第一百三十一話
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【十月十九日・土曜日・朝】
夜が明けるころ。石原は玄関で靴を履いていた。
靴紐を結び終え、ゆっくり顔を上げる。目の前には玄関の扉。
(今日――みんなに話すんだな)
(信じてもらえるだろうか……)
拳を握った。掌には少し汗が滲んでいた。
だが、その力はすぐに抜ける。
脳裏によぎったのは、昨夜のことだった。
杏が手を伸ばし、石原の顎をそっと持ち上げた。下を向いたままの顔を上げさせた。
その瞳は澄んでいて、真っ直ぐだった。迷いもなかった。
「お兄ちゃんの言うことなら、私は一つ残らず信じるよ」
その言葉を聞いた瞬間、石原は言葉を失った。
何を言われたからではない。
胸の奥の、空っぽだった場所だった。空っぽだったはずの場所に、ふっと温もりが灯った気がした。
初めてじゃない。その感覚を、石原は知っていた。
脳裏にいくつもの景色が浮かんだ。
知らない場所。知らない時間。輪郭は曖昧だった。掴もうとしても掴めない。
それでも、その感覚だけは覚えている。
胸が高鳴った。春の日差しみたいな暖かさ。
(「彼女」と一緒にいた時も……)
(こんな気持ちだったんだろうか)
なぜそう思うのかは分からない。それでも石原には確信があった。
杏は手を離した。それから温かい牛乳を石原の前へ押し出した。
「飲んで。それから明日、みんなに話そう」
石原はカップを持ち上げた。
一口飲んだ。ほんのり温かかった。
(「彼女」は――)
(俺にとって、どんな存在だったんだろう)
石原は深く息を吸った。そして玄関の扉を開けた。
朝日が廊下の窓から差し込んでいる。柔らかな光が頬に当たった。
石原は足元を見る。そして小さく笑った。
「本当に……『彼女』のことを考えるたび、いいタイミングで現れるな」
――糸だった。また現れている。
無理に引っ張ることもない。急かすこともない。
ただ静かに。階段の先へと伸びている。
「お兄ちゃん、待ってよー」
後ろから杏の声が飛んできた。
「先に下で待ってる」
石原は一歩踏み出す。そして糸を追い、階段を下りていった。
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糸は、これまでのように遠くへ伸びてはいなかった。
ただ、落ち着いた様子で、マンション一階のある部屋を指している。
石原はその先へ歩いていった。
数歩進み、一枚の玄関扉の前で足を止めた。
103号室。緒山家。
朝日が廊下の窓から斜めに差し込み、小さな表札を照らしている。
石原は数秒、その扉を見つめた。
(どうして、おじさんとおばさんの家なんだ……)
(まさか、「彼女」は――)
だが、緒山のおばさんに子どもはいない。それは石原もよく知っていた。
杏ちゃんと一緒に何度もここへ来た。
緒山のおばさんはいつも優しく迎えてくれて、杏のことも本当の娘みたいに可愛がっていた。
(親戚とか……?)
