↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
見える感情、見えないまま  作者: 颍川
第二十五话 我を貫く君――もう
PR
140/180

第一百三十四話

---


【一月一日・金曜日・早朝】


石原は朝の光で目を覚ました。


カーテンが少しだけ開いていた。

隙間から差し込んだ光が、まぶたの上に落ちていた。


石原はしばらく目を細めて天井を見つめ、それから顔を横へ向ける。

机の上には、あの紺色のノートがまだ開かれていた。

石原は手を伸ばし、指先で紙面に触れる。


昨夜、石原はそのノートを最初から最後まで読み切った。

消えかけていた文字は、読み進めるたびに少しずつ姿を現す。

まるで、水の底からゆっくり押し上げられてくるみたいに。


そこには、たくさんの願いが書かれていた。

海へ行くこと。花火を見ること。一緒に花火大会へ行くこと。


そして、石原に気づいてもらうために考えた、いくつもの計画も。

橋から飛び降りること。瞬間移動で教室へ戻ること。近づいて、石原が話してくれる相手になること。


(時間停止なんて能力を持ってるのに……やってることは子供みたいだな)


そう思って、石原は少しだけ笑った。

けれど、その笑みはすぐに消えた。


ノートには、『つらい』とか、『痛い』とか。

そんな言葉もたくさん残されていた。


そして、その中にひとつだけ。

石原の心に引っかかった文章があった。


『一人で静かに消えられますように』


そのとき。廊下の向こうから足音が聞こえた。続いて、扉を叩く音。


「お兄ちゃーん、起きてるー?」


「……うん」


扉が開いた。杏が顔を出した。

淡いピンク色のコート。襟元には小さなブローチ。首には淡い水色のマフラーが巻かれていた。

髪もいつもより丁寧に編み込まれていて、横に流した三つ編みが肩へ垂れていた。

普段よりずっと晴れやかな印象だった。


「どう?」


杏はその場でくるりと一回転した。得意そうに石原を見た。


「……似合ってる」


「むー、雑」


杏は口を尖らせた。けれど口元は嬉しそうだった。

そのまま机のそばまで歩いてきた。ノートを見た。そして石原の顔を見た。


「お兄ちゃん……出かける?」


石原は杏を見つめた。笑ってはいる。

けれど、コートの前を握る手には力が入っている。どこか不安そうだった。

石原は小さく笑い、少し首を傾げた。


「もちろん行くよ。杏ちゃん、少し待ってろ。着替えてくる」


杏の目がぱっと明るくなった。


「うん!」


そう言うと、部屋を飛び出した。

兎みたいに弾む足音が、廊下の向こうへ遠ざかっていく。


石原は立ち上がった。ノートを閉じる。そして引き出しの中へしまった。

着替えを済ませて部屋を出た。


玄関では、杏がもう靴を履いて待っている。

石原を見るなり、ぱたぱたと手を振った。


「行こ行こ!」


石原は小さく笑った。そして玄関の扉を開ける。


新年最初の日の空気は澄んでいて、息を吸い込むと肺の奥がひんやりした。


通りには、もうたくさんの人が出ていた。

正装姿の子どもたち。小さな子を連れた親たち。三々五々歩く年配の人たち。みんな神社の方へ向かっていた。


遠くから鈴の音が聞こえ、屋台の呼び込みの声も混じっている。


杏は前を歩いていた。今にも跳ね出しそうな、軽い足取りだった。


「お兄ちゃん、早くー!」


「分かってる」


石原はポケットに手を入れたまま、その後ろを歩いた。

賑やかな街並みとは裏腹に、石原の頭の中には昨夜のことがこびりついていた。


(彼女が書いていた願い……)

(あれは、俺が一緒に叶えたのか)


昨夜読んだ文字が、何度も頭をよぎる。

そして、長いあいだ石原を黙らせた、あの一文も。


『一人で静かに消えられますように』


石原は足元へ視線を落とした。


(だから、お前は異能力を使った)

(みんなに忘れてもらうために)


石畳の隙間を見つめた。


(誰も悲しませないために、一人で全部背負った)

(でも……)


