第一百三十九話
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光はなかった。音もなかった。上下も左右もなかった。
石原は、自分がどこにいるのか分からなかった。そもそも、自分に身体があるのかどうかさえ曖昧だった。
ただ意識だけが漂っていた。沈みもせず、どこかへ辿り着くこともなく、水面に浮かぶ一枚の落ち葉みたいに。
石原は見つけた。過去の自分を――制服姿で、手には弁当箱を提げ、ベンチの横に立っている自分を。
自分だった。けれど、自分ではない。
石原はその光景の外側にいた。ただの傍観者として、午後の林の中を見つめていた。
「彼女」はベンチに座り、膝に顔を埋めていた。肩が小さく震えていた。
その顔はもう曖昧ではなかった。はっきりと見えていた。
睫毛に残る涙。わずかに寄せられた眉。涙で頬に貼りついた髪。
その全部が、見えていた。
(……朋、奈)
石原はその顔から目を離せなかった。喉の奥が詰まる。
過去の自分が口を開き、そして、あの不器用な言葉を口にした。
「一回泣いたくらいで、空は落ちてこないぞ」
石原はその光景を見つめていた。この先のことも知っていた。
彼女は顔を上げる。驚く。そして追いかけてくる。
全部知っている。それでも。
今の石原が見ていたのは、その先じゃなかった。
あの日の自分だった。
胸の奥で、何かがゆっくり浮かび上がってくる。
(……そうか)
あの頃の自分は、まだ彼女のことを何も知らなかった。
名前も。泣いていた理由も。何を背負っていたのかも。
何一つ知らなかった。
それでも、声を掛けた。
考えたからじゃない。決めていたからでもない。
気づけば身体が動いていて、言葉が先に出ていた。
ただ――あの子を、一人で泣かせたくなかった。
それだけだった。
それが、最初の執念だった。
好きだったからじゃない。一緒にいたかったからでもない。
もっと前の。もっと単純な。説明のつかない何か。
あの子に一人で抱えさせたくなかった。その想いだけが残った。
種のようなものだった。静かに土の中へ埋まり、長い時間をかけて根を張っていた。
だから彼女の痛みは自分へ届いた。だから何度も、彼女の方へ突き動かされた。
最初から、決めていたのだと思う。
一人では背負わせないと。
石原はその光景を見ていた。過去の自分と、泣いている朋奈を。
胸の奥から何かが込み上げてくる。もう、抑えられなかった。
石原は叫んだ。一番深い場所から。
過去の自分へ向けてじゃない。ずっと前からそこにあった想いへ。
「何かあるなら――」
声が震えた。
「俺にも、一緒に背負わせてくれ!」
数秒の沈黙。そして。
「――朋奈!」
その瞬間。彼女が顔を上げた。
見ているのは過去の石原じゃない。今の石原だった。時間の外側にいる石原だった。
目はまだ赤かった。頬には涙の跡も残っていた。
それでも。彼女は石原を見ていた。本当に見えているみたいに。
石原の唇が動いた。何か言おうとした。
だが――世界に亀裂が走った。ガラスが割れるみたいに。
光が流れ込む。音が流れ込む。泣き声が流れ込む。
すべてが一気に押し寄せてきた――。
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目を覚ましたとき、そこにあったのは、見慣れない天井だった。
淡いベージュ色で、どこかから差し込む照明の光が柔らかく広がっている。
石原はゆっくり瞬きをした。
ベッドの上だった。シーツは薄い青色で、枕は二つ。
ここは――そう思った瞬間、石原は勢いよく身体を起こした。
だが、周囲を見渡すより早く、人影が飛び込んできた。そのまま強く抱き締められた。
息が詰まりそうなほど強かった。相手の身体が震えていることも、首筋に温かいものが落ちることも分かった。
抱き締める腕が不意に緩んだ。少しだけ距離ができ、手が頬に触れた。額から眉、頬骨、顎へと、確かめるようになぞっていった。
そして次の瞬間。また抱き締められた。今度はさっきよりも強く。
「……朋奈?」
自然に口からこぼれた。ずっと胸の奥に沈んでいたものが、ようやく浮かび上がるみたいに。
記憶が戻ってくる。
泉方橋。林の中。生徒会室。
夏祭り。告白。消失。
忘却。あの線。あの光景。残された紙切れ。
五度の伝達。
全部、戻ってきた。全部、思い出した。
顔も。声も。交わした言葉も。
笑った顔も、泣いた顔も、意地を張る顔も、無理に平気そうにする顔も。
全部。
目の奥が熱くなった。込み上げてくるものを止められなかった。
石原は腕を伸ばし、彼女を抱き締めた。二度と失いたくないみたいに。強く。
