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見える感情、見えないまま  作者: 颍川
第二十四章 在る証――彼女のすべてを信じたいから
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第一百二十八話

---


【十月十六日・水曜日・夕方】


放課後のチャイムが鳴ると、石原はノートを鞄に押し込み、教室を出た。

頭の中では、今日あったことがまだぐるぐると回っていた。


杏が、飲み物を一本多く買ってきたこと。

立花が、石原と春野が喧嘩したと言ったこと。けれど、彼女も自分も、その内容を覚えていなかったこと。

それから、自分の異能力が――消えていたこと。いつからなのかは分からない。


それ以外にも石原は注意深く周囲を見ていたが、目立ったことは何もなかった。


石原は廊下を歩いていった。周りでは、生徒たちが次々と通り過ぎていった。

誰かに「じゃあね」と声をかけられ、石原は機械的に返した。


(……これが証拠になるのか?)


杏は、ただ人数を数え間違えただけかもしれない。立花だって、物忘れくらい普通にある。

異能力が消えたことも――それが「彼女」と、何の関係があるというのか。


(もしかして……「彼女」は、俺が勝手に作り上げただけの存在なんじゃないか?)


その考えが浮かんだ瞬間、石原はほとんど反射的に否定していた。

胸の中の空白が、また小さく痛んだ。


(でも、証拠は?胸が苦しい。それだけで証拠になるのか?)

(それなら、まだ病気だって思ったほうが納得できる)

(「彼女」は……いったい、どんな人だったんだよ)


石原は校舎を出て、校門へ向かった。


道を行く生徒は多くなかった。

数人ずつ固まってグラウンドのほうへ向かう者もいれば、石原と同じように校門へ向かう者もいた。


その中で、石原は見つけた。

校門の内側にある掲示板の前。一人の女子生徒が立っていた。

髪をポニーテールに結び、少しだけ首を傾けて、掲示を眺めていた。


石原の足が、自然と遅くなった。目がわずかに見開かれた。

心臓が半拍だけ速くなり、呼吸が止まった。気づけば、手を伸ばしかけていた。


その女子生徒が振り返った。

――知らない顔だった。


彼女は石原を一瞥した。その表情を不審に思ったのか、すぐに視線を逸らし、そのまま歩き去っていった。

石原はその場に立ち尽くし、遠ざかっていく背中をぼんやりと見つめていた。


(……何やってるんだ、俺)


校門を出て、駅へ向かって数歩進んだところで、石原は足を止めた。


何かが自分の体を引いている。そんな気がした。


今度は、曖昧な感覚じゃなかった。

彼の眼前に、確かに一本の細い糸が浮かんでいた。

それは地面から伸び、見えない遠くへと続いている。


風にそっと揺れるその糸先は、どこかへ導くように、かすかに張っていた。


気のせいかもしれない。疲れているだけかもしれない。


石原はそう思い込もうとした。それでも、確かに何かが引く感触があった。

目をこすっても、糸は消えなかった。


石原はその場に立ち尽くし、数秒だけ迷った。


(何も見つからなかったら?)

(たどり着いた先が、行き止まりだったら?)


それでも、石原は向きを変えた。足は、もう勝手に動いていた。


(……自分でもよくわからない。まるで、病気みたいだ)


---


石原は、その糸を追い続ける。

校門前の、毎日通る道を歩き、コンビニの角を曲がった。

どこへ向かっているのかは、自分でも分からなかった。ただ、歩いていた。


カフェ・泉方情の前を通りかかったときだった。糸が、ふっと張った。


石原は足を止めた。ガラス越しに店内を覗いた。

暖かな黄色の照明。木製のテーブルと椅子。窓際の席は空いていた。


(ここ……)


うまく言葉にはできない。けれど、妙な覚えがあった。


(杏と来たことがあるんだろうか……)


数秒立ち止まっていると、糸はまた緩み、先へ伸びていった。


石原は再び歩き出す。

知らない交差点を通り過ぎ、入ったことのない花屋の前を通った。

長い時間、歩いていた。それなのに、その間ずっと何を考えていたのか、自分でもよく分からなかった。


橋の上で足を止めたときだった。川から吹いてくる風を受けて、石原ははっと我に返った。


――泉方橋。気づけば、そこまで戻ってきていた。


胸の奥が急に空っぽになった。

何かを無理やり引き抜かれたみたいだった。


石原は手すりに手をつき、眩暈が収まるのを待った。


(この橋……)


毎日通っている、どこにでもあるような橋のはずだった。

なのに体の反応だけが、おかしかった。胃の奥が縮こまり、指先は冷えていた。


糸はまだ先へ続いていた。


空は少しずつ暗くなっていた。

街灯が一つ、また一つと灯り始めた。


どれだけ歩いたのか分からなかった。

今どこにいるのかも分からなかった。


ただ糸を追って歩いた。

見知らぬ通りを抜け、灯りのついたコンビニの前を通り、閉まった金物屋の前を通り過ぎる。


(俺は何をしてるんだ)