(いや……おじさんたちも、「彼女」を忘れている可能性はある)
そう考えた瞬間だった。糸は途切れた。
いつものように。音もなく、気配もなく、空気へ溶けるように消えていった。
石原はもう扉を見なかった。振り返り、大きな欠伸を一つする。
朝の空気が頬を撫でた。少し冷たかった。
石原は目を擦った。
そのとき、杏がパンをくわえたまま階段を駆け下りてきた。
「足元、気を付けろよ、杏」
「行こ行こ!」
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午前九時。石原と杏は予定通り、花野の家のリビングに来ていた。
すでに全員そろっていた。
石原の顔を見た瞬間、春野は目を丸くする。
「おいおい……石原、お前何日寝てないんだ?」
本気で驚いている顔だった。
石原の顔色は最悪だった。目の下の隈など、もはやパンダみたいで隠しようもない。
「えっと……三日くらい」
「三日!?」
立花が机に手をついて、勢いよく立ち上がった。
「先輩、それはダメですよ! 今すぐ寝てください!」
石原は苦笑した。
「いや、その前に話を聞いてほしい。今寝たら全部忘れるかもしれないから」
そう言った直後、また欠伸が漏れた。
「寝たら忘れる?」
花野が茶を注ぎながら言った。視線はまだ急須のままだ。
「今度はエビングハウスの忘却曲線にでも挑戦してるの?」
淡々とした口調だった。石原は答えなかった。
代わりに自分の頬を強めに叩いた。少しでも意識を保つために。
そして全員を見回した。
「みんな。これから話すことは……たぶん、かなり荒唐無稽に聞こえると思う」
花野の手が止まった。ゆっくり顔を上げる。石原を見た。
「でも、どうか信じてほしい」
前とは違った。声に迷いがなかった。
疲労は隠せなかった。目の下の隈も酷かった。
それでも、その目だけは真っ直ぐだった。
だからこそ、誰も冗談だとは思わなかった。
春野が姿勢を正す。そして最初に頷いた。
立花も続いた。力強く頷いた。
「うん」
花野は急須をテーブルへ置く。そして静かに首を縦に振った。
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石原は話し始めた。
自分の異能力が消えていたこと。
そこまで話したところで、全員の表情が明らかに変わった。
だが石原は続けた。
自分が知っていること。推測していること。全部を話した。
「彼女」の存在。消えていく記憶。
あの糸。何も書かれていないノート。
そして交代制の考え。
ゆっくり話しながら、自分でも何度か言葉に詰まった。
確信できない部分も多い。本当にそうなのか、自分でも分からないからだ。
すべて話し終えると、石原は緊張を隠せないまま視線を落とした。指先が少し震えていた。
(これだけ手がかりがあっても……結局は推測だ。全部、俺の考えに過ぎない)
(みんな……どう思うんだろう)
(やっぱり、俺がおかしくなったと思うのか)
そのときだった。横から手が伸びてきた。温かい感触が、手の甲を覆った。
杏だった。両手で石原の手を包むように、そっと握っていた。
石原は隣を見る。杏は小さく微笑み、静かに頷いた。
石原は少しだけ目を見開く。それから笑った。
肩の力が抜けていった。
張り詰めていたものが、ようやく緩んだ気がした。
リビングには沈黙が流る。最初に口を開いたのは花野だった。
「石原……」
石原は顔を上げる。
花野は何も言わなかった。代わりにソファから立ち上がり、こちらへ歩いてくる。
石原の心臓が一瞬だけ跳ねた。無意識に膝の上のズボンを握る。
だが。花野はそのまま通り過ぎる。足を止めることもなかった。
「その方針で進めよう。私はパソコンを取ってくる」
それだけ言って、奥の部屋へ向かっていく。
石原はぽかんとした。隣の杏と目が合った。
二人同時に、ほっとしたように笑った。心の底から安心したみたいに。
石原は振り返った。
「ありがとう、花――」
最後まで言えなかった。
「うぅーっ!」
突然だった。後ろから誰かが勢いよく抱きついてきた。
腰に腕が回った。力は強くなかった。だが全身でしがみつかれていた。
「先輩、もっと早く言ってくださいよぉ! みんな本当に心配してたんですから!」
立花だった。声が少し涙混じりになっていた。
