第一百三十三話
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【十二月三十一日・木曜日・大晦日の夜】
『みんな、今夜はうちにけっこう客が来る予定で、たぶん徹夜になると思う。だから当番のことは心配しなくて大丈夫だ』
『明日は……まあ、さすがに誰も寝ないんじゃないかな(笑)。引き継ぎのことは、明日の午後になってから考えよう!』
『まだ少し早いけど、みんな、良いお年を!』
春野から届いたメッセージは、石原兄妹にとって、ひとまず胸を撫で下ろせる知らせだった。
少なくとも今日と明日は、当番のことを気にしなくていい。
その夜、石原兄妹は緒山家に、大晦日の夕食へ招かれていた。
「人数が多いほうが楽しいでしょ!」
電話越しの緒山のお母さんは、とても楽しそうに笑っていた。
「杏ちゃんも絶対来てね! 杏ちゃんの好きな天ぷら、いっぱい作るから!」
夕方。石原と杏は餅とみかんを手に、緒山家の玄関の前に立った。
家の中には、年越しそばの香りがふんわりと漂っていた。
緒山のお父さんは台所で忙しそうに動き回っていて、エプロンには小麦粉がついていた。
緒山のお母さんは笑顔で二人を迎え入れ、手土産を受け取った。
「来てくれるだけでいいのに。こんなの、気を遣わなくていいのよ」
そう言いながらも、嬉しそうに笑っていた。
テレビでは紅白歌合戦が流れていた。
テーブルには湯気の立つ年越しそばと、いくつかの家庭料理が並んでいた。和え物に、杏の大好きな天ぷら。
「わあー! おいしそうなものがいっぱい!」
杏の目がきらりと輝いた。
「大晦日だものね」
緒山のお母さんは笑いながら、杏を席に座らせた。
「たくさん食べなさい。そんなに細いんだから」
石原は礼を言って、隣に腰を下ろした。
何もかもが心地よかった。賑やかで、温かい。
テレビからは歌声と笑い声が流れてくる。
外は静かで、ときおり遠くを走る車の音だけが聞こえていた。
緒山のお父さんはみんなにジュースを注ぎ、グラスを持ち上げた。
「さあ、新しい一年も、みんな元気で過ごそうな!」
「乾杯ー!」
グラスが触れ合い、澄んだ音を立てた。
石原はジュースを口に運びながら、ふと向かいの壁へ目を向けた。
そこには一枚の写真が飾られている。
緒山のお父さんと、お母さんの写真だった。
石原はしばらく、その写真を見つめていた。
胸の奥が、不意に少しだけ重くなる。
理由は分からない。ただ、なぜか視線を離せなかった。
(……たぶん、『彼女』と関係があるんだろうな)
食事が終わると、緒山のお母さんが食器を片付け始めた。
そのとき、緒山のお父さんが何かを思い出したように口を開く。
「ああ、そうだ」
「部屋を片付けたんだ。石原と杏ちゃんがこれから遊びに来たとき、泊まれるようにな。夜遅くに帰らなくてもいいだろ」
杏の目がぱっと輝いた。
「ほんとですか!? 見たい!」
緒山のお父さんは笑いながら立ち上がり、そのまま二人を案内した。
扉を開けると、中はごく普通の寝室だった。
ベッドと机、クローゼット。窓辺には小さな鉢植えが置かれていた。
「引っ越してきた頃は空き部屋だったんだけどな」
緒山のお父さんは頭をかいた。
「その後は物置みたいになってたんだが、この前片付けたんだよ」
「杏ちゃんが友達を連れて遊びに来ることもあるかもしれないしな」
杏は興味津々で部屋の中を見回した。
「わあ、このベッドふかふかそう!」
石原は部屋の入口に立ったまま、中を見つめていた。
石原は周囲を見回し、ふいに動きを止める。
――あの線が、また唐突に現れていた。
その線を追うように視線を向けると、部屋の隅に積まれた段ボール箱へ行き着く。
その中の一つだけが、どこか違って見えた。蓋がきちんと閉まっておらず、隙間から何かの角が覗いていた。
――ノートの表紙のように見えた。
なぜその箱に引き寄せられるのか、自分でも分からない。
ただ気づけば、足がそちらへ向かっていた。
「お兄ちゃん、どうしたの?」
杏が振り返った。
「……いや、何でもない」
石原は短く答え、その箱の前で立ち止まる。
視線は箱から離れない。
あの線は、箱の中へと続いている。
まるで、その奥に何か宝物でもあると示しているみたいに。
「ああ、それか」
緒山のお父さんが箱を見た。
「この前片付けたんだよ。もう少ししたら処分するつもりだったんだ」
