第一百二十五話
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【十月十五日・火曜日・午前】
昼休み。石原は一人で、林の中のベンチに座っていた。
あのベンチだ。大事な場所だった気がする。
けれど、どうして大事なのかは思い出せない。
石原はノートを開き、薄くなっていく文字を見つめた。
――もう諦めるべきなのかもしれない。
そんな考えが浮かんだ。
悲しくはなかった。ただ、心の中が空っぽだった。
吹っ切れたわけじゃない。本来なら何かがあるはずの場所に、何も残っていない。
昨日、このノートを書いていたことを思い出す。
涙が落ちて、紙の上に滲んだ。その跡は今も残っている。ページは少し波打っていた。
けれど、どうして泣いていたのか思い出せない。
石原はその皺を見つめ、必死に考えた。
――彼女は、どんな人だった?
――どうして自分は、あんなに泣いたんだ?
ノートには彼女のことが書かれている。
それなのに、頭の中には何も浮かばない。ただ真っ白だった。
胸の奥が重い。けれど目は乾いている。泣きたいのに泣けない。
身体だけが、彼女への感情を忘れてしまったみたいだった。
その感覚が、石原を苛立たせた。
石原は最後のページを開いた。そして、その一文を強く見つめた。
『彼女は大切だ。忘れちゃいけない』
自分で書いた文字だ。それは信じられる。
けれど、思い出せない。
その矛盾が、棘みたいに頭の中へ刺さっていた。
時間が経つほど、深く食い込んでいく。
石原はノートを閉じた。
ベンチの背もたれに身体を預けた。
目を閉じ、強くこめかみを押さえた。
(誰なんだ……)
(誰なんだ……)
(誰なんだ――)
木漏れ日が瞼の上に落ちる。明るくて、暖かい光だった。
(緒……)
(緒山……朋奈?)
聞き覚えがある。なのに、遠い。
そんな名前が、水の底から引き上げられるみたいに浮かんできた。
石原は目を開いた。息が大きく乱れた。勢いよく身体を起こした。
「先輩!」
遠くから声が聞こえた。石原は振り向いた。
立花が小道の向こうから走ってくる。制服のスカートが揺れていた。
石原の前まで来ると、腰を曲げて息を整えた。
「やっと見つけました!」
「どうした?」
立花は顔を上げた。
「今朝、会長がグループで言ってたんです。先輩の様子が変だから、見かけたら気をつけてほしいって」
「私……学校中探したんですよ。それで最後に、もしかしたらここかなって」
そこで少し言葉を切った。
「前に先輩、ここで一人でいるのが好きだって言ってたので」
石原は立花を見た。何も答えなかった。
立花は少し首を傾げた。
「先輩、本当にどうしたんですか?みんな心配してますよ」
「春野と花野も?」
「はい! さっきは杏ちゃんからもメッセージ来ました」
(……それが『みんな』か)
石原は視線を落とした。手の中のノートを見た。
表紙の名前は、もうほとんど見えなくなっていた。
けれど。さっき掴んだ名前だけは残っている。
「立花さん」
「はい?」
「午後……」
石原は少しだけ言葉を探した。
「午後、生徒会室で待っていてくれないか」
「みんなに話したいことがある」
立花は石原を見つめた。少し迷うような表情を浮かべた。それから頷いた。
「分かりました。みんなにも声をかけます」
石原はノートを胸に抱いた。そして立ち上がった。
心臓が強く脈打っている。
――このまま終わらせてたまるか。
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生徒会室には四人が集まっていた。
みんな石原のことを心配している。
春野の提案で、午前の授業は休むことになっていた。
石原はホワイトボードの前に立っていた。手にはあのノートを持っていた。
目が妙に冴えていた。声も、いつもよりずっと大きかった。
「まず――昨日の午後、俺は早退なんかしてない。してないんだ。俺はみんなと一緒にここにいた。ここで……そう、ここでたくさん話をした」
