第一百二十七話
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【十月十六日・水曜日・午後】
午後の最初の授業で、石原は窓際の席に座り、机の上に教科書を広げていた。
教師の声は教壇のほうから聞こえてくる。
まるで水の膜を一枚挟んでいるみたいに、ぼんやりしていて、頭に入ってこない。
石原は教科書へ視線を落とした。
文字は読めるのに、文章としてつながってこない。
昼休みに立花から聞いた言葉が、ずっと耳に残っていた。
『先輩、変なことを言って……それで会長と喧嘩して……』
だが石原には何の記憶もなかった。
その時間だけが、まるごと切り取られたみたいに空白だった。
石原が思い出せる最初の記憶は、今日の未明だった。
ベッドの上に横たわっていたこと。
胸の苦しさに耐えながら、頭の中にぼんやりとした誰かの顔が浮かんでいたこと。
そして、杏のあの脈絡のない一言。
記憶が繋がるのは、そこからだ。
(……始まりは、目を覚ました後だ)
石原はペンを手に取った。教科書の余白へ書き込んだ。
『記憶』
『睡眠』
(俺が覚えている最初の出来事が、目を覚ました後なら――)
(眠る前は?)
(切り取られた記憶は……俺が眠っている間に起きたことなんじゃないか?)
ペン先が「睡眠」の文字を軽く叩いた。
一度。そしてもう一度。
(俺は目を覚ますたびに、記憶を失っている)
その考えが浮かんだ瞬間、石原の指先に力が入った。
なら問題は一つだ。
眠らなければ、忘れないのではないか。
だが人間は眠らずにはいられない。
(……一人じゃなければ?)
(片方が起きている間に、もう片方が眠る)
(目を覚ましたら、起きていた方が覚えていることを伝える)
(そうすれば……途切れない)
一つの言葉が頭に浮かんだ。
――交代。
石原は思わず口にしていた。
「そういうことか――」
「石原くん」
教師の声が急にはっきり聞こえた。
石原は顔を上げた。教師はチョークを持ったまま、教壇からこちらを見ていた。
「何か発言でもあるのかな?」
教室が一瞬だけ静まり返った。何人かの生徒が振り向いた。
「……いえ」
「なら授業に集中しなさい」
教師は二秒ほど石原を見てから、再び黒板へ向き直り、板書を続けた。
石原は視線を落とした。そして、さっきの文字の隣へ強く書き込んだ。
『交代』
だが書き終えた瞬間、手が止まった。
(交代するには……協力してくれる相手が必要だ)
昼休みに聞いた立花の言葉がよぎった。
『結構大きな喧嘩だった気がして……』
内容は思い出せない。だが、そこまで言われるほどなら、昨日の自分はきっと生徒会室で感情を抑えられなくなっていたのだろう。
(……昨日だって、みんなに迷惑をかけた)
石原は「交代」の文字に線を引いた。
もう一度書いた。そして、また線を引いた。
窓から風が吹き込んだ。机の上の教科書のページが、ぱらりと揺れる。
石原は線だらけになった文字を見つめたまま、長いこと黙っていた。
(でも……何もしなければ、また忘れる)
(忘れ続ければ、そのうち――)
(「彼女」が消えていることさえ、忘れてしまう)
(だけど……)
立花の表情が脳裏をよぎった。
何かを壊さないように、慎重に言葉を選んでいた顔。
――昨日の俺は、きっと相当ひどかったんだろうな。
(まずは……一人でやってみるか)
石原は教科書を閉じ、そのまま椅子の背にもたれかかった。
窓から差し込む陽射しが、手の甲に落ちていた。けれど、少しも暖かく感じなかった。
(今夜は眠らない)
(もっと確かな証拠を見つけてから――)
(みんなに頼もう)
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【十月十六日・水曜日・放課後】
放課後、石原が生徒会室のドアを開けると、全員そろっていた。
春野は窓際の席で書類をめくり、花野はパソコンに向かったままキーボードを叩いていた。
立花は机に突っ伏し、杏はその隣で漫画を読んでいた。
春野が顔を上げた。石原を見るなり、少しだけ眉を緩めた。
「顔色、だいぶ良くなったな」
「うん」
石原は中へ入り、自分の席に腰を下ろした。それから春野へ視線を向けた。
「春野。昨日は……悪かった。たぶん、変なことを言ったんだと思う」
春野は少しだけ目を瞬かせた。だがすぐに手を振った。
「気にすんなよ。誰だって調子悪い日はある」
立花が机から顔を上げ、石原に向かって小さく笑った。
杏は何も言わなかったが、口元だけが少し緩んだ。
花野は相変わらず画面から目を離さなかった。
ただ、キーボードの音だけが一瞬止まり、すぐにまた鳴り始めた。
何もかも自然だった。まるで何事もなかったみたいに。
石原はファイルを開き、目の前の仕事に取りかかった。
春野が一枚の書類を差し出した。
「この部活の施設申請、日付合ってるか見てくれ」
石原は受け取り、日付を確認して、ペンで数字をいくつか修正した。
生徒会室は静かだった。
紙をめくる音。キーボードを叩く音。窓の外から時折聞こえる、誰かの話し声。
それだけが、ゆっくり流れている。
石原は日付を直しながら、別のことを考えていた。
(証拠……)
(ノートの文字じゃない。あれはもう何も残っていない)
(残っているのは――みんなだ)
石原はちらりと視線を巡らせた。
誰もがいつも通りだった。それぞれ自分の作業をしていた。
そのときだった。杏が椅子から立ち上がり、大きく伸びをした。
「飲み物買ってくるー」
「えー、俺のコーヒーじゃ不満か?」
春野がわざとらしく肩を落とした。
「たまには別のも飲みたいのー、会長。何か買ってくるものある?」
立花が手を挙げた。「いちごミルク!」
春野が続いた。「コーヒー。お願い」
花野は画面を見たまま答えた。「ウーロン茶」
石原は少しだけ迷ったあと、「水でいい」
杏は頷き、人数を数えて、そのまま部屋を出ていった。
生徒会室は再び静かになった。
数分後。杏が大きな袋を提げて戻ってきた。
「はい、水ー。コーヒー。ウーロン茶。いちごミルク」
一本ずつ取り出して配っていった。
全員に渡し終えると、机の上には一本だけ麦茶が残っていた。
杏はそれを数秒ほど見つめてから、首を傾げた。
「……あれ?」
麦茶を手に取った。少し眺め、また机へ戻した。
「なんか一本多く買っちゃった」
立花がくすっと笑った。
「杏ちゃん、人数間違えたんじゃない?」
「ま、いっか」
杏は麦茶を持ち上げ、そのまま勢いよく飲み始めた。
「ごく、ごく……」
そして顔をしかめた。
「うわー、まずい」
その様子を見ていた春野が吹き出した。
「大人だなぁ、杏ちゃん」
杏は笑いながら席へ戻った。
石原は半分ほど減った麦茶を見つめた。そして静かに視線を書類へ戻した。
(杏ちゃんは甘い物が好きだ)
(間違って麦茶を選ぶとも思えない)
指先が、かすかに震えた。
(もしかして……)
(「彼女」が好きだったものなのか?)
胸の奥が、わずかに揺れた。
(いや……)
(ただの偶然かもしれない)




