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見える感情、見えないまま  作者: 颍川
第二十五话 我を貫く君――もう
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第一百三十五話

---


【Another View――????】


この世界には、風も音もなかった。

カーテンはきっちり閉められていて、光は入ってこなかった。


緒山は布団の中で丸くなり、自分を包み込むようにして、小さく身体を縮めていた。

今が昼なのか夜なのかも分からなかった。この世界では、時間に意味なんてない。


緒山はただ目を閉じて、自分の身体の中に広がる、空っぽの静けさを聞いていた。


(もう少ししたら……みんな、私のことを忘れる)


その考えを、何度も何度も繰り返した。まるで呪文みたいに。


お父さんも、お母さんも、私のことを忘れる。会長も忘れる。立花も忘れる。花野も忘れる。杏ちゃんも忘れる。

……彼も、忘れる。


(みんな、大丈夫)

(私がいなくても、ちゃんと大丈夫)


緒山は胸に手を当てた。掌の下には、何もない。

その空洞が、少しだけ彼女を安心させてくれる。

心臓が動かなければ、胸も痛まない。名残惜しさも湧かない。戻りたいなんて思わなくて済む。


嬉しいはずだった。なのに、笑えなかった。彼のことを思い出してしまったから。


石原久希。

林の中で、不器用に「空が落ちてくるわけじゃない」と言ってくれた人。

夏祭りの花火の下で、初めて「朋奈」と呼んでくれた人。

告白を断ったあと、目を赤くしていたのに、それ以上何も聞かなかった人。


忘れられると思っていた。でも、できなかった。


右手で、もう一度胸を押さえる。やっぱり何もない。

安心しているのか。寂しいのか。自分でも分からなかった。たぶん、どちらもだった。


(あの日……カフェで……)


目を閉じると、すぐにその光景が浮かび上がった。

止まった世界の中で彼を見つけた。耳を、彼の胸に当てた。


どくん、どくん、どくん。

力強い心音だった。一つずつ、確かに響いていた。

その音は近くて、あまりにも本物で、まるでこの世界でただ一つ生きているものみたいだった。


あのとき、緒山は言った。


――羨ましいな……。


(どうして……彼だけ違うんだろう)


ずっと分からなかった。

どうして彼は、私の世界に入ってこられるのか。

どうして私が能力を使うと、彼は体調を崩すのか。

どうして――私が心の中で彼の名前を呼んで能力を使うと、彼まで『連れてきて』しまうのか。


わざとじゃなかった。

あのカフェのときだって、元気のない彼を、遠くから少しだけ見たかっただけだった。

けれど能力を使ったあと、彼の時間は止まらなかった。


緒山は枕に顔を埋めた。


(彼だけが……特別だった)


あの日のことを思い出す。彼が林の中で告白してくれた日。

緒山はここへ逃げた。心臓のない、この世界へ。


(久希……)


目を閉じたまま、心の中でその名前を呼ぶ。唇は動かない。

それでも、その声は胸の内側で響いた。胸の中には、何もないはずなのに。


そのとき、緒山は感じた。

最初は、とても小さかった。水の底で、誰かがそっと息を吹き込んだみたいに、小さな泡がゆっくり浮かび上がってくる。

やがてそれは、少しずつはっきりしていった。温かくなっていった。胸の空洞から、何かが込み上げてくる。


どくん。


緒山ははっと目を見開いた。


どくん。どくん。どくん。


気のせいじゃない。


一つ、また一つ。ゆっくりで、不安定で。

それでも確かに、心臓の音だった。自分の心音だった。


緒山は胸に手を当てる。掌の下で、何かが動いていた。


「……どうして?」


ぽつりと呟く。その声は止まった世界に溶けて、返ってこなかった。

そして、彼のことを思った。


(久希――!)


ほとんど叫ぶように、その名を呼ぶ。声にはならない。

けれどその名前は、胸の奥から飛び出していった。


一本の線みたいに。

止まった世界を抜けて、ずっと遠くへ伸びていく。


そのとき。かすかに、声が聞こえた。


「……ここにいる」


---


【一月四日・月曜日・夕方】


【病室】


石原が目を開けたとき、視界に入ったのは白い照明だった。少し眩しい。

何度か瞬きをして、そのまま数秒見つめた。それから、ゆっくり身体を起こした。


頭の中はまだ整理できていなかった。絡まった毛糸玉みたいに、考えがまとまらない。


胸の奥が、かすかに痛む。石原は無意識に胸を押さえた。


(さっき……夢を見た)


夢の中には、一人の女の子がいた。ベッドの上で身体を小さく丸め、顔を膝へ埋めている。肩だけが、小さく震えていた。

泣いていた。けれど、声は聞こえなかった。


それでも、見ているだけで苦しかった。胸の奥を掴まれるみたいだった。

理由は分からない。ただ、自分が泣くよりもずっと苦しかった。


石原は、思わず手を伸ばしていた。

触れたかったのか。涙を拭ってあげたかったのか。自分でも分からない。


「もう泣くな」


自分の声が聞こえた。とても小さな声だった。


「俺はここにいる」


その瞬間だった。

心臓を強く握り潰されたみたいに、胸が痛んだ。息が詰まる。


そして――目が覚めた。


石原は胸から手を離し、指先を見つめた。

何も残っていない。


(誰なんだ……)


