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見える感情、見えないまま  作者: 颍川
第二十四章 在る証――彼女のすべてを信じたいから
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第一百二十九話

---


【十月十八日・木曜日・昼休み】


生徒会室に入るなり、春野が石原を見た。そして少し眉をひそめた。


「寝不足か?」


「まあ」


春野はそれ以上何も言わなかった。代わりに、石原の机の上に積まれていた書類を半分以上持っていった。


「昼寝しとけ」


「ありがとう。でも、心配いらない」


春野は無理に勧めず、そのまま自分の席へ戻った。

石原も席についた。


隣では立花がいつものように昼寝をしている。

花野は相変わらずパソコンへ向かったまま、キーボードを叩いていた。


今日の昼休みも、このまま何事もなく終わるのだろう。石原はそう思っていた。

だが、大事な証拠は、思ったより早くやってきた。


春野が書類を渡しながら、何気なく言った。


「細かいところは副会長に聞いてくれ」


それを受け取った花野は、画面から目も離さず、反射みたいに答えた。


「うん。午後にでも彼女に確認する」


そして、二人とも動きが止まった。


(彼女? 副会長?)

(何を言ってるんだ、二人とも……?)


春野は眉を寄せた。まるで自分が何を口にしたのか考えているみたいだった。

花野の指も一瞬だけ止まった。だがすぐに、またキーボードを叩き始めた。


「……うちに副会長なんていたか?」


春野が独り言みたいに呟いた。それから石原を見て笑った。


「石原、やってみるか?」


石原は曖昧に笑った。何も答えなかった。


視線は、春野の机の向かい側へ向いた。

そこには誰も座っていない席があった。


(あそこ……)


その瞬間だった。脳裏に一つの光景が閃いた。

誰かがそこに座っていた。俯いたまま、ペンを走らせていた。


窓から差し込む陽射しが、その髪に落ちて、きらきらと輝いていた。

だが、その顔を見る前に、映像は一瞬で消える。


胸の奥がまた痛んだ。石原は少し前かがみになり、胸元を押さえた。


「石原?」


「大丈夫だ、春野」


---


昼休みが終わる頃。石原は席を立った。


「先に戻る」


春野と花野が軽く頷いた。

石原はドアを開け、生徒会室を後にした。


数歩進んだところで、背後から春野の声が聞こえた。

小さな声だった。だが、石原には聞こえた。花野へ向けて言ったのだろう。


「顔色、かなり悪いな」


花野は答えなかった。石原も振り返らなかった。

廊下を歩きながら、この二日間の異変を頭の中で整理した。


――俺一人じゃない。みんなだ。


拳に力が入った。


(俺の思い込みじゃない)


