第一百二十六話
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【十月十六日・水曜日・未明】
石原は机の前に座り、そのノートを見つめていた。
表紙の四文字は、もう完全に読めなくなっていた。
一ページ目を開く。空白だった。
二ページ目も、空白だった。
一枚、また一枚とめくっていった。
どのページも、真っ白だった。
紙面はあまりにもきれいで、まるで一度も文字を載せたことがないみたいだった。一文字さえ、残っていない。
石原はノートを閉じ、机の上に置いた。
どうしてそれを開いたのか、自分でも分からない。
ましてや、そこに何が書かれていたのかなんて、分かるはずもなかった。
(俺……俺は何をしてたんだ?)
何も思い出せない。それなのに、胸の奥だけがひどく重く、苦しかった。
何かが胸の奥に詰まっているみたいで、息がうまくできない。
頭も、鈍く痛んでいた。
こめかみが脈打つたび、内側から針で刺されるような痛みが走った。
口の中には、かすかな鉄錆びの味があった。
飲み込むことも、吐き出すこともできない。
なぜ、こんな感覚に襲われているのか分からない。
――そしてなぜ、その不快感に妙な覚えがあるのかも、分からなかった。
ただ、心の中だけが空っぽだった。
大海原の中で溺れているみたいだった。手を伸ばしても、何にも触れられない。
「お兄ちゃん?」
ドアが細く押し開けられた。杏が、顔を半分だけのぞかせた。
髪はぼさぼさで、目もまだちゃんと開いていなかった。
「まだ寝てなかったの……? 今、何時だと思ってるの?」
石原は答えなかった。杏は目をこすりながら、部屋に入ってきた。
机の上のノートを一度見て、それから石原の顔を見た。その眉が、きゅっと寄った。
「顔色、すごく悪いよ」
「……眠れない」
杏は二秒ほど石原を見つめてから、ため息をついた。
「もう、子どもなんだから……待ってて」
杏は机の上で冷めきっていた食事を手に取り、背を向けた。
「出てきて、少しでも食べなよ。お腹空いてると、余計なことばっかり考えちゃうから」
石原は答えなかった。
ただ、のろのろと部屋を出て、リビングへ向かい、椅子に腰を下ろした。
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石原は、湯気の立つ食事を見下ろした。
食欲はなかったが、それでも箸を手に取った。
杏は隣に腰を下ろし、大きなあくびをした。
リモコンを手に取り、テレビの電源を入れる。
「お兄ちゃんに起こされた……。これじゃ明日、学校起きられないかも」
ぶつぶつ文句を言いながら、チャンネルを切り替えていく。
「深夜番組……えーっと……何かやってるかな」
画面の光が、部屋の中でちらちらと瞬いた。
石原は機械みたいに箸を動かしていた。
何を食べているのか、味もよく分からなかった。
「あ、これ」
杏の手が止まった。
画面の中では、一組の男女が雪の中に立っていた。
映像は柔らかな色合いで、流れている音楽も静かだった。
女の子が何かを言った。
男の子は少しうつむき、それから――二人は抱き合った。
「また抱き合ってる」
杏は頬杖をつき、気だるそうに言った。
「深夜番組って、こういうの好きだよね」
石原も画面へ目を向けた。
なぜなのか、自分でも分からなかった。
けれど、その二人が抱き合う姿を見ていると、胸の重さが少しだけ増した気がした。
どうしてそんなことを思うのか、自分でも分からなかった。
だからこそ、その感覚が妙に落ち着かなかった。
「どうしたの?」
杏が首を傾け、いたずらっぽく笑った。
「お兄ちゃんも、こういう可愛い女の子と出会いたいとか思った?」
石原は答えなかった。