「……中を見てもいいですか」
「ん? もちろん」
石原はその場にしゃがみ込み、箱の中を探った。指先が、硬い表紙に触れる。
石原はそれを引き抜いた一冊のノートだった。
表紙は、深い夜空みたいな紺色。
そこにはいくつか文字が書かれていたが、もうほとんど消えかけていた。
石原は目を近づける。読めない。
ただ、ぼんやりと――名前のようなものだった気がした。
そして何より気になったのは、あの線だ。今までのように、途中でぷつりと途切れていない。
細い糸のように、ノートへ絡みついている。
石原はノートを見つめたまま、喉の奥がわずかに締まるのを感じた。
「ん? それ、何だ?」
緒山のお父さんが覗き込み、不思議そうに眉をひそめた。
「見たことないな……」
石原は答えなかった。ノートを握る手に、自然と力が入った。
どうしてなのか分からない。それでも、手放したくなかった。
「これ……持って帰ってもいいですか」
緒山のお父さんは少し驚いた顔をする。だがすぐに笑って、うなずいた。
「もちろんいいよ。誰のノートかも分からないしな。引っ越しのときに紛れ込んだのかもしれない」
そう言って、楽しそうに笑った。
「新年のプレゼントってことで。もちろん、プレゼントはこれだけじゃないけどな」
「……ありがとうございます」
石原はノートを胸に抱いた。声が少し掠れていた。
杏はそんな兄をちらりと見る。けれど、何も言わなかった。
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【深夜】
【石原の部屋】
遠くで、年越し最初の鐘の音が鳴った。低く、長く。
夜風を抜けて、遠い場所から落ちてくるような音だった。
石原は机の前に座っていた。
目の前には、あのノートが開かれている。
あの線は、もう消えていた。まるで最初から、何にも絡みついてなどいなかったみたいに。
部屋の明かりだけが、静かに灯っている。
石原は深く息を吸い、表紙を開いた。
一ページ目。白紙。
二ページ目。白紙。
そのまま、一枚ずつめくっていく。ほとんどのページは、完全に白紙だった。
ただ、一部のページには、薄く滲んだようなインクの跡だけが残っている。
雨粒が紙に落ちて、そのまま乾いたみたいだった。
かろうじて読める言葉も、いくつかあった。
海。電車。バカ……。
その先は読めなかった。
何を意味するのか分からない。誰が書いたのかも、誰に向けて書いたのかも分からない。
また、鐘の音が落ちてきた。
石原はページをめくり続ける。そして最後のページで、手を止めた。
そこには絵が描かれていた。紙は少し黄ばんでいて、線も薄くなり、繊維に溶け込みかけていた。
石原は顔を近づける。
かつて何が描かれていたのか、なんとか判別できた。
たぶん、小さな二人の人影。並んで座っている。
けれど今は、輪郭しか残っていなかった。
誰が描いたのか。
誰を描いたのか。
なぜここに描かれているのか。
何も分からなかった。
ただ、一か所だけ違っていた。
右側の人影の身体の中に、ほかより濃い線が残っている。
あとから誰かが描き足したような跡だった。
――ハートだった。少し歪んでいて、あまり上手とは言えない。
それでも、一目で分かった。
石原はそのハートを見つめた。指先が冷えていく。
鐘の音はまだ続いていた。
急かすこともなく、一定の間隔で、ひとつずつ。重くはない。
けれど、胸の内側を鈍く叩かれているみたいだった。
石原はそのハートを見つめる。
そして、見えた。さっきまで滲んだ跡にしか見えなかった文字が、少しずつ浮かび上がっていく。
白紙だったページに、びっしりと項目が現れていた。
『先輩と一緒に海を見に行く』( )
『先輩と一緒に花火を見る』(✓)
『雪の日に先輩へ告白する』( )
……
一行ずつ。石原はその文字を読んでいった。
胸の奥で、何かが沈んでいく。
なぜ泣きそうになるのか、自分でも分からなかった。
そのとき、映像がよぎる。ほんの一瞬だった。
陽射し。ベンチ。彼女がノートを差し出してくる。
石原はそれを受け取り、ペンを握って、その人影にハートを描いた。
顔は見えない。声も聞こえない。
それでも、あの感覚だけは戻ってきた。
鼓動が速くなる。胸の奥が、春の日だまりみたいに温かい。
それから、自分は何かを言った。
何を言った? 何を言ったんだ?
