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見える感情、見えないまま  作者: 颍川
第二十四章 在る証――彼女のすべてを信じたいから
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第一百三十一話

---


【十月十九日・土曜日・朝】


夜が明けるころ。石原は玄関で靴を履いていた。

靴紐を結び終え、ゆっくり顔を上げる。目の前には玄関の扉。


(今日――みんなに話すんだな)

(信じてもらえるだろうか……)


拳を握った。掌には少し汗が滲んでいた。

だが、その力はすぐに抜ける。


脳裏によぎったのは、昨夜のことだった。


杏が手を伸ばし、石原の顎をそっと持ち上げた。下を向いたままの顔を上げさせた。

その瞳は澄んでいて、真っ直ぐだった。迷いもなかった。


「お兄ちゃんの言うことなら、私は一つ残らず信じるよ」


その言葉を聞いた瞬間、石原は言葉を失った。

何を言われたからではない。

胸の奥の、空っぽだった場所だった。空っぽだったはずの場所に、ふっと温もりが灯った気がした。


初めてじゃない。その感覚を、石原は知っていた。


脳裏にいくつもの景色が浮かんだ。

知らない場所。知らない時間。輪郭は曖昧だった。掴もうとしても掴めない。


それでも、その感覚だけは覚えている。

胸が高鳴った。春の日差しみたいな暖かさ。


(「彼女」と一緒にいた時も……)

(こんな気持ちだったんだろうか)


なぜそう思うのかは分からない。それでも石原には確信があった。


杏は手を離した。それから温かい牛乳を石原の前へ押し出した。


「飲んで。それから明日、みんなに話そう」


石原はカップを持ち上げた。

一口飲んだ。ほんのり温かかった。


(「彼女」は――)

(俺にとって、どんな存在だったんだろう)


石原は深く息を吸った。そして玄関の扉を開けた。


朝日が廊下の窓から差し込んでいる。柔らかな光が頬に当たった。


石原は足元を見る。そして小さく笑った。


「本当に……『彼女』のことを考えるたび、いいタイミングで現れるな」


――糸だった。また現れている。

無理に引っ張ることもない。急かすこともない。

ただ静かに。階段の先へと伸びている。


「お兄ちゃん、待ってよー」


後ろから杏の声が飛んできた。


「先に下で待ってる」


石原は一歩踏み出す。そして糸を追い、階段を下りていった。


---


糸は、これまでのように遠くへ伸びてはいなかった。

ただ、落ち着いた様子で、マンション一階のある部屋を指している。


石原はその先へ歩いていった。

数歩進み、一枚の玄関扉の前で足を止めた。


103号室。緒山家。


朝日が廊下の窓から斜めに差し込み、小さな表札を照らしている。

石原は数秒、その扉を見つめた。


(どうして、おじさんとおばさんの家なんだ……)

(まさか、「彼女」は――)


だが、緒山のおばさんに子どもはいない。それは石原もよく知っていた。


杏ちゃんと一緒に何度もここへ来た。

緒山のおばさんはいつも優しく迎えてくれて、杏のことも本当の娘みたいに可愛がっていた。


(親戚とか……?)

(いや……おじさんたちも、「彼女」を忘れている可能性はある)


