第一百二十四話
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【十月十四日・月曜日・夜】
家に帰ると、石原は自分の部屋へ閉じこもった。
杏はしばらく扉の前に立っていた。ノックはしなかった。
ただ、小さく言った。
「ご飯できたら呼ぶからね」
それから、静かに離れていく。
石原は机に向かっていた。目の前には、真っ白なノートが開かれている。
自分はまだ、緒山のことを覚えている。
しかし、彼はその忘却が自分にも起こることを怖れていた。
だから、石原はペンを取った。
『五月六日。泉方橋。俺は初めて彼女と会った。橋から飛び降りた彼女を助けようとした。でも、彼女は消えた』
そこまで書いて、石原の手が止まった。ペン先が紙の上で止まり、小さく震えた。
それでも書き続ける。覚えていることを、全部。
『夏祭り。花火。彼女は俺の手を引いて人混みの中を走った』
『先輩って呼ぶとき、少しだけ語尾が上がる』
『あのノートには、たくさんの願い事が書いてあった。俺は一緒にチェックを付けた』
『告白を断られた。少し時間がほしいと言われた』
『彼女は――』
そこで止まった。続きを書けなかった。
涙が紙に落ちる。小さな染みが広がった。
石原は手の甲で目を擦り、また書いた。
速く。乱雑に。思いつくままに。
指が痛くなるまで書き続けた。ようやくペンを置いた。
ノートの表紙に、文字を書いた。『緒山朋奈』
書き終えると、石原はノートを閉じた。疲労感が込み上げてきた。
ほっとして机に突っ伏すと、自然とまぶたが閉じていった。
そのあと杏が呼びに来たが、石原は気づかなかった。
うとうととした意識の中で、杏が自分をベッドまで支え、布団を掛けて、静かに部屋を出ていく気配だけが、かすかに残っていた。
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【十月十五日・火曜日・朝】
石原は目覚まし時計の音で目を覚ました。
ベッドに横になったまま天井を見つめる。
頭の中は妙に空っぽだった。
長い夢を見ていた気がする。とても長い夢だった。
けれど。何を見たのか思い出せない。
石原は身体を起こした。目をこすりながら机へ向かった。
机の上にはノートが開かれたままになっていた。何気なく目を落とし――
石原は動きを止めた。
ページいっぱいに、びっしりと文字が書かれている。
だが、その半分ほどはぼやけていた。
薄い。ところどころ線が途切れている。
石原は顔を近づけた。なんとか読めたのは、いくつかの単語だけだった。
『……月六日……』
『……女の子……』
石原は眉をひそめた。
昨夜。確かここに座って、ずいぶん長いこと何かを書いていた気がする。
何を書いたんだ?思い出せない。
そのとき。不意に記憶の断片が浮かび上がった。
昨日。昨日の午後。生徒会室で。
自分は泣きながら、誰かに向かって言っていた――あいつが消えた。
そこで思考が止まる。
あいつ?誰だ?
なぜか心臓だけが少し速くなった。
石原はノートを表紙へ戻した。
そこには名前が書かれていた。
読めない。
いや、違う。
文字は読めている。一画一画ははっきり見える。
なのに意味が頭に入ってこない。
「緒……」
最初の一文字だけ声に出た。そこで止まる。続きが出てこない。
石原はその文字を見つめた。額に汗が滲む。
――何だ。
――何なんだ。
――どうして思い出せない。
勢いよくノートを閉じた。そして一歩後ずさった。
荒い呼吸だけが部屋に響く。
分かっている。れは名前だ。しかも、とても大切な名前だ。
なのに思い出せない。
なぜ思い出せない?
石原はゆっくりと机へ戻った。再びノートを開いた。
最初のページにはこう書かれていた。
『五月六日。泉方橋。俺は初めて彼女に会った』
泉方橋。
知っている。何度も通ったことがある。
でも。そこに何があった?
