第一百三十四話
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【一月一日・金曜日・早朝】
石原は朝の光で目を覚ました。
カーテンが少しだけ開いていた。
隙間から差し込んだ光が、まぶたの上に落ちていた。
石原はしばらく目を細めて天井を見つめ、それから顔を横へ向ける。
机の上には、あの紺色のノートがまだ開かれていた。
石原は手を伸ばし、指先で紙面に触れる。
昨夜、石原はそのノートを最初から最後まで読み切った。
消えかけていた文字は、読み進めるたびに少しずつ姿を現す。
まるで、水の底からゆっくり押し上げられてくるみたいに。
そこには、たくさんの願いが書かれていた。
海へ行くこと。花火を見ること。一緒に花火大会へ行くこと。
そして、石原に気づいてもらうために考えた、いくつもの計画も。
橋から飛び降りること。瞬間移動で教室へ戻ること。近づいて、石原が話してくれる相手になること。
(時間停止なんて能力を持ってるのに……やってることは子供みたいだな)
そう思って、石原は少しだけ笑った。
けれど、その笑みはすぐに消えた。
ノートには、『つらい』とか、『痛い』とか。
そんな言葉もたくさん残されていた。
そして、その中にひとつだけ。
石原の心に引っかかった文章があった。
『一人で静かに消えられますように』
そのとき。廊下の向こうから足音が聞こえた。続いて、扉を叩く音。
「お兄ちゃーん、起きてるー?」
「……うん」
扉が開いた。杏が顔を出した。
淡いピンク色のコート。襟元には小さなブローチ。首には淡い水色のマフラーが巻かれていた。
髪もいつもより丁寧に編み込まれていて、横に流した三つ編みが肩へ垂れていた。
普段よりずっと晴れやかな印象だった。
「どう?」
杏はその場でくるりと一回転した。得意そうに石原を見た。
「……似合ってる」
「むー、雑」
杏は口を尖らせた。けれど口元は嬉しそうだった。
そのまま机のそばまで歩いてきた。ノートを見た。そして石原の顔を見た。
「お兄ちゃん……出かける?」
石原は杏を見つめた。笑ってはいる。
けれど、コートの前を握る手には力が入っている。どこか不安そうだった。
石原は小さく笑い、少し首を傾げた。
「もちろん行くよ。杏ちゃん、少し待ってろ。着替えてくる」
杏の目がぱっと明るくなった。
「うん!」
そう言うと、部屋を飛び出した。
兎みたいに弾む足音が、廊下の向こうへ遠ざかっていく。
石原は立ち上がった。ノートを閉じる。そして引き出しの中へしまった。
着替えを済ませて部屋を出た。
玄関では、杏がもう靴を履いて待っている。
石原を見るなり、ぱたぱたと手を振った。
「行こ行こ!」
石原は小さく笑った。そして玄関の扉を開ける。
新年最初の日の空気は澄んでいて、息を吸い込むと肺の奥がひんやりした。
通りには、もうたくさんの人が出ていた。
正装姿の子どもたち。小さな子を連れた親たち。三々五々歩く年配の人たち。みんな神社の方へ向かっていた。
遠くから鈴の音が聞こえ、屋台の呼び込みの声も混じっている。
杏は前を歩いていた。今にも跳ね出しそうな、軽い足取りだった。
「お兄ちゃん、早くー!」
「分かってる」
石原はポケットに手を入れたまま、その後ろを歩いた。
賑やかな街並みとは裏腹に、石原の頭の中には昨夜のことがこびりついていた。
(彼女が書いていた願い……)
(あれは、俺が一緒に叶えたのか)
昨夜読んだ文字が、何度も頭をよぎる。
そして、長いあいだ石原を黙らせた、あの一文も。
『一人で静かに消えられますように』
石原は足元へ視線を落とした。
(だから、お前は異能力を使った)
(みんなに忘れてもらうために)
石畳の隙間を見つめた。
(誰も悲しませないために、一人で全部背負った)
(でも……)
「お兄ちゃん!」
前から杏の声が飛んでくる。
「見て見て! あっちの石灯籠!」
石原は顔を上げた。
道の脇には古い石灯籠が並んでいた。
表面には苔が付き、上には薄く霜が降りている。
杏は近づいて、指先でそっと灯籠に触れた。そして振り返った。
「冷たっ!」
「……気をつけろよ」
「はーい」
杏は慌てて手を引っ込めると、その指先を頬へ当てて、小さく身震いした。
石原はそんな姿を見て、少しだけ口元を緩めた。
二人は再び歩き出した。
神社へ着く頃には、通り以上に人が集まっていた。
杏は石原を引っ張るように人混みを進み、まず手水舎の前で足を止める。
柄杓を手に取り、左手を洗い、右手を洗い、左手に水を受けて口をすすいだ。
一つ一つの動作が妙に丁寧で、まるで大事な儀式でもしているみたいだった。
石原もそれに続く。
水は冷たかった。指先が痺れるほどだった。
それでも不思議と、寒いとは思わなかった。
それから二人は長い石段を上った。
両脇には白い提灯が並び、奉納者の名前が書かれている。
杏の足音が、石段に軽快に響いた。
数段駆け上がっては立ち止まり、石原を待った。
「お兄ちゃん、遅い」
石原は顔を上げ、少し困ったように笑う。
「そんなに背高かったっけ。ヒールでも履いてるのか?」
「履いてないよ!」
杏は自分の足元を見た。ヒールのないブーツだった。