杏はさらに首を傾け、つけ足すように言った。
「まあ、お兄ちゃんは欲張っちゃダメだよね。だって、もうあんな完璧な彼女がいるんだから」
石原の手が止まった。箸が宙で止まる。
どの言葉に反応したのか、自分でも分からなかった。
『彼女』だったのか。それとも『もういる』だったのか。
あるいは、それを当然のことみたいに口にした杏の口調だったのか。
その瞬間。頭の奥で、何かが閃いた。
――林。木漏れ日。一つのベンチ。そして、その前に立つ誰か。
その人は振り返り、こちらへ微笑みかけていた。
顔は見えない。けれど、その笑顔を見た瞬間――心臓が急に速く脈打ち始めた。痛みを覚えるほどに。
「お兄ちゃん!」
杏の声が、石原を現実へ引き戻した。
石原は視線を落とした。気づけば、自分の胸を押さえた手が震えていた。
「お兄ちゃん、大丈夫!? わ、私、何か変なこと言った?」
杏の声には焦りが混じっていた。
だが石原が答えるより先に、自分がさっき口にした言葉を思い返したらしい。
杏は、はっとしたように固まった。
「……私、今、お兄ちゃんに、彼女がいるって言った?」
眉をひそめた。何かを思い出そうとするみたいに。
「でも……」
そこで言葉が途切れた。杏の記憶では、兄はずっと一人でいた。彼女なんていたことがない。
それなのに、どうしてあんな言葉が自然に出てきたのだろう。
まるで、ずっと前からそこにあった何かが、勝手に口からこぼれ落ちたみたいに。
石原は杏を見た。杏も石原を見ていた。
数秒間、沈黙が流れた。
やがて杏は視線を逸らし、小さくうつむいた。
「……ごめん、お兄ちゃん。私、自分でも何言ってるのか分かんない」
「大丈夫だよ、杏……」
石原は目の前の茶碗へ視線を落とした。
胸の重さは消えない。こめかみの痛みも続いている。口の中の鉄錆びた味も、まだ残ったままだ。
けれど――あの笑顔だけは、まだ頭の中に残っていた。
顔は見えない。それでも、その笑顔だけは。
まるでひどく細い糸みたいに、どこか遠い場所から伸びてきて、そっと自分を引いた気がした。
それが何なのかは分からない。
ただ一つだけ、分かることがある。
――あれは幻なんかじゃない。
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石原は、ほとんど一睡もできなかった。
夜も更けてから、石原は暗闇の中で横になり、天井を見つめ続けていた。
頭の中では、さっきの出来事ばかりが何度も繰り返されていた。
(杏ちゃんの言葉……それに、あの顔……何だったんだ?)
石原は胸元を押さえた。心臓はまだ少し速く脈打っていた。
それ以外のことは、何ひとつ分からなかった。
それでも、「彼女」が誰なのか知りたいという思いだけは、少しずつ強くなっていた。
【十月十六日・水曜日・朝】
まだ夜明け前だった。石原は早くに起き上がった。
杏はまだ眠っていた。
起こさないよう静かに身支度を整え、制服に着替えた。
ノートを鞄へ押し込み、玄関の扉を開けた。
十月も半ば。朝の風には、もうはっきりとした冷たさが混じっていた。
通りを歩く人はまだ少なかった。時折、朝のランナーが横を駆け抜けていく。
コンビニの灯りがシャッターの隙間から漏れ、早起きした中学生たちが何人かずつ駅へ向かっていた。
石原は、その人の流れの中を歩いていた。自分が速く歩いているのか、遅く歩いているのかも分からなかった。
ただ機械みたいに足を動かし、人の流れに流されるように駅へ向かった。
周囲の音はすべて混ざり合っていた。
足音も、誰かの話し声も、遠くのホームから聞こえてくる電車の案内放送も。
それらは灰色の薄い霧みたいに耳にまとわりつき、何一つ頭に入ってこなかった。
(あの人は、本当に……いたのか?)
