第一百二十八話
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【十月十六日・水曜日・夕方】
放課後のチャイムが鳴ると、石原はノートを鞄に押し込み、教室を出た。
頭の中では、今日あったことがまだぐるぐると回っていた。
杏が、飲み物を一本多く買ってきたこと。
立花が、石原と春野が喧嘩したと言ったこと。けれど、彼女も自分も、その内容を覚えていなかったこと。
それから、自分の異能力が――消えていたこと。いつからなのかは分からない。
それ以外にも石原は注意深く周囲を見ていたが、目立ったことは何もなかった。
石原は廊下を歩いていった。周りでは、生徒たちが次々と通り過ぎていった。
誰かに「じゃあね」と声をかけられ、石原は機械的に返した。
(……これが証拠になるのか?)
杏は、ただ人数を数え間違えただけかもしれない。立花だって、物忘れくらい普通にある。
異能力が消えたことも――それが「彼女」と、何の関係があるというのか。
(もしかして……「彼女」は、俺が勝手に作り上げただけの存在なんじゃないか?)
その考えが浮かんだ瞬間、石原はほとんど反射的に否定していた。
胸の中の空白が、また小さく痛んだ。
(でも、証拠は?胸が苦しい。それだけで証拠になるのか?)
(それなら、まだ病気だって思ったほうが納得できる)
(「彼女」は……いったい、どんな人だったんだよ)
石原は校舎を出て、校門へ向かった。
道を行く生徒は多くなかった。
数人ずつ固まってグラウンドのほうへ向かう者もいれば、石原と同じように校門へ向かう者もいた。
その中で、石原は見つけた。
校門の内側にある掲示板の前。一人の女子生徒が立っていた。
髪をポニーテールに結び、少しだけ首を傾けて、掲示を眺めていた。
石原の足が、自然と遅くなった。目がわずかに見開かれた。
心臓が半拍だけ速くなり、呼吸が止まった。気づけば、手を伸ばしかけていた。
その女子生徒が振り返った。
――知らない顔だった。
彼女は石原を一瞥した。その表情を不審に思ったのか、すぐに視線を逸らし、そのまま歩き去っていった。
石原はその場に立ち尽くし、遠ざかっていく背中をぼんやりと見つめていた。
(……何やってるんだ、俺)
校門を出て、駅へ向かって数歩進んだところで、石原は足を止めた。
何かが自分の体を引いている。そんな気がした。
今度は、曖昧な感覚じゃなかった。
彼の眼前に、確かに一本の細い糸が浮かんでいた。
それは地面から伸び、見えない遠くへと続いている。
風にそっと揺れるその糸先は、どこかへ導くように、かすかに張っていた。
気のせいかもしれない。疲れているだけかもしれない。
石原はそう思い込もうとした。それでも、確かに何かが引く感触があった。
目をこすっても、糸は消えなかった。
石原はその場に立ち尽くし、数秒だけ迷った。
(何も見つからなかったら?)
(たどり着いた先が、行き止まりだったら?)
それでも、石原は向きを変えた。足は、もう勝手に動いていた。
(……自分でもよくわからない。まるで、病気みたいだ)
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石原は、その糸を追い続ける。
校門前の、毎日通る道を歩き、コンビニの角を曲がった。
どこへ向かっているのかは、自分でも分からなかった。ただ、歩いていた。
カフェ・泉方情の前を通りかかったときだった。糸が、ふっと張った。
石原は足を止めた。ガラス越しに店内を覗いた。
暖かな黄色の照明。木製のテーブルと椅子。窓際の席は空いていた。
(ここ……)
うまく言葉にはできない。けれど、妙な覚えがあった。
(杏と来たことがあるんだろうか……)
数秒立ち止まっていると、糸はまた緩み、先へ伸びていった。
石原は再び歩き出す。
知らない交差点を通り過ぎ、入ったことのない花屋の前を通った。
長い時間、歩いていた。それなのに、その間ずっと何を考えていたのか、自分でもよく分からなかった。
橋の上で足を止めたときだった。川から吹いてくる風を受けて、石原ははっと我に返った。
――泉方橋。気づけば、そこまで戻ってきていた。
胸の奥が急に空っぽになった。
何かを無理やり引き抜かれたみたいだった。
石原は手すりに手をつき、眩暈が収まるのを待った。
(この橋……)
毎日通っている、どこにでもあるような橋のはずだった。
なのに体の反応だけが、おかしかった。胃の奥が縮こまり、指先は冷えていた。
糸はまだ先へ続いていた。
空は少しずつ暗くなっていた。
街灯が一つ、また一つと灯り始めた。
どれだけ歩いたのか分からなかった。
今どこにいるのかも分からなかった。
ただ糸を追って歩いた。
見知らぬ通りを抜け、灯りのついたコンビニの前を通り、閉まった金物屋の前を通り過ぎる。
