第一百三十五話
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【Another View――????】
この世界には、風も音もなかった。
カーテンはきっちり閉められていて、光は入ってこなかった。
緒山は布団の中で丸くなり、自分を包み込むようにして、小さく身体を縮めていた。
今が昼なのか夜なのかも分からなかった。この世界では、時間に意味なんてない。
緒山はただ目を閉じて、自分の身体の中に広がる、空っぽの静けさを聞いていた。
(もう少ししたら……みんな、私のことを忘れる)
その考えを、何度も何度も繰り返した。まるで呪文みたいに。
お父さんも、お母さんも、私のことを忘れる。会長も忘れる。立花も忘れる。花野も忘れる。杏ちゃんも忘れる。
……彼も、忘れる。
(みんな、大丈夫)
(私がいなくても、ちゃんと大丈夫)
緒山は胸に手を当てた。掌の下には、何もない。
その空洞が、少しだけ彼女を安心させてくれる。
心臓が動かなければ、胸も痛まない。名残惜しさも湧かない。戻りたいなんて思わなくて済む。
嬉しいはずだった。なのに、笑えなかった。彼のことを思い出してしまったから。
石原久希。
林の中で、不器用に「空が落ちてくるわけじゃない」と言ってくれた人。
夏祭りの花火の下で、初めて「朋奈」と呼んでくれた人。
告白を断ったあと、目を赤くしていたのに、それ以上何も聞かなかった人。
忘れられると思っていた。でも、できなかった。
右手で、もう一度胸を押さえる。やっぱり何もない。
安心しているのか。寂しいのか。自分でも分からなかった。たぶん、どちらもだった。
(あの日……カフェで……)
目を閉じると、すぐにその光景が浮かび上がった。
止まった世界の中で彼を見つけた。耳を、彼の胸に当てた。
どくん、どくん、どくん。
力強い心音だった。一つずつ、確かに響いていた。
その音は近くて、あまりにも本物で、まるでこの世界でただ一つ生きているものみたいだった。
あのとき、緒山は言った。
――羨ましいな……。
(どうして……彼だけ違うんだろう)
ずっと分からなかった。
どうして彼は、私の世界に入ってこられるのか。
どうして私が能力を使うと、彼は体調を崩すのか。
どうして――私が心の中で彼の名前を呼んで能力を使うと、彼まで『連れてきて』しまうのか。
わざとじゃなかった。
あのカフェのときだって、元気のない彼を、遠くから少しだけ見たかっただけだった。
けれど能力を使ったあと、彼の時間は止まらなかった。
緒山は枕に顔を埋めた。
(彼だけが……特別だった)
あの日のことを思い出す。彼が林の中で告白してくれた日。
緒山はここへ逃げた。心臓のない、この世界へ。
(久希……)
目を閉じたまま、心の中でその名前を呼ぶ。唇は動かない。
それでも、その声は胸の内側で響いた。胸の中には、何もないはずなのに。
そのとき、緒山は感じた。
最初は、とても小さかった。水の底で、誰かがそっと息を吹き込んだみたいに、小さな泡がゆっくり浮かび上がってくる。
やがてそれは、少しずつはっきりしていった。温かくなっていった。胸の空洞から、何かが込み上げてくる。
どくん。
緒山ははっと目を見開いた。
どくん。どくん。どくん。
気のせいじゃない。
一つ、また一つ。ゆっくりで、不安定で。
それでも確かに、心臓の音だった。自分の心音だった。
緒山は胸に手を当てる。掌の下で、何かが動いていた。
「……どうして?」
ぽつりと呟く。その声は止まった世界に溶けて、返ってこなかった。
そして、彼のことを思った。
(久希――!)
ほとんど叫ぶように、その名を呼ぶ。声にはならない。
けれどその名前は、胸の奥から飛び出していった。
一本の線みたいに。
止まった世界を抜けて、ずっと遠くへ伸びていく。
そのとき。かすかに、声が聞こえた。
「……ここにいる」
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【一月四日・月曜日・夕方】
【病室】
石原が目を開けたとき、視界に入ったのは白い照明だった。少し眩しい。
何度か瞬きをして、そのまま数秒見つめた。それから、ゆっくり身体を起こした。
頭の中はまだ整理できていなかった。絡まった毛糸玉みたいに、考えがまとまらない。
胸の奥が、かすかに痛む。石原は無意識に胸を押さえた。
(さっき……夢を見た)
夢の中には、一人の女の子がいた。ベッドの上で身体を小さく丸め、顔を膝へ埋めている。肩だけが、小さく震えていた。
泣いていた。けれど、声は聞こえなかった。
それでも、見ているだけで苦しかった。胸の奥を掴まれるみたいだった。
理由は分からない。ただ、自分が泣くよりもずっと苦しかった。
石原は、思わず手を伸ばしていた。
触れたかったのか。涙を拭ってあげたかったのか。自分でも分からない。
「もう泣くな」
自分の声が聞こえた。とても小さな声だった。
「俺はここにいる」
その瞬間だった。
心臓を強く握り潰されたみたいに、胸が痛んだ。息が詰まる。
そして――目が覚めた。
石原は胸から手を離し、指先を見つめた。
何も残っていない。
(誰なんだ……)
答えは分かっていた。
(『彼女』だ)
ずっと探している人。
ずっと忘れられない人。
病室は静かだった。空調の低い音だけが響いていた。
窓の外から光が差し込んでいる。柔らかい橙色。たぶん夕陽だ。
石原は顔を横へ向ける。ベッド脇の台には、紙で折られた花がいくつか置かれていた。
少し色褪せていて、何日か前から飾られているようだった。
その隣にはメモがあった。杏の字だった。
『お兄ちゃん、ご飯買ってくるね。すぐ戻る!』
石原はその文字を見つめ、心の中で小さく礼を言った。それから再び、天井へ視線を戻した。
夢の中の声が、まだ耳に残っている。
その前に聞こえた声だった。
石原が手を伸ばすよりも前に。声をかけるよりも前に。
ずっと遠くから届いて、耳元へ落ちてきた声。
(久希――!)