そんな考えがふと浮かんだ。
悲しいわけではなかった。ただ、ひどく疲れていた。
もしかしたら――全部、自分が見た長い夢だったのかもしれない。
杏があんなことを言ったのも、ただの言い間違いだったのかもしれない。
もしかしたら――
そこまで考えかけた、その瞬間だった。
まるでそれに合わせるように、胸の奥がちくりと痛んだ。
石原は胸を押さえ、その場にしゃがみ込んだ。
眉をひそめながら、小さく苦笑した。
(……そんなふうに考えるなってことか)
その痛みで、逆にはっきりしたこともあった。
自分の中に空いたままになっている場所。
そこは、確かに誰かのための場所だった。
ただ、何があったのか分からない。
今はまだ、その場所を埋めることができないだけだ。
それでも――
(知りたい)
(「彼女」が、誰だったのか)
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【十月十六日・水曜日・昼休み】
昼休みのチャイムが鳴り終わると、石原は春野にメッセージだけ送って、生徒会室には行かなかった。
石原は一人で林のベンチに座っていた。弁当箱は隣に置いたまま、まだ開いていなかった。
木漏れ日が葉の隙間からこぼれ、石原の手の甲に落ちていた。少しだけ手を持ち上げると、ほんのり温かかった。
背後から足音が近づいてくる。
「先輩」
立花が木立の向こうから出てきた。手には小さな紙袋を提げていた。
石原は不思議そうに彼女を見ながら、少しだけ横へずれて場所を空けた。
「……なんでここが分かったんだ」
「勘、です」
立花はそう答えながら隣に腰を下ろした。
そして紙袋を二人の間に置いた。
石原は何も言わなかった。立花も急かさなかった。
立花が紙袋を開いた。中にはクッキーが何枚か入っていた。
「杏ちゃんからです。みんなで食べたんですけど、まだたくさん残ってたので」
何気ない口調だった。けれど、指先は紙袋の縁を何度もなぞっていた。
(……何か、別に用があるな)
どうしてそう思ったのかは分からない。表情のせいかもしれない。
何か言いたそうなのに、どう切り出せばいいのか分からない――そんな顔をしていたからだ。
石原は無意識に、立花の頭上へ視線を向けた。
何もなかった。
石原は一瞬、目を見開いた。
まばたきをして、もう一度見た。
立花は不思議そうに首を傾げた。
「先輩?」
タグも、数字も、何もない。
かつて自分の頭を埋め尽くし、息苦しくなるほど付きまとってきたものが、今はもう跡形もなく消えていた。
いつから見えなくなっていたのかも分からない。
ずっと前からだったのかもしれないし、昨日からだったのかもしれない。
――「彼女」のことで頭がいっぱいで、気づかなかっただけなのか。
もっとも、それはもう大した問題ではなかった。
「……いや、何でもない」
石原は視線を逸らした。
立花はしばらく彼を見ていたが、それ以上は聞かなかった。
代わりに紙袋を少し押し出した。
「食べてください。顔色、本当に悪いですから」
石原はクッキーを一枚取り、口へ運んだ。
甘いはずだった。だが、味はよく分からなかった。
立花は隣で静かに座っていた。スカートの裾を握る手には、力が入っていた。
やがて何かを決心したように、大きく息を吸った。
「せ、先輩……まだ怒ってますか?」
「え?」
石原は戸惑った。何の話か分からなかった。
「その……昨日のことです。先輩、忘れちゃったんですか……?」
立花は石原を見た。目が合うと、すぐに視線を逸らした。
「先輩、変なことを言って……それで会長と喧嘩して……」
石原は昨日のことを思い返そうとした。
(喧嘩? 俺が春野と?)
何も思い出せない。
昨日のことも。それどころか、その前の数日のことも。
ほとんど記憶に残っていなかった。
「喧嘩? 変なことって……俺、俺は何を言ったんだ?」
「私も詳しくは分からないんです。ただ、結構大きな喧嘩だった気がして……」
そう言われても、石原にはまるで覚えがなかった。
いくら何でも、そんな大事なことを一日で忘れるはずがないのに。
(まさか……杏のときみたいに、みんなの記憶も曖昧になってるのか?)
脳裏に、またあの笑顔が浮かんだ。
ガラス越しに見ているみたいに曖昧で、相変わらず顔は見えない。
(これも……「彼女」と関係があるのか?)
そのときだった。何かが、かすかに自分を引いた気がした。
とても細くて、かすかな感覚。見えない糸みたいなものが、どこか見えない場所から伸びてきて、そっと自分を引いた気がした。
石原は、はっと顔を上げた。視線は林の外へ向いた。
だが、そこには何もなかった。そこにあるのは、いつもの校舎と、いつもの午後の日差しだけだった。
さっきの感覚は消えていた。最初から存在しなかったみたいに。
「先輩?」
「……いや」
石原は首を振った。
「立花さん、悪い。昨日のこと、あまり覚えてない」
「そんな……」
立花は目を瞬かせたあと、慌てて首を振った。
「だ、大丈夫です。会長もきっと気にしてませんから」
そう言って笑った。けれど、その笑顔もすぐに静かに消えた。
二人とも、それ以上は何も言わなかった。
風が林を吹き抜けた。葉がさらさらと揺れていた。