(見えもしない糸を追いかけて、何時間も歩いてる)

(本当におかしくなったんじゃないのか)


それでも足は止まらなかった。

糸がまだ残っていたからだ。引き返そうとするたび、胸の奥の空白が小さく痛んだ。

強い痛みではない。それでも、前へ進むには十分だった。


そして――石原は立ち止まった。

目の前には学校の側門があった。


夕陽はすでに沈み、校舎の輪郭だけが薄暗い景色の中に浮かんでいた。

糸は側門を抜け、その先へ続いていた。


無断で校内に入るのは、立派な校則違反だ。

だが、ここまで来てしまった以上、石原が迷ったのはほんの一瞬だけだった。


側門の隙間を抜けた。中庭を横切った。校舎の脇を通った。そして林へ続く小道を進んだ。

その先にあったのは――あのベンチだった。


糸はそこで途切れていた。まるで水面に落ちた雫みたいに。

音もなく、跡形もなく、その感覚だけが溶けて消えていった。


石原はベンチの前に立って木製の座面を見下ろした。そして目を閉じた。

空気の抜けた風船みたいに、そのまま崩れるように腰を下ろした。


林の外から風が吹き込んだ。葉がさらさらと揺れた。

辺りは静まり返っていた。あまりにも静かだった。


――本当に、自分はおかしくなってしまったんじゃないかと。


石原は顔を上げた。


頭上には木々の枝葉が広がっていた。

空はすっかり夜の色になっている。

葉の隙間から見えるのは、深い藍色の空だった。星は見えない。


(俺……本当におかしくなったのか?)


そんな考えが浮かんでも、不思議と怖くはなかった。

ただ、疲れていた。ひどく疲れていた。


石原はベンチにもたれかかり、片手で額を押さえた。掌が冷たかった。


(……疲れた)


昨日はろくに眠れていなかった。そのうえ、何時間も歩き続けた。さすがに限界が近かった。


石原はゆっくりと目を閉じた。

瞼が重かった。意識が少しずつ沈んでいった。


風の音が遠ざかった。葉擦れの音も、だんだん聞こえなくなっていった。


---


そのときだった。ポケットの中で、スマートフォンが震えた。

鈍い振動が一度。そして、もう一度。


石原は動かなかった。

さらに震えた。


石原は眉をひそめた。目は開けなかった。

それでも振動は続いていた。


石原はようやく薄く目を開き、ポケットからスマートフォンを取り出した。


画面には杏の名前が表示されていた。

不在着信――七件。


石原は少しだけ目を見開いた。そして通話ボタンを押した。


「お兄ちゃん! やっと出た!」


受話口から飛び出してきたのは、明らかに焦った杏の声だった。


「どこにいるの!? なんでずっと電話出ないの? 今何時だと思ってるの!?」


石原はスマートフォンを少し耳から離した。

時間を確認した。二十時四十分。


石原は呆然とした。学校を出たときは、まだ五時にもなっていなかったはずだ。

四時間近く歩いていたことになる。


「お兄ちゃん? 聞いてる?」


「……聞いてる」


「その声どうしたの? 今どこにいるの?」


石原は口を開きかけた。そして周囲の林を見回した。

空はもう完全に暗くなっていた。


「……学校」


「学校? なんで学校にいるの?」


「それは……」


言えるわけがなかった。見えない糸を追いかけて何時間も歩いた。

無断で学校に入り直した。そのままベンチで寝かけていた。


――そんなこと、口にできるわけがない。


「……大丈夫。今から帰る」


電話の向こうが一瞬だけ静かになった。

それから杏の声が少しだけ柔らかくなった。


「帰ってきて。ご飯、まだ温かいから。ちゃんと鍵も開けてあるよ」


「……うん。ありがとう」


「気を付けてね」


そこで通話は切れた。

石原はスマートフォンを握ったまま、画面を見つめた。

そこには『杏』という名前が残っていた。


(杏が待ってる)


石原は深く息を吸った。ベンチに手をつき、ゆっくり立ち上がる。

足には少し力が入らなかったが、歩けないほどではなかった。


スマートフォンをポケットへ戻した。それからズボンについた埃を軽く払った。


今になって思う。

少し危なかったかもしれない。


(もう少しで、全部無駄になるところだった)


林の外から夜風が吹き込んできた。肌寒い風だった。

ポケットに入れた手の指先が、スマートフォンケースに触れた。


「ありがとう、杏……」


小さく呟く。


夜風がまた吹いた。

石原は振り返り、来た道を戻り始めた。


---


帰宅したころには、食事は温め直されていた。

杏は何も聞かなかった。

ただ、「食べなよ」と言っただけだった。


石原は夕食を済ませた。それからコーヒを淹れて部屋に戻る。


そして――その夜、石原は一睡もしなかった。

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