第一百二十九話
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【十月十八日・木曜日・昼休み】
生徒会室に入るなり、春野が石原を見た。そして少し眉をひそめた。
「寝不足か?」
「まあ」
春野はそれ以上何も言わなかった。代わりに、石原の机の上に積まれていた書類を半分以上持っていった。
「昼寝しとけ」
「ありがとう。でも、心配いらない」
春野は無理に勧めず、そのまま自分の席へ戻った。
石原も席についた。
隣では立花がいつものように昼寝をしている。
花野は相変わらずパソコンへ向かったまま、キーボードを叩いていた。
今日の昼休みも、このまま何事もなく終わるのだろう。石原はそう思っていた。
だが、大事な証拠は、思ったより早くやってきた。
春野が書類を渡しながら、何気なく言った。
「細かいところは副会長に聞いてくれ」
それを受け取った花野は、画面から目も離さず、反射みたいに答えた。
「うん。午後にでも彼女に確認する」
そして、二人とも動きが止まった。
(彼女? 副会長?)
(何を言ってるんだ、二人とも……?)
春野は眉を寄せた。まるで自分が何を口にしたのか考えているみたいだった。
花野の指も一瞬だけ止まった。だがすぐに、またキーボードを叩き始めた。
「……うちに副会長なんていたか?」
春野が独り言みたいに呟いた。それから石原を見て笑った。
「石原、やってみるか?」
石原は曖昧に笑った。何も答えなかった。
視線は、春野の机の向かい側へ向いた。
そこには誰も座っていない席があった。
(あそこ……)
その瞬間だった。脳裏に一つの光景が閃いた。
誰かがそこに座っていた。俯いたまま、ペンを走らせていた。
窓から差し込む陽射しが、その髪に落ちて、きらきらと輝いていた。
だが、その顔を見る前に、映像は一瞬で消える。
胸の奥がまた痛んだ。石原は少し前かがみになり、胸元を押さえた。
「石原?」
「大丈夫だ、春野」
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昼休みが終わる頃。石原は席を立った。
「先に戻る」
春野と花野が軽く頷いた。
石原はドアを開け、生徒会室を後にした。
数歩進んだところで、背後から春野の声が聞こえた。
小さな声だった。だが、石原には聞こえた。花野へ向けて言ったのだろう。
「顔色、かなり悪いな」
花野は答えなかった。石原も振り返らなかった。
廊下を歩きながら、この二日間の異変を頭の中で整理した。
――俺一人じゃない。みんなだ。
拳に力が入った。
(俺の思い込みじゃない)
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【十月十九日・金曜日・夕方】
放課後、石原はグラウンドの脇を通りかかった。
すると、トラックのそばに一人で立っている立花の姿が見えた。
どうやら走り終えたばかりらしい。頬は赤く染まり、呼吸もまだ少し乱れていた。
腰に手を当てながら、水を少しずつ飲んでいた。
石原に気づくと、立花はぱっと顔を明るくして手に持ったボトルを大きく振った。
「先輩! どうしてここに?」
「通りがかっただけ」
石原はそのまま近づいていった。
足取りは普段より重かった。瞼も重かった。
二日連続で徹夜したせいで、体が鉛みたいだった。
立花は首を傾げながら石原を見る。
「先輩……顔色、すごく悪いですよ?」
「大丈夫」
「嘘です」
即答だった。だが、それ以上は追及しない。代わりにペットボトルを差し出してきた。
「水、飲みます?」
「いや」
石原はトラック脇のフェンスにもたれた。そして一つ、大きな欠伸をする。
立花はその隣でストレッチを始めた。週末の予定をぶつぶつ口にしながら、体を伸ばす。
「土曜日はショッピングモール行きたいんですよねー。あ、そうだ。新しくできたスイーツのお店もあったんだ。絶対行こう」
脚を伸ばしながら、指を折っていった。
「それから日曜日は……うーん」
立花は曇った空を見上げた。
「天気次第かな」
石原はまた大きな欠伸をした。
その様子を見て、立花の動きが止まった。
「先輩、ほんとに大丈夫ですか? だいぶひどい顔してますよ」
石原はフェンスにもたれたまま、何気なく聞いた。
「心配しなくていい。それより、立花さんは週末誰と行くんだ?」
「杏ちゃんと、それから……」
立花が止まった。石原は黙って見ていた。
立花は眉を寄せ、少し考え込んだ。
「あと誰だっけ……」
指を折った。
「私と、杏ちゃんと……もう一人……」
三本目の指で止まった。
「佐藤……? いや、違うなぁ。可愛い服を見に行くのに……思い出せない」
立花は首を傾げた。
しばらく考え続ける。だが結局、諦めたように手を下ろした。
「まあ、いっか。勘違いかもしれません」
そう言って笑った。
「最近ちょっと、頭がぼんやりしてるんですよね」
石原は何も言わなかった。
冷たい風がグラウンドを吹き抜ける。立花の髪が頬にかかった。
彼女はそれを手で払い、石原を見た。
「先輩は週末何するんですか?」
「寝る」
「それがいいです。ちゃんと休んでくださいね。夜更かしばっかりしちゃダメですよ」
「分かった」
立花は鞄を持ち上げた。そして石原に向かって手を振った。
「じゃあ私、先に帰りますね。また」
「またな」
立花は数歩進んだ。だが、ふと思い出したように振り返った。
「そうだ、先輩。雨降りそうですよ。出かけるなら傘持って行ったほうがいいかも」
「分かった」
立花は満足そうに頷いた。そのままグラウンドの向こうへ歩いていく。
石原はその背中が見えなくなるまで眺めていた。
それから視線を落とした。自分のつま先を見る。
