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見える感情、見えないまま  作者: 颍川
第二十三章 消えゆく痕――ただ、静かに消えたいだけ
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第一百二十五話

---


【十月十五日・火曜日・午前】


昼休み。石原は一人で、林の中のベンチに座っていた。


あのベンチだ。大事な場所だった気がする。

けれど、どうして大事なのかは思い出せない。


石原はノートを開き、薄くなっていく文字を見つめた。


――もう諦めるべきなのかもしれない。

そんな考えが浮かんだ。


悲しくはなかった。ただ、心の中が空っぽだった。

吹っ切れたわけじゃない。本来なら何かがあるはずの場所に、何も残っていない。


昨日、このノートを書いていたことを思い出す。

涙が落ちて、紙の上に滲んだ。その跡は今も残っている。ページは少し波打っていた。

けれど、どうして泣いていたのか思い出せない。


石原はその皺を見つめ、必死に考えた。


――彼女は、どんな人だった?

――どうして自分は、あんなに泣いたんだ?


ノートには彼女のことが書かれている。

それなのに、頭の中には何も浮かばない。ただ真っ白だった。


胸の奥が重い。けれど目は乾いている。泣きたいのに泣けない。

身体だけが、彼女への感情を忘れてしまったみたいだった。


その感覚が、石原を苛立たせた。


石原は最後のページを開いた。そして、その一文を強く見つめた。


『彼女は大切だ。忘れちゃいけない』


自分で書いた文字だ。それは信じられる。

けれど、思い出せない。


その矛盾が、棘みたいに頭の中へ刺さっていた。

時間が経つほど、深く食い込んでいく。


石原はノートを閉じた。

ベンチの背もたれに身体を預けた。

目を閉じ、強くこめかみを押さえた。


(誰なんだ……)

(誰なんだ……)

(誰なんだ――)


木漏れ日が瞼の上に落ちる。明るくて、暖かい光だった。


(緒……)

(緒山……朋奈?)


聞き覚えがある。なのに、遠い。

そんな名前が、水の底から引き上げられるみたいに浮かんできた。


石原は目を開いた。息が大きく乱れた。勢いよく身体を起こした。


「先輩!」


遠くから声が聞こえた。石原は振り向いた。

立花が小道の向こうから走ってくる。制服のスカートが揺れていた。

石原の前まで来ると、腰を曲げて息を整えた。


「やっと見つけました!」


「どうした?」


立花は顔を上げた。


「今朝、会長がグループで言ってたんです。先輩の様子が変だから、見かけたら気をつけてほしいって」


「私……学校中探したんですよ。それで最後に、もしかしたらここかなって」


そこで少し言葉を切った。


「前に先輩、ここで一人でいるのが好きだって言ってたので」


石原は立花を見た。何も答えなかった。

立花は少し首を傾げた。


「先輩、本当にどうしたんですか?みんな心配してますよ」


「春野と花野も?」


「はい! さっきは杏ちゃんからもメッセージ来ました」


(……それが『みんな』か)