朋奈は彼の胸の中で泣いていた。肩が小刻みに震え、言葉にならないほど泣いていた。
石原も同じだった。何も言えなかった。ただ時折、息を詰まらせることしかできなかった。
どれくらいそうしていたのか分からなかった。やがて朋奈の泣き声が少しずつ小さくなっていった。
それでも顔は胸元に埋めたままだった。上げようとしなかった。石原も何も言わず、ただそのままでいた。
部屋は静かだった。聞こえるのは二人の呼吸だけ。
しばらくして、朋奈が、胸元に顔を埋めたまま小さく口を開いた。
「……馬鹿」
掠れた声だった。泣き声がまだ混じっていた。石原は何も言わなかった。
「みんなに忘れさせたのに……どうして大人しくしてなかったの……」
少しして顔を上げた。涙の跡だらけだった。目は赤く、涙を浮かべたまま石原を睨んだ。
「どうして探しに来たの。どうしてあんな言葉を伝えたの。どうして……そんな無茶したの」
声が揺れていた。
「もう少しで、本当に――」
そこまで言いかけた。だが、朋奈はまた顔を胸元へ押しつけた。
「もういい」
諦めたみたいな声だった。
「どうせ聞かないんだから。馬鹿」
石原はしばらく黙っていた。それから小さく言う。
「そっちこそ馬鹿だ」
朋奈が顔を上げた。
「誰かのために、自分の未来を捨てようとした」
石原は真っ直ぐ彼女を見て、一度だけ息を吐いた。
「命を大事にしてなかったのは、朋奈の方だろ」
朋奈は俯く。声は小さかった。
「私に、未来なんてない」
「みんなを苦しめるくらいなら……私一人が消えたほうがいい」
顔は見えなかった。けれど肩はまだ小さく震えている。
「誰が決めたんだ?」
朋奈は目を見開き、ゆっくり顔を上げた。
「朋奈の未来を決めたのは誰だ? 医者か? 病気か? それとも、朋奈自身か?」
朋奈は石原を見つめている。涙はまだ止まらなかった。
「でも……」
「でも何だ?」
朋奈は唇を噛んだ。
「だって……みんなを苦しめたくない」
「じゃあ今のみんなは苦しんでないのか?」
「朋奈が消えたら、みんな苦しまないと思ったのか?」
朋奈は視線を逸らす。手の甲で涙を拭った。
「だから俺は、朋奈が一人で消えるなんて許さない」
朋奈は再び俯いた。肩の震えが少し大きくなった。
長い沈黙のあと、ようやく小さな声が落ちる。
「……そこまでしてもらう価値なんて、私にはない」
石原は答えなかった。代わりに手を伸ばし、そっと彼女の頬を包んだ。
顔が持ち上がる。朋奈は石原を見た。涙の跡だらけだった。目も真っ赤で、ひどくぐしゃぐしゃな顔だった。
「朋奈は、俺が誰だか分かるか?」
朋奈は瞬きをした。
「……久希」
「名前じゃない。そうじゃなくて――俺がどんな人間だったか、覚えてるか?」
朋奈は石原を見ていた。何を言えばいいのか分からないようだった。
「昔の俺は、誰とも話したくなかった。周りの全部が、ノイズにしか思えなかった。そんな俺を引っ張り出したのは朋奈だ。今の俺にしたのも、人を助けたいと思うようになったのも、誰かに覚えていてもらえることがどれだけ嬉しいか知ったのも、全部、朋奈のおかげだ」
石原は彼女の目を見た。
「そんな朋奈のために俺が動くことの、どこが価値のないことなんだ?」
朋奈は石原を見つめた。唇が震え、何か言おうとする。
でも言葉にならなかった。涙だけが次々に零れていった。
石原はそっと手を離した。朋奈は再び顔を伏せ、胸元へ顔を押しつけた。
背中の服を掴む。強く。離したくないみたいに。
「……馬鹿な先輩」
くぐもった声だった。けれど呼吸はもう落ち着いていた。
石原は何も言わず、ただもう一度、優しく抱き寄せた。
長い時間が流れた。やがて朋奈がぽつりと呟いた。
「私……もう、あまり時間がないかもしれない」
「うん」
「それでも?」
「うん」
「どうして?」
朋奈は少しだけ顔を上げた。
石原は少し考える。そして答えた。
「朋奈がいるからだ」
朋奈は何も言わなかった。
けれど。服を掴んでいた手から、少しずつ力が抜けていった。
胸元がまた温かく濡れていく。
「……ありがとう」
石原は彼女を見下ろした。
朋奈は顔を隠したままだった。上げようとしなかった。でも耳だけが赤かった。
石原は手を伸ばした。そっと髪を撫でた。
朋奈は避けなかった。代わりに、少しだけ強く抱きついてきた。
石原は小さく息を吐いた。
「一緒に背負いたい」
静かな声だった。
「朋奈の未来を、半分だけ俺にも分けてくれ」
朋奈は答えなかった。胸元に顔を預けたまま動かなかった。
身体ももう震えていなかった。少しずつ。少しずつ。全身の力を石原へ預けていった。
石原は動かなかった。ただそのまま支えていた。
長い時間。本当に長い時間。