---


【十月十九日・金曜日・夕方】


放課後、石原はグラウンドの脇を通りかかった。

すると、トラックのそばに一人で立っている立花の姿が見えた。


どうやら走り終えたばかりらしい。頬は赤く染まり、呼吸もまだ少し乱れていた。

腰に手を当てながら、水を少しずつ飲んでいた。


石原に気づくと、立花はぱっと顔を明るくして手に持ったボトルを大きく振った。


「先輩! どうしてここに?」


「通りがかっただけ」


石原はそのまま近づいていった。

足取りは普段より重かった。瞼も重かった。

二日連続で徹夜したせいで、体が鉛みたいだった。


立花は首を傾げながら石原を見る。


「先輩……顔色、すごく悪いですよ?」


「大丈夫」


「嘘です」


即答だった。だが、それ以上は追及しない。代わりにペットボトルを差し出してきた。


「水、飲みます?」


「いや」


石原はトラック脇のフェンスにもたれた。そして一つ、大きな欠伸をする。

立花はその隣でストレッチを始めた。週末の予定をぶつぶつ口にしながら、体を伸ばす。


「土曜日はショッピングモール行きたいんですよねー。あ、そうだ。新しくできたスイーツのお店もあったんだ。絶対行こう」


脚を伸ばしながら、指を折っていった。


「それから日曜日は……うーん」


立花は曇った空を見上げた。


「天気次第かな」


石原はまた大きな欠伸をした。

その様子を見て、立花の動きが止まった。


「先輩、ほんとに大丈夫ですか? だいぶひどい顔してますよ」


石原はフェンスにもたれたまま、何気なく聞いた。


「心配しなくていい。それより、立花さんは週末誰と行くんだ?」


「杏ちゃんと、それから……」


立花が止まった。石原は黙って見ていた。

立花は眉を寄せ、少し考え込んだ。


「あと誰だっけ……」


指を折った。


「私と、杏ちゃんと……もう一人……」


三本目の指で止まった。


「佐藤……? いや、違うなぁ。可愛い服を見に行くのに……思い出せない」


立花は首を傾げた。

しばらく考え続ける。だが結局、諦めたように手を下ろした。


「まあ、いっか。勘違いかもしれません」


そう言って笑った。


「最近ちょっと、頭がぼんやりしてるんですよね」


石原は何も言わなかった。


冷たい風がグラウンドを吹き抜ける。立花の髪が頬にかかった。

彼女はそれを手で払い、石原を見た。


「先輩は週末何するんですか?」


「寝る」


「それがいいです。ちゃんと休んでくださいね。夜更かしばっかりしちゃダメですよ」


「分かった」


立花は鞄を持ち上げた。そして石原に向かって手を振った。


「じゃあ私、先に帰りますね。また」


「またな」


立花は数歩進んだ。だが、ふと思い出したように振り返った。


「そうだ、先輩。雨降りそうですよ。出かけるなら傘持って行ったほうがいいかも」


「分かった」


立花は満足そうに頷いた。そのままグラウンドの向こうへ歩いていく。

石原はその背中が見えなくなるまで眺めていた。


それから視線を落とした。自分のつま先を見る。


風が吹いた。少し冷たかった


石原は静かに向きを変え、校門へ向かって歩き出した。


---


校門を出ると、石原はわざと少しだけその場に立ち止まった。

行き交う生徒たちが横を通り過ぎていく。


数秒待った。さらに数秒。

――今日は、あの糸は現れなかった。


ほっとしたような。少しだけ物足りないような。

たぶん、その両方だった。


石原は向きを変え、コンビニへ向かった。


昨日は杏に心配をかけた。あんな遅い時間まで待たせてしまったし、電話の声もかなり慌てていた。

せめてプリンくらい買って帰ろう。そう思った。


冷蔵ケースの前で立ち止まった。いくつか見比べて、二つ選ぶ。

一つは杏の好きないちご味。

そして、もう一つ――石原はキャラメルプリンのパッケージを数秒見つめた。


理由は分からない。それでも自然と手が伸びた。

気づけば、それも買い物かごに入れていた。


---


家に帰ると、石原はプリンを杏へ差し出した。


「わぁ、プリン!」


杏は目を輝かせた。受け取ったあと、今度は石原の顔を見た。


「今日はずいぶん優しいじゃん」


「昨日、帰るの遅くなったから」


「ふーん」


杏は蓋を開け、スプーンですくって一口食べた。そして満足そうに目を細めた。


「おいしい! この前の誕生日会で作ったやつと同じくらい!」


その直後だった。窓の外で、ゴロッ、と雷が鳴った。

杏は飛び上がった。危うくスプーンを放り投げそうになった。


石原も少し驚いたが、それ以上に杏の反応に驚いた。

杏は顔を赤くしながら椅子へ座り直した。そして石原をちらっと見た。


「笑ったらダメだからね!」


石原は堪えきれず小さく吹き出した。それを見て、杏も笑い出す。


しばらく二人で笑った。

やがて杏はプリンを食べながら、ふと思い出したように言った。


「そういえばさ。あの誕生日会のプリン、何回も失敗したんだよね」


「うん?」


「美里ちゃんと一緒に特製プリン作ったんだけど、甘すぎたり、固くなりすぎたり。キッチンめちゃくちゃだったもん」


どこか懐かしそうな口調だった。


「でも、最後はどうやって作れたんだっけ」


石原は何気なく尋ねた。


「どうやって完成させたんだ?」


杏のスプーンが宙で止まった。

考えた。もう一度考えた。


だが――


「……覚えてない」


声が少しだけ小さくなった。


「誰かに教えてもらったのは覚えてるんだけど、誰だったか思い出せないんだよね」


石原は何も言わなかった。


窓の外で稲光が走る。今度の雷は、さっきより近かった。

杏はもう驚かなかった。けれどスプーンを握る手だけが、少し強くなった。


数秒の沈黙。やがて杏は顔を上げ、無理やり話題を変えるように笑った。


「そうだ! お兄ちゃんに見せたいものがある!」


プリンを置いた。そのまま自分の部屋へ駆け込んだ。

少しして、勢いよく戻ってきた。


抱えていたのは枕だ。

枕カバーには少女漫画のキャラクターが描かれていた。


大きな目に、片目を隠す前髪の男の子。

いかにも少女漫画らしい派手なデザインだった。


「どう!? 新しく買ったの!」


「……そうか」


「その『そうか』は何なの!」


杏は不満そうに頬を膨らませた。そのまま枕を石原へ押しつける。


「お兄ちゃん、今日これ使って!」


「は?」


「だってさ――」


杏は石原の目元を指差した。


「絶対また徹夜したでしょ! クマすごいことになってるよ!」


そう言いながらポケットから小さな鏡を取り出し、石原の前へ突きつけた。


石原は鏡の中を見た。そして固まる。


目の下には濃い隈。白目には無数の血走った筋。

頬は少しこけて見えた。唇も乾いて、少し皮がむけていた。


石原は鏡の中の自分を見つめた。何秒も。

そこに映っているのは自分だった。もう、自分の顔に見えなかった。


「だから今日はちゃんと寝ること」


杏は鏡をしまう。その口調は相談ではなかった。


「……ああ」


石原は短く答える。それ以上は何も言わなかった。


---


その夜。石原は自室に座っていた。


窓の外では雨が降っていた。

しとしとと降る雨音が、エアコンの室外機を叩き、下の駐輪場の屋根を叩いていた。


石原はベッドにもたれかかっていた。手には、杏から押し付けられたあの派手な枕。

枕カバーの中では、少女漫画の男の子が憂いを帯びた目でこちらを見ていた。


ちゃんと寝る。そう杏には答えた。


だが石原自身が一番よく分かっている。

今夜眠ったら、ここまでやってきたことが全部無駄になる。


(証拠はだいぶ集まった。明日、みんなに話すか……)

(いや、明後日でもいい。もう少しだけ集めてからでも――)


大きな欠伸が漏れた。

目の奥がじんと痛んだ。こめかみも脈打つように疼いていた。


(……どうやって朝まで起きてるかな)


石原は胸元を押さえた。あの重苦しさはまだ消えていない。

窓の外の湿った空気みたいにまとわりつき、息苦しさだけを残している。


窓の外を見た。

街灯の光が雨の向こうで滲んでいた。橙色のぼんやりした輪郭。


ここに座っていても眠くなるだけだ。

少し外を歩こう。雨もそれほど強くない。

傘を差して、下を少し歩けば多少は目も覚めるだろう。


石原は立ち上がった。ベッド脇の傘を手に取り、部屋を出た。


廊下へ出たところで足を止めた。

杏の部屋のドア。その下から光が漏れていた。

まだ起きているらしい。


石原は音を立てないよう靴を履く。傘を握り直した。


そのときだった。


「止まって」

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