「た、立花さん……ごめん。本当に。俺が悪かった」
「もうっ! バカ先輩!」
立花は泣きそうな声のまま文句を言った。そのまま小さな拳で背中をぽかぽか叩いてくる。
杏は一瞬驚いて手を離し、慌てて少し横へ退いた。だが、その様子を見て思わず吹き出した。
春野も笑っていた。そのまま近づき、立花の襟首を軽く掴む。
「はいはい。その辺にな」
ひょい、と立花を引き離した。
立花は離されながらも頬を膨らませていた。目尻にはまだ涙が残っていた。
春野は石原へ向き直った。表情が少し真面目になった。
「石原。正直に言うと、話だけ聞けばかなり突飛だ」
そこで一度言葉を切った。慎重に続ける。
「でも、これはお前一人の問題じゃない」
「俺たちは、お前を信じる」
石原は口を開く。だが、何を言えばいいのか分からなかった。言葉が出てこなかった。
その頃には花野が戻ってきていた。ノートパソコンを抱えている。
テーブルの上に置いて開くと、画面の青白い光が顔を照らした。
立花はすぐに駆け寄る。花野の肩へ身を乗り出した。
「真汐ちゃん! シフト表作るの? さっき先輩が言ってた交代制のやつ?」
花野は頷く。返事はしなかった。
代わりに、肩に乗っていた立花をそっと下ろし、片手で頭を撫でる。
立花は一瞬で大人しくなった。まるで撫でられた猫みたいに目を細めている。
花野はそのまま立花をソファへ戻した。どうやら作業の邪魔はされたくないらしい。
その様子を見て、石原も、杏も、春野も、思わず笑った。
それから。春野が石原の肩を叩いた。
「というわけだ、石原」
「ん?」
「俺たちは信じる。だから次はお前の番だ」
石原は首を傾げた。春野は真顔だった。
「寝ろ。起きたら、俺たちがもう一回説明してやる。お前がさっき話したこと全部な」
石原は思わず口を開いた。
「いや、でも――」
「客間使って」
花野が割り込んだ。視線は画面のまま。
片手でキーボードを叩いていた。もう片方の手で奥の部屋を指差した。
「共用の寝間着もある」
それだけ言って、再び作業へ戻った。
今さら迷う理由もなかった。石原は小さく頷いた。
杏が手を引き、隣に寄り添うように並んだ。二人で客間へ向かう。
布団からは柔軟剤の匂いがした。
杏はカーテンを閉め、それからベッドのそばへ腰を下ろす。
「お兄ちゃん、私、外にいるからね」
石原は小さく返事をした。
「……うん」
そして目を閉じる。
(やっと……話せた)
同じ言葉が何度も頭の中を巡った。
一人で抱えていた時とは全然違う。
胸の奥に積もっていたものが、少しだけ軽くなった気がした。
消えたわけじゃない。ただ、自分一人で背負わなくてよくなった。
(みんな……信じてくれたんだな)
そう思った瞬間、鼻の奥が少しだけ熱くなる。
本当なら考えることはいくらでもあった。
あの糸のこと。緒山家のこと。「彼女」が誰なのか。
目を覚ましたあと、何を覚えていられるのか。
だけど。何も考えられなかった。限界だった。
心配する力さえ残っていなかった。
意識がゆっくり沈んでいった。
水の中へ石をそっと沈めていくみたいに。
焦ることもなく、少しずつ、静かに。
(起きたら……)
(起きたら、みんなに……)
(ありが――)
最後の思考は形にならなかった。
呼吸がゆっくり整った。石原は眠りに落ちた。
杏はしばらくその場に座っていた。
規則正しい寝息を聞きながら、布団の端をそっと整えた。
それから立ち上がり、足音を立てないように部屋を出る。
ドアは静かに閉まった。
リビングへ戻ると、花野はすでにシフト表の大まかな形を作っていた。
立花はソファの肘掛けに身を乗り出しながら画面を覗いている。
春野はコーヒーを片手に窓際に立っていた。
杏は空いている場所へ腰を下ろる。
「お兄ちゃん、寝たよ」
春野は振り返らなかい。それでも小さく頷いた。
花野の指が一瞬だけ止まる。だがすぐにキーボードを叩き始めた。
立花も小さく返事をした。
「……うん」
そして腕に顔を埋めた。
昨夜の雨が残していった涼しい風が窓から入り込む。頬を撫でる風は心地よかった。
雲の隙間から陽射しが差し込む。窓辺が淡く明るくなった。
誰もが分かっていた。
石原をここまで突き動かした「彼女」は、彼にとってきっと、欠かせない存在なのだと。




