これが私の返事です」


陽射しは暖かかった。風も穏やかだった。


朋奈の頬はさっきより赤かった。

それでも、瞳だけは真っ直ぐ石原を見ている。


石原は何も言えなかった。耳まで真っ赤だった。

口を開いた。閉じた。もう一度開いた。そしてようやく絞り出す。


「……わざとだろ」


朋奈は首を傾げた。まるで魚を盗んだ猫みたいな笑顔だった。


「うん」


即答だった。


「わざとです」


楽しそうに笑う。


「私……もう逃げないって決めました」


小さな声だった。自分自身に言い聞かせるみたいに。


石原が何か言おうとした。

だが、その前に。林の奥から音が聞こえる。

――誰かが笑いを堪えたみたいな音だった。


朋奈はそちらを睨んだ。

すると、その気配はすぐに消えた。


石原は何も言わなかった。

言わなくても分かっていた。


朋奈は何事もなかったように手を差し出し、そして石原の手を取る。


「行きましょう、先輩」


「どこに?」


「お昼ご飯です」


当然みたいな顔だった。


「まだ食べてないですよね?」


石原は目を瞬かせた。


「……なんで分かるんだ」


朋奈は答えなかった。ただ笑った。


二人は歩き出す。林を抜ける方へ。


木漏れ日が地面を照らしていた。


手は繋がれたままだった。

石原は一度だけ視線を落とす。繋がれた手を見た。

そして前を向く。


気づけば、口元が少し緩んでいた。

今度こそ、もう失わない。


---


【EXTRA VIEW——生徒会室】


生徒会室。


「送ったぞ」


春野は得意げにスマホを振った。画面には、先ほど送信したメッセージが表示されている。


『昼の仕事はなし――』


椅子の背にもたれながら、口元を緩めた。


「どうだ? 自然だっただろ?」


立花は机の縁に両手をかけ、身を乗り出す。目がきらきらしていた。


「先輩、何か返してきました?」


「いや」


春野はスマホをポケットへ戻した。


「でも俺の予想だと、今ごろ落ち着かなくなってるはずだ」


隣で杏が吹き出した。


「最高ですね、それ!」


肩を震わせながら笑った。


「今ごろ朋奈さんからの返事を待って、焦りまくってるんでしょうね」

「そこに春野先輩からあんなメッセージが来たら、変だとは思うけど、何が変なのかは分からないし――」


「それで林に行く」


立花が当然みたいに続ける。


「先輩、朋奈ちゃんのことを考えると、いつもあそこに行きますもん」


杏と立花は顔を見合わせた。そして同時に笑い出す。


花野だけはパソコンの前に座ったままだった。

画面には大量のデータが並んでいた。

振り返りもしない。眼鏡を押し上げながら一言。


「くだらない」


杏が身を乗り出した。


「真汐ちゃんだって参加してたじゃん」


にやにやしながら言った。


「朋奈さんの返信、遅らせてたの真汐ちゃんでしょ?」


『全部知ってる』と言いたげな顔だった。

花野の指が一瞬止まった。


「……技術的な遅延」


少し間を置いた。


「妨害ではない」


立花が吹き出した。


「それ、妨害ですよね」


花野は何も言わなかった。

だが。レンズの反射の奥で。口元だけがほんの少し緩んでいた。

春野が立ち上がり、窓際まで歩いていった。


「よし」


軽く手を叩く。


「そろそろ本題だ」


杏が首を傾げた。


「何するんですか?」


春野は振り返る。妙に意味深な笑顔だった。


「林に行くんだよ」


当然みたいに言った。


「成功したか確認しないとな」


立花と杏が固まった。

一秒後。同時に立ち上がった。


「行こ行こ!」


「早く早く!」


二人は手を引っ張り合いながら入口へ向かう。

その背中に向かって花野が言った。


「覗きは恥ずべき行為」


誰も聞いていなかった。

春野は扉の前で立ち止まり、振り返る。


「花野は来ないのか?」


花野は画面を見つめたままだった。動かなかった。

二秒ほど経って。ノートパソコンを閉じた。そして立ち上がった。


「確認するだけ」


春野は笑った。


「分かったよ」


四人は生徒会室を出る。


廊下の先には窓があった。

冬の陽射しが差し込んでいた。


その向こう。林のある方角を見やった。


あちらは今ごろ、どうなっているのだろう。

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