話す速度が安定しなかった。
急に速くなったかと思えば、途中で止まりそうになる。
「これから話すことは……たぶん、すごくおかしい。でも……最後まで聞いてほしい」
石原はノートを開いた。四人が近寄ってきた。
表紙の文字は、もうほとんど見えなくなっていた。
中のページも半分ほどがぼやけていた。
「これ、何?」
「俺が書いた……昨日の午後、家に帰ってから。彼女のことだ。俺が覚えていることを全部……彼女のことを全部書いた」
石原は一ページずつめくって見せた。指先がわずかに震えていた。
石原はホワイトボードに文字を書いた。
『緒山朋奈』
四人とも、その名前を見つめた。
「なんか……聞いたことある気がする」
立花が眉を寄せた。
「私は覚えていません」
花野は即答した。春野も静かに首を横に振った。
「分かってる。分かってるんだ」
石原の口調が、また早くなった。
「昨日もそうだった。昨日もみんなそう言った。でも信じてくれ。だから……お願いだから、信じてくれ」
春野は腕を組み、窓際にもたれた。少し眉をひそめた。
「石原。お前、昨日は早退して帰ったあと、ずっとこれを書いてたのか?」
「違う!」
石原は反射的に声を上げた。
「だからさっき言っただろ!俺は早退なんかしてない! 俺はここにいたんだ! ずっと――」
そこで石原は止まった。生徒会室が静まり返る。
「……悪い、石原。今の、ちゃんと聞き取れなかった」
いつもと違う石原の様子に、春野も戸惑っているようだった。
石原も自分の失態に気づいた。
「……ごめん」
小さくそう言って、俯いた。
「先輩」
立花が声を掛けた。
「今、すごく早口でした。私もあんまり聞き取れなくて……み、水でも飲んで少し休みませんか?」
立花は小走りで給湯スペースへ向かった。
すぐにコップを持って戻ってきた。そして石原へ差し出した。
「……ありがとう、立花さん」
立花は小さく微笑んだ。
その横で、今にも何か言い出しそうな杏を、立花はちらりと見た。
そして、そっと首を横に振った。
石原は、かすかに揺れる水面を見つめていた。
(昨日……昨日もこうだった)
「お兄ちゃん、今日はもう早退して帰った方がいいんじゃない?」
杏はスカートの裾を握りしめながら、不安そうに石原を見上げた。
「駄目だ」
石原は顔を上げた。そしてまた、無意識に話す速度が速くなった。
「もう待てない。これ以上時間が経ったら、どうなるか分からない。何が起きるかも――」
「そのノートに書いてある内容は、現状、石原本人にしか証明できません」
花野の落ち着いた声が、パソコンの向こうから聞こえた。
彼女は顔も上げない。いつも通り、マウスを動かしている。
普段なら気にならない。
けれど今は、その言葉がひどく胸に刺さった。
「俺は作り話なんかしてない。俺は……みんなを騙してない」
「私が言いたいのは」
花野は淡々と続けた。
「今のあなたの精神状態では、この話し合いに実質的な進展は期待できないということです。私は無意味なことが嫌いなので」
そこでようやく花野は手を止めた。そして、石原を見た。
「私は、あなたという人間は信用しています。ですが、その前に、あなた自身が自分を信じるべきです」
「今のあなたは、自分自身の言葉すら疑っているでしょう?」
花野の言葉は、針みたいだった。一番痛い場所に、正確に刺さる。
石原の表情が固まった。
(俺が……自分を疑ってる?)
反論しようとした。けれど、言葉が出てこない。
花野の言っていることは、正しかった。
彼は彼女を覚えている。
名前も。起きた出来事も。ノートに書いた内容も。
全部、覚えている。
なのに。彼女が笑ったとき、自分がどんな気持ちだったのか。「先輩」と呼ばれたとき、胸がどうなったのか。
それだけが思い出せない。
記憶は残っている。まるで、文字で埋め尽くされた本みたいに。
けれど、ページとページの間だけが抜け落ちている。そこには空白しかなかった。
(本当に存在していたのか?)
(それとも……全部、俺の思い込みなのか?)