石原は視線を落とした。手の中のノートを見た。

表紙の名前は、もうほとんど見えなくなっていた。


けれど。さっき掴んだ名前だけは残っている。


「立花さん」


「はい?」


「午後……」


石原は少しだけ言葉を探した。


「午後、生徒会室で待っていてくれないか」


「みんなに話したいことがある」


立花は石原を見つめた。少し迷うような表情を浮かべた。それから頷いた。


「分かりました。みんなにも声をかけます」


石原はノートを胸に抱いた。そして立ち上がった。

心臓が強く脈打っている。


――このまま終わらせてたまるか。


---


生徒会室には四人が集まっていた。


みんな石原のことを心配している。

春野の提案で、午前の授業は休むことになっていた。


石原はホワイトボードの前に立っていた。手にはあのノートを持っていた。

目が妙に冴えていた。声も、いつもよりずっと大きかった。


「まず――昨日の午後、俺は早退なんかしてない。してないんだ。俺はみんなと一緒にここにいた。ここで……そう、ここでたくさん話をした」


話す速度が安定しなかった。

急に速くなったかと思えば、途中で止まりそうになる。


「これから話すことは……たぶん、すごくおかしい。でも……最後まで聞いてほしい」


石原はノートを開いた。四人が近寄ってきた。

表紙の文字は、もうほとんど見えなくなっていた。

中のページも半分ほどがぼやけていた。


「これ、何?」


「俺が書いた……昨日の午後、家に帰ってから。彼女のことだ。俺が覚えていることを全部……彼女のことを全部書いた」


石原は一ページずつめくって見せた。指先がわずかに震えていた。

石原はホワイトボードに文字を書いた。


『緒山朋奈』


四人とも、その名前を見つめた。


「なんか……聞いたことある気がする」


立花が眉を寄せた。


「私は覚えていません」


花野は即答した。春野も静かに首を横に振った。


「分かってる。分かってるんだ」


石原の口調が、また早くなった。


「昨日もそうだった。昨日もみんなそう言った。でも信じてくれ。だから……お願いだから、信じてくれ」


春野は腕を組み、窓際にもたれた。少し眉をひそめた。


「石原。お前、昨日は早退して帰ったあと、ずっとこれを書いてたのか?」


「違う!」


石原は反射的に声を上げた。


「だからさっき言っただろ!俺は早退なんかしてない! 俺はここにいたんだ! ずっと――」


そこで石原は止まった。生徒会室が静まり返る。


「……悪い、石原。今の、ちゃんと聞き取れなかった」


いつもと違う石原の様子に、春野も戸惑っているようだった。

石原も自分の失態に気づいた。


「……ごめん」


小さくそう言って、俯いた。


「先輩」


立花が声を掛けた。


「今、すごく早口でした。私もあんまり聞き取れなくて……み、水でも飲んで少し休みませんか?」


立花は小走りで給湯スペースへ向かった。

すぐにコップを持って戻ってきた。そして石原へ差し出した。


「……ありがとう、立花さん」


立花は小さく微笑んだ。

その横で、今にも何か言い出しそうな杏を、立花はちらりと見た。

そして、そっと首を横に振った。


石原は、かすかに揺れる水面を見つめていた。


(昨日……昨日もこうだった)


「お兄ちゃん、今日はもう早退して帰った方がいいんじゃない?」


杏はスカートの裾を握りしめながら、不安そうに石原を見上げた。


「駄目だ」


石原は顔を上げた。そしてまた、無意識に話す速度が速くなった。


「もう待てない。これ以上時間が経ったら、どうなるか分からない。何が起きるかも――」


「そのノートに書いてある内容は、現状、石原本人にしか証明できません」


花野の落ち着いた声が、パソコンの向こうから聞こえた。

彼女は顔も上げない。いつも通り、マウスを動かしている。


普段なら気にならない。

けれど今は、その言葉がひどく胸に刺さった。


「俺は作り話なんかしてない。俺は……みんなを騙してない」


「私が言いたいのは」


花野は淡々と続けた。


「今のあなたの精神状態では、この話し合いに実質的な進展は期待できないということです。私は無意味なことが嫌いなので」


そこでようやく花野は手を止めた。そして、石原を見た。


「私は、あなたという人間は信用しています。ですが、その前に、あなた自身が自分を信じるべきです」

「今のあなたは、自分自身の言葉すら疑っているでしょう?」


花野の言葉は、針みたいだった。一番痛い場所に、正確に刺さる。

石原の表情が固まった。


(俺が……自分を疑ってる?)


反論しようとした。けれど、言葉が出てこない。

花野の言っていることは、正しかった。


彼は彼女を覚えている。

名前も。起きた出来事も。ノートに書いた内容も。

全部、覚えている。


なのに。彼女が笑ったとき、自分がどんな気持ちだったのか。「先輩」と呼ばれたとき、胸がどうなったのか。

それだけが思い出せない。


記憶は残っている。まるで、文字で埋め尽くされた本みたいに。

けれど、ページとページの間だけが抜け落ちている。そこには空白しかなかった。


(本当に存在していたのか?)

(それとも……全部、俺の思い込みなのか?)