そう考えた瞬間だった。糸は途切れた。

いつものように。音もなく、気配もなく、空気へ溶けるように消えていった。


石原はもう扉を見なかった。振り返り、大きな欠伸を一つする。


朝の空気が頬を撫でた。少し冷たかった。


石原は目を擦った。

そのとき、杏がパンをくわえたまま階段を駆け下りてきた。


「足元、気を付けろよ、杏」


「行こ行こ!」


---


午前九時。石原と杏は予定通り、花野の家のリビングに来ていた。

すでに全員そろっていた。


石原の顔を見た瞬間、春野は目を丸くする。


「おいおい……石原、お前何日寝てないんだ?」


本気で驚いている顔だった。

石原の顔色は最悪だった。目の下の隈など、もはやパンダみたいで隠しようもない。


「えっと……三日くらい」


「三日!?」


立花が机に手をついて、勢いよく立ち上がった。


「先輩、それはダメですよ! 今すぐ寝てください!」


石原は苦笑した。


「いや、その前に話を聞いてほしい。今寝たら全部忘れるかもしれないから」


そう言った直後、また欠伸が漏れた。


「寝たら忘れる?」


花野が茶を注ぎながら言った。視線はまだ急須のままだ。


「今度はエビングハウスの忘却曲線にでも挑戦してるの?」


淡々とした口調だった。石原は答えなかった。

代わりに自分の頬を強めに叩いた。少しでも意識を保つために。

そして全員を見回した。


「みんな。これから話すことは……たぶん、かなり荒唐無稽に聞こえると思う」


花野の手が止まった。ゆっくり顔を上げる。石原を見た。


「でも、どうか信じてほしい」


前とは違った。声に迷いがなかった。

疲労は隠せなかった。目の下の隈も酷かった。

それでも、その目だけは真っ直ぐだった。


だからこそ、誰も冗談だとは思わなかった。


春野が姿勢を正す。そして最初に頷いた。

立花も続いた。力強く頷いた。


「うん」


花野は急須をテーブルへ置く。そして静かに首を縦に振った。


---


石原は話し始めた。

自分の異能力が消えていたこと。


そこまで話したところで、全員の表情が明らかに変わった。

だが石原は続けた。


自分が知っていること。推測していること。全部を話した。


「彼女」の存在。消えていく記憶。

あの糸。何も書かれていないノート。

そして交代制の考え。


ゆっくり話しながら、自分でも何度か言葉に詰まった。

確信できない部分も多い。本当にそうなのか、自分でも分からないからだ。


すべて話し終えると、石原は緊張を隠せないまま視線を落とした。指先が少し震えていた。


(これだけ手がかりがあっても……結局は推測だ。全部、俺の考えに過ぎない)

(みんな……どう思うんだろう)

(やっぱり、俺がおかしくなったと思うのか)


