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見える感情、見えないまま  作者: 颍川
第二十六章 半分の未来――君の声が聞こえるまで
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第一百三十七話

---


【一月五日・火曜日・朝】


病室のカーテンは、きっちりとは閉まっていなかった。

朝の光がその隙間から忍び込み、ベッドの足元に落ちて、白い布団を淡い金色に染めている。


石原は目を開け、数秒、天井を見つめていた。


エアコンはまだ低く唸っている。

ベッドサイドテーブルの上では、あのノートが最後のページを開いたままになっていた。


「起きた?」


花野の声が、ベッドのそばから聞こえた。

彼女は昨日と同じ椅子に、ほとんど変わらない姿勢で座っていた。


手にはスマホ。その画面の光が、眼鏡のレンズに映っていた。

目の前の小さなテーブルにはノートパソコンが開かれ、その横には、半分ほど残ったコンビニコーヒーが置かれていた。


「……一晩中、寝てないのか?」


石原の声は少し掠れていた。


「寝ぼけてるの」


花野は顔も上げずに言った。


石原はベッドの縁に手をつき、身体を起こした。

胸の奥にはまだかすかな息苦しさが残っていたが、昨日ほど痛くはなかった。


石原は花野へ視線を向けた。そして昨夜、彼女が言った言葉を思い出した。

――あなたは、やめないんでしょ。


石原は唾を飲み込んだ。

花野もその視線に気づいたのか、ちらりと石原を見た。


「花野さん、俺、やっぱり――」


「私に言う必要はない」


花野は彼の言葉を遮った。声は平坦だった。


「説得するつもりもない」


石原は黙った。

石原は視線を落とし、自分の手の甲に残ったテープの跡を見つめる。

点滴の針を抜いたあとに残ったものだった。


花野は彼を見ないまま、スマホに文字を打ち続けていた。


「ただ、忠告はしておく。みんながあなたの提案に賛成するとは思えない」


石原の指が、シーツを強く掴んだ。


「じゃあ、俺は……」


「それでも続けたいなら、私たちには黙っていればいい」


花野の話す速さは変わらなかった。


「私は、知らなかったことにする」


石原は何も言わなかった。ただ、そのテープの跡を長いあいだ見つめていた。

病室には、エアコンの低い音と、花野の指が時おりスマホの画面を叩く音だけが響いている。


「もちろん、あなたの安全はできる限り確保する」


花野はようやく顔を上げ、石原を見た。


「でも、私にできる範囲まで」


石原はまだ俯いている。肩はかすかに強ばっていて、何かに逆らっているみたいだった。


(みんなに黙って……)

(また、心配をかける)

(でも……)


