第一百三十八話
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【一月六日・水曜日・午前】
春野は家族のつてで病院に掛け合い、携帯型モニターの使用許可を取っていた。
心拍数、血圧、血中酸素濃度の数値が、モニターの画面で刻々と跳ねていた。花野はベッドのそばに座り、スマホをモニターのBluetooth記録端末につないでいた。
春野は窓際に立ち、立花はソファに腰掛け、杏は両手を強く握り締めていた。
石原はベッドにもたれて座り、あのノートを手に持っている。最後のページを開くと、あのハートマークの隣に、四枚のメモが増えていた。
立花のもの。杏のもの。春野のもの。花野のもの。
五つ目は、石原自身の胸の中にあった。
花野はモニターの数値を確認し、眼鏡を押し上げる。
「準備はいい?」
石原は頷いた。
「覚えておいて。危険な数値が出たら、私は医師を呼ぶ。そのときは、あなたも止める努力をして」
石原は一度だけ彼女を見た。そして視線を逸らした。
「……ああ」
花野はわずかに眉をひそめたが、それ以上は何も言わなかった。
【一回目】
石原は目を閉じる。意識を集中させた。
あのぼやけた顔を思い浮かべる。思い出せない声を、思い出そうとする。そして、あのハートマークを。
『怖さと向き合ったとき、一緒にいてくれてありがとう』
立花の言葉。その言葉を送り届ける。
次の瞬間――映像が浮かんだ。
彼女はベッドの上で身体を丸めていた。だが、不意に顔を上げた。困惑と茫然を浮かべたまま、周囲を見回していた。
石原は目を開いた。荒く息を吐き、何度も呼吸を整えた。
だが前回と比べれば、代償は明らかに軽かった。
少し慣れたせいかもしれない。あるのは短い眩暈だけだった。
長く座っていたあと、急に立ち上がったときのような感覚。
石原は水を一口飲んだ。数秒だけ目を閉じ、息を整えた。
「大丈夫だ。続ける」
杏は石原を見ていた。目は赤くなっていたが、何も言わなかった。
【二回目】
『私はあなたを覚えてない。でも、私にはお姉ちゃんがいた気がする』
杏の言葉。その言葉を送る。
今度は、彼女にもはっきり届いた。
幼くて、真っ直ぐな少女の声。
彼女は少しずつ理解し始めた。
これは幻聴じゃない。誰かが、自分に向かって話しかけているのだと。
彼女は必死に、声のする方を見る。
そこには、ぼやけた人影があった。身体はふらつき、顔色も悪かった。
彼女の胸が、きゅっと強張った。
「やめて」と叫ぼうとする。
だが、その声は届かない。
石原は目を開いた。次の瞬間。激しい眩暈が襲った。視界が暗転した。そのまま前へ倒れ込んだ。
「お兄ちゃん――!」
みんなが駆け寄った。
花野は即座にナースコールを押した。
石原は意識を失っていた。
それでも、その手はノートを強く握り締めたままだった。
病室のドアが開いた。駆け込んできた看護師は簡単な確認だけ行い、すぐに判断を下した。
「主治医に連絡! このまま救命処置に入ります!」
病床が廊下へ押し出された。
みんなで処置室へ向かって走った。
杏はベッド柵を掴みながら並走した。
「お兄ちゃん!」
何度もそう呼び続ける。
立花は口元を押さえ、涙を流していた。
春野は杏の肩を支え、転ばないように付き添っていた。
花野は最後尾を走っていた。
モニターは看護師が前方で押していた。数値は更新され続けている。
心拍は下がり続けていた。血圧も下がり続けていた。
花野はその数値を見つめていた。スマホを握る指に力が入った。
廊下は長かった。照明はやけに眩しかった。
そのときだった。モニターの数値が、ふっと一瞬だけ揺らいだ。
花野の足が止まりかけた。
――それが何を意味するのか。彼女には分かっていた。
【三回目】
『今の石原は、お前がいたから、ここまで変われたんだと思う。ありがとう』
春野の言葉。その言葉を送り届ける。
そして――彼女は、見てしまった。
ベッドの上に倒れている石原を。意識を失っている。
それでもなお、みんなの言葉を届け続けている。
春野の声が届く。
いつも頼りになって、何も言わずに支えてくれた会長の姿が脳裏によみがえる。
彼女は泣き叫んだ。
「もうやめて……!」
「これ以上、やらないで!」
けれど、届かない。
あの人影は、少しずつ薄れていく。
それでも彼女には分かっていた。
――彼は、まだやめていない。
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【四回目】
『あなたの存在は、もう私の記録に残っている。だから、消えないで』
花野の言葉。その言葉を送り届ける。
――映像が浮かぶ。彼女は呆然としていた。
花野の声が届く。冷静で、揺るぎなくて。
彼女はもう一度、あの人影を見た。その姿は、少しずつ薄れていた。
それでも彼は、まだ能力を使い続けていた。みんなの言葉を届け続けている。
彼女は声にならない声で泣き、その場に崩れ落ちた。
「もういい……」
涙で声が途切れた。
「本当に、もういいから……」
けれど、届かない。彼には聞こえない。
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処置室では、モニター音が徐々に弱くなっていた。
「除細動器、準備!」
医師の声が飛んだ。
外では杏が泣き崩れ、もうまともに声も出せなくなっている。
立花は両手を強く握り締めていた。唇を噛みすぎて、血が滲んでいた。
春野は廊下の奥に立っていた。微動だにしなかった。
花野は処置室の外の長椅子に、俯いたまま座っている。
手の中にはスマホがあった。画面には、先ほどまでの記録データが表示されたままだった。
花野はその数値を見つめ続けていた。まったく動かなかった。
廊下は静かだった。長い時間が過ぎた。
やがて花野は手を上げた。
眼鏡を押し上げようとして――途中で止めた。
そのまま手を下ろした。
膝の上で、指がわずかに握られる。
そして、ゆっくりと力が抜けた。
背もたれに身体を預けた。
視線は向かいの壁に向いていた。焦点は合っていなかった。
(一回目で止めるべきだった……)
その考えだけが残った。きっと、長く残り続けるのだと分かっていた。
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【五回目】
『君の声も思い出せない。顔だって思い出せない。でも、君が大切な存在だってことだけは分かる』
『必ず見つける。何度でも探し続ける。だから――待っていてくれ』
石原自身の言葉。
紙に書かれたものじゃない。心の奥から掬い上げた言葉だった。
その言葉を送り届ける。
最後の一言は、石原が残ったすべてを注ぎ込んで届けた執念だった。
――映像が浮かぶ。
彼女は、ようやく見えた。
ずっと自分を探し続けていた人を。
自分がずっと待ち続けていた人を。
もう耐えられなかった。彼女は手を伸ばした。
止まった世界を隔てる壁を越えて。今にも消えそうなその人影を、掴んだ。
「馬鹿……」
涙が止まらなかった。
「どうして……」
声が震えた。
「どうしてそこまでするの……」
彼女は全力で引き寄せた。
彼の意識を。自分のいる場所へ。
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モニターが鋭い警報音を鳴らした。
心拍が停止寸前まで落ちた。
医師たちは処置の終了判断に入ろうとしていた。
そのとき――心拍が、戻った。
数値が少しずつ安定していった。
だが、石原は目を覚まさなかった。