あの瞬間を、確かに覚えている。
陽射しが彼女の顔に落ちていたことも。
彼女が笑ってこちらを見ていたことも。
ペンを受け取ったとき、自分の手が少し震えていたことも。
全部、覚えている。
なのに。何を言ったのかだけが、思い出せない。
石原は必死に考えた。額に汗が滲む。
こめかみが、どくどくと脈打つ。
その言葉は、すぐそこにある。
口元にある。頭の中にある。
あと少しで届きそうなのに――
映像が流れ込んでくる。
彼女の顔。笑った顔。「先輩」と呼ぶ声。語尾が少しだけ上がる、あの話し方。
それは確かに、自分が見たことのある景色だった。
覚えているはずの景色だった。
石原は目を閉じた。
必死に彼女の顔を思い出そうとする。曖昧だった。
声を思い出そうとする。聞こえない。
名前は知っいる。知っているはずだった。覚えているはずだった――なのに、言えない。
石原は口を開いた。唇がわずかに動く。けれど、声にならない。
その名前は、喉の奥で止まっていた。
何かに塞がれているみたいだった。
まるで、その言葉だけが音を失ったみたいに。
まるで、その名前だけが頭の中から削り取られてしまったみたいに。
残っているのは、空っぽの輪郭だけだった。
石原は何度も試した。一度。二度。何度も。
額を机の縁へ押しつける。肩が震えた。
ノートの上には、あのハートだけが残っている。歪なまま。消えずに。
それだけが残っていた――自分が『彼女』のために描いたハート。
胸に手を当てる。そこにある何かが、また深く根を張った気がした。
鐘の音が続く。ひとつ。またひとつ。
古い呼吸みたいに、夜風を抜け、静かな街へ落ちていく。
石原はその音を聞いていた。
胸に当てた手は、最後まで離れなかった。
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扉が少しだけ開いた。
「お兄ちゃん?」
杏が顔を半分だけ覗かせる。
手には温かいココアを二つ持っていた。
「年越しなのに、なんで一人で部屋にこもって――って、うわ。何してるの?」
石原の様子を見て、杏は一瞬言葉を詰まらせた。
石原は顔を上げる。
杏は二秒ほどじっと彼を見つめてから、部屋に入ってきた。
ココアを机の上へ置き、ベッドの端に腰を下ろす。
「……どうしたの?」
小さな声で聞いた。石原は答えなかった。
杏は机の上に開かれたノートを見て、それから石原の目を見る。
そして手を伸ばし、ノートを取ってぱらぱらとめくった。
「このノート……誰の?」
「たぶん……『彼女』の」
石原の声は少し掠れていた。
杏は目を瞬かせ、慌ててノートの中身をもう一度見返す。
「『彼女』のものが見つかったんでしょ? だったら、いいことじゃん。なのに、お兄ちゃん……」
杏はそこで言葉を切った。そして、石原を見る。
「なのに、お兄ちゃん……なんで泣いてるの?」
石原は一瞬、固まった。自分の頬へ手を伸ばす。濡れていた。
いつから泣いていたのか分からない。どれくらい涙が流れていたのかも分からない。
頬は冷たくて、もうしばらく前から風に当たっていたみたいだった。
石原は自分の手を見つめた。指先に、わずかな涙の光が残っている。
「……分からない」
声はまだ震えていた。
杏は何も言わず、ただ石原を見つめていた。