その考えが浮かんだ瞬間、気が狂いそうになった。

そして、心の奥から別の声が聞こえた。


――自分の声だった。


『彼女は大切だ。忘れちゃいけない』


感情はなかった。ただ、紙に書かれた一文。

それでも。その言葉だけは消えなかった。ずっと、そこにあった。


石原は深く息を吸った。そして顔を上げた。


「……帰って休む」


みんなの表情が少し緩んだ。

春野が近づいてきた。肩を軽く叩いた。


「そうしろ。今日はもう考えるな」


「春野」


石原は春野を見た。


「生徒会の書類を貸してくれないか。名簿とか、活動記録とか、出欠記録とか。持って帰って見たいんだ」


「分かった。持っていけ」


そう言って書類棚を開けた。ファイルを一冊取り出し、石原へ渡した。


「無理はするなよ」


石原はそれを受け取って胸に抱えた。


「ありがとう」


立花は小さく頷いた。

花野はすでにパソコンへ向き直っている。表情は見えなかった。


石原が振り返ろうとしたとき。背後から杏が追いかけてきた。


「お兄ちゃん。私も一緒に帰る」


「……いい」


「だめ。私も午後休みだし」


石原はそれ以上何も言わなかった。ただ小さく頷く。

杏は彼の隣へ並んだ。そして静かに、一緒に生徒会室を出ていった。


---


家に帰ると、石原は自分の部屋に閉じこもった。

杏はしばらく扉の前に立っていたが、ノックはしなかった。


「ご飯できたら呼ぶからね」


そう言って、杏は静かに離れていった。やがて、足音が遠ざかった。


石原は机の前に座り、鞄の中身をすべて机の上に取り出して並べた。

ノート。ペン。春野から預かったファイル。


まずはファイルを開いた。

名簿。活動記録。出欠記録。夏祭りの報告書。体育祭の備品リスト。


石原は一枚ずつ目を通していった。

途中で、手が止まった。


ある活動記録の備考欄に、こう書かれていた。


『副会長が調整』


石原の指が、その行で止まった。


『副会長署名』の欄。


文字がぼやけていた。

まるで水に浸かったみたいに、線と線が繋がらず、形になっていない。

それでも分かった。


(……緒山朋奈)


夏祭りの報告書を開いた。最後の方に、手書きの一文があった。


『@#が裏方を調整してくれて助かった。あれがなかったら、当日は絶対にまずかった』


不自然な記号だった。

けれど、そこに何が書かれていたのか。石原には分かった。


(……緒山)


その二文字が、考えるより先に喉から漏れた。


石原はノートを開く。空白のページに書き込んだ。


『緒山朋奈の名前は、いつも消されている』


書き終えると、その報告書を抜き出して脇へ置いた。

さらにページをめくった。


今度は一枚の写真だった。体育祭のあとに撮った集合写真。


中央に春野。隣に花野。立花はピースサインをしている。一番端では杏が変顔をしていた。

だが、立花と杏の間。そこだけが、小さくぼやけている。

本来なら、そこには誰かがいた気がした。


石原はノートに書き足した。


『名前だけでなく、写真も曖昧になっているようだ』


そして昨夜のノートを開いた。

書いた文字は、さらに薄くなっていた。半分ほどしか読めない文字もあった。

それでも石原には分かった。消えていった部分には、確かに「彼女」のことが書かれていた。


ファイルの中から見つけた証拠と、ノート。二つを並べて机に置いた。

石原は再びペンを取った。


『緒山朋奈。生徒会副会長。夏祭りの裏方調整。体育祭参加者。集合写真には彼女のいた場所がある』

『彼女の名前を書いた人がいる。彼女に感謝した人がいる』

『これは俺の妄想じゃない。彼女は確かに存在していた』


そこまで書いて、ペン先が止まった。

そして石原は、今になってようやく気づいてしまった。


(俺は……)

(彼女の顔を思い出せない)


ペン先からインクが滲んだ。紙の上に、小さな染みが広がった。


石原はペンを置き、眉間を指で揉んだ。

そして椅子の背にもたれかかり、長く深いため息を吐いた。


---


【十月十六日・水曜日・未明】


どれくらい眠っていたのだろう。

再び目を開けたとき、部屋で明かりがついていたのは、小さなスタンドライトだけだった。


石原は少しだけ目を瞬かせた。そして、自分がベッドに寝ていることに気づいた。


どうやって眠ったのか覚えていない。

いつ机の前からベッドへ移ったのかも思い出せなかった。


石原は横を向いた。

ベッドサイドテーブルの上に、一枚のメモが置いてあった。杏の字だ。


『お兄ちゃん、ぐっすり寝てたから起こさなかったよ!お腹が空いたらテーブルのご飯を温めて食べてね。――かわいい妹より』


石原はテーブルの上の食事を見た。そして、小さく笑った。


「ありがとう、杏……」


ベッドの縁に手をつき、ゆっくりと身体を起こした。

その視線は自然と机へ向かった。


机の上には、書類や写真がきれいに並べられていた。

その上に、一冊のノートが静かに置かれていた。


石原は動きを止めた。そして姿勢を正した。


(俺……さっきまで何してたんだ? 勉強してたのか?)


石原はそのノートを見つめた。無意識に唾を飲み込んだ。

手を伸ばしてノートを引き寄せ、スタンドライトの明かりの下で表紙を見た。


そこには、名前らしきものが書かれていた。

けれど、もうほとんど判別できない。


石原はしばらく表紙を見つめていた。


何度も考えた。何度も思い出そうとした。だが、駄目だった。


そこに何が書かれていたのか。どうしても思い出せなかった。

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