そのときだった。横から手が伸びてきた。温かい感触が、手の甲を覆った。

杏だった。両手で石原の手を包むように、そっと握っていた。


石原は隣を見る。杏は小さく微笑み、静かに頷いた。

石原は少しだけ目を見開く。それから笑った。


肩の力が抜けていった。

張り詰めていたものが、ようやく緩んだ気がした。


リビングには沈黙が流る。最初に口を開いたのは花野だった。


「石原……」


石原は顔を上げる。

花野は何も言わなかった。代わりにソファから立ち上がり、こちらへ歩いてくる。

石原の心臓が一瞬だけ跳ねた。無意識に膝の上のズボンを握る。


だが。花野はそのまま通り過ぎる。足を止めることもなかった。


「その方針で進めよう。私はパソコンを取ってくる」


それだけ言って、奥の部屋へ向かっていく。


石原はぽかんとした。隣の杏と目が合った。

二人同時に、ほっとしたように笑った。心の底から安心したみたいに。


石原は振り返った。


「ありがとう、花――」


最後まで言えなかった。


「うぅーっ!」


突然だった。後ろから誰かが勢いよく抱きついてきた。

腰に腕が回った。力は強くなかった。だが全身でしがみつかれていた。


「先輩、もっと早く言ってくださいよぉ! みんな本当に心配してたんですから!」


立花だった。声が少し涙混じりになっていた。


「た、立花さん……ごめん。本当に。俺が悪かった」


「もうっ! バカ先輩!」


立花は泣きそうな声のまま文句を言った。そのまま小さな拳で背中をぽかぽか叩いてくる。

杏は一瞬驚いて手を離し、慌てて少し横へ退いた。だが、その様子を見て思わず吹き出した。


春野も笑っていた。そのまま近づき、立花の襟首を軽く掴む。


「はいはい。その辺にな」


ひょい、と立花を引き離した。

立花は離されながらも頬を膨らませていた。目尻にはまだ涙が残っていた。


春野は石原へ向き直った。表情が少し真面目になった。


「石原。正直に言うと、話だけ聞けばかなり突飛だ」


そこで一度言葉を切った。慎重に続ける。


「でも、これはお前一人の問題じゃない」

「俺たちは、お前を信じる」


石原は口を開く。だが、何を言えばいいのか分からなかった。言葉が出てこなかった。


その頃には花野が戻ってきていた。ノートパソコンを抱えている。

テーブルの上に置いて開くと、画面の青白い光が顔を照らした。

立花はすぐに駆け寄る。花野の肩へ身を乗り出した。


「真汐ちゃん! シフト表作るの? さっき先輩が言ってた交代制のやつ?」


花野は頷く。返事はしなかった。

代わりに、肩に乗っていた立花をそっと下ろし、片手で頭を撫でる。


立花は一瞬で大人しくなった。まるで撫でられた猫みたいに目を細めている。

花野はそのまま立花をソファへ戻した。どうやら作業の邪魔はされたくないらしい。


その様子を見て、石原も、杏も、春野も、思わず笑った。

それから。春野が石原の肩を叩いた。


「というわけだ、石原」


「ん?」


「俺たちは信じる。だから次はお前の番だ」


石原は首を傾げた。春野は真顔だった。


「寝ろ。起きたら、俺たちがもう一回説明してやる。お前がさっき話したこと全部な」


石原は思わず口を開いた。


「いや、でも――」


「客間使って」


花野が割り込んだ。視線は画面のまま。

片手でキーボードを叩いていた。もう片方の手で奥の部屋を指差した。


「共用の寝間着もある」


それだけ言って、再び作業へ戻った。


今さら迷う理由もなかった。石原は小さく頷いた。

杏が手を引き、隣に寄り添うように並んだ。二人で客間へ向かう。


布団からは柔軟剤の匂いがした。

杏はカーテンを閉め、それからベッドのそばへ腰を下ろす。


「お兄ちゃん、私、外にいるからね」


石原は小さく返事をした。


「……うん」


そして目を閉じる。


(やっと……話せた)


同じ言葉が何度も頭の中を巡った。


一人で抱えていた時とは全然違う。

胸の奥に積もっていたものが、少しだけ軽くなった気がした。

消えたわけじゃない。ただ、自分一人で背負わなくてよくなった。


(みんな……信じてくれたんだな)


そう思った瞬間、鼻の奥が少しだけ熱くなる。


本当なら考えることはいくらでもあった。

あの糸のこと。緒山家のこと。「彼女」が誰なのか。

目を覚ましたあと、何を覚えていられるのか。


だけど。何も考えられなかった。限界だった。

心配する力さえ残っていなかった。


意識がゆっくり沈んでいった。

水の中へ石をそっと沈めていくみたいに。

焦ることもなく、少しずつ、静かに。


(起きたら……)

(起きたら、みんなに……)

(ありが――)


最後の思考は形にならなかった。

呼吸がゆっくり整った。石原は眠りに落ちた。


杏はしばらくその場に座っていた。

規則正しい寝息を聞きながら、布団の端をそっと整えた。

それから立ち上がり、足音を立てないように部屋を出る。


ドアは静かに閉まった。

リビングへ戻ると、花野はすでにシフト表の大まかな形を作っていた。


立花はソファの肘掛けに身を乗り出しながら画面を覗いている。

春野はコーヒーを片手に窓際に立っていた。


杏は空いている場所へ腰を下ろる。


「お兄ちゃん、寝たよ」


春野は振り返らなかい。それでも小さく頷いた。

花野の指が一瞬だけ止まる。だがすぐにキーボードを叩き始めた。

立花も小さく返事をした。


「……うん」


そして腕に顔を埋めた。


昨夜の雨が残していった涼しい風が窓から入り込む。頬を撫でる風は心地よかった。

雲の隙間から陽射しが差し込む。窓辺が淡く明るくなった。


誰もが分かっていた。

石原をここまで突き動かした「彼女」は、彼にとってきっと、欠かせない存在なのだと。

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