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見える感情、見えないまま  作者: 颍川
第二十四章 在る証――彼女のすべてを信じたいから
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第一百三十話

---


背後から声が飛んできた。

石原は振り返った。


杏が部屋の前に立っていた。

パジャマ姿。髪は下ろしたまま。

手にはスマートフォンが握られていた。


「どこ行くの?」


「……ちょっと外を歩いてくる」


「嘘」


杏はこちらへ歩いてきた。一歩、また一歩。

そして石原の目の前で立ち止まった。顔を上げ、真っ直ぐ見つめてきた。


「お兄ちゃんが話してくれないなら、私も一緒に行く」


その口調には迷いがなかった。

断られることなんて、最初から考えていない。


石原が何か言うより先に、杏は踵を返し部屋へ戻った。

そして数分後。今度は着替えまで済ませて戻ってきた。髪もまとめていた。


杏は傘を持たないまま玄関を開ける。そのまま外へ出ていった。

石原は慌てて傘を開き、その後を追いかけた。


---


雨は、強すぎも弱すぎもせず降り続いていた。


石原と杏は並んで歩いていた。


人通りのない夜道。

街灯に照らされたアスファルトは濡れて光っている。


二人とも何も話さなかった。

聞こえるのは、傘を細かく叩く雨音だけ。


石原は何度か横目で杏を見た。

杏は前だけを見て歩いていた。睫毛には小さな雨粒が残っている。


石原は迷っていた。今、話すべきだろうか。

自分がこの数日何をしていたのか。

「彼女」のこと。あの糸のこと。みんなに起きている異変のこと。


(信じてもらえるのか?)

(それとも、本当におかしくなったと思われるか?)


「お兄ちゃん」


先に口を開いたのは杏だった。


「ん」


「この二日くらい、ちゃんと寝てないよね。何かあったの?」


石原は答えなかった。

杏は少しだけ俯いた。


「この二日、みんなもそのこと話してたんだよ」


声は小さかった。


「でも何があったのか全然分からなくて、ちゃんと休んでって言うことしかできなくて」


石原は視線を落としす。

濡れた路面。自分のつま先。


「……うん」


そのときだった。杏が急に立ち止まった。

石原も慌てて足を止める。傘を少し杏の方へ寄せた。


雨はさっきより強くなっている。

街には二人しかいないみたいだった。

街灯の光は雨の中でぼやけて広がっていた。


「杏? どうした――」


言い終わる前だった。杏が石原の腕にしがみつく。

そのまま顔を押し付けた。肩が小さく震えている。


「お兄ちゃん……ちゃんと話してよ……」


くぐもった声だった。鼻にかかった声。


「何も言わないの、やめてよ……」


声が少しずつ途切れていった。


「今のお兄ちゃん……昔みたいなんだもん……」


石原は息を止めた。


「お父さんがいなくなる前と……同じ……」


雨音だけが響く。石原の脳裏に、その言葉が落ちた。


――父さんが出ていく前。あの頃もそうだった。

何も話さなかった。少しずつ口数が減っていった。少しずつ距離ができていった。

そして気づいたときには、本当にいなくなっていた。


石原は思ってもいなかった。自分の隠し事が、ここまで杏を苦しめていたなんて。

まして。こんな昔の傷まで思い出させてしまうなんて。


「お兄ちゃん……」


杏は震える声で言った。


「絶対、絶対にいなくならないでね……」


温かい雫が石原の手の甲に落ちる。雨ではない。

石原はゆっくり身を屈めた。そして杏を強く抱きしめる。


「大丈夫だよ、杏。いなくならない」


声が少し掠れた。


「ごめん。俺が悪かった」


顎をそっと頭の上に乗せた。


「ちゃんと話す。俺が知ってることは全部話すから」


「ごめんな、杏」


杏は石原の胸に額を預けたまま、小さく頷いた。


「……うん」


---


雨はまだ降っていた。

街灯の光が二人の影を長く伸ばしている。影は重なり合っていた。


石原は顔を上げる。雨に霞む夜空を見つめた。


(明日――みんなに全部話そう)


杏だけじゃない。

春野。立花。花野。全員に。

知っていることを。起きていることを。全部。


石原はゆっくり腕を離した。

半歩だけ後ろへ下がった。そして杏を見る。


「帰ろう。まずは家に」


「うん」


杏は袖で目元を拭いた。それから無理やり笑顔を作る。

二人は並んで、来た道をゆっくりと戻っていった。


---


家に帰ったあと、杏は生徒会のみんなへメッセージを送った。


『お兄ちゃんが大事な話をしたいって。明日、集まれますか?』


時間はもう遅かった。それでも返事は意外なほど早かった。


花野は短く、


『午前中、私の家で』


とだけ返信がくる。それに対して、全員がすぐ賛成した。


スマートフォンを置いたあと、杏は本当なら石原を早く休ませるつもりだった。

だが、本人に寝る気配はなかった。結局、杏も付き合うことにした。


石原は机に向かっている。

杏は温かい牛乳を二杯持ってきて、隣へ座った。


「お兄ちゃん、話して。ちゃんと聞くから」


石原は長いこと迷った。それでも少しずつ話し始めた。

杏は最後まで遮らなかった。ただ静かに聞いていた。


話し終えた。石原は視線を落とした。自分の指先を見た。


(杏は、信じてくれるのか?)

(それとも……ただ俺を一人にしたくないだけなのか)


そう考えた途端、自然と顔が俯いた。

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