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見える感情、見えないまま  作者: 颍川
第二十三章 消えゆく痕――ただ、静かに消えたいだけ
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第一百二十四話

---


【十月十四日・月曜日・夜】


家に帰ると、石原は自分の部屋へ閉じこもった。


杏はしばらく扉の前に立っていた。ノックはしなかった。

ただ、小さく言った。


「ご飯できたら呼ぶからね」


それから、静かに離れていく。


石原は机に向かっていた。目の前には、真っ白なノートが開かれている。


自分はまだ、緒山のことを覚えている。

しかし、彼はその忘却が自分にも起こることを怖れていた。


だから、石原はペンを取った。


『五月六日。泉方橋。俺は初めて彼女と会った。橋から飛び降りた彼女を助けようとした。でも、彼女は消えた』


そこまで書いて、石原の手が止まった。ペン先が紙の上で止まり、小さく震えた。

それでも書き続ける。覚えていることを、全部。


『夏祭り。花火。彼女は俺の手を引いて人混みの中を走った』

『先輩って呼ぶとき、少しだけ語尾が上がる』

『あのノートには、たくさんの願い事が書いてあった。俺は一緒にチェックを付けた』

『告白を断られた。少し時間がほしいと言われた』

『彼女は――』


そこで止まった。続きを書けなかった。

涙が紙に落ちる。小さな染みが広がった。


石原は手の甲で目を擦り、また書いた。

速く。乱雑に。思いつくままに。


指が痛くなるまで書き続けた。ようやくペンを置いた。

ノートの表紙に、文字を書いた。『緒山朋奈』


書き終えると、石原はノートを閉じた。疲労感が込み上げてきた。

ほっとして机に突っ伏すと、自然とまぶたが閉じていった。


そのあと杏が呼びに来たが、石原は気づかなかった。

うとうととした意識の中で、杏が自分をベッドまで支え、布団を掛けて、静かに部屋を出ていく気配だけが、かすかに残っていた。


---


【十月十五日・火曜日・朝】


石原は目覚まし時計の音で目を覚ました。

ベッドに横になったまま天井を見つめる。


頭の中は妙に空っぽだった。

長い夢を見ていた気がする。とても長い夢だった。


けれど。何を見たのか思い出せない。


石原は身体を起こした。目をこすりながら机へ向かった。

机の上にはノートが開かれたままになっていた。何気なく目を落とし――


石原は動きを止めた。


ページいっぱいに、びっしりと文字が書かれている。

だが、その半分ほどはぼやけていた。

薄い。ところどころ線が途切れている。


石原は顔を近づけた。なんとか読めたのは、いくつかの単語だけだった。


『……月六日……』


『……女の子……』


石原は眉をひそめた。


昨夜。確かここに座って、ずいぶん長いこと何かを書いていた気がする。

何を書いたんだ?思い出せない。


そのとき。不意に記憶の断片が浮かび上がった。


昨日。昨日の午後。生徒会室で。

自分は泣きながら、誰かに向かって言っていた――あいつが消えた。


そこで思考が止まる。


あいつ?誰だ?


なぜか心臓だけが少し速くなった。


石原はノートを表紙へ戻した。

そこには名前が書かれていた。


読めない。


いや、違う。

文字は読めている。一画一画ははっきり見える。

なのに意味が頭に入ってこない。


「緒……」


最初の一文字だけ声に出た。そこで止まる。続きが出てこない。


石原はその文字を見つめた。額に汗が滲む。


――何だ。

――何なんだ。

――どうして思い出せない。


勢いよくノートを閉じた。そして一歩後ずさった。

荒い呼吸だけが部屋に響く。


分かっている。れは名前だ。しかも、とても大切な名前だ。


なのに思い出せない。

なぜ思い出せない?


石原はゆっくりと机へ戻った。再びノートを開いた。

最初のページにはこう書かれていた。


『五月六日。泉方橋。俺は初めて彼女に会った』


泉方橋。

知っている。何度も通ったことがある。


でも。そこに何があった?

