第一百三十七話
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【一月五日・火曜日・朝】
病室のカーテンは、きっちりとは閉まっていなかった。
朝の光がその隙間から忍び込み、ベッドの足元に落ちて、白い布団を淡い金色に染めている。
石原は目を開け、数秒、天井を見つめていた。
エアコンはまだ低く唸っている。
ベッドサイドテーブルの上では、あのノートが最後のページを開いたままになっていた。
「起きた?」
花野の声が、ベッドのそばから聞こえた。
彼女は昨日と同じ椅子に、ほとんど変わらない姿勢で座っていた。
手にはスマホ。その画面の光が、眼鏡のレンズに映っていた。
目の前の小さなテーブルにはノートパソコンが開かれ、その横には、半分ほど残ったコンビニコーヒーが置かれていた。
「……一晩中、寝てないのか?」
石原の声は少し掠れていた。
「寝ぼけてるの」
花野は顔も上げずに言った。
石原はベッドの縁に手をつき、身体を起こした。
胸の奥にはまだかすかな息苦しさが残っていたが、昨日ほど痛くはなかった。
石原は花野へ視線を向けた。そして昨夜、彼女が言った言葉を思い出した。
――あなたは、やめないんでしょ。
石原は唾を飲み込んだ。
花野もその視線に気づいたのか、ちらりと石原を見た。
「花野さん、俺、やっぱり――」
「私に言う必要はない」
花野は彼の言葉を遮った。声は平坦だった。
「説得するつもりもない」
石原は黙った。
石原は視線を落とし、自分の手の甲に残ったテープの跡を見つめる。
点滴の針を抜いたあとに残ったものだった。
花野は彼を見ないまま、スマホに文字を打ち続けていた。
「ただ、忠告はしておく。みんながあなたの提案に賛成するとは思えない」
石原の指が、シーツを強く掴んだ。
「じゃあ、俺は……」
「それでも続けたいなら、私たちには黙っていればいい」
花野の話す速さは変わらなかった。
「私は、知らなかったことにする」
石原は何も言わなかった。ただ、そのテープの跡を長いあいだ見つめていた。
病室には、エアコンの低い音と、花野の指が時おりスマホの画面を叩く音だけが響いている。
「もちろん、あなたの安全はできる限り確保する」
花野はようやく顔を上げ、石原を見た。
「でも、私にできる範囲まで」
石原はまだ俯いている。肩はかすかに強ばっていて、何かに逆らっているみたいだった。
(みんなに黙って……)
(また、心配をかける)
(でも……)
石原は一度、目を閉じた。
杏が昨日流した涙。
立花の不安そうな顔。
春野の低く沈んだ声。
それらが、脳裏をよぎった。
もう一度目を開けたとき、石原の手から力が抜けていた。
「花野さん」
「何?」
「みんなと相談する」
石原の声は小さく、ため息に近かった。
「もう……心配させたくない」
花野は石原を一瞥しただけで、何も言わなかった。
画面では、打ちかけの一文の末尾でカーソルが二度ほど点滅し、その場に残っていた。
「……好きにすれば」
彼女は視線を落とし、また文字を打ち始める。
「あなたの意思は、みんなに伝えておく」
石原はベッドの背もたれに身体を預け、窓の外を見る。
陽射しはいつの間にか、ベッドの足元から布団の真ん中あたりまで伸びていた。暖かそうな光だった。
「……ありがとう、花野さん」
花野は答えなかった。ただ、その指が画面の上で一瞬止まり、それからまた動き出した。
しばらくして、石原のスマホにメッセージが届いた。
添付ファイルの名前は――『異能力の代償が使用回数に応じて増大する可能性についての考察』。
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【一月五日・火曜日・昼】
病室のカーテンは半分だけ開いていた。
窓から差し込む陽射しが、ベッドの足元を照らしている。
春野、立花、花野、杏――みんな、そこにいた。
石原はベッドにもたれて座り、あのノートを握りしめている。
石原は一度みんなを見て、それから視線を落とした。
「みんなに相談したいことがある」
誰も口を開かなかった。
杏はベッドのそばに座り、隣の立花の手を握りしめていた。
春野は窓際にもたれ、空になったコーヒー缶を指先で転がしている。
花野は部屋の隅の椅子に座り、画面の暗いスマホを膝の上に置いていた。
「交代でそばにいるのは……ただ、俺たちが彼女を忘れないためだった」
石原は俯いたまま、手の中のノートを見つめた。
「でも、彼女が離れようとしたのは、俺たちを巻き込みたくなかったからだ」
そう言って顔を上げ、みんなを見た。
「この二か月、俺たちは外側から見守ることしかできなかった。彼女は一人で内側にいて、俺たちには何かを伝える手段もなかった」
「でも、今は違う……」
喉が少し震えた。石原は拳を握り締めた。
「もし――もし俺が、外で待ってる人間がいるって、彼女に伝えられたら」
一度、言葉を切った。
「彼女は……戻ってこられるかもしれない」
その瞬間、杏の表情が変わった。
立ち上がろうとした杏を、隣の立花が慌てて引き止める。
石原は、その先を言うのが怖くなった。
「だから石原は、みんなから一言ずつ預かって、それを少しずつ彼女に届けたいと考えている」
花野が静かに話を引き継いだ。
