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見える感情、見えないまま  作者: 颍川
第二十四章 在る証――彼女のすべてを信じたいから
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第一百二十六話

---


【十月十六日・水曜日・未明】


石原は机の前に座り、そのノートを見つめていた。

表紙の四文字は、もう完全に読めなくなっていた。


一ページ目を開く。空白だった。

二ページ目も、空白だった。


一枚、また一枚とめくっていった。

どのページも、真っ白だった。


紙面はあまりにもきれいで、まるで一度も文字を載せたことがないみたいだった。一文字さえ、残っていない。


石原はノートを閉じ、机の上に置いた。

どうしてそれを開いたのか、自分でも分からない。

ましてや、そこに何が書かれていたのかなんて、分かるはずもなかった。


(俺……俺は何をしてたんだ?)


何も思い出せない。それなのに、胸の奥だけがひどく重く、苦しかった。

何かが胸の奥に詰まっているみたいで、息がうまくできない。


頭も、鈍く痛んでいた。

こめかみが脈打つたび、内側から針で刺されるような痛みが走った。


口の中には、かすかな鉄錆びの味があった。

飲み込むことも、吐き出すこともできない。


なぜ、こんな感覚に襲われているのか分からない。

――そしてなぜ、その不快感に妙な覚えがあるのかも、分からなかった。


ただ、心の中だけが空っぽだった。

大海原の中で溺れているみたいだった。手を伸ばしても、何にも触れられない。


「お兄ちゃん?」


ドアが細く押し開けられた。杏が、顔を半分だけのぞかせた。

髪はぼさぼさで、目もまだちゃんと開いていなかった。


「まだ寝てなかったの……? 今、何時だと思ってるの?」


石原は答えなかった。杏は目をこすりながら、部屋に入ってきた。

机の上のノートを一度見て、それから石原の顔を見た。その眉が、きゅっと寄った。


「顔色、すごく悪いよ」


「……眠れない」


杏は二秒ほど石原を見つめてから、ため息をついた。


「もう、子どもなんだから……待ってて」


杏は机の上で冷めきっていた食事を手に取り、背を向けた。


「出てきて、少しでも食べなよ。お腹空いてると、余計なことばっかり考えちゃうから」


石原は答えなかった。

ただ、のろのろと部屋を出て、リビングへ向かい、椅子に腰を下ろした。


---


石原は、湯気の立つ食事を見下ろした。

食欲はなかったが、それでも箸を手に取った。


杏は隣に腰を下ろし、大きなあくびをした。

リモコンを手に取り、テレビの電源を入れる。


「お兄ちゃんに起こされた……。これじゃ明日、学校起きられないかも」


ぶつぶつ文句を言いながら、チャンネルを切り替えていく。


「深夜番組……えーっと……何かやってるかな」


画面の光が、部屋の中でちらちらと瞬いた。


石原は機械みたいに箸を動かしていた。

何を食べているのか、味もよく分からなかった。


「あ、これ」


杏の手が止まった。


画面の中では、一組の男女が雪の中に立っていた。

映像は柔らかな色合いで、流れている音楽も静かだった。


女の子が何かを言った。

男の子は少しうつむき、それから――二人は抱き合った。


「また抱き合ってる」


杏は頬杖をつき、気だるそうに言った。


「深夜番組って、こういうの好きだよね」


石原も画面へ目を向けた。


なぜなのか、自分でも分からなかった。

けれど、その二人が抱き合う姿を見ていると、胸の重さが少しだけ増した気がした。


どうしてそんなことを思うのか、自分でも分からなかった。

だからこそ、その感覚が妙に落ち着かなかった。


「どうしたの?」


杏が首を傾け、いたずらっぽく笑った。


「お兄ちゃんも、こういう可愛い女の子と出会いたいとか思った?」


石原は答えなかった。

杏はさらに首を傾け、つけ足すように言った。


「まあ、お兄ちゃんは欲張っちゃダメだよね。だって、もうあんな完璧な彼女がいるんだから」


石原の手が止まった。箸が宙で止まる。


どの言葉に反応したのか、自分でも分からなかった。

『彼女』だったのか。それとも『もういる』だったのか。