石原は一度、目を閉じた。


杏が昨日流した涙。

立花の不安そうな顔。

春野の低く沈んだ声。


それらが、脳裏をよぎった。


もう一度目を開けたとき、石原の手から力が抜けていた。


「花野さん」


「何?」


「みんなと相談する」


石原の声は小さく、ため息に近かった。


「もう……心配させたくない」


花野は石原を一瞥しただけで、何も言わなかった。

画面では、打ちかけの一文の末尾でカーソルが二度ほど点滅し、その場に残っていた。


「……好きにすれば」


彼女は視線を落とし、また文字を打ち始める。


「あなたの意思は、みんなに伝えておく」


石原はベッドの背もたれに身体を預け、窓の外を見る。

陽射しはいつの間にか、ベッドの足元から布団の真ん中あたりまで伸びていた。暖かそうな光だった。


「……ありがとう、花野さん」


花野は答えなかった。ただ、その指が画面の上で一瞬止まり、それからまた動き出した。


しばらくして、石原のスマホにメッセージが届いた。

添付ファイルの名前は――『異能力の代償が使用回数に応じて増大する可能性についての考察』。


---


【一月五日・火曜日・昼】


病室のカーテンは半分だけ開いていた。

窓から差し込む陽射しが、ベッドの足元を照らしている。


春野、立花、花野、杏――みんな、そこにいた。


石原はベッドにもたれて座り、あのノートを握りしめている。

石原は一度みんなを見て、それから視線を落とした。


「みんなに相談したいことがある」


誰も口を開かなかった。


杏はベッドのそばに座り、隣の立花の手を握りしめていた。

春野は窓際にもたれ、空になったコーヒー缶を指先で転がしている。

花野は部屋の隅の椅子に座り、画面の暗いスマホを膝の上に置いていた。


「交代でそばにいるのは……ただ、俺たちが彼女を忘れないためだった」


石原は俯いたまま、手の中のノートを見つめた。


「でも、彼女が離れようとしたのは、俺たちを巻き込みたくなかったからだ」


そう言って顔を上げ、みんなを見た。


「この二か月、俺たちは外側から見守ることしかできなかった。彼女は一人で内側にいて、俺たちには何かを伝える手段もなかった」

「でも、今は違う……」


喉が少し震えた。石原は拳を握り締めた。


「もし――もし俺が、外で待ってる人間がいるって、彼女に伝えられたら」


一度、言葉を切った。


「彼女は……戻ってこられるかもしれない」


その瞬間、杏の表情が変わった。

立ち上がろうとした杏を、隣の立花が慌てて引き止める。


石原は、その先を言うのが怖くなった。


「だから石原は、みんなから一言ずつ預かって、それを少しずつ彼女に届けたいと考えている」


花野が静かに話を引き継いだ。


「……もし、もし俺が限界になったら、そのときは引き戻してほしい」


石原は視線を落としたまま続ける。


「でも、結果がどうなったとしても、少なくとも彼女には伝わる。彼女を探しているのは、俺一人じゃないって――」


「何バカなこと言ってるの、お兄ちゃん!」


杏の声が弾けた。勢いよく立ち上がった拍子に、そばの椅子を蹴り倒してしまった。


「『結果がどうなっても』って、何!?」


声が震えていた。


「昨日だって、ちょっと試しただけで気を失いかけたのに! それなのに、まだそんなことを――」


そこで言葉が途切れた。目は赤くなっている。

けれど、涙はこぼさない。


杏は唇を強く噛み締めたまま、石原を睨みつけていた。

石原は杏を見た。


「分かってる」


「分かってるなら――」


「分かってるからだ」


石原は遮った。声は強くなかったが、はっきりとしている。


「だから今、みんなに相談している」


杏は口を開いた。だが、その先の言葉は出てこなかった。


「俺たちは二か月間、交代で付き添っていた。それでも、何もできなかった」


石原はゆっくりと言葉を続ける。


「でも今は違う。ようやく手がかりが見えたんだ」

「もし彼女に俺たちの言葉が届けば――たった一言でも」

「彼女は、自分が一人じゃないって分かるはずだ」


病室が静まり返った。

立花はそっと杏の袖を引き、小さく首を横に振る。


杏は石原を、長いあいだ何も言わずに見つめていた。

やがて小さく息を吐き、椅子に座り直した。

賛成とも反対とも言わなかった。


そのとき、花野が口を開く。

声の大きさも、話す速さもいつも通りだった。


「分けて伝える」


花野は淡々と言った。


「一回ごとに、石原の意識が戻ったことを確認する。身体状態に問題がなければ次へ進む」

「実施は入院中。場所は病院内」

「その間、バイタルは常時確認する。心拍、血圧、血中酸素濃度。危険な兆候が出た場合、私が強制的に中止する」


そう言って、石原を見た。


「あなたの希望通り、『耐えられる限り続行』でいい?」


石原は頷いた。花野は今度は杏を見る。


「私が見ている」


一拍置いた。


「もちろん、安全を保証することはできない」


杏は唇をきゅっと結んだ。杏は石原を、長いあいだ何も言わずに見つめていた。

やがて腰をかがめ、倒れた椅子を起こす。そのまま静かに座り直した。


春野が窓際から歩いてくる。ベッドの足元で立ち止まった。真剣な表情だった。


「決めたんだな?」


「うん」


春野はすぐには頷かなかった。二秒ほど黙った。


「……間隔を空けるのは駄目なのか?」

「数日おきに一回ずつ伝えるとかさ。その方が、代償も軽くなるだろ」


花野の指が、スマホの画面の上で一瞬止まる。


「それは花野さんが分析してくれている」


石原の声は静かだった。


「俺の異能力は不安定だ」

「いつまた変化するか分からないし、次も同じように使える保証もない」


石原は顔を上げる。


「時間をかけるほど、不確定要素が増える」


少し間を置いた。


「それに――彼女にとっても」


その言葉を慎重に選ぶように続けた。


「俺たちの言葉を受け取ること自体が、負担になるはずなんだ」

「だったら何度も繰り返すより、一度で全部伝えた方がいい」


病室は一瞬、静寂に包まれた。

春野は石原を見る。数秒ほど見つめてから、ゆっくり頷いた。


「分かった。俺たちも付き合う」


立花は顔を上げ、鼻をすすってから、まだ赤い目元のまま石原へ小さく笑いかけた。


「じゃあ……私も書く」


花野はすでにスマホのメモを開いていた。指先が画面の上を素早く走っている。


杏だけは俯いたままだった。長いあいだ何も言わず、やがて立ち上がった。

机まで歩き、一枚の紙とペンを手に取る。紙に数行だけ書き、それを折り畳んで机の上へ戻した。石原には見せなかった。


「……ちょっと外に出てくる」


少し掠れた声だった。杏はそのまま病室を出ていった。

廊下に響く足音が、少しずつ遠ざかっていく。


石原は閉じた扉を見つめた。喉が小さく動いた。

春野がそっと肩を叩く。


「少し時間をやれ」


花野が顔を上げた。


「手順は今夜中にまとめる」

「開始は明日」


石原はベッドにもたれ直す。

窓の外から差し込む陽射しが、ちょうど手の甲に落ちていた。暖かかった。


目を閉じる。胸の痛みはまだ残っていた。

それでも――昨日よりは、ほんの少しだけ希望があった。


(今度こそ……)


そのときだった。廊下から足音が聞こえてきた。軽い足音だった。

遠くから近づいてきて、扉の前で止まる。


ドアが開いた。杏だった。

ドアの前に立ったまま俯いていて、表情は見えなかった。


杏は中へ入り、石原の前まで来ると、顔を上げた。

目元はまだ赤かった。洗ったばかりなのか、頬にはうっすら水の跡が残っている。


「お兄ちゃん」


「うん」


「ちゃんと、耐えられるんだよね?」


石原は杏を見つめる。何も言わなかった。


杏の瞳には、まだ不安が残っている。怖さも残っていた。

それでも杏はそこに立っていた。逃げもせず、目も逸らさずに。


「嘘ついたら、針千本だから」


不意にそう言った。声はとても小さかった。

石原は少しだけ目を見開く。それから、小さく「うん」と返した。


「約束する」


「耐えられないと思ったら、そのときはちゃんと止まる」


杏の口元がわずかに動く。

笑えなかった。けれど、泣きもしなかった。

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