頭の中は真っ白だった。
石原はページをめくった。
一枚。また一枚。
ところどころ読める箇所もある。
『林』、『夏祭り』、『花火』、『告白』
けれど。誰かのことを書いた部分。何か大切な出来事を書いた部分ほど。
文字は薄くなっていた。
最後のページまでたどり着く。
そこは前のページより新しいはずなのに。
すでに文字がぼやけ始めている。
『彼女が「先輩」と呼ぶとき、少しだけ語尾が上がる』
『彼女のノートには、たくさんの願い事が書かれていた』
『彼女は俺の告白を断った』
石原は最後の一行を読んだ。
何度も見直して。ようやく読み取った。
『彼女は大切だ。忘れちゃいけない』
石原はそのページを見つめた。名前が出てこない。
喉元まで来ている気がするのに。どうしても思い出せない。
――彼女は誰なんだ?
石原はノートを閉じた。そして胸に抱き寄せた。
身体の震えは、どうしても止まらなかった。
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石原はノートを掴むと、そのまま部屋を飛び出した。
玄関まで来たところで、ふと足を止めた。振り返った。
杏がダイニングテーブルに座っていた。のんびりとパンにジャムを塗っている。
朝の陽射しが窓から差し込み、伏せられた睫毛を照らしていた。
「杏」
「ん?」
杏が顔を上げた。まだ口の中にはパンが入ったままだった。
「昨日の昼、どこにいた?」
杏はきょとんとした。少し首を傾げて考えた。
「美里ちゃんとお昼食べてたよ?そのあと教室に戻ったけど」
石原は何も言わなかった。
「お兄ちゃん?」
杏は不思議そうに見つめてきた。口の中のパンを、ゆっくり噛んで飲み込んだ。
「……何でもない」
石原は扉を開けた。
「行ってくる」
背後が一瞬だけ静かになった。それから杏の声が追いかけてきた。
「お兄ちゃん、気をつけてねー!あと今夜は早く帰ってきて――」
その先は扉に遮られた。
石原は玄関の外に立った。手の中のノートを強く握り締めた。
(杏も覚えてない……)
深く息を吸った。そして駅へ向かって走り出した。
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学校に着くと、石原はそのまま生徒会室へ駆け込んだ。
勢いよく扉を開けた。
春野は資料を整理しているところだった。
石原を見ると、軽く眉を上げた。
「おう、早いな。生徒会は朝から集まったりしないぞ?」
石原は入口に立ったまま息を切らしていた。
「昨日のこと、覚えてるか?」
春野は目を瞬いた。
「昨日? 何の話だ?」
石原の胸が重く沈んだ。
「昨日ここで……俺、いろいろ話しただろ」
春野は石原を見つめた。
困惑。そして少しの心配。そんな色が混じっていた。
「石原。お前、ちゃんと寝たか?昨日の午後は早退してただろ」
石原は黙った。そして小さく言った。
「……俺の勘違いか」
踵を返した。そのまま部屋を出た。
「石原?」
背後から春野の声が聞こえた。だが、振り返らなかった。
二年生の教室へ走った。廊下で通りかかった女子生徒を呼び止めた。
「立花さんいるか?」
女子生徒は驚いたように一歩下がった。
「立花さんですか?まだ来てないと思いますけど……えっと、あなたは――」
最後まで聞かずに走り出した。
次は花野の教室。だが、花野もまだ来ていなかった。
石原は廊下に立ち尽くした。息が荒い。
通り過ぎる生徒たちが、不思議そうな目で彼を見ていた。
スマホが震える。グループチャットの通知だった。
春野からのメッセージ。
『石原の様子がちょっとおかしい。見かけた奴いるか?』
すぐに返信が来た。
『え? 先輩どうしたんですか?』
『今学校着いたばっかり。見てない』
『私はまだ登校中です。お兄ちゃん、朝からちょっと変でした』
石原は画面を見つめた。
その反応は――
(覚えてないのか……!)
誰も。誰一人。
昨日の午後のことを覚えていない。
自分がここで泣きながら話したことを。
ある人が消えたことを。
石原はゆっくりと視線を落とした。手の中のノートを見た。
表紙の名前は、朝よりもさらに薄くなっていて。もう完全に読めなくなっていた。