風が吹いた。少し冷たかった
石原は静かに向きを変え、校門へ向かって歩き出した。
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校門を出ると、石原はわざと少しだけその場に立ち止まった。
行き交う生徒たちが横を通り過ぎていく。
数秒待った。さらに数秒。
――今日は、あの糸は現れなかった。
ほっとしたような。少しだけ物足りないような。
たぶん、その両方だった。
石原は向きを変え、コンビニへ向かった。
昨日は杏に心配をかけた。あんな遅い時間まで待たせてしまったし、電話の声もかなり慌てていた。
せめてプリンくらい買って帰ろう。そう思った。
冷蔵ケースの前で立ち止まった。いくつか見比べて、二つ選ぶ。
一つは杏の好きないちご味。
そして、もう一つ――石原はキャラメルプリンのパッケージを数秒見つめた。
理由は分からない。それでも自然と手が伸びた。
気づけば、それも買い物かごに入れていた。
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家に帰ると、石原はプリンを杏へ差し出した。
「わぁ、プリン!」
杏は目を輝かせた。受け取ったあと、今度は石原の顔を見た。
「今日はずいぶん優しいじゃん」
「昨日、帰るの遅くなったから」
「ふーん」
杏は蓋を開け、スプーンですくって一口食べた。そして満足そうに目を細めた。
「おいしい! この前の誕生日会で作ったやつと同じくらい!」
その直後だった。窓の外で、ゴロッ、と雷が鳴った。
杏は飛び上がった。危うくスプーンを放り投げそうになった。
石原も少し驚いたが、それ以上に杏の反応に驚いた。
杏は顔を赤くしながら椅子へ座り直した。そして石原をちらっと見た。
「笑ったらダメだからね!」
石原は堪えきれず小さく吹き出した。それを見て、杏も笑い出す。
しばらく二人で笑った。
やがて杏はプリンを食べながら、ふと思い出したように言った。
「そういえばさ。あの誕生日会のプリン、何回も失敗したんだよね」
「うん?」
「美里ちゃんと一緒に特製プリン作ったんだけど、甘すぎたり、固くなりすぎたり。キッチンめちゃくちゃだったもん」
どこか懐かしそうな口調だった。
「でも、最後はどうやって作れたんだっけ」
石原は何気なく尋ねた。
「どうやって完成させたんだ?」
杏のスプーンが宙で止まった。
考えた。もう一度考えた。
だが――
「……覚えてない」
声が少しだけ小さくなった。
「誰かに教えてもらったのは覚えてるんだけど、誰だったか思い出せないんだよね」
石原は何も言わなかった。
窓の外で稲光が走る。今度の雷は、さっきより近かった。
杏はもう驚かなかった。けれどスプーンを握る手だけが、少し強くなった。
数秒の沈黙。やがて杏は顔を上げ、無理やり話題を変えるように笑った。
「そうだ! お兄ちゃんに見せたいものがある!」
プリンを置いた。そのまま自分の部屋へ駆け込んだ。
少しして、勢いよく戻ってきた。
抱えていたのは枕だ。
枕カバーには少女漫画のキャラクターが描かれていた。
大きな目に、片目を隠す前髪の男の子。
いかにも少女漫画らしい派手なデザインだった。
「どう!? 新しく買ったの!」
「……そうか」
「その『そうか』は何なの!」
杏は不満そうに頬を膨らませた。そのまま枕を石原へ押しつける。
「お兄ちゃん、今日これ使って!」
「は?」
「だってさ――」
杏は石原の目元を指差した。
「絶対また徹夜したでしょ! クマすごいことになってるよ!」
そう言いながらポケットから小さな鏡を取り出し、石原の前へ突きつけた。
石原は鏡の中を見た。そして固まる。
目の下には濃い隈。白目には無数の血走った筋。
頬は少しこけて見えた。唇も乾いて、少し皮がむけていた。
石原は鏡の中の自分を見つめた。何秒も。
そこに映っているのは自分だった。もう、自分の顔に見えなかった。
「だから今日はちゃんと寝ること」
杏は鏡をしまう。その口調は相談ではなかった。
「……ああ」
石原は短く答える。それ以上は何も言わなかった。
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その夜。石原は自室に座っていた。
窓の外では雨が降っていた。
しとしとと降る雨音が、エアコンの室外機を叩き、下の駐輪場の屋根を叩いていた。
石原はベッドにもたれかかっていた。手には、杏から押し付けられたあの派手な枕。
枕カバーの中では、少女漫画の男の子が憂いを帯びた目でこちらを見ていた。
ちゃんと寝る。そう杏には答えた。
だが石原自身が一番よく分かっている。
今夜眠ったら、ここまでやってきたことが全部無駄になる。
(証拠はだいぶ集まった。明日、みんなに話すか……)
(いや、明後日でもいい。もう少しだけ集めてからでも――)
大きな欠伸が漏れた。
目の奥がじんと痛んだ。こめかみも脈打つように疼いていた。
(……どうやって朝まで起きてるかな)
石原は胸元を押さえた。あの重苦しさはまだ消えていない。
窓の外の湿った空気みたいにまとわりつき、息苦しさだけを残している。
窓の外を見た。
街灯の光が雨の向こうで滲んでいた。橙色のぼんやりした輪郭。
ここに座っていても眠くなるだけだ。
少し外を歩こう。雨もそれほど強くない。
傘を差して、下を少し歩けば多少は目も覚めるだろう。
石原は立ち上がった。ベッド脇の傘を手に取り、部屋を出た。
廊下へ出たところで足を止めた。
杏の部屋のドア。その下から光が漏れていた。
まだ起きているらしい。
石原は音を立てないよう靴を履く。傘を握り直した。
そのときだった。
「止まって」




