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見える感情、見えないまま  作者: 颍川
第二十六章 半分の未来――君の声が聞こえるまで
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第一百三十八話

---


【一月六日・水曜日・午前】


春野は家族のつてで病院に掛け合い、携帯型モニターの使用許可を取っていた。

心拍数、血圧、血中酸素濃度の数値が、モニターの画面で刻々と跳ねていた。花野はベッドのそばに座り、スマホをモニターのBluetooth記録端末につないでいた。


春野は窓際に立ち、立花はソファに腰掛け、杏は両手を強く握り締めていた。


石原はベッドにもたれて座り、あのノートを手に持っている。最後のページを開くと、あのハートマークの隣に、四枚のメモが増えていた。


立花のもの。杏のもの。春野のもの。花野のもの。

五つ目は、石原自身の胸の中にあった。


花野はモニターの数値を確認し、眼鏡を押し上げる。


「準備はいい?」


石原は頷いた。


「覚えておいて。危険な数値が出たら、私は医師を呼ぶ。そのときは、あなたも止める努力をして」


石原は一度だけ彼女を見た。そして視線を逸らした。


「……ああ」


花野はわずかに眉をひそめたが、それ以上は何も言わなかった。


【一回目】


石原は目を閉じる。意識を集中させた。

あのぼやけた顔を思い浮かべる。思い出せない声を、思い出そうとする。そして、あのハートマークを。


『怖さと向き合ったとき、一緒にいてくれてありがとう』


立花の言葉。その言葉を送り届ける。


次の瞬間――映像が浮かんだ。

彼女はベッドの上で身体を丸めていた。だが、不意に顔を上げた。困惑と茫然を浮かべたまま、周囲を見回していた。


石原は目を開いた。荒く息を吐き、何度も呼吸を整えた。


だが前回と比べれば、代償は明らかに軽かった。

少し慣れたせいかもしれない。あるのは短い眩暈だけだった。

長く座っていたあと、急に立ち上がったときのような感覚。


石原は水を一口飲んだ。数秒だけ目を閉じ、息を整えた。


「大丈夫だ。続ける」


杏は石原を見ていた。目は赤くなっていたが、何も言わなかった。


【二回目】


『私はあなたを覚えてない。でも、私にはお姉ちゃんがいた気がする』


杏の言葉。その言葉を送る。


今度は、彼女にもはっきり届いた。

幼くて、真っ直ぐな少女の声。


彼女は少しずつ理解し始めた。

これは幻聴じゃない。誰かが、自分に向かって話しかけているのだと。


彼女は必死に、声のする方を見る。

そこには、ぼやけた人影があった。身体はふらつき、顔色も悪かった。


彼女の胸が、きゅっと強張った。

「やめて」と叫ぼうとする。

だが、その声は届かない。


石原は目を開いた。次の瞬間。激しい眩暈が襲った。視界が暗転した。そのまま前へ倒れ込んだ。


「お兄ちゃん――!」


みんなが駆け寄った。

花野は即座にナースコールを押した。


石原は意識を失っていた。

それでも、その手はノートを強く握り締めたままだった。


病室のドアが開いた。駆け込んできた看護師は簡単な確認だけ行い、すぐに判断を下した。


「主治医に連絡! このまま救命処置に入ります!」


病床が廊下へ押し出された。

みんなで処置室へ向かって走った。


杏はベッド柵を掴みながら並走した。


「お兄ちゃん!」


何度もそう呼び続ける。


立花は口元を押さえ、涙を流していた。

春野は杏の肩を支え、転ばないように付き添っていた。


花野は最後尾を走っていた。


モニターは看護師が前方で押していた。数値は更新され続けている。

心拍は下がり続けていた。血圧も下がり続けていた。


花野はその数値を見つめていた。スマホを握る指に力が入った。


廊下は長かった。照明はやけに眩しかった。


そのときだった。モニターの数値が、ふっと一瞬だけ揺らいだ。


花野の足が止まりかけた。


――それが何を意味するのか。彼女には分かっていた。


【三回目】


『今の石原は、お前がいたから、ここまで変われたんだと思う。ありがとう』


春野の言葉。その言葉を送り届ける。


そして――彼女は、見てしまった。

ベッドの上に倒れている石原を。意識を失っている。

それでもなお、みんなの言葉を届け続けている。


春野の声が届く。

いつも頼りになって、何も言わずに支えてくれた会長の姿が脳裏によみがえる。


彼女は泣き叫んだ。


「もうやめて……!」

「これ以上、やらないで!」


けれど、届かない。

あの人影は、少しずつ薄れていく。


それでも彼女には分かっていた。

――彼は、まだやめていない。


---


【四回目】


『あなたの存在は、もう私の記録に残っている。だから、消えないで』


花野の言葉。その言葉を送り届ける。


――映像が浮かぶ。彼女は呆然としていた。


花野の声が届く。冷静で、揺るぎなくて。


彼女はもう一度、あの人影を見た。その姿は、少しずつ薄れていた。

それでも彼は、まだ能力を使い続けていた。みんなの言葉を届け続けている。


彼女は声にならない声で泣き、その場に崩れ落ちた。


「もういい……」


涙で声が途切れた。


「本当に、もういいから……」


けれど、届かない。彼には聞こえない。


---


処置室では、モニター音が徐々に弱くなっていた。


「除細動器、準備!」


医師の声が飛んだ。


外では杏が泣き崩れ、もうまともに声も出せなくなっている。

立花は両手を強く握り締めていた。唇を噛みすぎて、血が滲んでいた。

春野は廊下の奥に立っていた。微動だにしなかった。


花野は処置室の外の長椅子に、俯いたまま座っている。

手の中にはスマホがあった。画面には、先ほどまでの記録データが表示されたままだった。


花野はその数値を見つめ続けていた。まったく動かなかった。


廊下は静かだった。長い時間が過ぎた。


やがて花野は手を上げた。

眼鏡を押し上げようとして――途中で止めた。

そのまま手を下ろした。


膝の上で、指がわずかに握られる。

そして、ゆっくりと力が抜けた。


背もたれに身体を預けた。

視線は向かいの壁に向いていた。焦点は合っていなかった。


(一回目で止めるべきだった……)


その考えだけが残った。きっと、長く残り続けるのだと分かっていた。


---


【五回目】


『君の声も思い出せない。顔だって思い出せない。でも、君が大切な存在だってことだけは分かる』

『必ず見つける。何度でも探し続ける。だから――待っていてくれ』


石原自身の言葉。

紙に書かれたものじゃない。心の奥から掬い上げた言葉だった。


その言葉を送り届ける。

最後の一言は、石原が残ったすべてを注ぎ込んで届けた執念だった。


――映像が浮かぶ。

彼女は、ようやく見えた。


ずっと自分を探し続けていた人を。

自分がずっと待ち続けていた人を。


もう耐えられなかった。彼女は手を伸ばした。

止まった世界を隔てる壁を越えて。今にも消えそうなその人影を、掴んだ。


「馬鹿……」


涙が止まらなかった。


「どうして……」


声が震えた。


「どうしてそこまでするの……」


彼女は全力で引き寄せた。

彼の意識を。自分のいる場所へ。


---


モニターが鋭い警報音を鳴らした。

心拍が停止寸前まで落ちた。


医師たちは処置の終了判断に入ろうとしていた。


そのとき――心拍が、戻った。

数値が少しずつ安定していった。


だが、石原は目を覚まさなかった。

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