頭の中は真っ白だった。


石原はページをめくった。

一枚。また一枚。


ところどころ読める箇所もある。

『林』、『夏祭り』、『花火』、『告白』


けれど。誰かのことを書いた部分。何か大切な出来事を書いた部分ほど。

文字は薄くなっていた。


最後のページまでたどり着く。

そこは前のページより新しいはずなのに。

すでに文字がぼやけ始めている。


『彼女が「先輩」と呼ぶとき、少しだけ語尾が上がる』

『彼女のノートには、たくさんの願い事が書かれていた』

『彼女は俺の告白を断った』


石原は最後の一行を読んだ。

何度も見直して。ようやく読み取った。


『彼女は大切だ。忘れちゃいけない』


石原はそのページを見つめた。名前が出てこない。

喉元まで来ている気がするのに。どうしても思い出せない。


――彼女は誰なんだ?


石原はノートを閉じた。そして胸に抱き寄せた。

身体の震えは、どうしても止まらなかった。


---


石原はノートを掴むと、そのまま部屋を飛び出した。

玄関まで来たところで、ふと足を止めた。振り返った。


杏がダイニングテーブルに座っていた。のんびりとパンにジャムを塗っている。

朝の陽射しが窓から差し込み、伏せられた睫毛を照らしていた。


「杏」


「ん?」


杏が顔を上げた。まだ口の中にはパンが入ったままだった。


「昨日の昼、どこにいた?」


杏はきょとんとした。少し首を傾げて考えた。


「美里ちゃんとお昼食べてたよ?そのあと教室に戻ったけど」


石原は何も言わなかった。


「お兄ちゃん?」


杏は不思議そうに見つめてきた。口の中のパンを、ゆっくり噛んで飲み込んだ。


「……何でもない」


石原は扉を開けた。


「行ってくる」


背後が一瞬だけ静かになった。それから杏の声が追いかけてきた。


「お兄ちゃん、気をつけてねー!あと今夜は早く帰ってきて――」


その先は扉に遮られた。

石原は玄関の外に立った。手の中のノートを強く握り締めた。


(杏も覚えてない……)


深く息を吸った。そして駅へ向かって走り出した。


---


学校に着くと、石原はそのまま生徒会室へ駆け込んだ。

勢いよく扉を開けた。


春野は資料を整理しているところだった。

石原を見ると、軽く眉を上げた。


「おう、早いな。生徒会は朝から集まったりしないぞ?」


石原は入口に立ったまま息を切らしていた。


「昨日のこと、覚えてるか?」


春野は目を瞬いた。


「昨日? 何の話だ?」


石原の胸が重く沈んだ。


「昨日ここで……俺、いろいろ話しただろ」


春野は石原を見つめた。

困惑。そして少しの心配。そんな色が混じっていた。


「石原。お前、ちゃんと寝たか?昨日の午後は早退してただろ」


石原は黙った。そして小さく言った。


「……俺の勘違いか」


踵を返した。そのまま部屋を出た。


「石原?」


背後から春野の声が聞こえた。だが、振り返らなかった。

二年生の教室へ走った。廊下で通りかかった女子生徒を呼び止めた。


「立花さんいるか?」


女子生徒は驚いたように一歩下がった。


「立花さんですか?まだ来てないと思いますけど……えっと、あなたは――」


最後まで聞かずに走り出した。

次は花野の教室。だが、花野もまだ来ていなかった。


石原は廊下に立ち尽くした。息が荒い。

通り過ぎる生徒たちが、不思議そうな目で彼を見ていた。


スマホが震える。グループチャットの通知だった。

春野からのメッセージ。


『石原の様子がちょっとおかしい。見かけた奴いるか?』


すぐに返信が来た。


『え? 先輩どうしたんですか?』


『今学校着いたばっかり。見てない』


『私はまだ登校中です。お兄ちゃん、朝からちょっと変でした』


石原は画面を見つめた。

その反応は――


(覚えてないのか……!)


誰も。誰一人。

昨日の午後のことを覚えていない。

自分がここで泣きながら話したことを。

ある人が消えたことを。


石原はゆっくりと視線を落とした。手の中のノートを見た。


表紙の名前は、朝よりもさらに薄くなっていて。もう完全に読めなくなっていた。

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