「……もし、もし俺が限界になったら、そのときは引き戻してほしい」
石原は視線を落としたまま続ける。
「でも、結果がどうなったとしても、少なくとも彼女には伝わる。彼女を探しているのは、俺一人じゃないって――」
「何バカなこと言ってるの、お兄ちゃん!」
杏の声が弾けた。勢いよく立ち上がった拍子に、そばの椅子を蹴り倒してしまった。
「『結果がどうなっても』って、何!?」
声が震えていた。
「昨日だって、ちょっと試しただけで気を失いかけたのに! それなのに、まだそんなことを――」
そこで言葉が途切れた。目は赤くなっている。
けれど、涙はこぼさない。
杏は唇を強く噛み締めたまま、石原を睨みつけていた。
石原は杏を見た。
「分かってる」
「分かってるなら――」
「分かってるからだ」
石原は遮った。声は強くなかったが、はっきりとしている。
「だから今、みんなに相談している」
杏は口を開いた。だが、その先の言葉は出てこなかった。
「俺たちは二か月間、交代で付き添っていた。それでも、何もできなかった」
石原はゆっくりと言葉を続ける。
「でも今は違う。ようやく手がかりが見えたんだ」
「もし彼女に俺たちの言葉が届けば――たった一言でも」
「彼女は、自分が一人じゃないって分かるはずだ」
病室が静まり返った。
立花はそっと杏の袖を引き、小さく首を横に振る。
杏は石原を、長いあいだ何も言わずに見つめていた。
やがて小さく息を吐き、椅子に座り直した。
賛成とも反対とも言わなかった。
そのとき、花野が口を開く。
声の大きさも、話す速さもいつも通りだった。
「分けて伝える」
花野は淡々と言った。
「一回ごとに、石原の意識が戻ったことを確認する。身体状態に問題がなければ次へ進む」
「実施は入院中。場所は病院内」
「その間、バイタルは常時確認する。心拍、血圧、血中酸素濃度。危険な兆候が出た場合、私が強制的に中止する」
そう言って、石原を見た。
「あなたの希望通り、『耐えられる限り続行』でいい?」
石原は頷いた。花野は今度は杏を見る。
「私が見ている」
一拍置いた。
「もちろん、安全を保証することはできない」
杏は唇をきゅっと結んだ。杏は石原を、長いあいだ何も言わずに見つめていた。
やがて腰をかがめ、倒れた椅子を起こす。そのまま静かに座り直した。
春野が窓際から歩いてくる。ベッドの足元で立ち止まった。真剣な表情だった。
「決めたんだな?」
「うん」
春野はすぐには頷かなかった。二秒ほど黙った。
「……間隔を空けるのは駄目なのか?」
「数日おきに一回ずつ伝えるとかさ。その方が、代償も軽くなるだろ」
花野の指が、スマホの画面の上で一瞬止まる。
「それは花野さんが分析してくれている」
石原の声は静かだった。
「俺の異能力は不安定だ」
「いつまた変化するか分からないし、次も同じように使える保証もない」
石原は顔を上げる。
「時間をかけるほど、不確定要素が増える」
少し間を置いた。
「それに――彼女にとっても」
その言葉を慎重に選ぶように続けた。
「俺たちの言葉を受け取ること自体が、負担になるはずなんだ」
「だったら何度も繰り返すより、一度で全部伝えた方がいい」
病室は一瞬、静寂に包まれた。
春野は石原を見る。数秒ほど見つめてから、ゆっくり頷いた。
「分かった。俺たちも付き合う」
立花は顔を上げ、鼻をすすってから、まだ赤い目元のまま石原へ小さく笑いかけた。
「じゃあ……私も書く」
花野はすでにスマホのメモを開いていた。指先が画面の上を素早く走っている。
杏だけは俯いたままだった。長いあいだ何も言わず、やがて立ち上がった。
机まで歩き、一枚の紙とペンを手に取る。紙に数行だけ書き、それを折り畳んで机の上へ戻した。石原には見せなかった。
「……ちょっと外に出てくる」
少し掠れた声だった。杏はそのまま病室を出ていった。
廊下に響く足音が、少しずつ遠ざかっていく。
石原は閉じた扉を見つめた。喉が小さく動いた。
春野がそっと肩を叩く。
「少し時間をやれ」
花野が顔を上げた。
「手順は今夜中にまとめる」
「開始は明日」
石原はベッドにもたれ直す。
窓の外から差し込む陽射しが、ちょうど手の甲に落ちていた。暖かかった。
目を閉じる。胸の痛みはまだ残っていた。
それでも――昨日よりは、ほんの少しだけ希望があった。
(今度こそ……)
そのときだった。廊下から足音が聞こえてきた。軽い足音だった。
遠くから近づいてきて、扉の前で止まる。
ドアが開いた。杏だった。
ドアの前に立ったまま俯いていて、表情は見えなかった。
杏は中へ入り、石原の前まで来ると、顔を上げた。
目元はまだ赤かった。洗ったばかりなのか、頬にはうっすら水の跡が残っている。
「お兄ちゃん」
「うん」
「ちゃんと、耐えられるんだよね?」
石原は杏を見つめる。何も言わなかった。
杏の瞳には、まだ不安が残っている。怖さも残っていた。
それでも杏はそこに立っていた。逃げもせず、目も逸らさずに。
「嘘ついたら、針千本だから」
不意にそう言った。声はとても小さかった。
石原は少しだけ目を見開く。それから、小さく「うん」と返した。
「約束する」
「耐えられないと思ったら、そのときはちゃんと止まる」
杏の口元がわずかに動く。
笑えなかった。けれど、泣きもしなかった。