答えは分かっていた。


(『彼女』だ)


ずっと探している人。

ずっと忘れられない人。


病室は静かだった。空調の低い音だけが響いていた。

窓の外から光が差し込んでいる。柔らかい橙色。たぶん夕陽だ。


石原は顔を横へ向ける。ベッド脇の台には、紙で折られた花がいくつか置かれていた。

少し色褪せていて、何日か前から飾られているようだった。


その隣にはメモがあった。杏の字だった。


『お兄ちゃん、ご飯買ってくるね。すぐ戻る!』


石原はその文字を見つめ、心の中で小さく礼を言った。それから再び、天井へ視線を戻した。


夢の中の声が、まだ耳に残っている。


その前に聞こえた声だった。

石原が手を伸ばすよりも前に。声をかけるよりも前に。

ずっと遠くから届いて、耳元へ落ちてきた声。


(久希――!)


誰の声なのかは分からない。


石原は目を閉じ、胸へ手を当てた。

心臓はまだ落ち着かなかった。一つずつ、不安定に脈打っている。


(そこにいるのか……)


そのとき、風が吹いた。窓際のカーテンが小さく揺れた。

窓の外では、夕陽が白いシーツを照らしていた。


石原は胸から手を離した。そして、棚の上に置かれたノートを見た。

しばらく、ずっと見つめていた。


---


杏が病室の扉を開けたとき、石原はベッドの背に身を預け、あのノートを読んでいた。


「お兄ちゃん……起きてたの?」


杏の声が、扉の方から飛び込んでくる。少し息が上がっていた。手にはコンビニの袋を提げていた。


「なんで起き上がってるの? 先生が――」


「ありがとう、杏」


石原はノートを閉じ、枕元へ置いた。それから杏を見て、小さく笑った。

杏は一瞬だけ固まった。


そして――


「お兄ちゃーーん!」


勢いよく飛びついてきた。

石原はそのまま後ろへ押され、背中をベッドの背もたれにぶつけた。少し痛かった。

けれど杏はそんなこと気にもしていない。そのまま顔を石原の胸へ埋める。


泣いていた。


石原は点滴をしていない方の手を持ち上げた。

少し迷ってから、そっと杏の背中へ置いた。


「……杏」


返事はない。肩だけが、さっきより大きく震えていた。

しばらくして、ようやく杏が顔を上げた。


目は真っ赤だった。頬には涙の跡が残っている。

袖で乱暴に拭うと、石原を睨んだ。


「私、ほんとに怖かったんだから!」


石原は何と言えばいいのか分からなかった。困ったように笑いながら、何度も謝った。


「ごめん。ほんとにごめん」


「呼んでも起きないし……揺らしても反応しないし……」


杏の声が震えた。


「私、ほんとに……ほんとに……」


そこで言葉が途切れた。肩がまた小さく震える。

涙で石原の肩口が少し濡れていた。


石原は少し黙った。それから静かに言った。


「ごめん、杏ちゃん。次はこうならないようにする」


「お兄ちゃん、いつもそう言う……」


杏は石原の肩から顔を上げた。手の甲で拭いながら睨んでくる。


「前も約束したのに……」


「うん」


「なのにまた――」


杏は唇を噛んだ。最後までは言えなかった。

結局もう一度、顔を石原の胸へ埋めた。


石原は何も言わなかった。ただ、杏の背中を軽く叩いた。


病室には杏のすすり泣く声だけが響いていた。空調の低い音が重なる。


扉は少しだけ開いている。

春野は廊下で足を止めた。隙間から病室の様子が見えてしまったのだ。


春野は身体を少し横へずらし、後ろにいた立花と花野に向かって、口元に指を当てた。

立花は背伸びをして、そっと中を覗く。すぐに口元を押さえた。声は出さなかった。

花野は一番後ろに立っている。手にはスマホがあった。画面はもう消えていた。


花野は扉の隙間から漏れる光を一度だけ見た。

それから視線を落とし、スマホをポケットへしまった。


病室の中では、杏の泣き声が少しずつ落ち着いていった。

杏は鼻をすすり、石原の肩から顔を離す。手の甲で目を擦った。


その途中で、動きが止まった。

視界の端に、人影が映る。


立花の横顔。春野の制服の袖。花野の髪。

杏の顔が、一気に赤くなった。


「えっ……み、みんな――!?」


「あー」


春野が頭をかいた。


「見つかったか」


そう言いながら、三人で病室へ入ってきた。

杏は慌てて振り返った。そしてそのまま、もう一度石原の胸へ顔を埋める。耳まで真っ赤だった。


「……いつからいたの?」


くぐもった声が聞こえた。


「今来たところだよ、杏ちゃん」


立花がくすっと笑った。声はとても優しかった。


「嘘だ!」


杏は勢いよく顔を上げた。目尻にはまだ涙が残っている。

三人を睨んだ。何か言い返そうと口を開いた。けれど結局。


「……むぅ」


とだけ言って、再び石原の胸へ顔を埋めてしまった。

石原は顔を上げた。みんなへ向かって小さくうなずいた。

春野はそんな石原を見て、ようやく息を吐いた。


「無事でよかったよ、石原」

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