その考えが浮かんだ瞬間、気が狂いそうになった。
そして、心の奥から別の声が聞こえた。
――自分の声だった。
『彼女は大切だ。忘れちゃいけない』
感情はなかった。ただ、紙に書かれた一文。
それでも。その言葉だけは消えなかった。ずっと、そこにあった。
石原は深く息を吸った。そして顔を上げた。
「……帰って休む」
みんなの表情が少し緩んだ。
春野が近づいてきた。肩を軽く叩いた。
「そうしろ。今日はもう考えるな」
「春野」
石原は春野を見た。
「生徒会の書類を貸してくれないか。名簿とか、活動記録とか、出欠記録とか。持って帰って見たいんだ」
「分かった。持っていけ」
そう言って書類棚を開けた。ファイルを一冊取り出し、石原へ渡した。
「無理はするなよ」
石原はそれを受け取って胸に抱えた。
「ありがとう」
立花は小さく頷いた。
花野はすでにパソコンへ向き直っている。表情は見えなかった。
石原が振り返ろうとしたとき。背後から杏が追いかけてきた。
「お兄ちゃん。私も一緒に帰る」
「……いい」
「だめ。私も午後休みだし」
石原はそれ以上何も言わなかった。ただ小さく頷く。
杏は彼の隣へ並んだ。そして静かに、一緒に生徒会室を出ていった。
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家に帰ると、石原は自分の部屋に閉じこもった。
杏はしばらく扉の前に立っていたが、ノックはしなかった。
「ご飯できたら呼ぶからね」
そう言って、杏は静かに離れていった。やがて、足音が遠ざかった。
石原は机の前に座り、鞄の中身をすべて机の上に取り出して並べた。
ノート。ペン。春野から預かったファイル。
まずはファイルを開いた。
名簿。活動記録。出欠記録。夏祭りの報告書。体育祭の備品リスト。
石原は一枚ずつ目を通していった。
途中で、手が止まった。
ある活動記録の備考欄に、こう書かれていた。
『副会長が調整』
石原の指が、その行で止まった。
『副会長署名』の欄。
文字がぼやけていた。
まるで水に浸かったみたいに、線と線が繋がらず、形になっていない。
それでも分かった。
(……緒山朋奈)
夏祭りの報告書を開いた。最後の方に、手書きの一文があった。
『@#が裏方を調整してくれて助かった。あれがなかったら、当日は絶対にまずかった』
不自然な記号だった。
けれど、そこに何が書かれていたのか。石原には分かった。
(……緒山)
その二文字が、考えるより先に喉から漏れた。
石原はノートを開く。空白のページに書き込んだ。
『緒山朋奈の名前は、いつも消されている』
書き終えると、その報告書を抜き出して脇へ置いた。
さらにページをめくった。
今度は一枚の写真だった。体育祭のあとに撮った集合写真。
中央に春野。隣に花野。立花はピースサインをしている。一番端では杏が変顔をしていた。
だが、立花と杏の間。そこだけが、小さくぼやけている。
本来なら、そこには誰かがいた気がした。
石原はノートに書き足した。
『名前だけでなく、写真も曖昧になっているようだ』
そして昨夜のノートを開いた。
書いた文字は、さらに薄くなっていた。半分ほどしか読めない文字もあった。
それでも石原には分かった。消えていった部分には、確かに「彼女」のことが書かれていた。
ファイルの中から見つけた証拠と、ノート。二つを並べて机に置いた。
石原は再びペンを取った。
『緒山朋奈。生徒会副会長。夏祭りの裏方調整。体育祭参加者。集合写真には彼女のいた場所がある』
『彼女の名前を書いた人がいる。彼女に感謝した人がいる』
『これは俺の妄想じゃない。彼女は確かに存在していた』
そこまで書いて、ペン先が止まった。
そして石原は、今になってようやく気づいてしまった。
(俺は……)
(彼女の顔を思い出せない)
ペン先からインクが滲んだ。紙の上に、小さな染みが広がった。
石原はペンを置き、眉間を指で揉んだ。
そして椅子の背にもたれかかり、長く深いため息を吐いた。
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【十月十六日・水曜日・未明】
どれくらい眠っていたのだろう。
再び目を開けたとき、部屋で明かりがついていたのは、小さなスタンドライトだけだった。
石原は少しだけ目を瞬かせた。そして、自分がベッドに寝ていることに気づいた。
どうやって眠ったのか覚えていない。
いつ机の前からベッドへ移ったのかも思い出せなかった。
石原は横を向いた。
ベッドサイドテーブルの上に、一枚のメモが置いてあった。杏の字だ。
『お兄ちゃん、ぐっすり寝てたから起こさなかったよ!お腹が空いたらテーブルのご飯を温めて食べてね。――かわいい妹より』
石原はテーブルの上の食事を見た。そして、小さく笑った。
「ありがとう、杏……」
ベッドの縁に手をつき、ゆっくりと身体を起こした。
その視線は自然と机へ向かった。
机の上には、書類や写真がきれいに並べられていた。
その上に、一冊のノートが静かに置かれていた。
石原は動きを止めた。そして姿勢を正した。
(俺……さっきまで何してたんだ? 勉強してたのか?)
石原はそのノートを見つめた。無意識に唾を飲み込んだ。
手を伸ばしてノートを引き寄せ、スタンドライトの明かりの下で表紙を見た。
そこには、名前らしきものが書かれていた。
けれど、もうほとんど判別できない。
石原はしばらく表紙を見つめていた。
何度も考えた。何度も思い出そうとした。だが、駄目だった。
そこに何が書かれていたのか。どうしても思い出せなかった。