それから、小さくため息をついた。
「バカなお兄ちゃん」
石原は視線を落とした。しばらく沈黙が続いた。
やがて杏はノートを返し、最後のページの絵を指差す。
「これ何? お兄ちゃんが描いたの?」
「……たぶん」
「たぶん?」
杏は首を傾げた。
石原はあのハートを見つめる。
「描いたときの気持ちは……少し思い出した気がする」
杏は黙って聞いていた。
「でも、まだ『彼女』のことは思い出せない」
石原の呼吸は、少しずつ落ち着いていった。
「顔も、名前も、具体的に何があったのかも。何一つ思い出せない」
少し間を置いた。そして静かに言う。
「……でも」
「『彼女』のことを考えると、胸が痛くなるんだ」
鐘の音は、まだ遠くで響いていた。低く、静かに。
まるで波が砂浜を撫でていくみたいに。
杏はココアを両手で包み込みながら、ゆっくり一口飲んだ。
「お兄ちゃん」
「ん」
「お兄ちゃん、『彼女』のこと、すごく好きだったんだね」
石原は少しだけ目を見開く。何か言おうとして、結局首を横に振った。
「……分からない」
「ううん。そこだけは分かるよ」
杏はまっすぐに言った。
「お兄ちゃん、絶対に『彼女』のことが大好きだった。きっと、誰よりも」
石原は何も答えなかった。しばらくして、杏が静かに口を開く。
「これから、どうするの? お兄ちゃん」
石原は顔を上げた。
鐘の音はまだ続いていた。たぶん、もうすぐ終わる。
窓の外は真っ暗で、光は見えなかった。
「探す」
声は小さかった。けれど、揺らがなかった。
「誰なのかも分からない。どこにいるのかも分からない。見つけたあと、どうなるのかも分からない。でも――」
そこで言葉を切り、俯いて胸元を強く押さえた。
「ここが、探さなきゃいけないって言ってる」
杏はしばらく、兄をじっと見つめていた。
それからココアのカップを机に置き、静かに立ち上がった。
扉の前まで行き、振り返った。
「お兄ちゃん」
「ん」
「探しに行きなよ。みんなが手伝ってくれるから」
石原は杏を見つめた。
杏は少し笑って、部屋を出ていった。
数秒後。扉がまた少し開く。
杏がひょこっと顔を覗かせた。
「あ、そうだ。ココア、ちゃんと飲んでね。冷めたらおいしくなくなるから」
石原は机の上のココアを見た。
白い湯気が細く立ち上り、灯りの下でゆっくり揺れている。
「……ありがとう」
杏は口を尖らせた。
「そういうの、いいから」
百八つ目の鐘が鳴った。
新しい年、最初の夜だった。
――がちゃ。また扉が開く。
杏が再び顔を出した。
「お兄ちゃん」
「ん」
「明けましておめでとう」
石原は数秒、ぽかんとした。それから小さく笑った。
「……明けましておめでとう」
扉が閉まった。部屋は再び静かになる。
石原はココアを手に取り、一口飲んだ。
それからノートを開き、最後のページを見た。
二人の人影は、もうほとんど見えない。残っているのは、あのハートだけだった。
石原は指先で、そっとそこに触れた。
窓の外は深い夜だった。どこまでも静かだった。
鐘の音はもう止んでいた。それでも余韻だけは、水面に広がる波紋みたいに、まだ空気の中に残っている。
石原はノートを閉じ、胸に抱いた。
そして、静かな夜景を見つめた。
(……彼女も、見ていたらいいのにな)




