第一百三十六話
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病室は再び静かになった。
杏は袖に顔を押しつけるようにして涙を拭いた。目はまだ赤い。
少し横へずれて、春野たちに場所を空けた。
春野はベッド脇の椅子へ腰を下ろした。立花はその後ろに立った。花野は窓際にもたれかかっていた。
「じゃあ、最初から話してくれ」
春野は石原を見た。表情はほとんど動いていなかった。
石原はベッドへ身体を預け、ノートを開いた。
願い事で埋め尽くされたページ。この二日で起きたこと。
石原は一つずつ説明した。
立花は服の裾を握りしめていた。春野は黙ったまま聞いていた。花野は窓の外を見ていた。何かを考えているようだった。
石原が話し終えると、病室にはしばらく沈黙が流れた。
やがて花野が口を開いた。
「確認したい」
声は静かだった。
「石原は前に、自分の異能力は消えたと言っていた」
「そうだよね」
「うん」
石原はうなずいた。花野は続けた。
「なら、その夢は、新しい異能力かもしれない」
「新しい異能力!?」
思わず全員が声を上げた。病室が一瞬だけ静まった。
花野は窓際から身体を離し、石原へ視線を向けた。
「夢で見た光景と同じ。もしかすると、石原は『彼女』とやり取りできるのかもしれない」
「やり取り?」
立花が目を丸くした。
「真汐ちゃん、それって――」
「ただの仮説」
花野は即座に答えた。口調はいつも通りだった。
だが内心は違った。
(立花や朝日の例を見る限り、異能力は執着に近い感情と結びついて発現している)
(石原の執着が何なのかは明白)
(問題は代償……)
春野は石原を見た。それから花野を見た。
「……試してみるか?」
石原は少し迷った。それでもうなずいた。
目を閉じた。あの光景に意識を集中させる。
暗闇の中で身体を縮めていた少女。震える肩。
意識をそこへ向ける。すぐに、あの感覚がやってきた。
強い眩暈。何かに引っ張られるように意識が沈んでいく。
そして、石原は同じ部屋を見た。
カーテンは閉じられている。薄暗い部屋だった。
少女はベッドの上にいた。あの日と同じ姿勢だった。
だが、今度は違った。
少女が顔を上げる。まっすぐ石原の方を見た。目は赤かった。頬には涙の跡も残っている。
唇が動いた。何かを呼んでいるようだった。
石原の喉が詰まる。手を伸ばした。けれど届かない。
二人の間には、あまりにも遠い距離があった。
「俺は……ここに――」
そこまで言った瞬間だった。
心臓が激しく縮む。まるで、誰かに強く握り潰されたみたいに。
「石原!」
春野の声が聞こえた。遠かった。
意識が急速に薄れていく。
少女の姿も遠ざかっていく。
次の瞬間。石原は現実に引き戻されるなり、激しく咳き込んだ。
肺の奥から何かを吐き出そうとするみたいに。
春野が肩を支えていた。その手は少し震えていた。
倒れかけた石原を、とっさに支えたのだ。
立花はベッドのそばに立っていた。大事に至っていないと分かってから、ようやく腰を下ろした。
杏は石原の腕を掴んでいた。
花野は一番離れた場所に立っていた。
「……代償も、だいたい見えた」
花野は小さく呟いた。独り言みたいな声だった。
春野は深く息を吸った。それから石原を見た。
「もうその能力は使うな」
相談ではなかった。
「でも――」
「だめだ」
春野の声が低くなった。
石原は口を開いた。だが何も言えなかった。
立花も強くうなずいた。
「先輩、もう試しちゃだめですよ」
杏は何も言わなかった。
ただ石原の腕を握ったまま、顔を背けた。
石原は花野を見た。
花野は俯いていた。こちらを見ない。
しばらくして、石原は小さく息を吐いた。
「……分かった」
声は少し掠れていた。
その言葉を聞いて、ようやく春野の肩から力が抜けた。
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病室はしばらく静かだった。
窓の外は、すっかり夜になっていた。
街灯の光がカーテンの隙間から差し込み、床の上に細い線を描いていた。
花野は立ち上がり、自分の鞄を手に取った。
「今日はここまで」
そう言って、杏を見た。
「ちょうど私の当番。杏ちゃんは今夜、家に帰って休んで。ここは私がいるから」
杏は顔を上げる。何か言いかけた。だが花野はすでにベッドのそばまで歩いていた。
椅子に掛けてあったコートを手に取り、杏へ渡す。
「明日も来るんでしょ。ちゃんと寝た方がいい。その方が動ける」
杏は唇を噛んだ。石原を見る。石原は小さくうなずいた。
「……分かった。じゃあ、明日の朝また来る」
「お兄ちゃん、ちゃんと休んでね」
杏は立ち上がった。みんなと一緒に扉へ向かった。
そして最後に、もう一度だけ振り返る。それから病室を出ていった。
廊下の足音は、少しずつ遠ざかっていく。
病室には、石原と花野だけが残った。
花野は椅子をベッドのそばまで引き、腰を下ろす。
何も言わない。ただ、ベッド脇の台に置かれた紺色のノートを見ていた。
石原は横目で花野を見た。
照明の光が顔に落ちていた。レンズが光を反射していて、表情はよく見えなかった。
「……花野さん」
「ん」
「何か……言いたいことがある?」
花野の指先が、膝の上を軽く叩いた。一度だけ。
そして顔を上げ、石原を見た。
「石原は、やめるつもり、ないよね」
石原は答えなかった。
それが答えだった。
花野も、それ以上は追及しない。
鞄からスマホを取り出し、指で画面をゆっくりなぞった。
(そうじゃなければ――)
(異能を引き起こす「執念」ってわけでもない。)
窓の外では、街灯の光が静かに床へ落ちていた。




