第一百三十話
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背後から声が飛んできた。
石原は振り返った。
杏が部屋の前に立っていた。
パジャマ姿。髪は下ろしたまま。
手にはスマートフォンが握られていた。
「どこ行くの?」
「……ちょっと外を歩いてくる」
「嘘」
杏はこちらへ歩いてきた。一歩、また一歩。
そして石原の目の前で立ち止まった。顔を上げ、真っ直ぐ見つめてきた。
「お兄ちゃんが話してくれないなら、私も一緒に行く」
その口調には迷いがなかった。
断られることなんて、最初から考えていない。
石原が何か言うより先に、杏は踵を返し部屋へ戻った。
そして数分後。今度は着替えまで済ませて戻ってきた。髪もまとめていた。
杏は傘を持たないまま玄関を開ける。そのまま外へ出ていった。
石原は慌てて傘を開き、その後を追いかけた。
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雨は、強すぎも弱すぎもせず降り続いていた。
石原と杏は並んで歩いていた。
人通りのない夜道。
街灯に照らされたアスファルトは濡れて光っている。
二人とも何も話さなかった。
聞こえるのは、傘を細かく叩く雨音だけ。
石原は何度か横目で杏を見た。
杏は前だけを見て歩いていた。睫毛には小さな雨粒が残っている。
石原は迷っていた。今、話すべきだろうか。
自分がこの数日何をしていたのか。
「彼女」のこと。あの糸のこと。みんなに起きている異変のこと。
(信じてもらえるのか?)
(それとも、本当におかしくなったと思われるか?)
「お兄ちゃん」
先に口を開いたのは杏だった。
「ん」
「この二日くらい、ちゃんと寝てないよね。何かあったの?」
石原は答えなかった。
杏は少しだけ俯いた。
「この二日、みんなもそのこと話してたんだよ」
声は小さかった。
「でも何があったのか全然分からなくて、ちゃんと休んでって言うことしかできなくて」
石原は視線を落としす。
濡れた路面。自分のつま先。
「……うん」
そのときだった。杏が急に立ち止まった。
石原も慌てて足を止める。傘を少し杏の方へ寄せた。
雨はさっきより強くなっている。
街には二人しかいないみたいだった。
街灯の光は雨の中でぼやけて広がっていた。
「杏? どうした――」
言い終わる前だった。杏が石原の腕にしがみつく。
そのまま顔を押し付けた。肩が小さく震えている。
「お兄ちゃん……ちゃんと話してよ……」
くぐもった声だった。鼻にかかった声。
「何も言わないの、やめてよ……」
声が少しずつ途切れていった。
「今のお兄ちゃん……昔みたいなんだもん……」
石原は息を止めた。
「お父さんがいなくなる前と……同じ……」
雨音だけが響く。石原の脳裏に、その言葉が落ちた。
――父さんが出ていく前。あの頃もそうだった。
何も話さなかった。少しずつ口数が減っていった。少しずつ距離ができていった。
そして気づいたときには、本当にいなくなっていた。
石原は思ってもいなかった。自分の隠し事が、ここまで杏を苦しめていたなんて。
まして。こんな昔の傷まで思い出させてしまうなんて。
「お兄ちゃん……」
杏は震える声で言った。
「絶対、絶対にいなくならないでね……」
温かい雫が石原の手の甲に落ちる。雨ではない。
石原はゆっくり身を屈めた。そして杏を強く抱きしめる。
「大丈夫だよ、杏。いなくならない」
声が少し掠れた。
「ごめん。俺が悪かった」
顎をそっと頭の上に乗せた。
「ちゃんと話す。俺が知ってることは全部話すから」
「ごめんな、杏」
杏は石原の胸に額を預けたまま、小さく頷いた。
「……うん」
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雨はまだ降っていた。
街灯の光が二人の影を長く伸ばしている。影は重なり合っていた。
石原は顔を上げる。雨に霞む夜空を見つめた。
(明日――みんなに全部話そう)
杏だけじゃない。
春野。立花。花野。全員に。
知っていることを。起きていることを。全部。
石原はゆっくり腕を離した。
半歩だけ後ろへ下がった。そして杏を見る。
「帰ろう。まずは家に」
「うん」
杏は袖で目元を拭いた。それから無理やり笑顔を作る。
二人は並んで、来た道をゆっくりと戻っていった。
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家に帰ったあと、杏は生徒会のみんなへメッセージを送った。
『お兄ちゃんが大事な話をしたいって。明日、集まれますか?』
時間はもう遅かった。それでも返事は意外なほど早かった。
花野は短く、
『午前中、私の家で』
とだけ返信がくる。それに対して、全員がすぐ賛成した。
スマートフォンを置いたあと、杏は本当なら石原を早く休ませるつもりだった。
だが、本人に寝る気配はなかった。結局、杏も付き合うことにした。
石原は机に向かっている。
杏は温かい牛乳を二杯持ってきて、隣へ座った。
「お兄ちゃん、話して。ちゃんと聞くから」
石原は長いこと迷った。それでも少しずつ話し始めた。
杏は最後まで遮らなかった。ただ静かに聞いていた。
話し終えた。石原は視線を落とした。自分の指先を見た。
(杏は、信じてくれるのか?)
(それとも……ただ俺を一人にしたくないだけなのか)
そう考えた途端、自然と顔が俯いた。