(俺は何をしてるんだ)
(見えもしない糸を追いかけて、何時間も歩いてる)
(本当におかしくなったんじゃないのか)
それでも足は止まらなかった。
糸がまだ残っていたからだ。引き返そうとするたび、胸の奥の空白が小さく痛んだ。
強い痛みではない。それでも、前へ進むには十分だった。
そして――石原は立ち止まった。
目の前には学校の側門があった。
夕陽はすでに沈み、校舎の輪郭だけが薄暗い景色の中に浮かんでいた。
糸は側門を抜け、その先へ続いていた。
無断で校内に入るのは、立派な校則違反だ。
だが、ここまで来てしまった以上、石原が迷ったのはほんの一瞬だけだった。
側門の隙間を抜けた。中庭を横切った。校舎の脇を通った。そして林へ続く小道を進んだ。
その先にあったのは――あのベンチだった。
糸はそこで途切れていた。まるで水面に落ちた雫みたいに。
音もなく、跡形もなく、その感覚だけが溶けて消えていった。
石原はベンチの前に立って木製の座面を見下ろした。そして目を閉じた。
空気の抜けた風船みたいに、そのまま崩れるように腰を下ろした。
林の外から風が吹き込んだ。葉がさらさらと揺れた。
辺りは静まり返っていた。あまりにも静かだった。
――本当に、自分はおかしくなってしまったんじゃないかと。
石原は顔を上げた。
頭上には木々の枝葉が広がっていた。
空はすっかり夜の色になっている。
葉の隙間から見えるのは、深い藍色の空だった。星は見えない。
(俺……本当におかしくなったのか?)
そんな考えが浮かんでも、不思議と怖くはなかった。
ただ、疲れていた。ひどく疲れていた。
石原はベンチにもたれかかり、片手で額を押さえた。掌が冷たかった。
(……疲れた)
昨日はろくに眠れていなかった。そのうえ、何時間も歩き続けた。さすがに限界が近かった。
石原はゆっくりと目を閉じた。
瞼が重かった。意識が少しずつ沈んでいった。
風の音が遠ざかった。葉擦れの音も、だんだん聞こえなくなっていった。
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そのときだった。ポケットの中で、スマートフォンが震えた。
鈍い振動が一度。そして、もう一度。
石原は動かなかった。
さらに震えた。
石原は眉をひそめた。目は開けなかった。
それでも振動は続いていた。
石原はようやく薄く目を開き、ポケットからスマートフォンを取り出した。
画面には杏の名前が表示されていた。
不在着信――七件。
石原は少しだけ目を見開いた。そして通話ボタンを押した。
「お兄ちゃん! やっと出た!」
受話口から飛び出してきたのは、明らかに焦った杏の声だった。
「どこにいるの!? なんでずっと電話出ないの? 今何時だと思ってるの!?」
石原はスマートフォンを少し耳から離した。
時間を確認した。二十時四十分。
石原は呆然とした。学校を出たときは、まだ五時にもなっていなかったはずだ。
四時間近く歩いていたことになる。
「お兄ちゃん? 聞いてる?」
「……聞いてる」
「その声どうしたの? 今どこにいるの?」
石原は口を開きかけた。そして周囲の林を見回した。
空はもう完全に暗くなっていた。
「……学校」
「学校? なんで学校にいるの?」
「それは……」
言えるわけがなかった。見えない糸を追いかけて何時間も歩いた。
無断で学校に入り直した。そのままベンチで寝かけていた。
――そんなこと、口にできるわけがない。
「……大丈夫。今から帰る」
電話の向こうが一瞬だけ静かになった。
それから杏の声が少しだけ柔らかくなった。
「帰ってきて。ご飯、まだ温かいから。ちゃんと鍵も開けてあるよ」
「……うん。ありがとう」
「気を付けてね」
そこで通話は切れた。
石原はスマートフォンを握ったまま、画面を見つめた。
そこには『杏』という名前が残っていた。
(杏が待ってる)
石原は深く息を吸った。ベンチに手をつき、ゆっくり立ち上がる。
足には少し力が入らなかったが、歩けないほどではなかった。
スマートフォンをポケットへ戻した。それからズボンについた埃を軽く払った。
今になって思う。
少し危なかったかもしれない。
(もう少しで、全部無駄になるところだった)
林の外から夜風が吹き込んできた。肌寒い風だった。
ポケットに入れた手の指先が、スマートフォンケースに触れた。
「ありがとう、杏……」
小さく呟く。
夜風がまた吹いた。
石原は振り返り、来た道を戻り始めた。
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帰宅したころには、食事は温め直されていた。
杏は何も聞かなかった。
ただ、「食べなよ」と言っただけだった。
石原は夕食を済ませた。それからコーヒを淹れて部屋に戻る。
そして――その夜、石原は一睡もしなかった。