あるいは、それを当然のことみたいに口にした杏の口調だったのか。


その瞬間。頭の奥で、何かが閃いた。


――林。木漏れ日。一つのベンチ。そして、その前に立つ誰か。

その人は振り返り、こちらへ微笑みかけていた。


顔は見えない。けれど、その笑顔を見た瞬間――心臓が急に速く脈打ち始めた。痛みを覚えるほどに。


「お兄ちゃん!」


杏の声が、石原を現実へ引き戻した。

石原は視線を落とした。気づけば、自分の胸を押さえた手が震えていた。


「お兄ちゃん、大丈夫!? わ、私、何か変なこと言った?」


杏の声には焦りが混じっていた。

だが石原が答えるより先に、自分がさっき口にした言葉を思い返したらしい。

杏は、はっとしたように固まった。


「……私、今、お兄ちゃんに、彼女がいるって言った?」


眉をひそめた。何かを思い出そうとするみたいに。


「でも……」


そこで言葉が途切れた。杏の記憶では、兄はずっと一人でいた。彼女なんていたことがない。

それなのに、どうしてあんな言葉が自然に出てきたのだろう。

まるで、ずっと前からそこにあった何かが、勝手に口からこぼれ落ちたみたいに。


石原は杏を見た。杏も石原を見ていた。

数秒間、沈黙が流れた。

やがて杏は視線を逸らし、小さくうつむいた。


「……ごめん、お兄ちゃん。私、自分でも何言ってるのか分かんない」


「大丈夫だよ、杏……」


石原は目の前の茶碗へ視線を落とした。

胸の重さは消えない。こめかみの痛みも続いている。口の中の鉄錆びた味も、まだ残ったままだ。


けれど――あの笑顔だけは、まだ頭の中に残っていた。

顔は見えない。それでも、その笑顔だけは。

まるでひどく細い糸みたいに、どこか遠い場所から伸びてきて、そっと自分を引いた気がした。


それが何なのかは分からない。

ただ一つだけ、分かることがある。


――あれは幻なんかじゃない。


---


石原は、ほとんど一睡もできなかった。

夜も更けてから、石原は暗闇の中で横になり、天井を見つめ続けていた。

頭の中では、さっきの出来事ばかりが何度も繰り返されていた。


(杏ちゃんの言葉……それに、あの顔……何だったんだ?)


石原は胸元を押さえた。心臓はまだ少し速く脈打っていた。


それ以外のことは、何ひとつ分からなかった。

それでも、「彼女」が誰なのか知りたいという思いだけは、少しずつ強くなっていた。


【十月十六日・水曜日・朝】


まだ夜明け前だった。石原は早くに起き上がった。


杏はまだ眠っていた。


起こさないよう静かに身支度を整え、制服に着替えた。

ノートを鞄へ押し込み、玄関の扉を開けた。


十月も半ば。朝の風には、もうはっきりとした冷たさが混じっていた。

通りを歩く人はまだ少なかった。時折、朝のランナーが横を駆け抜けていく。

コンビニの灯りがシャッターの隙間から漏れ、早起きした中学生たちが何人かずつ駅へ向かっていた。


石原は、その人の流れの中を歩いていた。自分が速く歩いているのか、遅く歩いているのかも分からなかった。

ただ機械みたいに足を動かし、人の流れに流されるように駅へ向かった。


周囲の音はすべて混ざり合っていた。

足音も、誰かの話し声も、遠くのホームから聞こえてくる電車の案内放送も。

それらは灰色の薄い霧みたいに耳にまとわりつき、何一つ頭に入ってこなかった。


(あの人は、本当に……いたのか?)


そんな考えがふと浮かんだ。

悲しいわけではなかった。ただ、ひどく疲れていた。


もしかしたら――全部、自分が見た長い夢だったのかもしれない。

杏があんなことを言ったのも、ただの言い間違いだったのかもしれない。


もしかしたら――


そこまで考えかけた、その瞬間だった。

まるでそれに合わせるように、胸の奥がちくりと痛んだ。


石原は胸を押さえ、その場にしゃがみ込んだ。

眉をひそめながら、小さく苦笑した。


(……そんなふうに考えるなってことか)


その痛みで、逆にはっきりしたこともあった。


自分の中に空いたままになっている場所。

そこは、確かに誰かのための場所だった。


ただ、何があったのか分からない。

今はまだ、その場所を埋めることができないだけだ。


それでも――


(知りたい)

(「彼女」が、誰だったのか)