そして頬を膨らませた。
「お兄ちゃんが遅いだけですー」
拝殿の前には、すでに長い列ができていた。
杏は列の最後尾に並び、つま先立ちになって前の様子を覗く。
「人、多いなあ……これはけっこう待ちそう」
石原は隣に立ったまま、何も言わなかった。
列は少しずつ前へ進んでいく。
前の人たちが一人ずつ賽銭箱の前へ進み、賽銭を入れ、鈴を鳴らし、二礼二拍手をして、手を合わせていく。
晴れ着姿の子どもが、親に抱き上げられながら鈴を鳴らしていた。鈴の音が、からんからんと高く響く。
目を閉じて、長く祈っている老人もいた。額の細い皺が、ぎゅっと寄っていた。
石原はそんな背中を眺めながら、自分は何を願うのだろうと考えた。
そう思った瞬間、答えはすぐに浮かんだ。
――『彼女』のことだった。
顔も思い出せない。名前も思い出せない。
それでも、自分にとって大切な人。
(見つけたい)
その思いは、とても軽かった。
けれど、胸の奥に静かに、確かに落ちた。
そして石原は、ノートに書かれていた『彼女』の願いを思い出す。
『海辺の夕日を見に行く』
『お父さんとお母さんに手紙を書く』
『好きな本を最後まで読む』
そして――『一人で静かに消えられますように』
(お前は一人じゃない)
(俺は、お前を一人にしたくない)
どうしてそこまで確信できるのか分からない。
けれど、その確信こそが答えだった。
「お兄ちゃん、もうすぐ私たちの番だよ」
杏の声が、石原を引き戻す。
石原は顔を上げた。列は、あと三、四人になっていた。
石原はポケットから五円玉を取り出す。
掌の中でひんやりしていて、縁が少し擦り減っていた。
先に杏の番が来た。
杏は賽銭箱の前へ進み、五円玉を投げ入れる。
――カラン。澄んだ音が響いた。
それから鈴の縄を掴み、何度か揺らす。鈴が、からんからんと鳴った。
杏は一歩下がり、二礼二拍手をして、目を閉じた。
続いて石原が前へ出た。
杏と同じように頭を下げ、手を合わせる。
そして目を閉じた。
(『彼女』は『一人で静かに消えられますように』と願った)
(だから、みんなは『彼女』を忘れた)
(きっと怖かったんだ。怖くて、一人で消えることを選ぶくらいに)
(俺は、お前を一人にしたくない)
石原は目を閉じたまま、ノートの内容を思い浮かべた。
胸の奥に、重いものが沈んでいた。石みたいに。
(見つけたい)
(少しでも、背負いたい)
その思いが形になった瞬間だった。心臓が、大きく縮んだ。
次の瞬間、世界が揺れ始めた。
痛みではない。何かが身体の内側からせり上がってきて、息ができなくなった。
呼吸が乱れ、額に冷たい汗が滲んだ。口の中へ、濃い鉄錆の味が広がった。
「お兄ちゃん?」
杏の声が聞こえた。
大丈夫だと言おうとした。けれど、足に力が入らなかった。
膝が地面についた。痛みは感じない。
身体が前へ傾く。まるで、後ろから何かに押されたみたいに。
「お兄ちゃーーん!」
杏の叫び声は、遠かった。
杏が駆け寄ってくる。
マフラーが風に揺れ、顔は真っ青だった。
周囲の人たちが集まってくる。
影が揺れる。
声が重なる。
耳の奥で、遠のいていく。
そして――何も分からなくなった。
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杏は救急処置室の外にある長椅子に座っていた。ほとんど身じろぎもしない。
コートの前身頃にはうっすら汚れがつき、マフラーも少し曲がっていた。けれど、そんなことを気にする余裕はなかった。
廊下は静かだった。空調の低い音だけが響いていた。ときおり、看護師がワゴンを押して通り過ぎていく。
杏は俯き、自分の靴先を見つめた。
どれくらい待ったのだろう。十分だったかもしれない。三十分だったかもしれない。
やがて扉が開き、医師が出てきた。マスクを半分ほど下ろしていた。
「患者さんの容体は安定しています。命に別状はありません」
杏の肩から力が抜けた。
「ただ、まだ意識は戻っていません……」
医師は手元のカルテをめくった。
「検査の結果、心臓に軽い異常が見られました。過度の疲労によるストレス反応の可能性もありますが、詳しい原因については、追加の検査が必要です」
杏はスカートの裾を握る指に力を込めた。
「現時点で大きな問題はありません。ただ、数日ほど入院して経過を見ましょう」
「……会ってもいいですか?」
杏は立ち上がった。
「大丈夫ですよ。できるだけ安静にさせてあげてください」
杏は扉を開けた。
石原はベッドに横になっていた。手の甲には点滴の針が刺さっていて、透明なチューブが繋がっている。
顔色は悪かった。唇には小さな傷もあった。たぶん、自分で噛んでしまったのだろう。
杏はベッドのそばへ腰を下ろした。
窓の外から新年の陽射しが差し込んでいた。その光は、白いシーツの上に静かに広がっていた。
「バカなお兄ちゃん……」
杏は小さく呟いた。
「あの夜、約束したのに……」
石原は答えない。呼吸は穏やかだった。ただ眠っているだけのようにも見えた。
杏は俯き、腕に顔を埋めた。肩が小さく震える。それでも声は漏れなかった。
冬の日差しが、杏の背中に落ちていた。淡い色のコートを静かに照らしている。