誰の声なのかは分からない。
石原は目を閉じ、胸へ手を当てた。
心臓はまだ落ち着かなかった。一つずつ、不安定に脈打っている。
(そこにいるのか……)
そのとき、風が吹いた。窓際のカーテンが小さく揺れた。
窓の外では、夕陽が白いシーツを照らしていた。
石原は胸から手を離した。そして、棚の上に置かれたノートを見た。
しばらく、ずっと見つめていた。
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杏が病室の扉を開けたとき、石原はベッドの背に身を預け、あのノートを読んでいた。
「お兄ちゃん……起きてたの?」
杏の声が、扉の方から飛び込んでくる。少し息が上がっていた。手にはコンビニの袋を提げていた。
「なんで起き上がってるの? 先生が――」
「ありがとう、杏」
石原はノートを閉じ、枕元へ置いた。それから杏を見て、小さく笑った。
杏は一瞬だけ固まった。
そして――
「お兄ちゃーーん!」
勢いよく飛びついてきた。
石原はそのまま後ろへ押され、背中をベッドの背もたれにぶつけた。少し痛かった。
けれど杏はそんなこと気にもしていない。そのまま顔を石原の胸へ埋める。
泣いていた。
石原は点滴をしていない方の手を持ち上げた。
少し迷ってから、そっと杏の背中へ置いた。
「……杏」
返事はない。肩だけが、さっきより大きく震えていた。
しばらくして、ようやく杏が顔を上げた。
目は真っ赤だった。頬には涙の跡が残っている。
袖で乱暴に拭うと、石原を睨んだ。
「私、ほんとに怖かったんだから!」
石原は何と言えばいいのか分からなかった。困ったように笑いながら、何度も謝った。
「ごめん。ほんとにごめん」
「呼んでも起きないし……揺らしても反応しないし……」
杏の声が震えた。
「私、ほんとに……ほんとに……」
そこで言葉が途切れた。肩がまた小さく震える。
涙で石原の肩口が少し濡れていた。
石原は少し黙った。それから静かに言った。
「ごめん、杏ちゃん。次はこうならないようにする」
「お兄ちゃん、いつもそう言う……」
杏は石原の肩から顔を上げた。手の甲で拭いながら睨んでくる。
「前も約束したのに……」
「うん」
「なのにまた――」
杏は唇を噛んだ。最後までは言えなかった。
結局もう一度、顔を石原の胸へ埋めた。
石原は何も言わなかった。ただ、杏の背中を軽く叩いた。
病室には杏のすすり泣く声だけが響いていた。空調の低い音が重なる。
扉は少しだけ開いている。
春野は廊下で足を止めた。隙間から病室の様子が見えてしまったのだ。
春野は身体を少し横へずらし、後ろにいた立花と花野に向かって、口元に指を当てた。
立花は背伸びをして、そっと中を覗く。すぐに口元を押さえた。声は出さなかった。
花野は一番後ろに立っている。手にはスマホがあった。画面はもう消えていた。
花野は扉の隙間から漏れる光を一度だけ見た。
それから視線を落とし、スマホをポケットへしまった。
病室の中では、杏の泣き声が少しずつ落ち着いていった。
杏は鼻をすすり、石原の肩から顔を離す。手の甲で目を擦った。
その途中で、動きが止まった。
視界の端に、人影が映る。
立花の横顔。春野の制服の袖。花野の髪。
杏の顔が、一気に赤くなった。
「えっ……み、みんな――!?」
「あー」
春野が頭をかいた。
「見つかったか」
そう言いながら、三人で病室へ入ってきた。
杏は慌てて振り返った。そしてそのまま、もう一度石原の胸へ顔を埋める。耳まで真っ赤だった。
「……いつからいたの?」
くぐもった声が聞こえた。
「今来たところだよ、杏ちゃん」
立花がくすっと笑った。声はとても優しかった。
「嘘だ!」
杏は勢いよく顔を上げた。目尻にはまだ涙が残っている。
三人を睨んだ。何か言い返そうと口を開いた。けれど結局。
「……むぅ」
とだけ言って、再び石原の胸へ顔を埋めてしまった。
石原は顔を上げた。みんなへ向かって小さくうなずいた。
春野はそんな石原を見て、ようやく息を吐いた。
「無事でよかったよ、石原」