---


【十月十六日・水曜日・昼休み】


昼休みのチャイムが鳴り終わると、石原は春野にメッセージだけ送って、生徒会室には行かなかった。


石原は一人で林のベンチに座っていた。弁当箱は隣に置いたまま、まだ開いていなかった。

木漏れ日が葉の隙間からこぼれ、石原の手の甲に落ちていた。少しだけ手を持ち上げると、ほんのり温かかった。


背後から足音が近づいてくる。


「先輩」


立花が木立の向こうから出てきた。手には小さな紙袋を提げていた。

石原は不思議そうに彼女を見ながら、少しだけ横へずれて場所を空けた。


「……なんでここが分かったんだ」


「勘、です」


立花はそう答えながら隣に腰を下ろした。

そして紙袋を二人の間に置いた。


石原は何も言わなかった。立花も急かさなかった。

立花が紙袋を開いた。中にはクッキーが何枚か入っていた。


「杏ちゃんからです。みんなで食べたんですけど、まだたくさん残ってたので」


何気ない口調だった。けれど、指先は紙袋の縁を何度もなぞっていた。


(……何か、別に用があるな)


どうしてそう思ったのかは分からない。表情のせいかもしれない。

何か言いたそうなのに、どう切り出せばいいのか分からない――そんな顔をしていたからだ。


石原は無意識に、立花の頭上へ視線を向けた。


何もなかった。


石原は一瞬、目を見開いた。

まばたきをして、もう一度見た。


立花は不思議そうに首を傾げた。


「先輩?」


タグも、数字も、何もない。

かつて自分の頭を埋め尽くし、息苦しくなるほど付きまとってきたものが、今はもう跡形もなく消えていた。


いつから見えなくなっていたのかも分からない。

ずっと前からだったのかもしれないし、昨日からだったのかもしれない。

――「彼女」のことで頭がいっぱいで、気づかなかっただけなのか。


もっとも、それはもう大した問題ではなかった。


「……いや、何でもない」


石原は視線を逸らした。

立花はしばらく彼を見ていたが、それ以上は聞かなかった。

代わりに紙袋を少し押し出した。


「食べてください。顔色、本当に悪いですから」


石原はクッキーを一枚取り、口へ運んだ。

甘いはずだった。だが、味はよく分からなかった。


立花は隣で静かに座っていた。スカートの裾を握る手には、力が入っていた。

やがて何かを決心したように、大きく息を吸った。


「せ、先輩……まだ怒ってますか?」


「え?」


石原は戸惑った。何の話か分からなかった。


「その……昨日のことです。先輩、忘れちゃったんですか……?」


立花は石原を見た。目が合うと、すぐに視線を逸らした。


「先輩、変なことを言って……それで会長と喧嘩して……」


石原は昨日のことを思い返そうとした。


(喧嘩? 俺が春野と?)


何も思い出せない。

昨日のことも。それどころか、その前の数日のことも。

ほとんど記憶に残っていなかった。


「喧嘩? 変なことって……俺、俺は何を言ったんだ?」


「私も詳しくは分からないんです。ただ、結構大きな喧嘩だった気がして……」


そう言われても、石原にはまるで覚えがなかった。

いくら何でも、そんな大事なことを一日で忘れるはずがないのに。


(まさか……杏のときみたいに、みんなの記憶も曖昧になってるのか?)


脳裏に、またあの笑顔が浮かんだ。

ガラス越しに見ているみたいに曖昧で、相変わらず顔は見えない。


(これも……「彼女」と関係があるのか?)


そのときだった。何かが、かすかに自分を引いた気がした。

とても細くて、かすかな感覚。見えない糸みたいなものが、どこか見えない場所から伸びてきて、そっと自分を引いた気がした。


石原は、はっと顔を上げた。視線は林の外へ向いた。

だが、そこには何もなかった。そこにあるのは、いつもの校舎と、いつもの午後の日差しだけだった。


さっきの感覚は消えていた。最初から存在しなかったみたいに。


「先輩?」


「……いや」


石原は首を振った。


「立花さん、悪い。昨日のこと、あまり覚えてない」


「そんな……」


立花は目を瞬かせたあと、慌てて首を振った。


「だ、大丈夫です。会長もきっと気にしてませんから」


そう言って笑った。けれど、その笑顔もすぐに静かに消えた。


二人とも、それ以上は何も言わなかった。


風が林を吹き抜けた。葉がさらさらと揺れていた。

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