「お兄ちゃん!」


前から杏の声が飛んでくる。


「見て見て! あっちの石灯籠!」


石原は顔を上げた。


道の脇には古い石灯籠が並んでいた。

表面には苔が付き、上には薄く霜が降りている。


杏は近づいて、指先でそっと灯籠に触れた。そして振り返った。


「冷たっ!」


「……気をつけろよ」


「はーい」


杏は慌てて手を引っ込めると、その指先を頬へ当てて、小さく身震いした。

石原はそんな姿を見て、少しだけ口元を緩めた。


二人は再び歩き出した。


神社へ着く頃には、通り以上に人が集まっていた。


杏は石原を引っ張るように人混みを進み、まず手水舎の前で足を止める。

柄杓を手に取り、左手を洗い、右手を洗い、左手に水を受けて口をすすいだ。

一つ一つの動作が妙に丁寧で、まるで大事な儀式でもしているみたいだった。


石原もそれに続く。

水は冷たかった。指先が痺れるほどだった。

それでも不思議と、寒いとは思わなかった。


それから二人は長い石段を上った。

両脇には白い提灯が並び、奉納者の名前が書かれている。


杏の足音が、石段に軽快に響いた。

数段駆け上がっては立ち止まり、石原を待った。


「お兄ちゃん、遅い」


石原は顔を上げ、少し困ったように笑う。


「そんなに背高かったっけ。ヒールでも履いてるのか?」


「履いてないよ!」


杏は自分の足元を見た。ヒールのないブーツだった。

そして頬を膨らませた。


「お兄ちゃんが遅いだけですー」


拝殿の前には、すでに長い列ができていた。

杏は列の最後尾に並び、つま先立ちになって前の様子を覗く。


「人、多いなあ……これはけっこう待ちそう」


石原は隣に立ったまま、何も言わなかった。


列は少しずつ前へ進んでいく。

前の人たちが一人ずつ賽銭箱の前へ進み、賽銭を入れ、鈴を鳴らし、二礼二拍手をして、手を合わせていく。


晴れ着姿の子どもが、親に抱き上げられながら鈴を鳴らしていた。鈴の音が、からんからんと高く響く。

目を閉じて、長く祈っている老人もいた。額の細い皺が、ぎゅっと寄っていた。


石原はそんな背中を眺めながら、自分は何を願うのだろうと考えた。

そう思った瞬間、答えはすぐに浮かんだ。


――『彼女』のことだった。


顔も思い出せない。名前も思い出せない。

それでも、自分にとって大切な人。


(見つけたい)


その思いは、とても軽かった。

けれど、胸の奥に静かに、確かに落ちた。


そして石原は、ノートに書かれていた『彼女』の願いを思い出す。


『海辺の夕日を見に行く』

『お父さんとお母さんに手紙を書く』

『好きな本を最後まで読む』


そして――『一人で静かに消えられますように』


(お前は一人じゃない)

(俺は、お前を一人にしたくない)


どうしてそこまで確信できるのか分からない。

けれど、その確信こそが答えだった。


「お兄ちゃん、もうすぐ私たちの番だよ」


杏の声が、石原を引き戻す。

石原は顔を上げた。列は、あと三、四人になっていた。


石原はポケットから五円玉を取り出す。

掌の中でひんやりしていて、縁が少し擦り減っていた。


先に杏の番が来た。

杏は賽銭箱の前へ進み、五円玉を投げ入れる。


――カラン。澄んだ音が響いた。


それから鈴の縄を掴み、何度か揺らす。鈴が、からんからんと鳴った。

杏は一歩下がり、二礼二拍手をして、目を閉じた。


続いて石原が前へ出た。

杏と同じように頭を下げ、手を合わせる。

そして目を閉じた。


(『彼女』は『一人で静かに消えられますように』と願った)

(だから、みんなは『彼女』を忘れた)

(きっと怖かったんだ。怖くて、一人で消えることを選ぶくらいに)

(俺は、お前を一人にしたくない)


石原は目を閉じたまま、ノートの内容を思い浮かべた。

胸の奥に、重いものが沈んでいた。石みたいに。


(見つけたい)

(少しでも、背負いたい)


その思いが形になった瞬間だった。心臓が、大きく縮んだ。

次の瞬間、世界が揺れ始めた。


痛みではない。何かが身体の内側からせり上がってきて、息ができなくなった。

呼吸が乱れ、額に冷たい汗が滲んだ。口の中へ、濃い鉄錆の味が広がった。


「お兄ちゃん?」


杏の声が聞こえた。

大丈夫だと言おうとした。けれど、足に力が入らなかった。


膝が地面についた。痛みは感じない。

身体が前へ傾く。まるで、後ろから何かに押されたみたいに。


「お兄ちゃーーん!」


杏の叫び声は、遠かった。


杏が駆け寄ってくる。

マフラーが風に揺れ、顔は真っ青だった。


周囲の人たちが集まってくる。


影が揺れる。

声が重なる。

耳の奥で、遠のいていく。


そして――何も分からなくなった。


---


杏は救急処置室の外にある長椅子に座っていた。ほとんど身じろぎもしない。

コートの前身頃にはうっすら汚れがつき、マフラーも少し曲がっていた。けれど、そんなことを気にする余裕はなかった。


廊下は静かだった。空調の低い音だけが響いていた。ときおり、看護師がワゴンを押して通り過ぎていく。

杏は俯き、自分の靴先を見つめた。


どれくらい待ったのだろう。十分だったかもしれない。三十分だったかもしれない。

やがて扉が開き、医師が出てきた。マスクを半分ほど下ろしていた。


「患者さんの容体は安定しています。命に別状はありません」


杏の肩から力が抜けた。


「ただ、まだ意識は戻っていません……」


医師は手元のカルテをめくった。


「検査の結果、心臓に軽い異常が見られました。過度の疲労によるストレス反応の可能性もありますが、詳しい原因については、追加の検査が必要です」


杏はスカートの裾を握る指に力を込めた。


「現時点で大きな問題はありません。ただ、数日ほど入院して経過を見ましょう」


「……会ってもいいですか?」


杏は立ち上がった。


「大丈夫ですよ。できるだけ安静にさせてあげてください」


杏は扉を開けた。

石原はベッドに横になっていた。手の甲には点滴の針が刺さっていて、透明なチューブが繋がっている。

顔色は悪かった。唇には小さな傷もあった。たぶん、自分で噛んでしまったのだろう。


杏はベッドのそばへ腰を下ろした。

窓の外から新年の陽射しが差し込んでいた。その光は、白いシーツの上に静かに広がっていた。


「バカなお兄ちゃん……」


杏は小さく呟いた。


「あの夜、約束したのに……」


石原は答えない。呼吸は穏やかだった。ただ眠っているだけのようにも見えた。


杏は俯き、腕に顔を埋めた。肩が小さく震える。それでも声は漏れなかった。

冬の日差しが、杏の背中に落ちていた。淡い色のコートを静かに照らしている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。